プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

望月卓也

2020-07-25 17:28:57 | 日記
1977年

望月卓也、二十一歳。広島・竹原高出、四十九年のドラフト2位。182㌢、69㌔、右投げ。ほとんど名の売れていない望月が、巨人相手に初勝利をあげた。広島は一回の守りで、エースの池谷がOHに連続本塁打され、早々と3点を失った。二回からは望月がマウンドへ。古葉監督にすれば「ほんの中継ぎ」のつもり。ところが、望月は好調だ。二、三回を三者凡退。五回二死二塁で打者王という場面でも、0-2から内角をついて一ゴロに仕留めた。その投法たるや、一風変わっている。ノーワインドアップで動作を起こし、走者がいない時は左足をあげたところで、いったん動きをとめる。そして、やおら横手からシュート、カーブの変化球を投げる。だから打者はタイミングを合わすのが難しい。王などはじめは一本足を、あげたりさげたり。結局、三打席凡退。「きょうはシュートがよかった。水沼さんのいう通り投げました」と望月。両手でウイニングボールを握りしめていた。
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山内嘉弘

2020-07-25 16:53:46 | 日記
1988年

「山内がもっと早く出てくれていたら、ウチは、上位で西武と対等に戦えていた」とは上田監督の嘆き節、一軍昇格は6月13日と遅くはなかったが、首脳陣が先発でいくかストッパーでいくかを検討。敗戦処理としてプロ初マウンドを踏んだあと、二度目の登板まで2週間と間が開いてしまった。この間、二度先発を雨で流しており、首脳陣は抑え不在のチーム状態を踏まえ、ストッパーとして断を下した。その理由は、度胸満点のことと自由自在にコントロールできるフォークを持っていること。しかし、心配な点がなかったわけではない。大学時代に痛めた右肩の後遺症。実際、ファームで迎えた開幕直後、兵庫県竜野市の「信原病院」で診察を受けたほどだ。「筋肉が硬いっていわれました。登板前には十分、筋肉をほぐしてから投げるようにって」ケガの功名とはこのこと。ストッパーなら毎日ベンチ入りしてブルペンで投げなくてはならない。知らず知らずのうちに筋肉がほぐれていったのだ。山内がシュート、スライダーの揺さぶりを武器とした投手なら、今のような成績を残せたかどうかはわからない。彼の場合、タテの変化で牛耳るタイプ。しかもフォークとSFF球を巧みに投げ分ける。スピードガンの数値でも違いが現れる。速球派138~143㌔。SFFは132㌔前後だ。反対にフォークなら125㌔前後。それに大きな110㌔程度のカーブが加わる。上田監督は山内を評して「投げるだけでなく、駆け引きにもたけた投手」という。例えばウルサイ打者なら「セーフティー・バントを考えて」(山内)甘いカーブでストライクを取ることもある。決め球はフォークと見せかけて、内角にズバッと速球を投げ込む。当初、山内はストッパーをいやがっていた。「ボク、アマ時代から連投の経験が少ないし、調整の仕方がわからないんです」とむしろ尻ごみ。だが、ここへきて「勝ち星よりセーブの方がいい。ゲームセットで監督やナインと握手するのが一番気持ちいい」とさえ、いうようになった。それでも問題点がないわけではない。肩のスタミナだ。アマ時代の右肩痛もあって、それほど投げ込みに精を出してきた方ではないからだ。「4連投目になると、極端にスピードが落ちるのが自分でもわかる」と山内は課題を口にする。ともあれ、ストッパーとしての資質は十分で、来季は「開幕からいきます。感覚はだいたい、つかめたし」と山内は頼もしい言葉で締めくくってくれた。

1995年

今年、オリックスからトレードされた山内にとって忘れられない一日は1月17日、阪神大震災の日。東京への引っ越しのため、神戸市西区の自宅の荷物を運びだし、一夜を過ごした車中で体験。「怖かったですね」家の壁がはがれ落ちる地震だったが、幸いにも家族は全員無事。山内は新チームで心機一転、頑張ろうと誓った。近畿大時代には古田と関西学生野球で戦って来た仲。「知り合いがいてチームにも溶け込みやすかった」4月27日、福岡ドームでの阪神戦では気心の知れたバッテリーで見事、復活を果たした。打者6人をパーフェクト、MAX146㌔を記録するなど、持病の右ヒジ痛を感じさせない活躍で、チームに新風を吹き込んだ。
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迫田七郎

