想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

愛し (在りし日より)

2013-08-09 17:20:26 | Weblog
愛しは「かなし」と詠む、それを思い出した。
この長く続き、この先も果てなく続きそうな涙の理由が腑に落ちない。
悲しくはないのに涙につられて悲しくなる…。

古語の「かなし」に漢字は愛を当て、さらに近代になってlove を
愛と訳した。やまとことばの愛、かなしは仁に近く、いとしい。
かなしの底には恵が流れているんだった。



人は悲しみだけで涙を流すのではない、知っているはずのことだったのに。
頭ではなくまるごと全体で教わっている日々、ぷ~ちゃんに。
ベイビーの写真を目にして自然に溢れる涙、何かと似ている…何だ?
いや似ているんじゃなくて同じだと気づくのに時間がかかった。
人間の業であるよ(うさぎが下手に頭を使うと…コケる)

瞑想を、深く深く降りていき、静まっていく。
丸い器の底に座っているような横たわっているような、でも
輪郭もないわたし、わたしであってわたしも消えていって、
ただじっとしていると、ふわっと温かく、熱く、包まれていく。
そのままいると涙がこみあげてくるのだ。
涙を感じて意識が目覚める。
目覚める直前の、その時の熱いものはぷ~ちゃんを目にしたときの
溢れる思いにとても似ているのだった。
神に祈るときの感覚に似ている。

地神(くにつかみ)のなかに融けていったぷ~ちゃんは
融ける前も今もほんとは変わりないものだった。
黒い毛皮に包まれた純真のかたまり、神さんだった。
その愛くるしい瞳に見つめられて、わたしの俗悪さは少しづつ
剥がれ落ち、代わりに神さんの恵みをたくさん教えてくれた。
楽しいことをたくさん知った。
生きること、ただ生きること、その喜びが伝わってくるのだった。

人の生きる歓びは神からいただくものと物質的な所有する喜びと
二つあって、その違いは歴然としている。
後者はうたかた、神の恵みの方は常なるもの、不変であることと、
さらにいえば目に見えず、私物化(占有)とは無縁のものだ。



君の写真を見れば思い出よりも先に、君の愛と共振した魂が震え、
それは熱い涙になって溢れて止まらない。おバカなわたしの脳が
それを悲しみと勘違いしたってことだ。
失って悲しいなどと考えてはいないのに何故自分は泣くのか?と
訝りながら涙は止まらなかった。複雑で疲れるばかりだった。
単純に、涙は涙を誘うから。

脳への刷り込みは涙=悲しみ、これに振り回されなくなったから
ダイレクトに君のぬくもりに包まれることができる。
涙はにじむけれど、泣いたりはしない。
おかげで寝付きがよくなったし、からだも軽くなってきた。



バラも、バラの木の下に小さな花をつけた名前を知らない草も
半野良の江戸ちゃんも、みんなヒトよかかわいい。
生きていることをそのまんま受け取ってただ生きている命だ。
そのことを一番最初に教えてくれたのがぷ~ちゃんの放つ無垢
の輝きだった。
ブンブンブン、ありがとうぷ~ちゃん。
それにしても、かわゆいね~
よけいなものがな~んもないね~






コメント (2)
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