プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

後藤清

2020-07-28 08:15:20 | 日記
1971年

昨年の五月中旬、中西ライオンズは球団史上またとないピンチに立たされていた。五月三日の東映戦から四十四日の阪急戦にかけて、球団創設いらい二度目の9連敗。チームの機運もどん底で不名誉な10連敗は免れぬものと予想されていた。五月十五日、西鉄は案のじょう、阪急に振り回されて大苦戦。先発の益田が退き、そして永易がめった打ちされるしまつ。だが、ここで救世主が出現した。それがことしプロ入り四年目を迎えた後藤だった。「あの時は死にもの狂いで投げました」と振り返る。「確か救援したのは七回からで、2点リードされていた。そしたら同点にこぎつけ、そして逆転です。最後まで投げぬいて思わず勝ち星がころがりこみました結果は8対6。「あの豪快さは絶対に忘れられません」というのも無理はない。後藤にとっては夢にまで見たプロ入り初勝利だったからだ。その後、後藤はただ一人でさわやかに祝杯をあげたそうだ。「あまり飲めないほうですが、むしょうに飲みたくなって…。でも、やはり飲めなかった」というのは「どうしたわけか、母親のことばかりが頭に浮かんだ」からだそうだ。母親カズさん(50)は郷里の多治見(岐阜)で一人住まい。「父親はぼくの子供のころになくなった。母親は働いてぼくを育ててくれた」親一人、子一人の生活が続いただけに、なおのこと母親思いとなるのかもしれない。「できれば、あの日の試合を母親に見てもらいたかった」後藤は当時の心境を素直にこう語ってくれた。「あの1勝で、ずいぶんと気分が楽になりました」ところが、せっかくのチャンスも芽を出したままで昨シーズンは終わっている。「こうやったらどうか、ああやれば、とにかく先にいろいろと考え過ぎてしまうのです。高校時代はそんなに考えたことはなかったのですが…」多治見工業時代は校内で一、二を争うけんか好き。激しい気性がそのまま投球にも現れて向こうところ敵なしの心意気だった。「ところが、ノンプロ(電電東海)に入社してちょっとおとなしくなったようですね」三年間のサラリーマン生活が後藤の性格をがらりと変えてしまったようだ。「目下やや消極的です」そんなことから、もう一度、高校時代のあばれん坊に性格を戻したいそうだ。「すばらしい速球を投げることがある」というのはマスクの目からみた村上捕手。稲尾監督も「もうひと押しすれば一本立ち」と推奨株の一人にあげている。そのためには「持ち味を最大限に発揮できるよう努力すること」という。「自分ではやっているつもりなのですが…。でも、やっぱり性格的な弱さが災いしているようです」技術的には一応のものを持っているのだから、あとは気力だけである。「ことしはきっとやってみせます」後藤はこう誓う。いつもは温厚な表情の後藤だが、話すうちに本来の強気が出てきて「絶対に売り出してみせますよ」とまで言い切った。「母を福岡に呼び、楽な生活をさせてやりたい」という孝行者の願いがかなうのはいつだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤原真

2020-07-27 17:49:32 | 日記
1969年

一塁ベース上で、ウイニングボールを手にした藤原は、両手を上げ大きくはねた。巨人の最終打者森永の打球は、一塁ロバーツからベースカバーの藤原へ。全身で現わす若々しい勝利の喜びー。別所監督の巨体が、その若いヒーローめがけてすっ飛んでいく。ムリもない。大敵巨人を相手のプロ入り初勝利。しかも新人で開幕ゲームに勝ち星をあげたのは三十六年の大崎(大洋)いらい、実に八年ぶりだ。「コントロールがよかった。真っすぐがいま一つだったので、カーブとスライダーを多く使いました。やはり緊張しましたが、勝ててほんとうにうれしい」-。藤原はまったく物おじせず真っ向からON以下の強打者に立ち向かった。圧巻は1点リードの八回裏、無死内野安打の土井を一塁に置いて、王を「スライダー」(藤原)で右飛、長島を「カーブ」で併殺打に打ち取ったピッチング。「予定のリリーフは石岡だったが、藤原の度胸を買った。巨人で通用したのだから、あとはどこでもOKだ」と別所監督は言う。期待を物語るように同監督の選んだ藤原の背番号は、故沢村栄治投手(巨人)と同じ14である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山内嘉弘