2020-07-25 16:35:10 | 日記
1965年

迫田は二年生だが研修制度のおかげで新人王の資格が残っている。6勝4敗と成績もいいが、内容がすばらしい。78回1/3で自責点は16、防御率1・85。これは現在パでは三浦、林の南海勢、近鉄の田辺につぐ好成績。もちろん小山、坂井ら先輩よりもいいし、昨シーズン防御率第一位の妻島をも上回っている。完封勝ちも二回、内容では池永以上だ。無名のテスト生から第一線級にのし上がろうとしているだけに根性もある。池永のような正統派ではないが、サイドぎみのフォームから鋭いクセダマを投げる。騒がれて入団した池永、テスト生からの迫田、態度も池永とは対照的に謙虚。興味深い新人王争いだ。
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中居謹蔵

2020-07-25 16:27:37 | 日記
1983年

ナインの拍手を受ける中居の背中がふるえていた。福島・小高工高出身で昨年までの三年間はファーム暮らしの男が今季三試合の好救援を認められ、初先発したとたん6安打1点の完投勝利。「まさか完投で勝てるなんて…。うれしくて胸がいっぱい」と声を詰まらせた。186㌢、84㌔の長身。プロ入り後は下半身が使い切れず、肩、ひじを痛めがちだった。ファームでも投げられるようになったのは昨年(五勝六敗)だったが、今年のキャンプで急に制球力をつけ一軍入りした。持ち球も豊富だがこの日はシュートが抜群。ピンチに4併殺と踏んばれた。山本監督、若生コーチは「先発ローテーションに入ってもらう」と口をそろえる。防御率1.69で一躍トップに。年棒は一軍最低ラインの四百八十万円に達しない三百八十万円(推定)である。登板する度にもらえる三万円の手当は故郷福島の病身の父親へ仕送りするとか。
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橘健治

2020-07-25 16:17:41 | 日記
1977年

選手の気力が盛り上がらない凡戦だったが、近鉄・橘は変化球の制球がよかった。3点を失ったものの、風安打と内野の失策によるもので、切れのいいカーブとスライダーは武器になりそうだ。

1982年

近鉄が延長にもつれ込んだ十回、吹石の今季初本塁打で勝ち越し、三位に浮上した。六回一死二塁からハリス、羽田の連続二塁打、二死後には島本兄、小田の連続二塁打と集中長打で4-1と逆転。先発の橘はキレのいいシュートを決め球に、八回まで76球、落合の内野安打1本と完ぺきなピッチングだった。しかし、九回、勝ち急いだか落合にタイムリーを浴びたあとレオンに同点の2ラン。吹石は十回二死後、この回から救援した倉持の内角高めのボール球を左翼席にほうり込んだ。

1983年

先発投手の明暗が試合を決めた。一回、南海の山内新は四球と盗塁などで二死三塁、栗橋に左中間を破られた。この先取点で近鉄は勢いに乗り、六回相手エラーも絡んで2点をあげてとどめを刺した。橘は今季二度目の先発で今季初勝利。南海は2引き分けをはさみ二度目の6連敗。順位が入れ替わり、近鉄四位、南海は五位に。

近鉄・橘は「絶対完封出来る自信があったのに…」と7イニングで交代させられたことに不満。「縦横のカーブがよかったし、ストレートも走っていた」。しかし、今季初勝利に「夏場は好きだし、これからスパートします」
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梅野哲徳

