1973年
ノンプロのドラフト男がその異名にピリオドを打った。近鉄に三位で指名された倉レ岡山の上林成行投手(24)=国府高-法大中退。179㌢、78㌔、右投げ右打ち=。四十二年、南海六位指名を皮切りに四十三年、広島九位、昨年は太平洋が四位にランクした文字通りドラフトの常連。幸か不幸か、今年は、倉レ野球部の解散が決まり、晴れて?プロのユニホームを着ることになった。が、上林君、なぜか、うかぬ顔である。「ハイ、そうなんですよ。会社から好きなようにしろとは、いわれていますが…」日本列島をスッポリ包んだ突然の石油危機…。ビニロン、人絹、ポリエステルの大手、倉レに影響がないわけではなかった。二十四日、うすうす感じてはいた。最悪の事態がやってきたという。「上層部から、野球部を解散すると、話があった。そのときの説明では、今度の石油危機は、直接関係ないということでした。でも、ないわけがないですよね。ショックでした」岡山工場加工技術部実験室が上林君の所属。新製品の開発から、テスト、受注先のクレームに対処する試験室でもある。原料の石油危機に敏感な反応を示す知識は、十分すぎるほどに持ち合わせていた。前後してのドラフト指名…。「腕の内で、考えてはいたが、プロ入りの決心は、つけていなかった」そうだ。文句なしの一流企業、働きやすい職場だけに、上林君のショックは、大きかったのだろう。「正直いって、プロに行く自信はなかった」と、これまでの経過を振り返る。上林君のいう自信は、自分の能力ではなく、プロ野球のいいかげんな姿勢にあったようだ。愛知県国府高時代の四十二年、南海がドラフト六位に指名。とても、プロ野球など、考える時期ではなかった。時習館高に次いでの「進学高」だけに、上林君も目標の進学に力を注いだ時代だ。受験に失敗した四十三年は、人並み?の浪人。ところが、ろくにボールも握らない上林君を広島が九位とはいえ指名してきた。「いったい、どういうつもりなのか」とプロに対する不信が沸いてきた。練習どころではない浪人生活。戸惑いと不信以外の何ものでもなかったという。四十四年、ひとまず、法大に合格したが、「家庭の事情」から中退のコースをたどった。そのとき、温かい手を差し伸べてくれた先輩によって、倉レ岡山への道が開けた。一生骨を埋めるつもりで入社したものの、六位の素質は、岡山のマウンドに立って開花していった。四十七年の都市対抗、産業対抗、中国大会、大阪大会…。もはや、押しも押されぬエースに成長していた。すかさず、太平洋がねらい撃ちの四位指名。それでも上林君は、プロへ行く気はなかった。このままいけば、倉レにとどまるはずだったが、好むと好まざるにかからわず、評価を高めるプロ野球。そこへ突然の解散が、重なって、ついて、プロへの気持ちに、固まってきた。「中学のときにオヤジを亡くしています。オフクロには心配のかけ通しなので、親孝行もしなければ…」とあって、二十九日、近鉄・中島スカウトに会った。受験失敗から浪人、プロへの不信感、野球部解散と、あまりにも苦い心を揺さぶる出来事が続いてきた。「でも、僕はまだ二十四歳。人の一生は、いろいろなことがありますよね。今度のことも僕は、飛躍する一つの転機という解釈をしているんです。近鉄の条件が納得出来れば、プロのユニホームを着ることになるでしょう」ドラフト男といわれた上林君の歩みには、ハプニングがついてまわった。が、その一つ一つに、ぶち当りながら、乗り越えてきた上林君、いま、同僚の声援に包まれて、チャンスをつかもうとしている。
ノンプロのドラフト男がその異名にピリオドを打った。近鉄に三位で指名された倉レ岡山の上林成行投手(24)=国府高-法大中退。179㌢、78㌔、右投げ右打ち=。四十二年、南海六位指名を皮切りに四十三年、広島九位、昨年は太平洋が四位にランクした文字通りドラフトの常連。幸か不幸か、今年は、倉レ野球部の解散が決まり、晴れて?プロのユニホームを着ることになった。が、上林君、なぜか、うかぬ顔である。「ハイ、そうなんですよ。会社から好きなようにしろとは、いわれていますが…」日本列島をスッポリ包んだ突然の石油危機…。ビニロン、人絹、ポリエステルの大手、倉レに影響がないわけではなかった。二十四日、うすうす感じてはいた。最悪の事態がやってきたという。「上層部から、野球部を解散すると、話があった。そのときの説明では、今度の石油危機は、直接関係ないということでした。でも、ないわけがないですよね。ショックでした」岡山工場加工技術部実験室が上林君の所属。新製品の開発から、テスト、受注先のクレームに対処する試験室でもある。原料の石油危機に敏感な反応を示す知識は、十分すぎるほどに持ち合わせていた。前後してのドラフト指名…。「腕の内で、考えてはいたが、プロ入りの決心は、つけていなかった」そうだ。文句なしの一流企業、働きやすい職場だけに、上林君のショックは、大きかったのだろう。「正直いって、プロに行く自信はなかった」と、これまでの経過を振り返る。上林君のいう自信は、自分の能力ではなく、プロ野球のいいかげんな姿勢にあったようだ。愛知県国府高時代の四十二年、南海がドラフト六位に指名。とても、プロ野球など、考える時期ではなかった。時習館高に次いでの「進学高」だけに、上林君も目標の進学に力を注いだ時代だ。受験に失敗した四十三年は、人並み?の浪人。ところが、ろくにボールも握らない上林君を広島が九位とはいえ指名してきた。「いったい、どういうつもりなのか」とプロに対する不信が沸いてきた。練習どころではない浪人生活。戸惑いと不信以外の何ものでもなかったという。四十四年、ひとまず、法大に合格したが、「家庭の事情」から中退のコースをたどった。そのとき、温かい手を差し伸べてくれた先輩によって、倉レ岡山への道が開けた。一生骨を埋めるつもりで入社したものの、六位の素質は、岡山のマウンドに立って開花していった。四十七年の都市対抗、産業対抗、中国大会、大阪大会…。もはや、押しも押されぬエースに成長していた。すかさず、太平洋がねらい撃ちの四位指名。それでも上林君は、プロへ行く気はなかった。このままいけば、倉レにとどまるはずだったが、好むと好まざるにかからわず、評価を高めるプロ野球。そこへ突然の解散が、重なって、ついて、プロへの気持ちに、固まってきた。「中学のときにオヤジを亡くしています。オフクロには心配のかけ通しなので、親孝行もしなければ…」とあって、二十九日、近鉄・中島スカウトに会った。受験失敗から浪人、プロへの不信感、野球部解散と、あまりにも苦い心を揺さぶる出来事が続いてきた。「でも、僕はまだ二十四歳。人の一生は、いろいろなことがありますよね。今度のことも僕は、飛躍する一つの転機という解釈をしているんです。近鉄の条件が納得出来れば、プロのユニホームを着ることになるでしょう」ドラフト男といわれた上林君の歩みには、ハプニングがついてまわった。が、その一つ一つに、ぶち当りながら、乗り越えてきた上林君、いま、同僚の声援に包まれて、チャンスをつかもうとしている。