この三ヶ月、旧事本紀の講義は地津神(くにつかみ)の章である。
カメの講義で十数年前に一度聴いた時はわかっていなかった。
膨大な量のクジキのなかにちりばめられている地津神を纏めた章を
改めておさらいしている。
それが今回はほんとによくわかる。
それがなぜなのか、もわかる。
ポンコツ頭にもよくわかる。
ポンコツが治ったからではないのである。
その頃はまだぷ~ちゃんと暮らしていなかった。
文鳥のチッチやうさぎのぐみちゃんはいたけれど。
犬と暮らして、次にバラの魅力に気づいたのがこの十数年の
変化だ。
この二つはわたしの知らない世界を気づかせてくれた。
世界はまだまだ広いのでほんの入口だけど、そこまで連れて
いってくれた犬は残念なことに寿命がきてしまった。
しかし、犬が神さまの元へかえっていったことのショックがさらに
私に新しい扉を開いてくれたのである。
なんどもお世話になることよ、生きてても死んでも犬に教わる。
で、残ったのはバラである。
命あるものは大事、という。その言い方はちょっと舌足らずで
あるものすべて命があるから大事、ということではないかと思う。
命が溢れている世界。
バラのやわらかな、ひらひらの先に停まっている虫めが~と
思うけれど、虫もいのちの世界の一員である。
いのちがせめぎあったり、しらないうちに助けあったりしている。
ここに繰り広げられていることに善悪はない。
それぞれの命の定めに乗っている。
バラの新芽の穂先にアブラムシがたかる。
にくたらしいことこのうえなく、ニームオイルの希釈液の入った
スプレーを片手に虫との攻防に余念がない。
穂先についた小さな緑の塊(幼虫)を取ろうと手を伸ばした。
ようやく手が届く高いところだ。
そっと触れたつもりが、ツモリであった。あっけなく細い茎が
折れてしまった。まだ小さな生まれたばかりの蕾が二つついていた。
虫よりも、不器用な自分、そそっかしい自分にがーん。
がっかりした。
捨てるにはあまりにもしのびないので、ティッシュに包み
水を入れたガラス瓶に挿してある。
水を吸って、幼くて赤い葉が緑に変わってくれればいいのだが。
風が吹いても、雨が降っても、光に水がきらめくのを見ても、
あ、あ、と新しいものを見ている気がする。
自分という殻と外の境界がその瞬間、溶け出していく。
再び殻に戻ると、とても寂しい。
わたしはわたしの命をしばって生きてきたということが
よくわかった。
犬がいない生活は、とてもムズカシイ。
東京にいるとそう感じる。
ぷ~ちゃんのいる山の風にあたっていると、それを忘れるけれど。
人間の感情はいうなれば直線で、自然界は曲線で成り立っている。
尖っていないものを尖らせて使うのが人である。
元へもどるのがきまりごとなのが自然、ゆっくり過ぎると
何かと急がせたがるのが人である。効率とかいう率にこだわる。
慌てないこと、ゆっくりなのがけっこうゆっくりでもなく
かえって大丈夫なことは犬と暮らして身につけた。
スローなのは確かなことであった。失敗の数が減り物事がよく
見えるようになるから。
広かった森庭ももとは雑木林であった。すこしずつ木を植えかえ、
花の株を増やして、庭に見えるようになった。
効率を考えてやるのがカシコイ方法と思っていたが人は自然の中で
効率を思えるほど自然に勝ってはいないし予知できない。
だから溶け込むこともできない。
その結果、ゆっくりとやるのが一番早いのだった。
ゆっくりとは、さまざまな楽しみをもたらしてくれるオマケ付きだ。
犬は神さまだが、けっこうアホである。
人はアホになれずに利口ぶる悪い癖があるので、アホな犬になついて
いるとアホが沁みてきて、潜在的なアホが滲み出してくる。
アホっぷりがまだ足りないわたしを残して逝ってしまった犬を、
思い出してはクスッと笑う。
笑って元気を取り戻し、アホな自分に急いで戻っていく。