2020-07-25 16:01:16 | 日記
1970年

午後八時、百道寮の雨天練習場で梅野選手はバッティングマシン相手に打撃練習中。身長172㌢、体重65㌔で、どちらかといえば小柄なほう。だが、打球は鋭い。たった一人の練習。変な当たりが出ると小首をかしげては、また打つ構えをみせる。「ボクのことが新聞に出るのですか」食堂で梅野は恥ずかしそうに、そしてうれしそうに言った。スキーのヤッケを正してカメラをにらんだ。「笑うのだよ。チーズと言えよ」先輩小野が助け舟を出してもなかなか笑顔がつくれない。「ぼく笑うのヘタです」これには小野のほうが笑った。梅野はテスト生だ。「そんなこと、入団したら同じことだと思います」ひけめは感じないという。「努力すればボクだって認めてもらえるときがあると思います」南海の野村、元近鉄の小玉、そして西鉄では基もそうであることを知っている。自信は?「あります」別府大付属高では一年生からレギュラー。「一年生のときは河原さん(大分商)に負けました」その河原のタマをうけて勉強するという。「和田さんのように打てる捕手になりたい」そのためには人一倍、それ以上の練習をしなければと心に誓っている。趣味は「一人で本を読むことだが、いまは野球だけ」同室の春日、稲津両先輩が「野球の話のほかにはなにもしない」という徹底ぶり。まじめ人間となかなか評判もいい。細い目が稲尾監督に似ているのも同じ別府出身だからだろうか。「梅野!」二階からの声に「はい」若さをはずませながら階段をかけのぼって行った。
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古屋哲美

2020-07-25 15:51:38 | 日記
1970年

九州産大の職員になる予定が、一転して西鉄入りとなった。「投げてみたい」と軽い気持ちでテストを受けたところが合格。「ほんとうに認めてくれたのかな?」通知があったころは、希望と不安が半々だったという。そのテストでは竹井渉外相談重役、城島渉外課長の目をクギづけにした。「ほう、うまくなったもんだ」昨年の十二月七日は、小雪まじりの天候で、とても投球などできたものではない。そんなとき古屋投手はビュンビュン速いタマを投げたからだ。古屋投手は高校ー大学を通じて異色の投手として注目されていた。ただ「やや力不足」というのが難点で、それが印象を弱めていたようだ。ところが、いつの間にかからだもたくましくなって、ユニホームを着ると大型選手なみ。「長身からの下手投げだけにおもしろい」と買われての西鉄入り。くせダマに期待といったところだ。高校は博多工。甲子園にはエース橋本の控え投手として出場したことがある。「倉田とは同期」-明大から西鉄入りした倉田とは子供のころから友だちだった。「趣味というほどのものはありません」休みの日は市内向野町の自宅で「一日中、寝ころんでテレビを見ている」そうである。性格的には激しさがなく無口だが「負けるのがきらい」という意地っ張りだから、ピンチでのマウンドさばきには期待できそうだ。

西鉄の新人古屋投手(九産大出)が初登板、八、九回を無失点に押えた。「タマもよく走っていたし、相手打者はちっともこわくなかった。左打者も気にならなかった」と、こともなげに言ってのけたあと「テスト生で入団した年、すぐに公式戦で使ってもらえるなんて…。やはり西鉄に入団してよかった」と、幸運に感謝していた。

1965年

博多工

大黒柱の橋本投手が抜けたが、倉田、日下部、上田と甲子園経験者を中心とした攻守は、やはり優勝候補の力がある。倉田、日下部、古屋、藤井の中軸打者は打率3割台をマーク、佐藤監督も「打力は昨年のチームに劣らない」と自信を持っている。問題は投手陣だ。主戦の古屋は速球、スライダー、カーブを武器とする本格派だが、春からヒジを痛め、練習では100球ぐらいしか投げられないといわれる。
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山内嘉弘

2020-07-18 12:51:15 | 日記
1988年

ベンチを出る上田監督が「立派なもんや、山内は」と最大限のほめことば。そのときルーキー山内(近大出)は、十年選手のような風格を漂わせて同僚とがっちり握手。Bクラスに低迷する阪急に残された役割は上位チームを食ってリーグをおもしろくすることしかなく、その意味で新ストッパーの存在は大きい。ピンチはいきなりきた。八回、辻にカーブを中前安打されて無死一塁。「セーフティーバントをされそうなので変化球から入ったが、真ん中へ行った」そうだ。二死二塁までもっていったが、仕留めたと思った秋山の三ゴロが悪送球で一、三塁に。ここで清原。差は1点。最大の見せ場だった。度胸満点だった。「フォーク狙いはわかっていたが、打てるものなら打ってみろと思って」初球、その沈む球を低めに投げると、予想通り手を出してくれて遊ゴロに料理した。「えっ、セーブでなくて勝ち投手ですって」とすっとんきょうな声。とぼけたわけではなく、本当にセーブと思っていたらしい。「どっちかといえば、セーブのほうがいいな」とまた笑わせる。上田監督は「あいつの心臓は特別もんやで」
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倉田晃

