プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

上別府幸一

2023-11-22 21:44:35 | 日記
1964年
さきに高校球界の好投手池永、尾崎を獲得した西鉄ライオンズが、こんどは軟式野球界から十七歳の左投手を入団させた。契約したのは日本ジャスパー興産(宮崎県高千穂町)のエース、上別府幸一(かみべっぷこういち)投手。同投手は三十六年三月小林中から都城電波高に入学したが、三十七年十二月中退して、日本ジャスパー興産に入社。三十八年の国体軟式野球で全国優勝。ことしも国体九州予選で優勝したが、国体では一回戦丸善石油と延長十五回を戦い、0-1で惜しくも敗れている。身長180㌢、体重68㌔、左投げ左打ちで、長身からの速球とカーブが武器。ことし九月初旬にウエスタン・リーグの遠征試合で小林市にいった重松コーチ、城島スカウトが土地の人に紹介され、同投手をテスト。九月中旬もういちど平和台に呼んで、重松、武末両コーチがみたうえで、入団が決まったもの。若さ、左利き、長身といった好条件のうえに、フォームがいい。スピード、カーブのキレもいいのを持っているという未知の好素質が、コーチをひきつけたようだ。まだ横幅もなく、ウエート不足だが、年齢からみてまだまだからだは大きくなる。中学生、軟式出身とこれまでのライオンズにはみられなかった異色選手という点で、その成長が興味深い。なお同投手は、きょう二十日から平和台球場で行われる秋季練習に参加する。


上別府選手の話 以前から西鉄が大好きだった。できればライオンズのユニホームを着たいと望んでいた。ようやくユメが実現した。軟式と硬式という違いはあるが、硬球にもだいぶなれたし、なんとかがんばりたい。目標は速球投手だ。


父親清蔵さんの話 他チームからもちょっと話はありましたが、本人がライオンズを好んでいるので、お世話になることにしました。どこまでやれるかわかりませんが、とにかくがんばるよう願っております。

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杉原洋

2023-11-22 21:10:01 | 日記
2002年
投手は2年生エース杉原が力投。県大会をほぼ1人で投げ抜いた。185㌢の長身から繰り出す130㌔台の伸びのある直球が持ち味。カーブ、スライダー、シンカーと球種も多彩だが、杉原は「すべては直球を生かすため」と。11失策と守備に不安が残るだけに、エースの出来がチームの浮沈を握りそうだ。


2003年


千葉ロッテから3巡目で指名された島根・開星高の杉原は「びっくりした。ロッテ球団関係者の方に感謝したい」と素直に喜びを表現した。140㌔台の速球とカーブが持ち味の本格派右腕。中学時代は一塁手だったが、開星の野々村監督に投手として見いだされた。「監督には感謝しかないですね」

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櫛笥厚正

2023-11-21 07:37:22 | 日記
1960年
川越市立古谷中学校PTA(秋山亨会長)では、十七日午後一時から古谷中で、同校から県立川越工業高校に進み、このほど中日ドラゴンズに入団が決まった櫛笥厚正君=県立川越女子高教諭櫛笥亮本氏(51歳)の次男の壮行会を開いた。櫛笥君は中学校時代から野球が好きで、古谷中野球部で活躍、高校に入っても一年生で早くも工業高校のエースとなり、秋、県体で同校を優勝に導いた。1㍍80㌢の長身から投げおろす速球は、チームの大黒柱として他の選手たちにも安心感をあたえていた。また打者としても常に四、五番を打ち、三年間を通じ大宮、初雁、前橋の各グラウンドで合計6本のホームランを放っている。この日海上には、秋山PTA会長、内田校長をはじめ、中学時代の同窓生、後輩、父兄ら約二百人が集まり、むかし話に花を咲かせたが、母まつさん(51歳)につきそわれた櫛笥君は、PTAから記念にトラをうきぼりしたタテを贈られ、嬉しそうだった。

