想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ふるごとに学ぶ日々

2014-10-28 01:39:05 | Weblog
ふるごとは、古事あるいは古語とも書かれている。
古事記も旧事本紀もふるごとのふみである。
古代の記録、歴史という括りでは収まらず広く深い。

その中でもっとも重要なことは、言葉、詞の成立と意味
である。
現代語はもやは外国人の言葉のように変わりはてたと
いえるけれども、すべて消え失せたわけではない。

言葉をつきつめると、心である。

古代の人が大切にした、しかしあたりまえでもあった事が
言葉には顕れている。
それは万葉集のより古い時代のものに見ることができ、
古事記や旧事紀の中にも見出すことができる。

ただし、現代語に訳すると、その心は読み取れない。
そのまま、古語のままに詠むことがとても大切だ。
意味がわからないから訳するという「変換」は禁物である。
現代語訳は便利なようで、その実、安物買いの銭失いに
なりかねない、感じ取ることはかえって難しくなる。

猫と話すには猫になり、犬と生きるには犬になってみる、
古代人の声を聴くには同じ言の葉を諳んじてみることが
どんなに大事か、いまさらながらに思う。



「あわれ」を今風の憐れむ、同情という意味に解釈して
はばからない文学者が時々いる。
京大の学者は、「もののあわれ」は本居宣長の発明かの
ように持ち上げすぎている、同じ言葉はもっと古い文献
にも同時代の江戸の黄表紙にも出てきて、男女が情を通じて、
はばかることなきをよきことのように宣長が言っているのは
どうかと思うが、そのようなものである」
と冷静を装いつつ暗にこき下ろしていた。
びっくりすると同時に、非常に気持ちが悪かった。

上の学者が校註した「本居宣長集(但し二作品のみ)」は
小林秀雄「本居宣長」とほぼ同時期に出版されているが、
内容は天地の開きであった。

「あわれ」の意味を理解できない大学教授に教わる学生が
また教職につき、間違ったことを講義したり書いたり…
しないことを祈るばかりだが、安易に信じてしまうと
「もののあわれ」はまったく別物になりはててしまう。

宣長翁が古語から発見し、古の人の風情を伝え、これは
わが国古来のもともとのこころばえであると歓喜した事
など、ほとんど誰も知らない。
宣長翁、折口信夫、小林秀雄の共通点は「謙虚」さにある。
謙虚の意味もまた誤解され、軽くなった。
言い換えると、「義」の人といえる。
いちいち漢字で表すとかえって遠ざかる気がしないでもなく
こころもとないが、清い人たちである。
現代人にとって、そのことはあまり価値のないことに
なってしまったが。

同期、同調するには、邪魔なものを捨てなければならない。
邪魔なものは「私」であると、いずれの古事のふみにも
あり、歌に、物語に、史があきらかに伝えている。

古語、事を伝え残してくれた先人たちに心から感謝する
日々である。

追記:
政治をまつりごとというが、その古語は実際にはまったく
合わない。
まつりごととは命を第一に尊重するのが理であるが、
その逆しかおこなっていない現実である。
この一点だけをとってみても、古語に学び、修正すること
ができるのではないだろうか。

福島県知事選は終わったけれども、当選したからといって
勝ち誇ってもらっては困る。
政治家の仕事は、セールスマンではなく命を守ることである。

トップセールスで経済活性化、風評被害をなくすというと
聞こえがいい?
経世済民ではなく短縮されて意味も消えたのだから経済は
金儲けの商売のことに過ぎない、命とはほぼ真逆になった。
命を尊び、始めて暮らしが成り立つ。
そのことを要求し続けたいと思う。
だいそれたことではなく、あたりまえのこととして。





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眼を瞑ると…

2014-10-12 01:00:00 | Weblog

シリア渡航計画を立て公安警察から事情聴取を受けた
学生の言い分に、さもありなんとも思いつつ残念すぎて
悲しい。
戦場で死ぬことについてどう思うか? との質問に
「どうせ1、2年のうちに自殺するかと思っているので
どこで死のうと同じことじゃないかと思った」と答えて
いる部分である。

甘ちゃんだともバカモノだとも言えない。
おそらく、思いつきではなくて本音であろうかと思う。
かわいそうなことだと思う。
発覚して止めてもらって、よかったね、と思うのである。

彼のそばに「生きよ」とひっぱってくれる神さまの
お使いがいて、ひらひらしているらしい。
ひらひらの波が彼の中の暗がりまで届くには、他に何が
あればいいのか。





まだ子どもだったころ、あまり言葉を知らなかったころ、
ひらひらはもっとたくさん彼の周りを飛んでいたことを
思い出してくれないだろうか。

人は歳を重ねて利口になる一方で、忘れものをしていく。
自分が誰かを忘れて他の何者かにあこがれたりもする。
そして、帰る場所などはじめからないのだなどと
ふてくされ、迷子を志願する。おろかないきものだ。

現実逃避と漢字四文字でひと括りにされたりする。
後付の話は次々に出てくるだろう。
ゲーム好きで殺戮や暴力など歪んだ嗜好等々。
人の内面はもっと複雑で奥深いのに。

それでも、ただ一つ、ひらひらから伸びた紐をつかんで
離さなければチャンスはある。
誰に教わるわけでもなく持っている。
頭で考えても決してわからない明日への縁を繋ぐ紐。


目には見えないけれど、魂はそっと、今日もひらひら
やわらかな波を送るはずだ、迷い子の彼らに。



先日ひさかたぶりに会った三才上の姉がふいに言った。
「生きててよかったじゃない、こんな日がくるなんて、ね」
姉は覚えていた。ふいをつかれて口ごもってしまった。
姉の愛をとても感じたが、何も言えなかった。
そうね、くらい言えばよかったか?
アホな妹はデパ地下のスイーツのショーケースに目を向け
ねえ、お姉ちゃんはどれにする? と尋ねた。

わたしのひらひらは、とても多くの愛を運んでくれた。
愛と愛はつながっていき、わたしは生き延びてきた。
毎日そのことを思わない時はない。
いつからか、愛されるより愛する人になり、悲しみも
その分増えたけれど、ひらひらがまた運んでくれるから
だいじょうぶだ。

悲しい日には目を瞑り、ひらひらと遊ぶ






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誰かが誰かの死を

2014-10-11 23:17:39 | Weblog
戦時中ではない。
というと、否と言われるだろうな。
どこかの国とこの国が戦っているわけではない、と
いえば、それも否、と言われそうだ。

でも、実際、戦時中ではない。
憲法九条はまだ堅持されている。
あやうい気配は日々高まっているけれども。

盲導犬が何者かに傷つけられた事件はあれからどう
なったのだろうか。
今夜は盲導犬が車に轢かれて死んだニュースだった。
飼い主の女性もいっしょに。

御嶽山を空撮した映像には亡くなった人を搬出する
タンカが映し出された。
子どもの頃、活火山の近くの町で暮らしていたので
火山灰に覆われる煩わしさはよく知っている。
しかしそんな比ではない、雪のように見える山は脅威。
御嶽山はヨイヨイヨイとは応えてくれなかった。

毎日、ニュースでは人の死を知らせている。
とても多い。
望まない死がたくさん、あきらめのつかない死が
たくさん、とてもたくさん、知らされる。
顔も知らない人の死を知って、悲しい気持ちだ。
シリア、イラン、イラク、ウクライナ、
パレスチナ、ニッポン、オキナワ、、、、、

せかいじゅうで、人々が誰かの死を悼みながら
毎日生きているという事実。
人が人を殺しているという事実。
人が人であることを忘れはてようとしている。

嘆きの歌ではなく慰めを歌い踊り、いつしか…
嘆きはかき消され笑う、空虚に笑う世界。
人でなしの国が広がっていく。

この地(くに)のそもそもは…
「狭蠅如す皆満ち、万の物の妖(わざわい)、
ここに発りき」(スサノオの涙)。
罪深きゆえんは、み親を忘れ果てることなり。







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