2020-07-13 18:28:56 | 日記
1970年


西鉄ライオンズはかねてから明大・倉田晃遊撃手(22)=身長173㌢、体重69㌔、右投げ右打ち=の獲得交渉をしていたが、七日、城島スカウトが上京、明大野球部の島岡総監督と会い、倉田獲得の了解を求めて、その同意を得た。同選手は、すでに西鉄入りを決意しており、城島スカウトが帰福しだい、八日にも正式契約。九日には正式入団発表の運びとなろう。同選手は昭和三十九年春の全国高校選抜大会に博多工の遊撃手として出場、同校は準決勝で尾道商に惜しくも敗れたが、当時から倉田選手の軽快なプレーはプロ球界からマークされていた。明大に進学してからはプレーにみがきがかかり、昭和四十三年春の東京六大学リーグ戦では34打数、15安打と打ちまくり、4割4分1厘の高打率をマークして早大の谷沢、荒川、法大の田淵(現阪神)を押え、首位打者の栄誉に輝いた。「地元選手を獲得する」という方針を打ち出している西鉄ライオンズとしては、一石二鳥の逸材を獲得したことになる。青木球団社長。稲尾監督は「ツキを持っている選手」と同選手の活躍を大いに期待している。倉田選手は昨年暮れのドラフト会議で、どの球団からもリストアップされていない。その理由は、選手がリストアップされるのを好まない明大島岡総監督の強い意志があるからだ。プロ球界でも明大選手のスカウティングではこうしたことを十分に心得ている。当然、ドラフトとは別な舞台裏のスカウト合戦が行われることが多い。倉田選手の場合も「リストアップすると、逆に獲得しにくくなる」という心配があった。どの球団ともドラフト会議後は、懸命なハラの探り合い、そんななかで西鉄が見事に倉田選手を射止めたのだ。

西鉄の城島スカウトは、徹底した隠密行動だった。西鉄にとって有利だったのは、同選手が地元福岡の出身ということである。昨年の暮れ、冬休みで帰福した同選手宅=福岡市宝来町=を訪れた城島スカウトは、稲尾体制で再起を期す新生ライオンズの姿勢を説明して、西鉄入りを決めた。その後も再三の交渉。こうした城島スカウトの努力が功を奏して新春早々父親清長さん(54)=福岡漬物株式会社専務取締役=から西鉄入団の了解を得た。しかし、同選手はノンプロ鷲宮製作所(埼玉)への就職が内定していた。七日、城島スカウトが上京したのは、この問題の円満解決と、明大島岡総監督の了解を得るためだった。明大島岡総監督は倉田選手の西鉄入りを「西鉄入団は地元ということからもいいことだ。こころよく了承した」と喜んでいる。「なにしろ人柄がいい。やはり野球は技術だけではない。倉田のような努力家はきっと報われるだろう」とも付け加えている。

