プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

金島正彦

2023-11-23 15:38:19 | 日記
1974年
十五日、大人に仲間入りしたなかに川崎市・菅のよみうりランドで自主トレを始めた巨人の金島正彦内野手の顔もあった。テスト生で巨人に採用され、正式に一員になったのが昨年のドラフト会議だった。足かけ三年目でつかんだ57の背番号。金島にとって数字の重さなど気にもならない。「野球をやれるだけでいいんです。」-。成人の日、晴れて一員と文字通り金島にとってはスタートである。午前だけのトレーニングを終えた選手たちが昼食をすませたとたん、食堂の扉がピタリと閉ざされた。扉越しに鈴木ランニングコーチの大きな声がひびいてきた。「小林、罰金五百円、西村も同じ」-。名前をあげられた選手の小さな返事が、すぐ同僚の大きな笑声にかき消される。のっけから鈴木ランニングコーチの雷。罰金を取られた理由は、約束違反だった。正月休暇で選手が帰る前、全員、ハカリの上に乗っている。「のんびりすごせば体重が増える。休みといえどもトレーニングは欠かすな」というわけだ。名前をあげられた小林が3㌔減、西村が逆に2㌔も増えていた。やせたのは不摂生とみられたのか、それが五百円の罰金の対象になった。鈴木コーチのユーモアをまじえた話が終わると、金島はホッと胸をなでおろした。正月休暇中、金島は神奈川県・茅ヶ崎の海岸で走り込んできた。ハカリは合宿を出るときと、ピタリ同じだった。「ボクなんか、遊んでいる身分じゃありませんヨ。やっと半人前なんですから…」テスト生で巨人に採用されたのが一昨年の十月、昨年十一月二十日のドラフト会議でリストアップされるまで背番号なし。むろんメンバー表にも載せてもらえず、金島がいうとおり半人前だった。武相高時代の堅実な守備とシャープなバッティングは関東では光っていた。ところが、専大に入って一年でやめている。「大学野球は肌に合わなかった」というが、それ以上に、あこがれていたプロの希望が強かったのだろう。中尾ピッチングコーチの紹介で巨人入り。昨シーズンはタマ拾いなど一軍の手伝いのまま終わっている。同じ選手でありながら、イースタン・リーグの試合にも出られない。何度、背番号のついたユニホームにあこがれただろうか。ドラフト会議の翌日、新聞に「内野手、金島正彦、19歳」の名前が載ったとき飛びあがった。「57番」-正式にもらった背番号である。ミーティングの後、同僚の板東、庄司、新谷とならんで立った。「成人式おめでとう」-。国松二軍監督の音頭で、温かい拍手と祝いの言葉を受けた。「成人式といっても…。きょうはこれから午後十時まで合宿の電話当番なんですヨ。好きな野球をできるんですから、何もいうことはありません」月給も八万円から二万円アップした十万円になった。「鶴見に住んでいる家族が十九日集まって入団祝いと成人式を兼ねて祝ってくれるんです。すぐ一軍といかなくても早く一軍のレベルになりたい」-。笑った顔にはまだ幼さが残っていた。

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高須正美・大西忠

2023-11-23 15:21:40 | 日記
1970年
九日のプロ野球ドラフト会議で土浦日大高の高須正美一塁手(18)と大西忠中堅手(17)の二人がともに阪急から指名された。高須選手は身長1㍍78、体重80㌔、左投左打で、パンチ力と足が早く、練習試合を含めてここ一年間に三十数本のホームランを飛ばしている。千葉県佐原市新島中学出身で、同中学の先輩にはロッテの市原明選手がいる。大西選手は堅い守備と打撃を買われたもので、身長1㍍75、体重73㌔で右投右打。三年間の公式試合に四割二分の高打率をマークしている。日立市立泉ヶ丘中学出身。二人とも成績がよく日大文学部に進学する予定でいたが、阪急からは十三日に入団交渉に来るというので、それまでに父兄や野球関係者と話し合って態度を決めるといっている。

