「漱石の思い出」
(夏目鏡子述、松岡譲筆録 文春文庫)
の中に「二人の雲水」という
エピソードがある。
雲水は神戸の禅寺、祥福寺で修行中
の若者で、漱石の熱心な愛読者
である。
だがちょっと変わった読者なのだ。
漱石の小説には変わり者がよく
出てくるがこれは実生活での話。
小説のタネにはならなかった。
ちょうど漱石が未完の遺作「明暗」
を朝日新聞に連載中の頃のことである。
亡くなる2年ほど前から手紙の
やりとりが始まり、亡くなった年の
初秋の頃、漱石を頼って雲水二人は
東京見物に来る。
行きたいと言ってくれば、ではうち
に泊まれと受け入れるべく夫人に手紙を
見せて了解をとりつけるのだから、
漱石はよほどこの若者を気に入って
いたのだ。
その理由が鏡子夫人の言葉で語られている。
雲水は漱石に請われるままに僧坊生活の
あれこれを話す。
雲水にはごく普通のことだが、漱石にも
夫人にも大受けで笑いをとった。
そのいくつかが書かれていてなかなか
面白い。
そしてそれが面白いのは話している当事者の
人柄が滲み出ているからなのだった。
中でも臘八接心の後の甘酒用丼の話に
笑わされる。
そして最期にまた、その丼を手に入れたは
いいが、悲しみに町中をおろおろ
歩きまわる雲水のことが夫人によって
語られる。
天国から地獄いや極楽浄土から地獄
である。
秋には東京で尊敬する漱石先生と
夢のような時を過ごし冬が来て12月、
禅道修行の難関、臘八接心に臨み、
気力体力ともに充実していただろう。
昼夜をまたいで座禅し続け八日が明け、
さあっと喜びに町へ出た。
夜には接待の甘酒がいただける、
漱石先生宅で話したように大きめの丼で
いただこうと買いに出たのだった。
この無邪気で単純でまっすぐな若者を
漱石は愛し、こころゆくまで可愛がり、
そして彼らと別れて一月も立たない
うちに床に伏した。
まるでこの世で最期のごほうびの
ような時を過ごし、憎悪や遺恨や
恩讐の世俗の垢まみれになった身を
洗い流した後に。
雲水はまるでみほとけの使いのように、
漱石を訪れたのではなかったか。
接心中は世間と遮断されているので
何も知らなかった雲水は、町に出て、
先生危篤を報じる新聞を目にする。
驚きはいかばかりだったろう。
ついこないだ一緒に食事をさせて
いただき、その声を聞き、一緒に
笑っていた先生だ。
東京は遠く、また山門の内へ帰らねば
ならない身だ。この悲嘆をどう納めれば
いいのか、雲水の身であっても
沈思黙考などできず、足を止めれば
身体の震えが止まらなくなりそうで
大きな丼を抱え、ただ歩き続けた。
何も出来ないのだった。
翌九日に漱石は亡くなった。
そしてすぐに夏目家に雲水から弔電が
届いた。
漱石は明暗を書き始めた頃から、
1回分の原稿を午前中に終えてポスト
へ出しに行き、午後から夜にかけて
漢詩を作るのが日課になっていたそうだ。
漱石曰く、「小説ばかり書いていると
頭が俗になってたまらないから」
だそうだ。
雲水は禅僧らしく、電報には碧巌録に
ある言葉を書いてよこした。
「始随芳艸去、又遂落花回」
(始めは芳に随って去り、
また落花をおうてかえる)」
碧巌録にある問答の応えなのだが、
花の香りに惹かれてついつい歩き、
また帰り道は道を染めた花びらの
美しさに目を引かれて戻ってきた。
何も考えず、ただ自然を愛で喜び
生きる心地、邪念のなさを表し、
俗世の欲から離れ悠々としている
ことを言ったものだ。
もう一人の雲水も漢詩を贈り弔った。
「野火焼不尽、春風吹又生
(野火焼けども尽きず春風吹いて又生ず)」
読んで字の如し。
「漱石の思い出」には野火ではなく
野花になっているが、原典は野火である。
野火が野原を焼き尽くしてもまた
春になれば芽吹いてくるという意味
である。自然は巡り、命は繰り返し
尽きることはない。そのように
あるがままにしたがって生きることを
