想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

海風とそうめん

2013-07-19 16:56:57 | Weblog

夏の陽に照らされた海原を高速船に乗って渡った。
諸々の因業を飲み込んだ有明海、水俣から天草は対岸にあり、
そして天草から島原へは漁師にとって一またぎのご近所さんだ。
歴史を知らなければ今も美しく豊かな漁場だと思うかもしれない。
海に面したこのあたりのいくつかの観光地で、実際のところ売物は
とれたての海の幸、そして源泉掛け流しの温泉である。

おおらかな土地の空気感に包まれ、何も思わず温泉に浸かっていると
空気も水も魚もこの上なくありがたく美味しい…はずなのだが。
過去に触れずに今を遊んだり楽しんだりすることが許されない場所が
あるのではないだろうか。
すべてをなかったこととして、新たなイメージを創作し来訪者には
ただ楽しんでもらいたい地元にとってはもの思う人など迷惑なだけ
かもしれない。

有明海はチッソによって汚された海だ。
幾多の生命が豊かな海とともに死に、浮かばれない魂を鎮めようと
水俣の海に臨む汚染震源地には地蔵が建てられもした。
有機水銀のヘドロを埋め立てた岸辺は広大な公園となった。
被害者にとっては悲劇、加害者にとっては隠蔽したい過去である。
公園は体よく歴史を覆い隠すのに成功しているだろうか。
十年も経てば植えられた木々が風景を変えてしまう。
被害者は霊魂となり、語部たちの声は断片となっていく。
石牟礼道子さんが情緒あふれる言葉で描写した椿咲く豊穣の海は、
書物の中だけにしかない。
水俣病の歴史はこちらで

漁師たちが天から恵まれた海は今も戻ってはいない。
これから何年経とうともう戻らない。底魚は今も食べられない。
そして漁をして水揚げしても、鹿児島産といって売るしかない。
海原の表層をキラキラと走るように泳ぐ太刀魚はもう大丈夫だからと、
宿の膳を飾る大役を担っている。確かにこれはもう安心らしい。
けれど昔は、チッソ以前はこんなもんじゃなかったんだ、そう知って
いる漁師や地元の人々にしてみれば寂しいことに変わりはない。



熊本から高速船で30分の島原でも魚は豊富ではなかった。
サバを灰干しが名産なのだが、原材料はノルウェー産だ。
そして干物のアジも東シナ海産。
外海からのものでなければ売り物にはならなくなってから久しい。
もうずーっと当たり前の事なのだ。
龍馬が熊本から長崎へ行く途中ここに上陸したのだということを自慢
したほうが魚を売るより人を呼べるらしい。
入り江に建てられた記念碑の前で記念撮影するカップルや家族連れ。

島原外港近くの大きな店で、土産物は魚よりそうめんがイチオシだった。
小麦栽培からやってますからだいじょうぶ!と言う店主の言葉に
苦笑いした。だいじょうぶ…ってここでも念押しする癖が…。
確かに、ホンモノのそうめん、島原は海と活火山の半島、風が吹く。

チッソが垂れ流した工場排水の有機水銀は海の底へ沈みこんだ。
魚が死に、海鳥が死に、海辺に遊ぶ生き物が死に、人が死んだ。
けれど海に吹く風までは奪わなかった。
福島の浜通りの人々に比べれば、それは不幸中の幸いかもしれない。
こんなことで幸いなどというの非業の死と生涯続く病の重さを思うと
とんでもないことなんだが…
そうめんが残ってよかったんだと、ずずずっとそうめんを味わいつつ
考えた。店主のイチオシという言葉に気合いが入るはずだ。

チッソも東電も、ともに国策会社である。
半世紀を隔てて再び大罪を犯し、顛末までよく似て責任放棄。
ミナマタの教訓はフクシマで生かされないのか。
海辺で、見るだけの海というのはなんとも寂しい。
森にいて木々に触れることができないように、穫った魚を秤にかけて
捨てるだけ。補償金が入ればいいってもんではない。
地元ではその話題に触れないのは暗黙の了解、その点も両者とも同じ。
その後もう大丈夫ですかなんてことを何十年経ったら言っていいのか、
真の加害者ではなく寝た子を起こすよそ者の方へ向けられる敵意、
それが悲しいかな現実なのだ。

島原も例外ではなく昔ながらの商店街はシャッター通りになっていた。
寂れた街並みを背に、温泉設備のあるリゾートホテルが新規に開業し、
記憶を持たない客を呼び寄せている。
観光目的でもなく、故あってやって来たわたしのような者は居場所を
みつけるのがけっこう面倒なのだった。お二人様や家族向けプランの
宿ばかりなのだ。海岸から離れた古いビジネスホテルに泊まった。
約束の時間まで浜まで歩いた。
目に映る自然が豊かなことを喜んでいいのか…
妙に動揺したまま、結局のところ記憶を塗り替えることはできなかった。

翌日、雲仙を抜けて橘湾へ車で向かった。小浜温温と美しい浜辺で知られた
千々石海岸がある。
海の色が濃くなった。
養殖場の囲いが波に揺れ、潮の香もこころなしか強い。
ここまでくると魚を食べようかという気になるが、選挙カーの演説
が不景気につけ込んでいるように聞こえて食欲がいまいち湧かない。
小浜マリーナの土産物店でおじさんが「ここだけ、世界でここにしか
ないよ」とタコせんべいを焼いていた。
小さな機械でぺたんと伸したタコをじゅっと焼くだが、見ていると
試食させてくれた。あまりに美味しいので土産に買った。
空腹だったからというのじゃなくて癖になる味、オーガニックな
カッパエビせんみたいなタコせん。

地元産の干物や練り物が冷蔵ショーケースに並んでいる。
過重な包装や真空パックはしていないので回転が早いのだろう。
遠来の客というより近隣からドライブして買いにきたような風景であった。
宅配便でどこへでも送るよと声をかけてくれたが、店の話だと九州産は
遠方へ出荷するようになり、ここんとこ割高だね~だそうだ。
それでも東京のデパ地下で買うより安く、送料を含んでもまだ安い。
買わなかったのは一重に気分の問題で、人の罪深さの気配がまとわりつき
離れないのであった。

以前なら単純に眺めていた風景、今は美しいと思うよりいとおしく思う。
失ってから知る、愚かなことなのだが、恵まれていることを当たり前とは
思えない。いつ失ってもおかしくない危うさをいつも感じている。

海原と陽の下、おいしい空気と放射能からの解放感は久方ぶりだったが、
どこにいても人間の業を思わずにいられない。
どうせ嘆くのなら、森にて憂えるほうがまだマシかと思ったりした。
ぷ~ちゃんの森のほうが優しい気配に包まれているから。





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親離れしない、おぼったま

2013-07-08 01:24:58 | Weblog
それはコイツです。



シマちゃんの孫、江戸ちゃんが以前に産んだ子、どうやら男子です。
おなかが空いたと母ちゃんに甘えにきたところ。

雄は親離れを促されるらしく最後までそばにいる子はどこか不具合が
あったり弱かったりするのです。
以前きていたブチャがそうでした。
このたぬきみたいな顔したボンボンはどっこも悪くもないし、
ニャゴニャゴと悪ガキみたいな声でおっかあを振り向かせようと
しています。最初はカレシ~かと思ったくらいです。

実は、江戸ちゃんが普段よりよく甘えスリスリしてくるのでした。
こちらはあら、ナツイタんだわ、とか思ってうれしがっていました。
そしてオヤツのおかわりをゲット、おなかいっぱいなのにです。
そこへだみ声とともに現れたあの子がおそるおそる縁側へ飛び乗り
江戸の横でお皿に顔をつっこんでも怒りません。
追い払いもせずに譲ったりして、こちらをチラ見しています。

チラ見の目がほそ~くなっていて、よろぴく顔。

食いっぱぐれたこの子にもよろしくということらしいとわかりました。
そのためのスリスリだったか!
一杯食わされたわと思ってもしようがない。
かわいいから。
たぬきみたいな顔のその子もよく見るとハナクソ(と呼んでる斑)が
あります。親子だと仕草でわかります。江戸ちゃんも小さなからだで
一人前なおっかあをやってるんだわと感心したりあきれたり。

半日、ゆったりとふたりで過ごしていきました。
自分たちの巣へゆうゆうと引き上げる江戸ちゃんの後ろからたぬき猫が
ついていく姿がなんともまあおかしくてほほえましい。
平和なひとときでした。

(以上、先週のお話ですわ)

目下、可愛い族抜きで仕事に没頭中…
古伝は1300年以上溯る世界、どこか猫たちの平穏な風景に通じる。

かたや東京で、参院選ポスターに見慣れたおぼったま顔を発見、出馬に
びっくり。なんだか選挙がお祭りみたいになってきてるなあ…
考えてこなかったことを考えてもらうきっかけになるんだろうか。

投票日前にはもちろん帰ってきます。




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