2020-07-27 15:41:13 | 日記
1987年

得意のカーブが曲がらなくなったことが幸いした。茨城東高校時代、カーブ投手として活躍した山内は、近大に入学してすぐ、投球フォームの改造を命じられる。かつぎ気味だった腕の振りを矯正するのが目的だったが、それがうまくいき始めるにつれて、決め球のカーブが、すっかり曲がらなくなってしまった。「いまはそんなことはないですけど全然ダメだったんです。それで、少しでも重いボールを投げようと思って、ストレートの握りで、人さし指と中指の間をすこし、広げて投げたんです。そしたら、ボールがおもしろいように落ちるんですよね」災い転じて福となすーいま流行のスプリット・フィンガード・ファストボールをそれが、公認される以前からすでに山内は放り始めていたのだ。「2年のころには、自分のものになった感じですね。いま、投球の7割ぐらい、これを放ってます」今年の6月4日、大学選手権の関西地区代表決定戦で、大経大を相手に関西の公式戦では史上初の完全試合を達成したときも、92球のうち、50~60球は、この元祖SFFだったというから、まさに必殺のウイニングショットである。「あのパーフェクトで大学選手権の時は随分騒がれちゃって。ちょっと面食らった感じでした」それでも1回戦、リリーフで出て17打者から7奪三振。2回戦の東北福祉大戦には大学に入ってはほとんど経験のない中一日で先発、負けはしたが、延長12回を一人で投げ切った。そんな力投が認められる形で、日米大学野球、そしてオランダで行われた港湾都市野球大会のメンバーに加わった。「山内には、変化球ばかりでなく、ストレートを練習でもっと放れといってるんです。真っすぐも一流なんだから、もっと磨きをかけろとね」まだまだ、限りない可能性を秘める山内の素質に近大・松田監督も大きな期待をかけるが、本人はいたってノンビリかまえている。「プロにしろ、社会人にしろ、監督さんにまかせてあります」この春、近大10連勝のうち、5勝、そして無敗。4完投(3完封)で防御率も0.42。1年のときにすでに10勝をマークした左腕の小松とのエースの座争いに遅まきながら4年になって、挑戦状を叩きつけた格好だ。「えっ、ボクがエースですか?いや、小松の次でいいんですよ」あの完全試合で周囲の注目度が高まる中、ノンビリ、マイペースを強調する山内。その素質がいまゆっくりと開花しようとしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中本富士雄

