1995年
中日の落合が九回のピンチをしのぐと井手元は「やった」-。二番手で登板し、3イニングを投げて、プロ初登板、初勝利。2点リードされた時点のマウンドで気楽に投げられたそうだが、今年三月末から米国留学で学んだフォークボールで、オマリーからも三振を奪った。ネット裏では来季の監督が決っている星野氏も観戦。「見ていてくれましたかね」と気にかけていた。
1995年
中日の落合が九回のピンチをしのぐと井手元は「やった」-。二番手で登板し、3イニングを投げて、プロ初登板、初勝利。2点リードされた時点のマウンドで気楽に投げられたそうだが、今年三月末から米国留学で学んだフォークボールで、オマリーからも三振を奪った。ネット裏では来季の監督が決っている星野氏も観戦。「見ていてくれましたかね」と気にかけていた。
1982年
「これで少しは信用を回復できた。ローテーション入り?ハイ、なんとかやれそうです」打高投低が不安視されるヤクルト投手陣。そのなかで、三年目のサウスポー、大川が二度目の先発で好投し、武上監督をひと安心させた。五回を投げ、被安打3、失点0。最初の登板(5日・巨人戦)で5イニング、6失点だったことを思えば、別人のような変身ぶりだ。スタートはいつもの悪い癖が出て、ボールが先行。島田誠に四球を与えた。そのあと一死二塁とされたが、クルーズ左飛、柏原をボールになるストレートで空振りの三振。ここで「きょうはいける」と自己暗示をかけたと言う。そして、二回からはすっかり立ち直り、厳しい堀内投手コーチからのひとこと「ナイスピッチング」と声を掛けられた。内容も見るべきものがあった。柏原を2打席ともストレートで三振に抑え、余裕の出てきた五回には得意のけん制刺しを決めたり、島田誠からフォークボールで見逃しの三振を奪った。「カーブもフォークボールも低めに集まった。大矢さんのサインもよく見えたし、80点はあげれます」と自己採点した。武上監督はユマ・キャンプ中、「竹本、大川、宮本、宮城の四人から最低二人が一本立ちしてくれれば…」と言い続けていた。六日の巨人戦でルーキー宮本にめどがつき、この日は大川が「合格点」(堀内コーチ)弱体投手陣に明るい材料がそろい始めた。「次の登板では監督に必ず先発入りOKの返事をもらってみせます」自信ある言葉でインタビューを締めくくった。
1981年
長い間、不振にあえいでいた滝口が、ようやく立ち直りのきっかけをつかんできた。前半はフォームを乱して勝ち星なしの5連敗。しかし、フォームが元に戻るにつれて、成績も向上し5勝6敗。防御率3.89(11日現在)、今シーズン前、一軍入りかと期待されていたにしては、もの足りない成績だが「気持ちの面で充実してきた」と、顔をほころばせている。「一番大きいのは、フォームが固まってきたこと。それに、自信もつけてきた」滝口の矯正に取り組んできた大石コーチは、こう指摘する。開発中だったスライダーが「一応ゲームで使えるようになり」(同コーチ)「投球に幅ができた」(滝口)こともある。しかし、滝口がつまずいた原因は、自信喪失と、それに基づくフォームの崩れにあったのだから、最近の好結果は「本物」と見てよさそうだ。ことしのキャンプやオープン戦では著しい進境を見せた。ところが、結局一軍入りを果せなかったあとの挫折感は大きかったらしい。あせりと気負い。「まだ、力不足」と判断され、それを乗り越えようとして、かえって力んでしまった。そして、フォームを崩したままシーズンへ入って、さらに悪循環が続いた。「基礎体力のアップなど、まだまだ課題は多い」と大石コーチ。それでも、本人は「二軍戦の場合、勝ち星よりも内容が問題だろうが、勝つことによって、やはり気持ちは違ってきた」と、ほっとした表情。米教育リーグにも派遣されそうで「やっと出て来た調子を、向こうでも期待したい」と話している。
1981年
二年目の片岡が初の一軍から二軍へ降りてきた。二か月間の成績は5試合に登板、6回1/3投げて自責点7、防御率10.50。大器と言われたにしてはふがいなかったが、一、二軍の壁を体で感じたのは大きな収穫だ。片岡はこれをステップに来季へ大きくはばたこうとしている。5試合に登板した一軍のマウンド。片岡がつかんだものは制球力、特に真っすぐがいかに大事かということ。二軍なら真っすぐが多少甘くても変化球でかわせたが、一軍では通用しなかった。「真っすぐの制球力が甘かったですね。そして制球力をつけねばと思うあまり、逆に制球力を乱してしまった」と反省する。今シーズンも残りわずかだが、今月末からの米教育リーグに参加することが内定している。片岡にとっては昨年に続く参加で、絶好のトレーニングの場となる。「カーブ、フォークボールには自信があります。これを生かすための真っすぐにみがきをかけてきます」と目標を一つに絞っている。阪神、近鉄、阪急と帯同した昨年の米教育リーグは、片岡にとって実り多いものだった。全日本のエースとして活躍したばかりか、今季は開幕から一軍入り間違いなしと言われるまで腕を上げた。日南キャンプでヒジを痛め大きく遅れたが、一軍の経験も一応は積んだ。そこでつかんだ一、二軍の差を胸に、片岡は米教育リーグに再び一軍への夢をかけて挑む。
