1992年
エース久保は、速球で押す本格派で大崩れしない。
京都成章の久保が投げた126球目は初めて外野に舞い上がり、ライト金岡のミットに収まった。戦い終えてベンチに帰った久保は「ナインから声を掛けられて初めて知った」ノーヒットノーランの達成だ。「大会屈指」と折り紙付きの速球派に、プロ8球団のスカウトが詰めかけた。スピードガンで最速140㌔を記録した「生きたボール」(森永主審)は、「自己最高」の17奪三振を重ねた。二巡目からはスライダーを交えての頭脳投球をみせた。だが、久保は「今日は調子が悪かったので、先頭打者を出さないよう丁寧に投げた。八十点の出来」と冷静に振り返った。この落ち着きの裏には人知れぬ苦労がある。昨春から今年の三月まで、でん部の慢性筋肉痛で、一年間もボールを握れなかった。「その分、必死に走り込んでいた。努力が実を結んだ」と奥本監督が語る。昨年のエース山本良雄さん(大谷大1年)も「心身ともにひと回り成長した」とスタンドで目を細めた。七回無死、中前へ抜けるゴロを好補した二塁の古林がいう。「最後は久保のために一つになっていた」心強いナインが、十年ぶり、大会十六人目の快記録を支えていた。