根性の島岡野球をたたき込まれた倉田選手は、西鉄ライオンズで元気いっぱいのプレーを披露してくれるだろう。かくれた逸材というにしては、倉田選手の球歴はりっぱすぎる。昭和二十二年四月十四日生まれ。父親清良さんの話によると、当時から野球選手に育てようと決めていたそうだ。野球好きな博多っ子として、千代中学時代には早くも近所の人気もの。市内少年野球大会ではバンビースのエース、四番打者として、最優秀選手に選出されたこともある。天分は順調に芽を出し、博多工の佐藤野球部長に鍛われた高校時代には、晴れの甲子園出場を果たしている。三十九年の選抜大会では3割7分5厘、同年五月の新潟・国体・初優勝では、3割6分3厘の好打率をマークした。一、二番を打ち、チャンスメーカーとして大活躍、守っては軽快なステップスローの名遊撃手として定評があった。「高校を卒業するときプロ入りしようと思った」そうだが、当時父親清良さんと交友のあった大下弘氏(元西鉄)のすすめで明大入り。西鉄はこのときから倉田選手をマークしていたともみられている。明大では一年生の春のリーグ戦からベンチ入り。だが、博多工時代にみせた俊足好打のリードオフマンも、最初はケガに悩まされてチャンスをつかめなかった。二年生の春、高田(現巨人)との黄金の一、二番コンビとうたわれながら肩と足を負傷したのがつまずきとなり、その秋に戦列復帰はしたものの通算無安打。だが、三年生の四十三年春、対立大二回戦での三塁線突破三塁打が好打者倉田をよみがえらせた。初安打に気をよくした倉田は、そのシーズン15安打を放って首位打者の栄冠を獲得。「果報は向こうからやってきた」とユーモラスに語った倉田のことばは神宮記者の話題にもなった。谷沢、荒川との首位打者争いは、最後の早慶戦で谷沢、荒川がつまずいた。他人任せのリーディング・ヒッターと倉田は控えめだが、同年秋のリーグ戦では二塁、三塁、遊撃の各ポジションをこなして、明大の優勝に貢献した。東京六大学での通算打率は2割7分5厘。ホームランは四十三年秋、早大小坂投手から奪った一本だけだが、小回りのきく守りと、シャープな打法は、逸材というにふさわしいものがある。稲尾監督は「特長を生かして、貴重な戦力に仕上げたい」と語っている。ホームラン打者のタイプには長打をねらわせ、シャープな打者には好打に徹してもらうというわけだ。倉田選手の場合は後者。「内野ならどこでもやりこなせる」選手だが、西鉄では本職の遊撃を浜村と争うことになりそうだ。

倉田選手の話 西鉄入りを決心しました。小さいときからライオンズは大好きだし、その希望がかなっただけに、期待にそえるよう努力します。

明大島岡総監督の話 西鉄入りはいいことだ。プロ野球で大いに力を発揮してもらいたい。倉田は努力家だ。

父親清良さんの話 お世話になった人には、筋道を立てて理を通さねばなりません。幸い、明大島岡総監督が了承してくれましたので、むすこを西鉄にお願いすることにしました。

城島スカウトの話 きょう明大の島岡総監督と会って西鉄入りを了解してもらった。倉田選手と家族の方には了承してもらっているので、正式契約後の九日に入団発表できると思う。地元福岡の選手ということでもあり、地元ファンの力強い応援をお願いしたい。
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乗替寿好

2020-07-08 15:27:35 | 日記
1970年

山崎、池辺、有藤そしてロペス、榎本、醍醐…。しぶとさで名を売ったロッテ主力打者のバットが、ためらいもなく空を切った。175㌢、74㌔。小柄な愛着の左腕からひねり出される鋭いカーブは、まるで生きもののようにバットの下をくぐり抜け、宮寺のミットでハデな音をたてた。首をひねるロッテの面々。ベテランたちを手玉にとって若狭の小天狗は白い歯をみせた。すべてにひかえ目な男だから、ハデなジェスチャアはない。だが一昨年のドラフトで指名1、2位を分け合った東尾が、すでに2勝をマークした事実は重い。くやしさの重みにジッと耐えながら乗替は投げた。「どんなことがあっても、とにかく勝ちたい」それだけが頭の中にあった。それだけがマウンドの乗替のたよりだった。一年目の昨シーズンは、あせりで肩をこわした。シーズン終了前には、あわや整理選手の仲間入り?とウワサされるほど落ちぶれ果てていた。だが甲子園大会で一流の折り紙をつけられた若狭高のエースには、まだプライドが残っていた。故郷の海辺で人知れぬ猛特訓で作り直された乗替の左腕は、やがて島原キャンプで和田コーチを驚かせ、オープン戦で稲尾監督に思わず目をこすらせたほどの、すばらしいカーブを生んでいた。これまでの公式戦最長投球回は3回と3分の2(対ロッテ4回戦=東京)だがこの夜は難なく四回を切り抜けた。五回の二死二塁も浜村の美技で乗り切った。六回は二ー四番を三者凡退だ。七回、有藤に左線二塁打され、前田に送りバントを許して一死三塁のピンチを残し降板したが、リリーフの秋葉が高目球ばかり投げて大量点を失ってしまっただけに、ベンチにも悔いが残ったろう。乗替自身はどうだったか。「投球数が少なかった(88球)から疲れはなかったんです。だけど有藤さんに打たれたタマはボール1個くらい内側にはいってしまいました。きょうはスライダーがよかったんだけど…。もっとフォームが固まってきたら完投できるでしょう」と意外に明るい表情でしゃべった。インタビューの間も同僚たちから「惜しかったな」「つぎは打ってやるから」と、ねぎらいのことばが飛んでくる。そんな声にいちいちうなずきながら「とにかく精いっぱいやりました。つぎは勝ちます」すべてを包みかくして乗替は胸を張った。
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佐藤文男