2020-07-27 15:20:02 | 日記
1958年

中本を真先に目をつけたのは南海である。広島はそれほど評価していなかった。南海が動き出したので、広島もそれならば地元の面目にかけても、ほかへはやれないと積極的に誘いに乗り出したという。立遅れであった広島に幸したのは次のような話がある。中本はなかなかの親孝行で、出来るなら両親と一緒に住みたい、そのためには地元の球団が一番良いと思っていた。ところが地元の広島からは何ともいって来ない。仕方なく南海に傾きかけていたところ、遅ればせながら広島からも働きかけて来たので渡りに舟と広島入りとなった。中本は岩国商時代は一試合に平均十個の三振を奪っていた。三十二年卒業と同時に地元の東洋紡岩国工場へ就職、同年秋西下して来た専大から十五個の三振を奪う好投を見せた。しかし高校、社会人野球時代はバックスに恵まれず、いずれも地方大会で敗れているので県外の人にはこの好投手も知られていなかった。入団早々の中本は一見おっとりしたもの腰といい、小声でゆっくりした言葉使いから、すぐ使える投手に成長するとは思われていなかった。事実、多くの新人群の陰にかくれて、中本の存在は忘れかけられていた。それがオープン戦に入るとにわかに実力を発揮し出した。各チームの中心打者を見事に討取り、監督、コーチも改めて中本を見直した。プレートに上ると度胸もよく、闘志の固まりのような人間に変る。入団以来激しい練習にもかかわらず、約四㌔も体重がふえ、球にますます重さが加わった上、効果的なシュートを覚えて来た。なかなか負けずぎらいだ。最近右足を痛めたが、一日も練習を休まなかった。後で白石監督がこれを知り、早速病院に通わせたが「中本のガン張りにも困ったものだ」と苦笑していた。中本がいまの気持を忘れない限り、長谷川、備前に次ぐ第三の投手になることは間違いない。二十五日現在の成績は試合数十九、完投一、先発十二、勝利四、敗戦六、自責点廿五、防御率2.65である。門前ヘッド・コーチは「下位球団でこれだけの成績をあげるのは大変だ」といっていた。

白石監督の話 野球を完全にマスターするまでには相当期間がかかると思う。しかし体がタフで球が速くて重く、投手の条件はそろっている。フォームもオーソドックスだし、ピンチに動じない度胸はなにより心強い。シュートとカーブをもっと勉強すればまだまだ伸びる投手だ。

中本投手の話 プロへ入った当時は全く自信がなかった。最近ボールとストライクの球がはっきりしすぎるような気がする。これからはコントロールをつけ、単調な投球をしないように注意する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大町定夫

2020-07-27 13:39:48 | 日記
1980年

甲子園キャンプ開始当初は表の一位岡田に話題が集中していたが、徐々にその立場を逆転。未調整段階の打撃投手で阪神随一のミートを誇る藤田をつまらせるに至って完全に期待度1位になった。社会人時代の評価は木田(日本鋼管ー日本ハム)と並ぶ即戦力。当然ドラフト前には阪神以外にも西武、阪急、日本ハムなどが意向を打診したが「プロ入りは考えてない」の返事に指名なし。ドラフト後の自由競争で意外や単独交渉となった阪神にとってはまさにもうけ物。ドラフトの指名拒否は前科2犯。まず48年に太平洋(現西武)の6位。つぎは52年にロッテの2位指名。最初は会社の引き止めで二度目は「自分自身の迷い」でいずれも拒否。しかし「小さい頃からの夢だった」プロへの未練を断ち難く迷いに迷った末「年齢的にラストチャンス(昭和28年4月21日生まれ)」の今年ついにプロ入りを決意した。プロ入りに傾かせた理由の一つは昨年の都市対抗(三菱重工広島の補強)での大活躍。優勝の原動力として橋戸賞に輝いたことで「これ以上社会人野球ではやるべきことがない」の気持ちになっていた。柳井商入学当時からポジションはずっと投手。2年秋にはエースになったが弱小チームのため華々しい記録はない。大きく伸びたのは新日鉄光に入社してから。投手の少ないチーム事情もあって最初から使われたのが辛いし年ごとに好素材にウマ味を加えていった。持ち味は何といっても絶妙なコントロール「若い頃はガムシャラにストライクを取りにいったけど2年前から際どい球を投げるようになった」切れのいいカーブとシュートに加えて現在落ちる球を研究中。目標は「社会人でやって来た力を早く出し切ること」それでダメならまた努力とか・・・。「一軍に定着が決まった訳ではないので数字なんていえない」とも。割と慎重なタイプなのだ。慎重さは崩さなくても周りの雑音は日増しに高くなる。昨年の新人王・藤沢(中日)に至っては「ボクが新人王を取れたんだからボクよりイヤラシイ大町君は当確」とキッパリ。いつの間にか本命扱いだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊東勇