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永本勲二

2023-11-23 15:04:52 | 日記
1964年
昨年の呉キャンプでのこと。ひょろっとした高校生が柚木二軍監督につれられてテストを受けにきた。呉港高の永本勲二。「コントロールはないけど、とにかく球が速いから…」という鶴岡監督の話で採用になった。それから一年、ことしの呉キャンプで中原ピッチング・コーチからカーブの投げ方を教えられた永本は急速に腕をあげファームのエースにのしあがった。ウエスタン・リーグで阪神との優勝決定戦に敗戦投手となって初黒星を喫して勝率第一位のタイトルを失ったが、9勝1敗。この実績を買われて今度のオープン戦のメンバーに加えられた。「一軍で投げるのははじめてでしょう。やっぱり二軍戦と違って感じが違いますわ。カーブばかり投げましたけど、ストレートが全然低目に決まらないんです。いつもはあんなことないんですがね。だけどカーブには自信があるんです」内角には低目、外角には大きく流れるカーブは確かに威力がある。和田、仰木、ロイ、バーマといった老巧な打者も、はじめからカーブを予測していてもものの見事三振したくらだから切れもいい。ところが肝心のストレートは高く浮いてもスピードがない。玉造、高倉に打たれたのもみんな高目の威力のないやつで、低目に決まったというのは四回の仰木のときの1球だけ。そんなことで中原コーチの採点も辛かった。「まだまだや。カーブばかりだったが、あれを意識してコースをかえているのならいいけどどうかな。それよりストレートが低目に決まらないのだからまだ時間が必要だ」ファームのエースもちょっと雰囲気にとまどったが、南海の若手には合田というカーブ投げの名人がいる。永本がこの合田に追いつくにはもう少し経験を積まなければならない。

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緋本祥男・稲垣正夫

2023-11-23 09:29:45 | 日記
1964年
東映は寺田陽介、稲垣正夫両内野手と緋本祥男、渡海昇二両外野手の四人を自由契約選手にすることが七日決定、京橋の球団事務所で田沢代表からそれぞれ個別に申し渡された。寺田、渡海の両選手の就職は未定だが、緋本は奥さんの父親が経営する電話工事の会社を手伝うことになっている。また東映本社の出向社員だった稲垣は、東映本社に戻り社員として再出発する。これは第一次整理選手として自由契約になったもので、十六日行われるパ・リーグ理事会でらいシーズンの選手のワクが討議されるので、その結果いかんでは第二次整理選手がでるかもしれない。

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嵯峨山幹雄・山下皓

2023-11-23 08:42:03 | 日記
1964年
さる十一月三日、甲子園球場で新人テストを行ったがそのうちから嵯峨山幹雄投手(18)(神戸若葉学園中退)と山下皓外野手(18)(山口県長門高)の二人の選手採用がきまった。なお、あと三人がキャンプ・テスト生として採用される予定。

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山下皓

2023-11-23 08:36:20 | 日記
1964年
阪神タイガースの新人テストが三日午前十一時から甲子園球場に二十五人のテスト生が参加して行われた。参加選手は遠いところで西は山口、東は東京が一人ずつあったていど、異色選手はことし十月東京を退団した清水投手ぐらい。ほとんど近郊の者ばかり。藤本監督も早くから姿を見せ無心に観察。河西スカウトがリーダーとなり白坂、古川、梅本三コーチの見守る中、午前の走力テストからさらに投手、野手に分かれてそれぞれテストを行ない、ふるいにかけた結果、山口県長門高の山下皓捕手(18)=1㍍78、80㌔=をはじめ、野手二、投手六の計八人が午後の二次選考に戻り、再びピッチング、バッティングの重点テストを行った。そのあと河西スカウトと各コーチが慎重に協議した結果、野手二、投手三の計五人に一応の合格点をつけ戸沢社長に採用方を申し入れた。なお最終決定は藤本監督ら各コーチがもう一度話し合い、本人の了解を得てから近日中に正式発表される。


河西スカウトの話 時期的にもおそいし、これほど情報網が行きわたってきては昔のような無名の掘り出しものということはむずかしい。ここ二年ほどウチはテストをやっていないので、またはじめようということになった。人数も質もだいたい予想していたていどだったが、体格の面では比較的いいのがそろっていた。とくに目立った選手といえば、長門高の山下君ぐらい。大洋からの誘いもあったというが、きょうのテスト生のなかではよかった。体格はいいし、捕手というポジションだけに採用候補の一番手だろう。

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