2020-07-08 09:27:12 | 日記
1978年

長男が生まれたばかり。「ええーっと…」デジタル時計をじっと見て、律儀に指を折り、日を数え終ってからいった。「きょうで48日目です」その仕草、顔が純情だ。「こんどの遠征、長いでしょ。帰ったらまるで変っているでしょうね。生まれたばかりというの、日一日と成長するっていうから‥」一種のオノロケである。初々しい。初めての子に「純一」と名づけた。「純」という字が好きなんです。そして大きくなったら一番の男になるように・・」本人は3人兄姉の末っ子。すっかり有名になったエピソード道に捨ててあった新聞を拾ってみたら近鉄のテスト記事。そこで思いたって、いまに至ったーという、プロ野球選手としては異例の出世物語。「人生って、ホント、わからないものですねえ」と、いま自分でつくづく思っているところだ。新聞でテストの広告を見たーということは事実だ。だが「道に捨ててあった新聞が歩いていた足にひっかかったので、それを拾いあげてヒョイとみたらテスト広告が目についた」という小説か映画のようなシーンについてあらためて聞くと、ニヤッと笑って、「それはどうかな。新聞でテスト広告をみたというのは事実だけどね」少々マユツバの話でも「プロ」なら、それがファンをひきつける看板となるから、ワザとそれを否定しないでソッとしておく選手も多い。だが、テスト生から、人知れない苦労をつづけて一軍ローテーション組にくいこみ、リリーフの切り札といわれるようになってなお純情さを失わぬこの人、あっさりとプロならではの名ドラマを打ち消してしまった。そこがスガスガしい。広島・戸手商。先輩にプロ野球選手はひとりもいない。高校3年の秋、「同級生のほどんどは就職先がきまっていた」ひとり、佐藤だけ、くる話くる話にクビを振った。「コレダと思う仕事がなくって」しばらく野球の話がつづいたあといいなおした。「やっぱり、野球が好きだったんです。野球から離れていくことができなかったんです」近鉄のテストに合格、通知が実家にきて、驚いたのは両親だ。特に、強く反対した母親に、佐藤はいった。「ダメだと思ったら、すぐ帰ってくるんだから・・・」1年たち、2年たち、3年たち・・何度か「寝つかれない夜」が続いた。2年目、ウエスタン・リーグで4勝をあげ、3年目に一軍ベンチに入ったとき「もしかしたら・・・」という気もあった。が、くる日もくる日もフリーバッティング用投手だ。ある日、チームの四番打者が、通りすぎようとしたとき、ひとこといった言葉がある。「いくらフリーバッティングに投げるといっても、打者に好かれるような投手になったら終わりだ」そうだ、と思った。試合前の主力打者にいい気持ちで打ってもらうのがフリーバッティング投手の一つの役目ではあるだろう。だが、佐藤は、その日から、「打たせてなるものか」と思って、投げた。「カーブ、シュート。曲げたり落としたり…」苦心のピッチングは、だが、なかなか認められない。「寝苦しい夜」は5年間、つづく。「暑いし、昼叱られた日など寝つかれないし、汗でもかいて思いきり体でも動かせば気も晴れるだろうと思って」夜、ひとりで暗いグラウンドを走りつづけた。ひとりで室内練習場のネットに向かってピッチングもやった。「シャドーピッチングでは体に覚えこませることはできんと思った」からだ。昨年、4月26日、6年目の初勝利。特別、監督やコーチから例年と違う話があったわけではない。「オープン戦でよく使ってもらったから、ことしはイケるかもしれないぞ・・とは思っていたけど・・」ベンチで、いつものように応援組のひとりだった。突然、「佐藤、行け」それが、いまの「リリーフ男・佐藤文男」誕生のスタートになった。26日現在、3勝5セーブ。「勝ち星とかセーブなど考えない。いまは、起用してくれる監督の期待に応えるピッチングをしたいーただそれだけ」という。中学時代、「オレがいなければ、野球部は成り立たないだろう・・・とテングになってケンカ別れ。野球から離れた」経験をもつ。それがいまい「テスト生」という苦難の道を乗り越えて、「勝ち星やセーブの数より、自分の役目を果たすこと」に生きがいを見出すようになった。いま、「深夜のひとりぼっちのランニング」の思い出がつまっている藤井寺球場の近くに、幼なじみの宏恵夫人と純一ちゃんとの幸福な日々。テスト生時代に比べれば、給料もずいぶんあがったんだろうね、と聞くと、また律儀に計算してから、「6倍になりました」いつかプロ野球選手になるんだと夢をみている少年たちには、大洋・高木選手とともに佐藤文投手のガンバリズムは、いい励ましになるだろう‥と、思わずいったら、真剣な表情で答えた。「いえ、ボクのような無鉄砲なことは、やめた方がいい。本人はいいけど、まわりの人たちが大変だ」6年間の苦労がしのばれた。
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平沢隆好