2020-07-27 12:55:44 | 日記
1968年

ライオンズ道場で伊東と岡村は同室だ。ふたりはヒマさえあればよく将棋をさすが、はじめは岡村が断然強かった。というよりは、伊東が将棋を知らなかったので勝負にならなかった。それがいまでは、五番さして岡村が勝つのは一回くらい。「もう伊東には歯が立たなくなった」とカブトをぬぎかけている。プロ野球選手伊東がたどってきた一年も、この将棋の上達と非常に似通っている。福岡第一高から西鉄入りしたときは「からだがでっかいし、左だからとっておこう」というくらいの期待でしかなく、ただ大きいばかりでスピードもコントロールもなかった。「あんなデクの棒をよく入れたものだ」とカゲ口もたたかれたという。ところが一年の修行を積んだいまでは「藤本とともに、もっとも上達した投手」といわれ「フォームもようやくかたまって、いいときは藤本に負けないくらいのスピードを出す」(武末二軍コーチの話)ということだ。184㌢、73㌔。長身のわりに肉づきがとぼしいため、まだタマに力がないが、伊東の魅力はスケールの大きいことだ。日本の代表的左腕といわれる金田とぴったり同じである。これだけ大きいのが、マウンド上かぶさるように投げてくれば、相手打者は、投手がいやに近いところから投げるようにみえるものである。武末コーチをふくめた首脳陣が「西鉄は左投手が育たないといわれるので、ぜひものにしたい」と力むワケもそのへんにある。見かけはおとなしいし、同僚のだれに聞いても無口のタイプだがこういう人間ほどシンはしっかりしている。「あんなのをよく西鉄はとったといった人を見返してやる」ときっぱりいった。まだ完全なメドはついていないが、この意地にかけて、努力を怠らなければ、河野修いらい、絶えて久しかった博多っ子のレギュラーが誕生するかもしれない。その夢をたくしていいだけのものを、たしかに持っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林俊彦

2020-07-27 11:57:25 | 日記
1965年

六月は完全にバテぎみ、ストレートの威力がなくなり、苦しいピッチングが続いていた林は、七月にはいりツユあけとともに、また調子をあげてきた。この夜も腕がきれいに上にあがって、スタートからスピードじゅうぶん、タマに力強いノビがあった。ストレートに威力があればシュート、カーブも効果的に生きる。打線の強力な援護も林を力強くささえた。5点差を追い、あせる西鉄打線を林は思いのままにほんろう。2安打3四球8三振で軽くシャット・アウト。開幕いらい11連勝のパ・リーグ新をマークした。これまでのパ記録は二十八年阿部(阪急)の10連勝、無敗の連勝日本記録は故御園生崇男(阪神)の13がある。顔から首から両腕から‥‥したたり落ちるアセをぬぐいながら林は例によってことばすくな。「雨もようだったので四回から投げ急いだ。このため六回ごろから疲れを感じた。暑いし、しんどいゲームでした。打線のバックアップのおかげです」と謙虚なのもいつもと同じだ。「ノーヒットとか、パーフェクトとかはぜんぜん考えませんでした」という林は、鶴岡監督がキャンプのころから20勝投手とタイコ判を推していた推奨株、初のオールスター出場を前に無キズの11連勝をマークした林が、このパ・リーグ記録をどこまで伸ばすか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古沢憲司