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鵜飼克雄

2023-11-21 07:29:49 | 日記
1974年
鵜飼投手の両親昭良さん(52)操さん(49)祖母の敏子さん(75)の三人が車で五時間かけて徳島から激励にやって来た。鵜飼が球場入りしたときにちょっと立ち話をしただけで、あとは「どこに行って見ているのか、姿も見せない」と、さすがの二十六歳の女房、子連れのルーキーだけに甘ったれたところはみせなかったが、それでもナインはグラウンドママがやって来たーと冷やかした。「いやいや、野球が一番好きなのはおばあちゃん。プロに入るとき勧めたのもたった一人だった」とかで、鵜飼のいうにはグラウンドママ(祖母)というわけ。二十一日は休みとあって練習後、父親の運転する車で「女房じゃなく、子供の顔を見に行く」と念を押して帰郷した。

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三村勲

2023-11-20 22:14:52 | 日記
1965年
「大将、電話ですヨ」「大将、お客さんですヨ」そのたびに大将は気軽に返事して、階段をかけおりる。東京・練馬区桜台にある自動車整備工場「球興業株式会社」の大将が、かつての松竹ロビンスの名三塁手として鳴らした三村勲さん(39)だ。もっとも正式な肩書きは専務取締役。だが三村さんは白い作業服に身を包んで、工具さんといっしょに車を押したり、もちあげたりー。肩書きなんか、クソ食らえといわんばかりだ。西部池袋線桜台駅から歩いて二分、工場のすぐ前を十三間道路が走っている。土地柄からいくと、申し分ないはずだが、三村さんのことばは意外だった。「ここじゃ、駐車禁止だし、だいたい、こういう商売にはむきませんヨ。敷ち地もないしネ。もう少し、広いところを見つけて、移りたいですワ」三村さんが、小鶴誠さん(前サンケイ・コーチ)といっしょに「球興業株式会社」を創立したのが三十八年。まだ生まれてまもないが、昨年あたりから軌道にのりはじめたという。三村さんが商売をはじめたのは早い。現役時代の二十六年、松竹ロビンスの同僚小鶴、金山、五味さんらと、ロビンス交通を設立した。いわばプロ野球選手が副業をもつようになったハシリでもあった。だが結局はロビンス交通とはなれて、三村さんたちは独立したわけ。ロビンス交通、球興業とクルマには親類づきあいの三村さんだが、戦時中は戦車学校にいたというからますます因縁深い。「しかし、実際に商売やってみると、深刻ですねエ。机上論というのか、思いどおりいきませんヨ」そう話してくれている間にも電話はかかってくる。工員が伝票をもってくると、みむらさんはそのたびに指示する。球興業の従業員は八人。だから三村さんは、自分で帳簿をつけるし、力仕事もやる。あさ八時三十分に仕事をはじめて、よる一段落するのが八時すぎ。一日十時間以上も、働くというのだからたいへんだ。だが三村さんはいたってほがらかである。「タクシー会社をやっていたときは六人も仲間がいたから、自然たよってしまうようになる。でもここでは自分ひとりだから、責任も重い」それだけにやりがいもあるわけだろう。「小鶴さんが、ウチの社長だからネ。もう野球やめるといったらここへ帰ってくるわけですヨ」事務所には、小鶴さんや三村さんをスターにのし上げた恩人、故赤嶺昌志氏と故田村駒次郎氏の大きな写真が額にはいって、飾られてあった。その写真の下で三村さんの、現代プロ野球の感想をきいてみた。「むかしは岩本義行さん、苅田久徳さん、千葉茂さんのように、どこのチームにも個性的なプレーをみせるプレーヤーがいた。いまはそれがいないですものネ。ひとつの方程式にはめてしまっているみたい。コーチの罪なのかナ」