1986年
「投球回数が少ないのに自責点が多すぎました」-プロ1年目を振り返っての中村の反省の弁である。5月8日、待望の一軍入りを果した中村は、もっぱら左打者用のワンポイントか短いイニングの中継ぎで登板した。14試合、17イニングで自責点12、防御率6.35の数字は及第点からは程遠い。ストレートにもっと球威がつかないと、得意の変化球もプロでは通用しないことも痛感させられた。昨シーズン、左投手の勝ち星ゼロという異常を是正するため、今季は神宮の左腕エース西川(法大)と社会人の実戦派中村の左2枚を補強した。ともに即戦力投手の評価高く、事実、西川は5月からはローテーションの軸として働いた。一方の中村も入団前から、カーブ、シュート、スライダーなど変化球のコントロールがよく、中継ぎならすぐにでも一軍で使えると太鼓判を押されていたが、1年目は身上の技巧でもプロの壁を越えられなかったといえる。社会人時代に6打者連続三振の記録を持つ中村だが、プロではより精密な制球力がないと通用しないこともわかった。そのため10月中旬からスタートした秋季キャンプでは、下半身の使い方とボールを離す位置を特に注意してピッチングをチェックしている。今シーズンの成績は不満足なものであっても「どうにかプロでやっていく見通しが立った」という中村。そのワケは三冠王・落合との直球対決にある。9月27日のロッテ戦に登板した中村は「自分の直球が落合さんにどこまで通用するか」試したくてサインを無視?ストレート勝負を挑んだ。結果は甘いコースにいった1球を本塁打されたが、この対決で中村なりにプロで生きていく手応えを感じ取ったという。「いいボールを持っているが、もっと低めへのコントロールが必要だ。それに左打者だけは絶対に抑えられるというボールが欲しい」(中西投手コーチ)この左バッター対策として中村は、秋季キャンプから横手投げの練習も開始。元来の上手投げに横手投げをまじえて打者をゲン惑させる新投法を研究中だ。来季の目標を登板数の倍増とピンチで信頼されるリリーバーになること、といい切る中村の2年目の成長に注目。
1982年
先の会長旗大会では昨秋の県大会で優勝した岩国高を破って自信を。試合数も多いが大きく勝ち越しており「夏の大会ではひと暴れしますよ」と西本監督の語調は強い。エースの江頭は長身ではないが右の本格派で速球、カーブのコンビネーションがよく、落ちるカーブも決まり出して威力をみせる。29試合に登板して18試合を完投。
1995年
大商学園(大阪)から入団して2年目の田中由基投手が、開幕一軍にグンと近づいている。左腕投手の田中は中日の山本昌タイプ。ストレートと3種類のカーブ、それにスクリューがあるので、紅白戦でもカープ打線に簡単にはつかまらない。3種類のカーブの中でも一番遅いカーブは、時速90㌔を切るスピードしかない。ところが、このボールが打者を悩ませている。「教育リーグでもドミニカのウインター・リーグでもまだ、このボールは打たれていませんよ。だって、ほとんど見送りですから」この超スローカーブに初対面の打者は、まず手を出してこないというわけだ。マウンド度胸もいい田中には、首脳陣も開幕一軍の期待を持っている。「先発をやってみてもらえないかな、と楽しみにしているんです」と川端投手コーチ。うまくいけば、開幕には先発ローテーションに入っているかもしれない。広島打線にとっては苦手の山本昌。きっとこのタイプの投手には、他球団もかなり、手こずることになりそうだ。
1986年
沖水の対抗馬で三年ぶりの優勝に意欲を燃やす。カギを握るのが左腕エースの西岡。フォームが大きくなり、球に伸びが出た。直球、シュートに大小のカーブで安定。
1984年
192㌢、87㌔のエース高橋は右の本格派。恵まれた体格を利して投げ下ろす速球には威力がある。完投能力はありながら、これまで単調に陥りやすかった。ブレーキの利いたカーブの制球がついてくれば、投球にも幅が出て期待できる。
1982年
選抜出場校の名誉にかけて優勝をねらう。川上、坂口との左右の本格派を持つ投手力を中心にした守りのチーム。
1989年