2020-07-27 11:12:13 | 日記
1965年

十七歳の少年投手古沢の先発はまったく意外だったが、その古沢がセ・リーグチーム打率一位の大洋を堂々4安打に完封したのだから、それ以上に驚きだった。昨年、愛媛県の新居浜東高を中退して阪神に入団。ことし八試合めにプロ入り初先発で初の勝ち星を完封勝利で飾ったわけだ。試合後、報道陣に囲まれた古沢は戸惑っているのか、とぼけているのかわからない応答ぶり。「投げたのは真っすぐばかりで、終りかたに少しゆるいカーブを投げた。シュートは1球だけ投げたけど、指がかからなかった。サア、だれに投げたのだったかな?」度の厚いメガネをかけ、なんとかくおおらかなムードをただよわせている。先発は打撃練習後の食事中にいわれたそうだ。「初めてだからうきうきした」とケロリ。完封の感想を聞かれ「最高だけど、ツイてもいた」その横で藤本監督が「若いに似ずいい心臓をしているよ」とほめていた。1㍍78、70㌔、杉下コーチの秘蔵っ子である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村山泰延

2020-07-27 10:59:32 | 日記
1958年

昨シーズン二度登板した。最初は五月二十三日の対近鉄戦、初の公式戦で上って2/3回で五安打をつるべ打ちされた。二回目は茅ヶ崎での対大映戦の時だった。西鉄の投手陣が手薄となり、やむなく飛行機で呼び寄せられた。この時も1回2/3でノック・アウトされた。これ以外昨年は登板の機会に恵まれなかった。しかしウエスタン・リーグでは四勝無敗、シーズン終ってのオープン戦ではなかなかの腕前を見せた。今年はキャンプの時から目をかけられ、内野手の城戸とともに第一線に引上げられた。すでに二十一日現在十六試合に出場、完投一、勝利二、敗戦零、失点十二、自責点十、防御率2.00の成績である。村山の球はかなり速い。だがコントロールに欠けている。ことに低目へのコントロールがない。配球も単調だ。これでは下位球団には時々通じても、上位球団には無理だ。試合数が多い割に、期待程の成績が挙げられない原因だ。川崎コーチは「本人はシュートやシンカーをものにしたいといっているが、低目へのコントロールがつかなければダメだ。私はほかのことは一さい抜きにして、コントロールを良くすることに重点を置いて指導している」といっていた。コントロールさえつけば、速球には見るべきものを持っているのだ。今以上の成績を収めることも不可能ではない。村山のこれからの課題だ。本格派投手として大成する要素は十分あるのだから。戸畑高校時代は北九州随一の好投手との評判だった。しかし村山のワンマン・チームで、中央に進出する機会に恵まれず、全国的にそれほど名の通った存在ではなかった。南海あたりが引抜きの手を出したといわれている。地元、先輩の滝内選手の線から西鉄に決った。良く寝る子だそうだ。乗り物に乗ってはねむり、映画館に入ってはねむり、暇さえあれば眠っている。口の悪い某選手が、村山の起きているのは「野球をやる時と、メシを食うときぐらいだ」と大げさにいっていた。性質は至っておとなしく、真面目。毎日の投球練習でも一球一球精を込めてやっているという。愛称はポーキー、テレビ最前のポーキーに似ているからだそうだ。身長1.74㍍、体重67・5㌔、二十歳。

三原監督の話 スピードのあること、高校時代から多くの試合に出ているので、場なれしてピンチに動じない試合度胸十分なことが村山の長所だろう。短所はまだ二年生だから挙げれば切りがない。球が素直すぎるというのが最大の欠点だろう。要するにいやな形の投手でないことだ。

村山投手の話 調子はまずまずだ。試合に出してもらえるので毎日が楽しい。この期待に応えるよう一生懸命やりたい。球が速いというがまだ十分でない。もっと球速を増したい。それにシンカーをものにしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋葉敬三