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櫛笥厚正

2023-11-20 21:50:02 | 日記
1959年
川越工高の櫛笥厚正投手(18)=紡績科三年=は九日、名古屋市中区西川端町の中日ドラゴンズ球団事務所で、同球団と正式契約した。この契約には櫛笥選手の母親ま津さん(41)斉藤玉太郎同校野球部長が立ち会った。なお同校からのプロ野球入りは初めて。櫛笥投手には早くから川崎トキコ川崎重工などのノン・プロチームから交渉があったが、その後八月十五日にドラゴンズから斎藤部長を通じて話しがあり、本人もプロ入りを望んで、この契約となったもの。身長1・81㍍、体重75㌔、左投、左打という恵まれた体格の持主で、サイドスローからの速球、シュートを得意とし、大宮球場で行われた夏の大会での活躍が、同球団のスカウトの目に止まったもの。ことしの成績は十六勝四敗。また打者としても同チームの四番として活躍、同大会の二回戦に、熊谷商の村田投手からホーマーを放っている。球団側では投手としてスタートさせるといっているが、まだ調子の波が大きく、不安があるが、秀れた体格をいかせばかなりの将来性がある。現住所は川越市古谷本郷1、428で、川越女高で教べんをとっている亮本さん(51)の次男坊。


父親亮本さんの話 わたしはこどもたちに自分のことは自分でやれといっているので、今度のことも本人の意思にまかせた。しかし一度入ったからには中途半端なことはせずに、最後までやるようにいっておいた。

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浜口政信・山本寛

2023-11-20 21:36:15 | 日記
1965年
サンケイスワローズの新人選手入団第一号ー愛知高の山本、鶴見ヶ丘高の浜口両選手はともにオーバーハンドからの速球を武器とし、将来を高く買われている投手。さる十一月十七日のドラフト会議でサンケイ入団の交渉権を得てから小山スカウトが勧誘をつづけ、二十五日やっと正式発表にこぎつけたもの。学生服姿の両ルーキーは、記者会見の席上、ドッと押しかけた大勢の報道陣にびっくりしたようす。両手をヒザにきちんとのせて、まるで面接試験を受ける高校生といった感じだったが、報道陣からの矢つぎばやな質問がはじまると大物らしく堂々と応答。「一日もはやくローテーションにはいれるようがんばります。目標は巨人の金田さん…」左腕の山本くんがこういえば、一方、右腕の浜口くんも「ボクは村山さん(阪神)のようなピッチャーになりたい」と声をはずませた。そばでホッとした表情の小山スカウト、「どえらいピッチャーになるぜ。ワシの目には狂いはないサ」

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福沢幸雄・成田秀秋

2023-11-20 21:16:27 | 日記
1962年


中日を退団した福沢幸雄外野手、成田秀秋内野手は、名古屋市内の自動車会社の販売部に就職した。サラリーマンとして再出発。

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平山正行

2023-11-19 15:05:11 | 日記
1955年


今年は牧野、平山の左右両投手を中心に復調ぶりは目覚しい。インシュートを武器とする左腕平山を配して投手は県下随一。

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多田昌弘

2023-11-19 15:04:34 | 日記
1992年
夏の甲子園で活躍した拓大紅陵三年多田昌弘投手(18)(市原市国分寺台中出身)が、広島東洋カープの六位に指名された。多田投手は右の本格派でシュートが決め球。「僕なんか選んでもらって…。とても光栄です。広島はしっかりした野球をする球団。早く川口さん、大野さんに近付けるよう頑張りたい」と意欲を燃やしていた。

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三浦方義

2023-11-12 15:28:10 | 日記
1957年
大映のエースは、やはり三浦だ。まず第一にコントロールに秀でているのは何よりの強みで、割れに角度のあるスライダーが外角低目に決まる。年が改まり、二年目のジンクスに突き当たったからといって、気構えさえ変わらなければ大丈夫で、急にコントロールを欠くことも考えられない。それに球の球種も持ち合わせており、淡々と投げ続けているので大きな崩れはないだろう。暖かい沖縄でキャンプを張るのも調子が出やすいひとつとなる。バックの援護を計算に入れても、スライダーに交えてカーブとシュートを低目にコーナーワークにすれば簡単には打ち込めないだろう。二年目の谷間を乗り越えて更に、名実共に大映のエースとして地固めする公算が大きい。欲を言えば、今一段とスピードが加わり速球もシュートも打者の胸元を大胆に衝けるようになると、ピッチングに厚味も増して一層たのもしくなるが、正しい制球力が根本であることは本人自身が最もよく知り抜いているだろう。