近鉄は、ドラフト外で坂口浩則投手(24)(名商大ー第一紙行、右投げ)を獲得した。横手投げ。昨秋の入団テストに合格した。
昭和39年5月4日生、173㌢、75㎏ 右投左打 尾道商ー名商大ー第一紙行ー近鉄(平1外)
1989年
「ドラフト外でもやればできるということをみせたい」という。「1位選手でもドラフト外でもユニフォームをつければ同じルーキーだ」という気がいをみせている。下手からのクセ球が武器。
1990年
ドラフト外でのプロ入りでもあり、年齢を考えればゆっくりはしていられないところだが、まずはスタミナづくりが先決だろう
1991年
ドラフト外でのプロ入り、ガッツのある選手だったが、今季は練習生扱い。打撃投手を務めながら、登録選手へじっくりと足固め
1992年
変則投法からのクセ球を買われ、テスト生としてプロの世界に飛び込んだ右腕も、力を発揮するチャンスもないまま4年目に突入してしまった。持ち味に磨きをかけたい。
1993年
プロ入り初登板で勝利投手の鈴木は「やっぱり緊張しました」その言葉通り、初回は一、二番にいきなり連続四球を与える不安定な立ち上がり。「二度目の紅白戦登板での初回7失点のシーンが頭をよぎった」と苦笑した。しかしこのピンチは、三番の秋山を「調子が悪い時も一番頼りになる球」と本人が言うスライダーで、遊直併殺打に打ち取り切り抜けた。その後はしり上がりに調子を上げ、終わってみるとわずか2安打。「西武打線にはそれほどの威圧感がなかった。(投球内容は)初登板にしてはまあまあ。先発の方が調整しやすいし、自分は先発が向いていると思う」とローテーション入りに自信を深めた様子だった。
1993年
「掘り出し物」と評判の左腕ルーキー池田が、横なぐりのような独特なフォームから繰り出す、力強い直球とカーブで1回を1安打無失点。「一年目のこんなに早い時期に登板できて、うれしい」と、池田は素直に喜んだ。登板は試合の途中で言われたが、「みんなの声もよく聞こえたし、捕手のミットもはっきり見えた。緊張感はなかった」というからかなりの強心臓。今後もこの左腕は注目されそうだ。
1993年
藪が二十五歳なら、フォークが抜群のヤクルト二位、斎藤充弘投手(日立製作所)にしても二十四歳だ。プロ入りして二年が勝負だろう。一億円を超す契約金は賭(か)けだろう。
スライダーが鋭い斎藤(日立製作所)
1993年
2年目の大野、遠藤がいまひとつ伸び悩む中、「予想外の活躍」(清水監督)を見せたのが183センチ、83キロの大型ルーキー中山(中大)。140キロ台の速球とフォークのコンビネーションがさえ、ヤマ場の二回戦・東芝府中戦では2点に抑える力投。代表決定戦のプリンスホテル戦では、巧みなけん制も披露した。
大物ルーキー中山が両手をVの字に高々と広げ、中堅へ舞い上がるウイニングボールを目で追った。強打が看板の加古川市を5安打1点に抑える公式戦初の完投。名門・東京都が若い力の台頭によって久々につかんだベスト4。「言うことなしのピッチング」就任1年目の清水監督の言葉が弾んだ。フォークボールの連投だった。中山自身は「半分ぐらい」というが、7割近くがフォークではなかっただろうか。今年四月に清水監督が初めて見た時、「低めのストライクゾーンに集まるから三振が取れる」とほれ込んだという独特の変化球。中大時代はほとんど二部リーグにいて知られていないものよかった。一回、先頭の鈴木に二塁打され、バントで一死三塁とピンチに立たされたが、三、四番をフォークで投ゴロ、空振り三振。二回はスコットに「弱いというデータ通りに投げたのに」(中山)という内角高めの球を本塁打され、唯一の得点を許したが、三回一死二、三塁を味方の好守で切り抜けてからは、八回まで1人も走者を出さない完ぺきなピッチングだった。九回に連打をあびてヒヤッとさせたものの、後続をこれも自慢のフォークでピシャリと断ち切った。
1992年
「辛抱が実りました」人のよさそうな顔を少し崩し、遠くを見るような眼を一瞬した。五年目にしてプロ入り初白星。「やっぱり遅かったんでしょうね」3点リードされた五回の頭から登板。負けに近い雰囲気が漂っていたのが、マウンドでの心の負担を軽くしたのかもしれない。左打者の内角ひざ元をスライダーで果敢に攻め、右打者には内懐にシュート。達川の好リードに導かれ、常に逃げない姿勢が成功した。六回、駒田を内角スライダーで空振り三振に仕留めた投球は度胸満点。「コースうんぬんより、真っすぐを思い切りよく、スライダーを低めに、と念じながら投げました。満足です」社会人の東京ガスを経た二十八歳の苦労人は、喜びをあふれさせるのが照れ臭い様子。年棒の五百五十万円(推定)をはるかに上回る貢献ぶりに、山本監督もただ感謝の表情だった。