2020-07-27 10:41:55 | 日記
1970年

武骨な顔つきと落ち着いた物腰だけを見ると、もう三、四年もライオンズのメシを食ってきたように思える。だがこの秋葉、実はキャンプが初めてなのだ。昨年八月にシーズン途中で入団しているから、プロ歴は二年目ということになるが、正味だとまだ半年あまりにしかならないわけだ。ノンプロ(鹿鉄)時代はノンビリしていた。「桜が咲くころになって、やっとボールを握ってましたからね。練習の密度もくらべものにならないし、一年でノンプロの二、三年分に相当するんじゃないですかね」と目を丸くした。だがプロのペースにすっかりなれている証拠に「よく走ったので出足がいい。投げやすくなった」といっている。150球のピッチング練習の中に全力投球を20球ほどまぜている。仕上がりは七分から八分といったところだが、その好調ぶりは早くも首脳陣に注目された。「昨年のピッチングだったら三回がいいところだったが、ことしの調子なら五回までいける。予定ではリリーフだったがおそらく先発に回せるだろう」と目を細めるのは稲尾監督。昨シーズン、勝ち星なしの2敗に終わった秋葉だが、先発で五回まで投げられるとなれば自力で勝ち星をつかむチャンスがグッと多くなるはずだ。「使ってもらえさえすれば‥と思ってたんですが、先発ならこんなうれしいことはありません。絶対にバテないようがんばります」と秋葉は大張りきり。自信のもとはスライダーのマスターと、彼なりのリズムの完成だ。「池永とは下関商と鹿児島商が姉妹校だったせいもあって、高校時代からよく投げ合ったけど、いまでは月とスッポンですね。だけどタイプは似ているし、あのリズムを盗んでやろうと思ってるんです。それをやるうちに、自分に足りないところがわかってきますからね。とにかくやってみますよ」新兵器のスライダーは昨秋の特訓で覚え、巨人戦で使って効果をあげた。「巨人とやったときは本物でなかったし、まだ未完成だけど、ことしはマスターします。キャンプで漢字だけはつかめました。ストレートのリズムもいい感じになってきましたしね」コントロールもよくなった。「ボールが思ったところに行くのは楽しい」そうだ。鹿児島で生まれ育った薩摩隼人。男の中の男といった気概がある。「いまのスピードでは完全ではないでしょう。プロでは速いタマを平気で打ちますからね。問題はコントロール。いま、それを心がけてやっています」という秋葉は、オープン戦にもできる限り多く登板して、一試合一試合を大事にしていきたいと、激しい闘志を練習にぶっつけている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

望月卓也

2020-07-27 10:02:39 | 日記
1977年

九回裏、2点を追う巨人最後の攻撃。一死後、土井にヒットが生まれ、この日当たっている河埜が四球で歩いて、同点機を迎えた。打者は代打の上田。一球目がストライク、二球目がボールの1-1。消極的に時間切れ引き分けをねらうなら、ここはバントで送って、次の淡口の一打に託す手もあるが、これは長島監督が口ぐせとする攻撃野球ではない。一気に逆転に持ち込みたい巨人ベンチとすれば、何か仕掛けそうなカウントである。案の定、次の三球目、土井と河埜はすばらしいダッシュでベースを離れた。だが上田はバットを振り、三塁側スタンドに入るファウルとなった。試合後の黒江コーチの打ち明け話だと、あれは重盗のサインだったという。たまたまその間、テレビカメラに映し出された長島監督は、帽子をわしづかみにし、顔をあからめて上田をにらんでいた。その直後、彼にヒットが出て結局1点差に泣いただけに無念さはことさらつのったようだが、しかし本当の敗因はこの場面ではなかった。四十八年以来という王の五試合連続ホーマーは、開始直後の一回に飛び出した。しかも続く張本が13号の追い打ちをかけて、今季4度目のアベックホーマー。エース池谷を22球で沈めたあたりは、巨人の楽勝ムードだった。だが、この勢いが二回からパタッと止まった。相手は今年ファームから一軍にやっと上がり、巨人戦はこの日が3試合目という三年目の望月。ノーワインドアップのモーションから、引き上げた左足を一度止めるような動作に特徴があるが、球そのものにはそれほど威力は見られない。だが、巨人の各打者は、3点をたたき出した速攻が、まるでウソのように内野ゴロの山を築いていった。「なんとなく打たされてしまった」と王。「タイミングをはずされた」と土井。重松コーチも「球の力ではなく、モーションにごまかされた。これまでウチとあまりあたってないのも、相手にとっては有利だったのではないか」という。だが、うれしいプロ入り初勝利を巨人から奪った望月の、こんな話を聞くと、巨人ナインはもっと目をむくだろう。「ボクには、投げる時、体が早く前に突っ込むくせがあったのです。それで大石コーチのアドバイスで、巨人の小林さんをモデルにし、足をいったんとめるような変化をもたせてみたんです。王さんが一番タイミングが合ってなかったですね…」なんのことはない、いつの間にか盗まれていた味方エースの秘伝に、巨人はまんまと苦杯をなめさせられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永本裕章