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吉村元富

2023-11-12 12:39:52 | 日記
1985年
南海ホークスの吉村元富(中京高出身・外野手)は今年のスプリング・キャンプで穴吹監督から二軍行きを命じられ「昨年の秋季キャンプで来年は一軍だって言ってくれたのに、二軍とはどういうわけか。こんな嘘をつく球団にはいられない」と退団し、話題となった。球団側は本人を自由契約にはせず、任意引退選手にした。韓国籍の吉村は、8月中旬韓国に渡り、密かにングレ・イーグルスのテストを受けて合格。近く日本で入団契約を結ぶ。ピングレ・イーグルスは来年からペナントレースに参加する新球団で目下、新入団選手を集めてホームグラウンドの大田市営球場で練習をしているが、吉村はその練習に加わりテストを受けたわけ。

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松本忍・森田通泰

2023-11-12 12:28:11 | 日記
1963年
中日ドラゴンズに入団が決まった松本忍君は、長崎県北諫早中をことし卒業した。身長1㍍75、体重75㌔の少年である。松本君は県下でも指折の投手だった。タマはズバ抜けて速く、年上の高校生でも松本君を打ち崩すのは難しかった。中学ではヒーロー的存在だったが、松本君自身、プロにはいる意志は少しもなかった。福岡の高校に行き、勉強しながら野球をするといっていた。その松本君にプロ入りをすすめたのは実兄の護さんである。護さんの高校時代の夢はプロ野球選手になることだったが、それはついに果たせなかった。その自分になり代わって弟の忍君を選手にすることは、本人にズバ抜けた力がある以上、比較的簡単に思われた。博多で運動具店を開いているI氏の紹介で、中日の柴田スカウトと会い、名古屋でテストを受けた結果、中日入りが決定した。三重県四日市、木沖中の森田通泰君(15)も、最初は高校進学を希望していたが、松本君が中日に入団したことを新聞で知り心を動かされた。以前からプロ野球選手になりたいと思っていた森田君は松本君がいくなら僕も…と両親を説得し、中日のテストを受けて採用された。森田君はスポーツならなんでもの万能選手。野球では投手で四番打者である。

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1959年 退団選手行方

2023-11-12 10:53:23 | 日記
1959年


荒井譲吉 大毎を退団し、富士重工太田に就職した。
棟居進 広島を退団して、新しくノンプロ・チームを作ったヤシカ光学へ入った。
川本徳三 ユニフォームを脱いで球団の記録員となった。
伊藤則且 大毎オリオンズを退団して川崎製鉄へ就職。
相沢邦昭 東映を退団して、ノンプロ日本楽器に就職した。
黒岩弘 国鉄を退団し、12月25日東鉄入りとなった。
小鶴誠 12月26日正式に広島を引退して、出資してあるロビンス交通に勤める。
増本一郎 東映を退団してこのほど河合楽器入社が決定した。
大脇照夫 国鉄を退団して、天王寺鉄道に入社した。
三林清二 国鉄を退団して、三重交通へ就職。
吉屋民夫 国鉄退団自家営業。
大久保英男 国鉄を退団して、東鉄へ。
大橋一郎 国鉄を退団して、天王寺鉄道へ。
青山浩 国鉄を退団、大鉄へ。

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簑原宏

2023-11-12 10:45:15 | 日記
1956年
パ・リーグ東映フライヤーズの簑原宏外野手(27)は十九日午前十一時半京橋の球団事務所を訪れ石原代表、小出営業課長と約三十分にわたって懇談したが、本人の希望通り自由契約選手となり来年からはフライヤーズのユニホームを脱ぐことになった。


簑原外野手談 オフ・シーズンになってからいろいろぼくに関する噂もききましたし、東映にいてプレーする情熱を失っていました。先日このことで話合ったときは考えておく程度で結論が出なかったが、きょうの話し合いで東映を出ることになりました。ぼくとしてはまだ二、三年はプレーしたいし、できれば在阪球団あたりでも働きたいと思ってますが福岡の自宅で商売をすることも考えています。

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