2020-07-05 22:12:07 | 日記
1980年

平沢が1年2ヶ月ぶりに勝利をつかんだ。16日のロッテ9回戦。2回に崩れた田村を一死一塁から救援すると球をコーナーに散らせてロッテ打線を寄せつけない。逆に味方打線は2回裏に大爆発。一挙8点を奪い鮮やかな逆転。大量点をバックに余裕を持つと平沢は、8回に奪われた1点だけにロッテ打線を抑え切った。「嬉しいですね。マウンドから胸を張って降りてこられる気分は最高。この前いつ勝ったのかもう忘れてしまっていました」この勝利、昨年6月16日の西武前期10回戦以来、なんとぴったり1年2ヶ月ぶりの白星だった。左腕投手不足の悩みを抱え、首脳陣から大きな期待をかけられながら、シーズン当初から不甲斐ないピッチングが続き、5月後半にはファーム落ち。それを機会に中原二軍投手コーチとじっくり話し合い、上手投げから横手投げにフォームを改造、コントロールの充実に取り組んだ。「いい勉強になりました。フォームを変えただけじゃなく、中原さんからピッチングのコツについても、イロハから教えてもらったんです」フォームを改造して確かに制球力は向上した。しかし一朝一夕にして完全に身につけられるものではない。再び一軍へ復帰してからも防御率は10点台をオーバー。一時はダメ投手のらく印を押されかけた。「打たれながらも実戦で投げていくうちに、フォームもしっくり身についてきました。シュートとカーブのコンビネーションがうまくいきました。これで自信もつきましたから、今までチャンスを与えてもらって果せなかった分を、取り返していきたいですね」久しぶりに味わった勝負の美酒を踏み台にして、平沢は今後へのハッスルをきっぱり誓っていた。一軍入りしたばかりの高は、まだ経験不足。それだけに首脳陣の平沢への期待は大きい。
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水谷茂雄

2020-07-05 21:52:02 | 日記
1980年

ルーキー水谷が初先発。惜しいところで初勝利を取りにがした。30日の日本ハム7回戦のことだ。過去7試合はすべてリリーフ。それも勝負がすんだ、敗戦処理の形での出番が多かった。「別にアガりはしない。でも立ちあがりが一番苦しかった。体は少々疲れたけれど、気持ちのほうは全然バテてないですよ」7回先頭打者の高代に中前打されると平沢にバトンタッチ。この時点で1点リードしていたので、うまく抑えてくれればプロ入り初勝利が転がり込んでくる。ところが金城がメッタ打ちにあい、初白星も一瞬にして消え失せた。「そんなことはいいんです。先発に使ってもらえただけで嬉しいですよ。110球も投げたんですか。そんなに投げてるとは思わなかった」初先発の感謝にひたる水谷だが、びっくりしたのは三重・四日市市に住む両親の勝雄さん(45)と直子さん(43)。「夕方、テレビのニュースで知って驚きました。テレビもラジオも放送がないので、気が気じゃなかった。勝てなかったけど、あれだけやってくれたんですからね。私達も満足です」両親にビッグプレゼントとはいかなかった水谷だが、頼もしい若タカが1人誕生した。