詠ったものだ。
前者は漱石が好んで書画に書いた
句で、夫人は感慨深いものがあった
と語っている。
二人は雲水らしく、まるで漱石の
本願を知っていたかのような言葉を
選び、最期の文通を終えた。
話は戻るが大都会と名所を満喫して
神戸へ戻った二人へ、漱石は手紙
を書いていた。
「貴方がたは私のところに集まって
来る若い人たちよりよほど尊い人たち
です。ありがたい人たちです。
私のところへ集まる人たちも、私さえ
もっとえらければどうにかなるのだ
ろうがななどと感じ…」と。
私さえもっとえらければの、えらい
という意味は、俗世の価値ではなく、
清さ、尊さの徳であるだろう。
小説はまるごと俗世間と人間を描き、
その汚濁に埋もれた玉のような何か
を作家は探しだして書こうと呻吟し、
現実にはない嘘もつかねばならない。
常日頃、周りで目にする気持ちの
悪いものを小説に書いて仇討ちをし
心身のバランスをとって処世していく、
そういう生き様だった。
貴方がたは尊い人ですと雲水に
書いた漱石が欲したのは真心で、
そして雲水のように天とともにある
ことを渇望しながら矛盾に悩み、
苦しみ、そして闘ったのだった。
人はえらくなると周囲が賑やかになる。
えらくなる、とは意味が色々あって
やっかいだ。
有名になり、金持ちになり、名誉な
職につく、の三つがセットでえらい
なのかもしれない。
そこに聖人の尊さは含まれないのが
現代である。
ところが漱石が望んだ「えらさ」は
聖にあった。俗世間の栄達でないことは
博士号を断ったことも、いやその前に
東京帝大を辞し小説家一本に絞った
ことにも現れている。
(いや朝日新聞に職を得たでは
ないかといっても、当時の朝日は
新興の一民間企業に過ぎず、帝大の
権威と生涯保障とは比較にならない)
そして、えらい人の元へ寄ってくる人は、
そのえらさをどこに見いだしているかで
分かれる。弟子同士の派閥もそこに
生じるのだろう。漱石の木曜会の面々は
どうだったろうか。
わたしの好きな内田百閒も芥川も木曜会
では新参者で下っ端であった。
その下っ端でも先生は目をかけてくれた、
それが漱石先生で先生のすることに腹の
中であれこれ異議を唱えながら手もみ
していたのが寺田とか小宮とかいう人々
であったようだ。
いずれにしろ先生のおかげで世に出た
人々なのだが、そのために弟子入り
するのだという考えが世間の常識だから
どうしようもない。
しかし、師弟とはそのような利害とは
無関係でなければ、本来は道に外れる
のである。
学者や物書きが集まって、そのような
簡単なことも外してしまうのだから、
「みんなそれぞれおできになる世間
なみにはりっぱな方々ではありますが…」
と鏡子夫人に言わせてしまうのである。
師の光栄に預かろうとしないでそばに
いる弟子は少ない。その人そのものを
好きで尊んでそばにいようというのでは
ないならば、寄ってこられる側の人は
寂しくもあり、また煩わしくもある。
だが真ん中にいる人はそれを呑み込み
耐えている。
周囲は気づこうとしないし、また
囲まれて喜んでいると勝手な誤解をして
自分を許している。
こういう俗な人間関係に、鈍感では
なかった漱石を感じ取り、誰よりも
わかっていた鏡子夫人は、悪妻では
なく、夫に似た妻ではなかっただろうか。
漱石没後100周年、早いものだが、
なんとまあ漱石の予言と希望の通りに
100年後に派手派手しく華やかになった。
「漱石山房記念館」なるものが
来年オープンする。(遅すぎるが)
百年の歳月に耐える作品を創ることを
早々に宣言した作家の面目躍如だ。
いや、そんな小さなことはもうどう
でもいい、そういう域へ
漱石先生は行ってしまわれただろうなあ。
漱石と言えば猫なので、猫で締めます。
いや、これは犬。
これよりずいぶん育って大きくなっても
家出もせず居座っている。