2020-07-27 09:35:11 | 日記
1971年

ビッグ3の一人、佐伯が脚光をあびているが、日南へ行ってみると、二番手の永本の評判が佐伯に負けないぐらい大きい。肩のなれてきた二週間目ぐらい、捕手の青木が「おっ」と思わず感嘆するようなタマを投げていた。体重を十分のせ、打者の近くへ来てもう一つスピードが乗る。球威ではどうかすると佐伯以上かもしれない。ドラフト二位。1㍍77、76㌔、身長で佐伯にゆずるが、幅と腰回りで上回っている。盈進高で、無安打試合を二度、一試合平均の三振奪取が12。「カーブがまだ投げられない。高校時代、多いときで三、四個でした」直球一本ヤリといのうがまた魅力だ。花やかな人気の佐伯には当然ライバル意識を持っている。毎日グラウンドの裏の小山の急坂を登り降りするが「つい佐伯より高いところまで登るんです」マユが濃く、いかにも意地のありそうな、いい顔をしている。昨年の夏、きき腕の右ヒジをいためた。投手の命取りになりかねない場所だけに懸念されたが、直球の威力を見ていると、不安はなさそうだ。「タマの種類のほかにも、まだ覚えることがたくさんあります。ことし、かんたんに第一線に出られるとは思っていません。でもそのうちに力がついてくるから」佐伯に意地を燃やす割りには落ち着いている。自信も持っている。心技ともにたのもしい大物素材だ。

1982年

阪急・永本は、横手投げからのカーブとシュートで揺さぶる投球がさえた。ヤクルト打線を6安打、2失点に抑え、パ・リーグ完投一番乗り。四回、杉浦に甘い球を狙われて右翼本塁打、最終回に1点を失ったが、走者を出しても落ち着いた投球で、進歩の跡がうかがえ、先発テストも合格点を与えていいできだった。

二度目の先発で完投した阪急の永本は会心の笑み。さきの巨人戦では救援で打たれたが、それまでの登板では好投していただけに「きょう頑張らんと帳消しになる」と、気合の投球。今季から横手投げにフォームを改造。左打者の多いヤクルト打線は、格好のテストだったが、2失点に抑えたのは見事。

阪急は投手陣がガタガタだっただけに、次々と明るい話題が生まれたのは、頼もしいばかりである。そのトップは永本だ。4月22日の南海戦(西宮球場)に先発してなんと初完投、初完封勝利という離れワザをやってのけた。この永本は上手投げから、アンダースローに転向した。これが効果があり、実にプロ入り12年目に投手の宝といえる、完封を手にしたのである。「まだピーンと感じません。何しろ初めてのことですし、とても信じられません。夢ではないでしょうか」キツネにつままれた表情の永本だったが、これで先発ローテーション入りをモノにしたい。いわば永すぎた春にピリオドを打った彼の活躍を期待しよう。