若タカ、ルーキー水谷が、混パの主役西武から大金星、プロ入り初勝利をあげた。「アガることなんか全然なかったですよ。この前のときは、6回で崩れているから、きょう、なんとかそれ以上投げたいと思っていました。とにかく勝てて、こんな嬉しいことはありません」先月、8月30日の日本ハム3回戦についで今季二度目の先発という水谷が、17日の西武9回戦で見事、期待にこたえたのだ。5回、長谷川に5号ソロを浴び1点。3回、一死三塁から金城の助けを借りるまで、西武打線を4安打に抑える好投。ゲームが終わると、先輩・金城に何度も頭を下げるあたりに、いかにもルーキーらしさがのぞく。水谷は昨年のドラフト4位で四日市工から南海入りした若タカ。これまでの成績は0勝0敗。広瀬監督にしてみれば、来季に備え、経験を積ませるための先発だったが、嬉しい誤算。混パから南海だけがカヤの外だけに、混パをより一層かきまわす、陰の主役になって欲しいものだ。
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1970年 阪神 テスト生

2020-07-05 21:34:53 | 日記
1970年

阪神は十四日、キャンプ地の安芸で元近鉄の山本重政投手(29)=立命大中退、1㍍77、75㌔、右投げ、右打ち=と元グローバルリーグ東京ドラゴンズの畑口健二投手(22)=法政二工、1㍍78、78㌔、左投げ、左打ち=の入団を発表した。両投手は甲子園球場での第一次キャンプにテスト生として参加していたもので、チームとともに十四日安芸入りした。山本は昨年末近鉄の自由契約選手になったが、同球団での八年間で35勝をあげている。また畑口は四十年に大洋入りし、四十三年に退団、グローバルリーグに参加していた。背番号は山本が56、畑口が54。
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1970年 西鉄 ドラフト外

2020-07-05 21:29:02 | 日記
1970年

西鉄ライオンズは十二日、テスト入団選手四人を発表した。

佐藤玖光(くにみつ)投手、左投げ左打ち、24歳、1㍍77、66㌔、九州工業高校、林建設KK出身

古屋哲美(てつみ)投手、右投げ右打ち、22歳、1㍍74、69㌔、博多工業高校、九州産業大学出身

加藤博一(ひろかず)外野手、右投げ右打ち、19歳、1㍍78、71㌔、佐賀多久工業高校出身

梅野哲徳(てつのり)捕手、右投げ右打ち、18歳、1㍍72、65㌔、別府大学付属高校出身

西鉄ライオンズでは、昨年二度にわたる新人テストを行ったが、慎重審査の結果、四人の新人が選び出された。もっとも佐藤投手は稲尾監督が目をつけ、推薦していたもので、公式テストを待たずひそかに実力を検討してたもので、左の本格派、からだも立派で、左投手の少ない西鉄だけに成長に大いに期待をかけている。
古屋投手は、一、二次のテストでいずれもトップにチェックされたもので、アンダースロー。バネもよく、くせ球を習得すれば貴重な存在となろう。
おもしろいのが加藤外野手。子供のころからのライオンズファンで運動神経は抜群だ。サッカー部から誘われてサッカーの試合に出たこともあり、中、長距離のランナーでもある。佐賀県内の高校駅伝では3㌔を9分9秒で走った。打撃がすばらしくオープン戦だけで20ホーマーを記録、打率も3割台である。すでに国士舘入りが決まっていた。
梅野捕手は大分関係者からの推薦、二度めのテストにとび込んできて、馬力のあるからだを買われたもの。四人ともまさにかくれた逸材だ。
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