(夏目鏡子述、松岡譲筆録 文春文庫)
の中に「二人の雲水」という
エピソードがある。
雲水は神戸の禅寺、祥福寺で修行中
の若者で、漱石の熱心な愛読者
である。
だがちょっと変わった読者なのだ。
漱石の小説には変わり者がよく
出てくるがこれは実生活での話。
小説のタネにはならなかった。
ちょうど漱石が未完の遺作「明暗」
を朝日新聞に連載中の頃のことである。
亡くなる2年ほど前から手紙の
やりとりが始まり、亡くなった年の
初秋の頃、漱石を頼って雲水二人は
東京見物に来る。
行きたいと言ってくれば、ではうち
に泊まれと受け入れるべく夫人に手紙を
見せて了解をとりつけるのだから、
漱石はよほどこの若者を気に入って
いたのだ。
その理由が鏡子夫人の言葉で語られている。
雲水は漱石に請われるままに僧坊生活の
あれこれを話す。
雲水にはごく普通のことだが、漱石にも
夫人にも大受けで笑いをとった。
そのいくつかが書かれていてなかなか
面白い。
そしてそれが面白いのは話している当事者の
人柄が滲み出ているからなのだった。
中でも臘八接心の後の甘酒用丼の話に
笑わされる。
そして最期にまた、その丼を手に入れたは
いいが、悲しみに町中をおろおろ
歩きまわる雲水のことが夫人によって
語られる。
天国から地獄いや極楽浄土から地獄
である。
秋には東京で尊敬する漱石先生と
夢のような時を過ごし冬が来て12月、
禅道修行の難関、臘八接心に臨み、
気力体力ともに充実していただろう。
昼夜をまたいで座禅し続け八日が明け、
さあっと喜びに町へ出た。
夜には接待の甘酒がいただける、
漱石先生宅で話したように大きめの丼で
いただこうと買いに出たのだった。
この無邪気で単純でまっすぐな若者を
漱石は愛し、こころゆくまで可愛がり、
そして彼らと別れて一月も立たない
うちに床に伏した。
まるでこの世で最期のごほうびの
ような時を過ごし、憎悪や遺恨や
恩讐の世俗の垢まみれになった身を
洗い流した後に。
雲水はまるでみほとけの使いのように、
漱石を訪れたのではなかったか。
接心中は世間と遮断されているので
何も知らなかった雲水は、町に出て、
先生危篤を報じる新聞を目にする。
驚きはいかばかりだったろう。
ついこないだ一緒に食事をさせて
いただき、その声を聞き、一緒に
笑っていた先生だ。
東京は遠く、また山門の内へ帰らねば
ならない身だ。この悲嘆をどう納めれば
いいのか、雲水の身であっても
沈思黙考などできず、足を止めれば
身体の震えが止まらなくなりそうで
大きな丼を抱え、ただ歩き続けた。
何も出来ないのだった。
翌九日に漱石は亡くなった。
そしてすぐに夏目家に雲水から弔電が
届いた。
漱石は明暗を書き始めた頃から、
1回分の原稿を午前中に終えてポスト
へ出しに行き、午後から夜にかけて
漢詩を作るのが日課になっていたそうだ。
漱石曰く、「小説ばかり書いていると
頭が俗になってたまらないから」
だそうだ。
雲水は禅僧らしく、電報には碧巌録に
ある言葉を書いてよこした。
「始随芳艸去、又遂落花回」
(始めは芳に随って去り、
また落花をおうてかえる)」
碧巌録にある問答の応えなのだが、
花の香りに惹かれてついつい歩き、
また帰り道は道を染めた花びらの
美しさに目を引かれて戻ってきた。
何も考えず、ただ自然を愛で喜び
生きる心地、邪念のなさを表し、
俗世の欲から離れ悠々としている
ことを言ったものだ。
もう一人の雲水も漢詩を贈り弔った。
「野火焼不尽、春風吹又生
(野火焼けども尽きず春風吹いて又生ず)」
読んで字の如し。
「漱石の思い出」には野火ではなく
野花になっているが、原典は野火である。
野火が野原を焼き尽くしてもまた
春になれば芽吹いてくるという意味
である。自然は巡り、命は繰り返し
尽きることはない。そのように
あるがままにしたがって生きることを
詠ったものだ。
前者は漱石が好んで書画に書いた
句で、夫人は感慨深いものがあった
と語っている。
二人は雲水らしく、まるで漱石の
本願を知っていたかのような言葉を
選び、最期の文通を終えた。
話は戻るが大都会と名所を満喫して
神戸へ戻った二人へ、漱石は手紙
を書いていた。
「貴方がたは私のところに集まって
来る若い人たちよりよほど尊い人たち
です。ありがたい人たちです。
私のところへ集まる人たちも、私さえ
もっとえらければどうにかなるのだ
ろうがななどと感じ…」と。
私さえもっとえらければの、えらい
という意味は、俗世の価値ではなく、
清さ、尊さの徳であるだろう。
小説はまるごと俗世間と人間を描き、
その汚濁に埋もれた玉のような何か
を作家は探しだして書こうと呻吟し、
現実にはない嘘もつかねばならない。
常日頃、周りで目にする気持ちの
悪いものを小説に書いて仇討ちをし
心身のバランスをとって処世していく、
そういう生き様だった。
貴方がたは尊い人ですと雲水に
書いた漱石が欲したのは真心で、
そして雲水のように天とともにある
ことを渇望しながら矛盾に悩み、
苦しみ、そして闘ったのだった。
人はえらくなると周囲が賑やかになる。
えらくなる、とは意味が色々あって
やっかいだ。
有名になり、金持ちになり、名誉な
職につく、の三つがセットでえらい
なのかもしれない。
そこに聖人の尊さは含まれないのが
現代である。
ところが漱石が望んだ「えらさ」は
聖にあった。俗世間の栄達でないことは
博士号を断ったことも、いやその前に
東京帝大を辞し小説家一本に絞った
ことにも現れている。
(いや朝日新聞に職を得たでは
ないかといっても、当時の朝日は
新興の一民間企業に過ぎず、帝大の
権威と生涯保障とは比較にならない)
そして、えらい人の元へ寄ってくる人は、
そのえらさをどこに見いだしているかで
分かれる。弟子同士の派閥もそこに
生じるのだろう。漱石の木曜会の面々は
どうだったろうか。
わたしの好きな内田百閒も芥川も木曜会
では新参者で下っ端であった。
その下っ端でも先生は目をかけてくれた、
それが漱石先生で先生のすることに腹の
中であれこれ異議を唱えながら手もみ
していたのが寺田とか小宮とかいう人々
であったようだ。
いずれにしろ先生のおかげで世に出た
人々なのだが、そのために弟子入り
するのだという考えが世間の常識だから
どうしようもない。
しかし、師弟とはそのような利害とは
無関係でなければ、本来は道に外れる
のである。
学者や物書きが集まって、そのような
簡単なことも外してしまうのだから、
「みんなそれぞれおできになる世間
なみにはりっぱな方々ではありますが…」
と鏡子夫人に言わせてしまうのである。
師の光栄に預かろうとしないでそばに
いる弟子は少ない。その人そのものを
好きで尊んでそばにいようというのでは
ないならば、寄ってこられる側の人は
寂しくもあり、また煩わしくもある。
だが真ん中にいる人はそれを呑み込み
耐えている。
周囲は気づこうとしないし、また
囲まれて喜んでいると勝手な誤解をして
自分を許している。
こういう俗な人間関係に、鈍感では
なかった漱石を感じ取り、誰よりも
わかっていた鏡子夫人は、悪妻では
なく、夫に似た妻ではなかっただろうか。
漱石没後100周年、早いものだが、
なんとまあ漱石の予言と希望の通りに
100年後に派手派手しく華やかになった。
「漱石山房記念館」なるものが
来年オープンする。(遅すぎるが)
百年の歳月に耐える作品を創ることを
早々に宣言した作家の面目躍如だ。
いや、そんな小さなことはもうどう
でもいい、そういう域へ
漱石先生は行ってしまわれただろうなあ。
漱石と言えば猫なので、猫で締めます。
いや、これは犬。
これよりずいぶん育って大きくなっても
家出もせず居座っている。