1983年

南海のふがいない敗戦。先制されたあとの二回、無死満塁を岡本の投ゴロ併殺打でつぶす。五回の守りでは安打の中沢を弓岡のバント失敗で二封したものの、弓岡にやすやすと二盗を許した。山内新は制球を乱し、福本を0-3から敬遠。勝負したバンプにストレートの四球で満塁とし、簑田に中前安打されて2点を失った。ここで井上に救援させ、六回に門田の本塁打で追撃。しかし、その裏二死から弓岡の左翼線二塁打を、返球の中盤に入った定岡が二塁に悪送球してむざむざと追加点を許し、試合をこわしてしまった。永本は中沢の好リードで狙い球を絞らせず完投勝ちし、昨年四月以来、対南海六連勝。

永本が緩急自在のピッチングで西武打線をほんろうした。高めの速球、低めのスライダー、カーブのコントロールが素晴らしく、特にゆるいカーブが効果的。西武各打者はタイミングが合わないまま、これを打たされての凡打の山。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大畑徹

2020-07-26 14:46:45 | 日記
1985年

両チームとも先発投手がよく投げた。大洋の大畑は丁寧にコーナーをつき、カーブとシュートの配合も申し分なかった。南海の藤本修はスピードもあり、制球もよくなった。一回、自分の失策で1点を失ったが、七回を4安打に抑える力投。

大洋の大畑が五回を1安打に抑えた。三年前のドラフト一位だが、左ひじを痛めて一軍では昨シーズン、三試合で3イニングしか投げていない。近藤新監督は「先発できる左腕」として目をつけ、投球数を減らすことでひじの酷使を避け再起をはかった。立ち上がりは力みすぎて先頭打者を歩かせたが、続く三人を三振と凡打に打ち取り、許した安打は三回、小川に右前打された一本だけだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小嶋正宣

2020-07-26 14:40:38 | 日記
1981年

「早起きは三文の徳とはよくいったものですね」と白い歯をのぞかせていたのがルーキー・小嶋。というのも7月18日のロッテ戦に先発したが、午後3時開始のデーゲームとあって、起床時間をいつもより3時間早めて午前8時に起きて調整したのだ。これがズバリ的中、グラウンドでは40度を超す酷暑にもかかわらず、完封目前の1失点完投4勝目。実はこの早起き指令は梶本ピッチングコーチから出ており、当日だけでなく午前8時起床は三日間も続けられた。小嶋は「確かにつらいけど、試合中は体がシャキッとしました」と、早起きは三文の徳ーを地でいった好投に満足げだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川村博昭

2020-07-26 14:30:51 | 日記
1974年

太平洋クからドラフト六位に指名された九産大の川村博昭外野手(22)=飯塚商出身、身長170㌢、体重67㌔=のライオンズ入団が内定した。二十八日午後一時から太平洋クの島原スカウトは、福岡市東区香椎の九産大体育館で川村選手と二度目の入団交渉、鶴岡同校理事と藤本野球部監督が立ち合った。二十五日の第一回交渉では、父親昭二さん(47)が「息子と話し合って決めたい」と態度を保留したが、この日の交渉で川村選手は「太平洋へ入団します」と、すんなりプロ入りを決意した。同選手は四十四年夏の甲子園大会に二年生ながら中堅手として出場。九産大では一年生の秋からレギュラーとなり、二年生の四十七年に結成された福岡六大学リーグ戦では三年間、春秋の計6シーズンで通算229打数、84安打、3割6分7厘の高打率をマークしている。ベストナインに四回選出され、7ホーマーのうち3ホーマーは、今秋の優勝を決める大事な試合で放っている。太平洋クでは「野球に対する気構え、態度はもちろん、センスがすばらしい。俊足強肩の持ち味を生かせば、太平洋クの貴重な戦力になり得る」(島原スカウト)と期待している。正式契約、入団発表は、きょう二十九日渡米する青木同球団事務が帰福してからになる。

川村選手の話 私の意志でプロ入りを決めた。太平洋では特長を生かしたい。足では難飛球を好捕、そして絶対に盗塁を成功させるような選手。肩では好送球で走者を文句なしに刺す選手になることが目標。地元ファンの期待にこたえるよう努力します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする