プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

植村秀明

2023-11-04 14:23:15 | 日記
1967年
大相撲の親方衆が、もっと早く目をつけていたら、いまごろシコを踏んでいるかもしれない。とにかく「すごいな…」とため息が出るほどの巨体だ。188㌢、84㌔。いますぐプロに飛び込んでも外人を除けば一番のセイタカノッポ。中学時代、クラスメートは「お前のそばによると枯れ木のように見える」といって、いつも3㍍ほど離れて歩いたそうだ。「ガールフレンドなんてボクには…」とテレるのも、どうやらこの長身がウイーク・ポイントらしい。だが巨体をユニホームに包むとだれでもホレる。別人になる。ノロノロ運転ではない。すばらしい身のこなしを見せるのだ。昨年の夏、甲子園のマウンドを踏んだ。スカウトの目は彼に集中した。が、ピッチング以上に目を見張ったのが動きだ。バント処理のときのダッシュ力。ダイナミックなランニング。「まだ二年だし、あの動きならピッチングもグンとよくなる」そう確信してスカウトたちは、ことしを待っていたわけだ。パーフェクト、ノーヒットノーラン、奪三振ーそれから県下に残るような記録はない。重い豪速球を持ちながら…。とシロウト目に考えてみたくなるが母校の森本監督は笑って答えた。「まだまだ野球レベルの低い奈良ではね。三振を絶対しちゃいけない、という変な風習があるんです。だから植村が投げると他校の選手はバントばっかり、ひどいときは一試合で二十近くもしてきたチームがありましたね。これじゃ植村だって記録もなにもあったもんじゃない」早くからプロ入りの意思を固め「それが自分の進む道」と悟っていた。奈良の王子中学から県下でも有数の名門校郡山へ優秀な成績でパスした。というか頭のほうもキレる。メガネの裏で、キラリと光る目に、意思の強さがのぞいた。「セ・リーグのチームには、なんとなくひかれていましたからね。カープにお世話になります。プロは未知の世界ですからどこまでやれるかわかりませんが、努力の二字だけは忘れません」狭い郡山の町はいま植村のカープ入りの話で持ち切りだ。ボツボツ、ガールフレンドの申し込みも出てきている。「奈良では森中(大洋)以来の大物やさかいがんばってもらわんと…」と地元の期待も大きい。188㌢、84㌔、右投げ右打ち、18歳。


広島・木庭スカウト いちだんとまた身長がのびた。真上からオーバーハンドで投げおろすストレートは角度があって威力十分だ。それに球質が重い。巨人の金田よりも5㌢も高い本格派の投手だ。高校のときはゲームではほとんどカーブを投げていなかった。ストレートだけで押さえきれるのだから、いうことはない。中学時代は砲丸投げの選手をしていたと聞いているが大柄ながら敏しょうなところがあるのも、そのせいだろう。足も速い方だし、バネがある。一口にいえばサラブレッドだ。大分商の河原よりもいいだろう。


広島カープは、四日午後一時半から広島市基町の球団事務所で奈良郡山高・植村秀明投手(18)=188㌢、85㌔、右投げ右打ち=の正式入団を発表した。植村は広島カープがドラフト会議で第二位に指名、木庭スカウトが交渉に当っていた。典型的なオーバースローの剛球投手で、広島カープの新人契約第二号。


植村投手の話 早く一軍に上がってがんばりたい。プロについては、自分としてはまだ不安なんですが、一日一日努力を欠かさないで乗り切っていきたい。現在のプロの投手で、見ていて気持ちがいいのが巨人の金田さん。ストレートで勝負ができる投手になりたい。


木庭スカウトの話 高校時代はストレート、シュートで勝負してきた。大柄であるが下半身も強いし、プロではもっと下半身を鍛えることだ。それによって球速もさらにますだろう。へんに変化球を覚えるよりも、速球で押す投手に成長してもらいたい。タイプは違うが村田(福山電波)に負けないだけのものを持っているし、球威が重い。

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田中耕一郎

2023-11-04 14:04:35 | 日記
1984年
「朝のおはようございますは絶対に必要な言葉です。巨人軍で教わったことでいま心に残っていることはこれだけですが、歳月が経つにつれて私の中の巨人軍の存在が大きくなってきます」と語ってくれたのは宮崎市の吉村町のスポーツ用具店を経営している田中耕一郎氏(37年~40年、投手、40歳)であった。今も多摩川道場で学んだ礼節を毎日の生活の根幹にすえているという。少年野球を指導しているのも、ほかの多くの在郷軍人と共通している。「川上さん、武宮寮長の精神教育を少年たちに伝えています。勝つことを目的として入団した巨人軍でしたが、勝ち負けから遠く離れた多摩川での練習の明け暮れで学んだ精神と指導を子どもたちにぶっつけ、逆に野球は勝つことではないということも教えています」という。そのような毎日でひそかな宝物となっているのが一つの電気剃刀である。それはホームラン賞で王貞治からもらった品であった。当時はまだ電気剃刀が珍しいこ頃で一軍選手の土井選手も欲しがっていたが、王貞治は「今回は田中と約束していたから田中にあげよう」と言って渡してくれた。別にまえもって約束していたわけではない。髭の濃い田中は、巨人軍をやめて故郷に帰ったあとも、この電気剃刀をとり出して頬にあてた。

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大倉英貴

2023-11-04 13:49:01 | 日記
1973年
トレード候補にあがるなど去就が注目されていた阪神の大倉英貴内野手(29)は十一日、大阪・梅田の球団事務所で奥井球団課長(戸沢社長代理)と話し合い、任意引退に決定。大倉は母親が広島で一人住まいしており「めんどうをみなければならないので広島に帰りたい」と退団を申し入れ、球団側も了承し、任意引退にすることに決まった。しかし、大倉は広島でプレーするには支障なく、もし広島東洋カープからトレードの申し込みがあれば、球団は応ずる方針を取っている。

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小泉泰重

2023-11-04 11:36:48 | 日記
1984年
都内の中野区に住んで、現在はKKクリオンオーディオの商品センター長をつとめている小泉泰重氏(昭和51年から昭和53年まで在籍、外野手、二十九歳)は、「最初は営業に入ってやっていけるかなと思ったんですが、裸の小泉だと考え実力でセールスしてきたおかげでセンター長という要職につくことができました」と言っていた。小泉氏は城西高の出身で、浪人中に入団テストを受け、二百七十一人中たった一人合格したというひとである。芸能人のヒデとロザンナの野球チームで試合していたが、遊び半分にテストを受けたところ柵越えの打球を幾本も飛ばして眼をつけられたという。同期のドラフト組には中畑選手や篠塚選手がいた。入団してみると一年さきに同年齢の西本投手が、同じくテスト生としてはげんでいた。「西本とは仲が良かったです。西本は仲間があまりできないのですが、ぼくの部屋によく来て、互いにドラフトの奴らにはぜったいに負けたくないと励まし合った。そのためには連中よりずっと多くの練習を繰り返すことだ。おれたちは雑草なんだとよく話し合いました。腹立たしかったこともあります。ファームの試合で関根さんから今日、長島監督が見に来るから篠塚と変わってくれと言われたときです、私は前日の試合でヒットを打っていたし、監督にいいところをみせようと思っていた。ドラフト組になぜ負けなきゃいけないのか。私はこんなときじっと我慢しました。西本なんかは監督にグラブを投げつけていましたね。かれも、一軍の監督が見に来るからというので定岡投手と交代を命じられたことがあります。巨人軍をやめるとき私の部屋の絨毯をとったらバットを素振りしていた場所は畳がすり切れていましたよ」いま活躍中の西本投手の初心を見るようである。小泉氏は三年間在籍して一軍には一度もあがれなかったが、悔いはないという。やめるとき西武から誘いがあったが断った。高校時代の同級生の和子さんと結婚。いまの会社に入ってセールスを始めた。優秀な先輩たちに負けないため、「巨人軍時代の鍛錬を思い出して」新規開拓に努力して実績をあげたという。いま小泉氏は、「実社会は数字が正当に評価されるからありがたいようなものです。子ども(現在二歳)が大きくなったら言ってやりたい。一つのことをとことんやって、ひとに負けるな。負けても悔いを残すな。遊ぶときは遊び、やるときはやれってね」と言っている。

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島田雄二

2023-11-04 11:00:25 | 日記
1984年
東映から巨人軍に入団した経歴を持つ島田雄二氏(41年、外野手。49歳)は、都内世田谷区に住みKK東京食肉市場の大動物販売課長をつとめている。熊本工高卒業で川上元監督の後輩にあたっていたが、「外様として入団して行くと、巨人軍のカラーになじみにくいです。競争が激しく、伝統の重圧もあり、練習がきつくてなかなか肉体的についていけなかった。川上さんの後輩というのも重圧だった。移籍した年の七月、神宮でサンケイと対戦し、二死満塁の場面でピンチヒッターに出された。ピッチャーはアンダースローの鈴木皖武投手でした。そのとき、三振してしまい、試合は負けてしまいました。すぐに私は二軍に落とされ、それから退団するまではほとんど二軍生活でした。しかし、巨人軍のユニホームを着ることができたのは大変な光栄だと思っています」と語っていた。

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大隅正人

2023-11-04 10:40:53 | 日記
1967年
静岡県三島高時代は「投手で四番」文字どおりのワン・マンだった。王者はいつでも巨人狂が多い。この大隅も少年のころから野球イコール巨人と思っていたほどの、巨人気違いだったそうだ。それに拍車をかけたのは、一昨年のサッポロビール入社。世田谷区玉川奥沢町の寮から、巨人・多摩川グラウンドまでは、ランニングで行くならわずか十五分足らず。超がつく巨人狂になるのは、時間の問題だった。だから八日の入団発表の席上では「一生懸命やらなければいけないと思った。そして涙が出るほどうれしかった」という。下半身が弱い、カーブが甘いという声が多い。これでは高校ではわがもの顔でかっ歩してきたこと。サッポロ入社わずか二年目という経験不足などからきているものなのだろう。しかしスリークォーター気味から、左腕特有の右打者のヒザ元に食い込む速球に魅せられたスカウトも多い。未完成ながら将来性にあふれた投手ーこれが巨人スカウトの一致した大隅評だった。過去、サッポロビールからは好投手が巣立っている。北川(国鉄ー巨人コーチ)、高橋栄(巨人ー南海)、城之内(巨人)、佐藤(東京)ら。しかし「大隅とはケースが違う」というのはサッポロビール高橋監督。前者がいずれも、すでにノンプロの完成品としてプロ入りしたのに比べ、この大隅だけは未完成のままプロ入りすることを指摘しているのだ。五球のうち一球は目を見張らすようなすばらしいタマを投げるが、これを大隅がいかに早く二球、三球、そして五球にするかが、課題となるだろう。サッポロでは先輩角谷がいたため控え投手。登板はそれほど多い方ではなかった。それがこんなに早くプロにマークされるようになったのは、強いチームに臨むと、めっぽう力を発揮したからだ。練習試合では2点台の防御率が三大大会では実に1.32。オープン戦ではあったが、日本石油、熊谷組を完封したこともある。「プロの世界は甘くないと思いますが、どんなに練習でたたかれ、下積み生活が長くてもヘコタレぬ自信だけはある」という大隅。北川、城之内の先輩に見守られて努力すれば、案外早く一線級にのし上がってくるかもしれない。181㌢、70㌔、左投げ、左打ち、20歳。


巨人・内堀スカウト 即戦力というわけにはいかないが、実にいい素質を持っている。からだがまだまだひよわな感じがするが、うんと走らせて下半身を鍛えれば一人前だ。いまでもときたまハッとさせるようなすごい速球を投げるが、それがつづかない。貴重な左腕の本格派だけに大事に育てたい。本人が努力すれば、一流投手に成長すると思う。ともかく楽しみな選手ですよ。

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