想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ちいさな声を聞く

2010-07-31 01:59:19 | Weblog
谷間の上空にはいつも分厚く黒い雨雲がわくけれど、今年はまだ
豪雨にはならずに済んでいる。このままできれば均等に降って
くれることを願うばかりである。

ゲリラ豪雨は平成10年に経験し、近くの川は決壊したし崖崩れも
起きた。道が消えた。その後数年間、道を迂回し、道のないところは
川を渡って森へと通うハメになったのだった。
ふつうはもう行かないだろうと地元の人には言われたが、行かないって
自分たちの土地だもの、放るはずがない。

想風亭はまだ建っておらず、一号棟の基礎部分スレスレ
まで増水し、浄化槽の鉄の蓋が流された。
蓋は小川の下流200メートルのところで引っかかったため、川は
溢れ、そばの道路は水びたしになっていた。

道路を直しに行って、水を川へ逃がそうと溝を掘る作業中に蓋を
発見した。蓋でせき止められていたのだった。
川の中へもぐって取り出すと、とたんに、溢れていた水が川へと
戻っていく。溝を掘らずともよくなった。
雨が降り続くと、この年の災害を思い出さずにいられない。
そして家や土地が被災した方々をニュースで見ると胸が痛む。
家に、その土地に、帰りたいだろうと。そこに居たいだろうと。

水にも道がある。
通り道を作ってあげればどんな量でも流れ、走っていくのだ。
増水しあたりじゅうを破壊しながら進んでいく。
被害甚大な場所はたいていは通り道が塞がったところだ。
ふだんから水の逃げ場というより通り道があるのだから、
それをよく知って管理しておくということを、ゲリラ豪雨は
思い出させてくれた。


(先週、カメが芝生のヘリに溝を掘っていたのをなにげにみていた‥、
雨が降ってその意味がわかった、仕事が丁寧‥なんだなあ)

自然に逆らい、頭の中で絵を描いた造作物の中に暮らす。
そのことの限界は知っていても、地上の土も水も繋がっている
のだから小さな声ではどうしようもない。
ゼネコンや大建設会社は災害で壊れればまた造作する仕事が降って
くるくらいにしか考えない時代が長かった。現在進行形‥。

いいことをする人の声はデカクない。
声のデカイのはたいていは周囲のことに考えが及ばない、
はっきり言って自己中が多いのである、これ事実。
(マナーブックには必ず大声を出すなと指摘されているしね)

ただし地声がデカクて且ついい人もいて、その場合は自覚して
ボリューム調整機能を正常に作動させているから問題ない。
そういう人はたいていがカワイイ、男性でも性格カワイイ。

ふだんから大声のしゃべくりには疑念を持ってかかるに
越したことはない。下心があると声はデカクなる。
声は肝心なときだけ、ボリュームをあげればよしだ。

もっと小さな声に耳を傾けよう。
静かな声に耳を澄まそう。
大事なことは、大きな声にかき消されてしまうのだから。
その声が悲痛の叫びに変わってしまう前に、聞いておこう。
大切なものが消えてしまう前に、耳を傾けよう。

日本の八月、それは小さな声が集まる季節だ。
遠くから彼方から、望みを断たれた幾万もの小さな声が地上に溢れ、
祈る季節だ。
小さな声を、ちゃんと聞く。聞こえる耳を持たねばならない。

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草食系な日々

2010-07-30 00:23:47 | Weblog
室内だと、大きく見えるベイビー。
おお、ウエストが絞られてなんかカッコいい犬に見える。
ずっとズンドウだったからなあ、新鮮だ、他所の子に見えるぞ。
ダイエット成功、と喜ぶはずなのだが、痩せたら痩せたでなんだか
心配である。しかし、医師に言わせると「ちょうどいい」んだそうだ。
これで34.5キロ。う~ん、確かに‥。

中央にあるはずのテーブルは片付けて、ブラック&ホワイトの消臭カーペット
を敷いてほぼ独り占め状態です。
右端の椅子が見える隅っこにわたしはこじんまりとしたPCデスクを置いて、
ベイビーが見える場所で仕事中です。
お互いに相手が見えるので安心で、そばでドタっと寝ていてくれればよし。




ドッグフードのオマケについてきた冷え冷えシートは、プティサイズなので
大型犬のベイビーにはアゴのせ用、あるいはお尻、おなかだけ乗せて使用、
とか書いてありませんが自主的にそうしている模様。
ほんとに冷え冷えしているのか、ギモンではあります。
からだの下に置いてあげると外すんだもん。
見てないと、使ってる‥。さっき振り返ったら乗せていた。
カメラを向けたら立ち上がってこっちへやってくる‥。スリスリ。

今夜は来週からイギリスへ発つイアン君としばし別れの食事会。
青山のマクロビオテック居酒屋「我や」にて、擬似ピザやカプレーゼを
食す。モッツァレラ代わりの豆乳チーズはやっぱり豆腐の薄切りの感を
否めなくて、苦笑い。
ひたすら身体に良いものを追求してるのはうさこよりイアンの方が上で、
日々、玄米を炊いて豆腐を食っている、エラいアメリカ人だこと。

「我や」は青学の西門を左へ折れた道の右手奥、わかりにくいがもう店は
ないなーと思うあたりのビル地下一階にあった。
外資勤務のベジタリアンや遠方からはるばる訪ねてくる客はいるが、今イチ
地元の人に認知されていないと店長が嘆くので、時々地元のうさこは
「アボガドステーキは本日一番おいしゅうございました」と褒めたのである。
すると、感激したか店長は名刺を出して、それにスイーツサービスと書いて
次回お出でのときにこれお約束です、と言った。
そういうつもりじゃなくて~ほんとに美味しかったよ~と言いつつ、
イアンはワインサービスと書いてもらっていた。

話題は映画祭のことから、クリスチャンの死生観と神道のそれはどう違うのか
とか、墓石屋にボッタクられた話とか、「おととい来い」と「とばっちり」と
いう日本語を知って喜んだりとか。
ベンキョウニナリマスとイアンが言うのがなんだか可笑しい。

正直な人と話すのは気が楽であるなあと思った。
食べるものとその人の性格はなんだか大いに関係ある気がする。
彼は自分のことを「オレ」と言うが、どちらかといえば草食系で繊細である。

戻ると、留守番してたベイビーがドカドカとやってきたが、耳が折れていて
さっきまで寝てたことが判明。おかげで一人で美味しいもの食べてきたことに
気がとがめなくてすみ、寝起きに絞りたてキャロットジュースを一口あげて
お詫びとした。









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甘えん坊ちゅうと甘えないヒト

2010-07-29 08:09:46 | Weblog
(ケータイカメラで)

いくつになってもあまえんぼうー、とカンペーさんの歌が聴こえます。
はい、幻聴、妄想、イマージュ、この歌のテキトーで実はマジな感じが
好きです。はい、うちでも歌ってる方います。

その近くで、夏日真っ盛りの陽の下でたき火している、決して甘えない方が‥。



何考えてるんでしょう、カメ‥。先生、黙々作業続行‥。
作業ではなく、作務ですね。

師の後を追うというよりも、追うなんてとんでもなくて、
どだいついていけるかどうかも危うくて、
ひたすら真似、考え、真似、考え、そして尋ねてみる。
真似っこうさこと呼ばれて久しく、カメが見える距離から
離されないように、昼寝をほどほどにつつしむ日々であります。

ケータイ画像で失礼して、出かけます。また後ほど。
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生まれてきたのだから

2010-07-28 08:24:45 | 
意固地になって、壁を向いてるヒト。
日向に背を向けて、陽を遮って、何かを待っているの?
花が咲かないかと、もしかして咲くかもしれないと。
そんなこと口には出していえないけど、
お日様がぐるっと壁の方へ回り込んで、照らしてくれるんじゃないかと。
そんなあれこれを密かに願っているの?



生い茂る樹々と伸びる雑草の間に、実をつけた野いちご。
ここは踏みつけるヒトはいない山中。
でも、生きる競争は激しい。



できるだけ、種を遠くに飛ばそうと風に乗る智慧もいつか覚えた。
実って、また生き延びる。

意固地になって、壁を向いているヒト。
斜に構え格好つけて時間がただ経っていくのなら、もっと簡単な
方法を選ばないか。

花が咲き実をつけるとは、喜びに満ちあふれるときだ。
飛び跳ねて、喜びを周囲にまき散らし祝福されることだ。
独りではないと知ることだ。
そのときをからだ全体で感じることもしないまま固まって枯渇するなら、
生まれてきた意味は何なのだ。

自分で選んで生まれてきたわけでもないなんて僻んでみても
そう思うなら母に生んでもらったのだから、こうして生きているのだからと、
生きるだけのことだ。生きて生き延びることだ。
それぞれの時間を、それぞれの実りかたで、意味を掴むまで。

ただ壁の前に座っているだけなら、待ってはいけない。
壁の前で、そこにからだを残したまま、飛翔できるか。
飛翔する心のバネはまだだいじょうぶか。

一つの命が万の命につながっているとしっかりと感じられるとき、
その瞬間、生きる意味を掴むはずだ。

(旧事、五鎮道の一部をやわらか頭で勝手に訳しました)


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素直になれないヒトへ

2010-07-27 03:41:53 | Weblog

          

こんな顔のこんな瞳のヤツがそばにいつもいたら、尖ってたハートも
丸くなるってもんだ。

ステイって言うのについてきて、歩きつかれてドタッと一休みしてるとこ。
笑ってるのはカメラを向けたからで、ほんとはお疲れちゃんな顔してた、
ちょっと前まで。

犬だって、気もちはいろいろある。
なのに、この瞳。

サンキュー、ベイビー。

「素直に、正直にと思ってるんだけど、できなくて」と言ってたそこの人。
思ってばかりで一生サーッと過ぎちゃいます。
言い訳百万遍するよか、正直一個のほうがどんだけ楽か。
食べてみればわかります。
すーっと軽くなって、空も近くなるってもんです。


(カメがカメラをと言ったので渡したら、こんなのが撮ってあった!ヒーハー!)






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雷バリバリ鬼ごっこ。

2010-07-26 07:51:48 | Weblog
空からは大粒の雨がたたきつけるように降っている。でも陽が照って明るい。
雨しぶきが光を受けて緑の葉はキラキラ宝石をまとったみたい。
その様を撮ろうとしたけど、難しいね。勉強してないとイザというときに
できないんだなあ。
でも雨粒が尾を引いて、ちょっとだけ写ってた。



土曜日午後からの激しい雷雨で停電。ついたり消えたりを繰り返し、夜まで
降り続けた。オマケは電話が不通になったこと。
バリバリ、ゴロゴロという音を何かに例えようと考えてみたけど、
どうしても鬼の子が走り回っている絵が浮かんでしまう。
鬼ごっこである。

よってインターネット不通でブログ更新できず。ケータイはなんとか
通じるけど断続的。どんな山ん中にいるのか?!
たいして険しい場所でもないと思うんだけど谷間の上空に分厚い雲が
湧きやすいから衛星通信もしにくい。詳細は省くとして悪天候だと、
さまざまに障害が発生するので電信柱が建つ前の原点、手動原始生活に
戻って、それなりの工夫が要る。

それはそれで楽しいが、文明生活をあてにして予定を組んでいた事は
先送りするか、山を降りるしかないわけで(麓の集落を越えると市街地)
ネット環境は17kmほど走ればないこともない。
今回は走らず日曜日に116に連絡し、電話工事会社が修理にきた。

この場所よりずっと下の方で断線していたようで、平謝りの兄さんは
ベイビーのことを覚えていて、「デカイ犬、どこ?」が挨拶がわりだった。
あたりを見渡して、デカイ犬いるでしょ? と言うのであった。
昼寝中です~、と応えたけど兄さんの顔に見覚えのないうさこである。
同僚にでも聞いたのかしらと考えたが、犬ネタ、当然笑顔で挨拶。
で、長時間修理を待たせたことは帳消しとあいなったのである。

このゆるさを不便と思う人はこの地には慣れないだろうなあ。
慣れない人はここに来ても、この地の静寂や豊穣は目に映らず、
いつも通りの脳内の喧噪に住みつづけ、何も発見しないまま文明生活へと
急ぎ帰っていく。さようなら~。

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ともだちがいるのさ

2010-07-22 22:37:23 | Weblog

そんなタイトルの歌があるよ(カシマシ~エレカシ~‥)。
「友達がいるのさ」
「東京じゅうの電気を消して、夜空を見上げて
かわいがってる無様なたましい、かわいがってみてえんだ」
エレカシ宮本浩次のこの歌詞、歌い方もすごく好き。

今夜はともだちが遊びに、しばし別れの挨拶にきてくれたので
この歌を思い出して聴く。ぴったしな選曲、あ、あ、あ、あサンライズ。


(みょうが~、去年5個しかとれんかったぞ~がんばれ~)

ともだちの歳はずっと若いけど、ともだちはともだち。
ともだちのこれからの人生、うつくしき日々を!!REINA.

人と知り合うのはあんがいと難しいと、みんないつ気づいたんだろ?
たくさん出会うのに、人だらけなのに、知っている人何人?なんてね。

親子も兄弟姉妹も、家族っていうだけで知ったことにはなんないし。
近くの他人のほうがわかり合えたりするんだけど、それでも奇跡みたい。

思い切って近づいてみたら、ともだちになれて、でも片思いじゃなくて
お互いに失いたくないと思ってるから、ずっとともだちでいる。
ほんとのことを言い合うってのは、とても努力がいる場合があるけど
ともだちになってしまえば、ほんとのことじゃないほうが苦しいんだ。
嘘つくのが辛い相手がともだち。







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闘病犬としての近況報告

2010-07-21 17:00:02 | 親分

初診の3月から4ヶ月と16日経過。
治療薬はバキソ10mg、胃腸に変調がないか様子をみながら
一日おきに服用中である。
抗生物質タイロシンは効果がないようなので止めてバキソと胃薬
だけ処方されて20日間が経過した。

変化はあるようでないようで、少し欲目にみると、人参やキノコ
のごはんが効いているような気がする。
それにベジタブルエンザイムとβグルカン、ビタミンB群も混ぜている。
ウンチの形状、質が変わって出やすくなったので出血も減ったか?




と、思っていたけどそうでもないようで、触診すると小豆大の
異物があって(小豆とは小さくなったもんだ!)医師の手袋が
血だらけになる。医師は異物が小さいと意外な顔で一瞬喜ぶが
指を出して血をみると、オオッと驚き、次に落胆の表情が浮かぶ。

そして、その血をみるかぎり感染症を予防しないとということで
再び抗生物質、今度は種類を変えてシンクル250を朝夕2錠ずつ
ということになった。
結果としてバキソが効いているのではないかと思うと医師が言う。
それはそうだなあ、効いているとわたしも思う。
それから長期服用の不安について尋ねたら、猫で3年使っている
ケースがあるがその子には問題はないという症例をあげてくれた。

内視鏡検査とそれに続く手術の他にこれという方法がない事に
変わりがなさそうだ。
麻酔のリスクについて医師はなんとも言えない。保障などできない。
それはあたりまえだ。信じて頼るしかないのである。
わたしがその技術を信じることができないでいる。
いや技術ではなく万が一を恐れているからだが、万が一のことは
わからないと医師にはっきり言われると、躊躇する。

しかし幾つもの症例を見てきて、少しづつ考えが変わってきたこと
も確かだ。前のようにあまり頑固に拒むというのでもない。
親指大から小豆大へと縮小した直腸内の異物、これは投薬と食餌
の影響であることも確かである。
不安が大きいけれど結果が早い手術と、気長な根気のいる今の方法
とどちらがいいのか今のところまだわからない。

投薬を経過1週間ごとに様子をみながら考えるとしよう。
以上、ご心配いただいている方々へ近況ご報告いたします。
いつもありがとうございます。

コメント (2)
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7月の森、恵まれて

2010-07-21 09:06:46 | Weblog
裏山の小径一周、いっきに駆けてくるなんてことは
もうできなくなった。
その代わりに森を切り開いて作ったこの庭を歩く親分。
毎朝、ここを一周して戻ってくるまでにけっこう冒険
があって必ずやうさこに、ノーだよ、と叱られる。
とっとと逃げさる。シッポが笑っている。

叱ってるんだか、遊んでもらってるんだか、うさこは
どちらかしらと思う。
彼は、やさしい犬である。
このごろは特に、やさしくしてくれる‥、気がする。
そんなことはなくて、ただ、うさこが気づかなかっただけ。
彼はもともと、とてもいいヤツで、そして限りなく寛大。
仁というより恵、神様のやさしさの方だな。
そばにいて面倒みてるんじゃなくて、守ってもらってる
のはうさこの方である。
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素粒子的記憶

2010-07-20 10:34:18 | Weblog
早朝の光。郵便配達は一部だけ赤く塗った原付バイクでやってくる。
いらっしゃーい。
散歩帰りのベイビーが門の外に立つおじさんに向かって笑っている。
おじさんはとても無愛想で、一度クレームをつけたからかと思って
いるが、もう6、7年も経つけどまだ笑ったところを見たことがない。
ありがとうございますと言っても、おつかれさまですと言っても、
表情筋に変化はなくて眼鏡の向こうの目も動かないのである。

留守じゃないのにちゃんと届けてくれなくて、山道の途中の家に預け
てあったりするから苦情を言ったときは、平謝りだったんだけど、
苦情を上に言わないでくれと、くどくどと謝りまくっていた。
これからはちゃんと持って行くからと言われたのだった。

猛暑のせいで考え事などゴメンという人は以下は読まないで(笑)。
さて、詫びることを不始末をした自分の将来のため、近い未来が過ごし
やすくするためにやるのと勘違い、大間違いしている人が多いようだ。

相手に対して行った己の非はどっかへ放りやってどうでもいいような
詫びの言葉だけが空中で繰り返される始末である。
政治や社会にユースの話ではなくて身近なところにころがってる話。

非という事実をそうやってもみ消して、すっきりしたいからすみません
と言うのだろうと取られても仕方がないくらい、過ちは繰り返される。
世間ではすみません、もうしわけござーませーんというのが軽く軽く
なって、口癖のようにさえなって、中身は空っぽである。学習しない。

失敗は己と相手と詫びを入れることによってさらに共有され、学習する
のは失敗した側だけではないはずだのに、すみませんと言ったほうが
逃げていくという構図は卑劣なことだ。

郵便配達のおじさんのことをなんとも思っていないけど、無愛想な顔と
放り投げていく姿は、多々いるあの手の人を連想させてしまった。
朝の光が鮮やかに照らして、ここでは善のほうが強いのですぐに気分
を変えることができるけれど。

消臭剤で匂い菌を消し、そこで何事もなかったように跡形を消す方法を
手に入れた今日である。
しかし、犬の嗅覚には消臭剤では太刀打ちできんぞ。
ファブリーズを撒いても、犬は覚えている。

犬と暮らして素粒子レベルの記憶で呼吸しているうさこは言葉の上っ面
でかき回されると軽くめまいなどするが、でもなあ、あったことをなかった
ことにはできない。
許すことはもちろんできる。許されたくもある。
けれど、挽回しようとするのは言い換えると上塗りなんだからと思う。
事実は単に上積みされるだけで前あったことが消えたりはしないのである。

この事実、信にするには消そうと思わず、認めることしかない。
認めるということが、すっきりすることである。
理明しかり。整理して風通しよくしないと人の中身も腐ってゆくからなあ。



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フラックスとケーキ

2010-07-19 13:25:59 | Weblog
先月種を撒いたフラックスがここまで成長した。生育が早くて
修景用に適しているということで選んだから、芽吹いただけで
もう嬉しい。青い花が咲く。
大雨に打たれてもすくすく育ってるのでほっとした。

フラックスはアルファリノレン酸が豊富なアマニ油が採れる。
フラックスオイル用と言いたいところだけど、どのくらの面積で
どれだけの油が採れるか? たぶんうさこの畑だと杯一杯も採れない
かもしれないなあ。
そもそもブルーの花が風にゆらゆら揺れるのが見たくて植えたので
アマニ油まで手に入れようというのは欲深いわ。

欧州では昔から栽培が盛んだが、健康志向が強くなった昨今日本でも
注目され厚生労働省のお墨付きまであるアマニ油。
身体の余分な脂肪を洗い流すクレンジング効果があるのでメタボ対策に
もってこいらしい。
でもなあ、洗い流すほど脂肪分を摂取しなきゃいいんじゃないかと思う
このごろである。
でもって甘いクリームのついたケーキなどすっかりご無沙汰な今日び、
精神だけでなく身体的ストイックもすごく気持ちがいい。

そんなことを思っていたら天現寺カフェからテイクアウトのケーキ、
悪魔のユウワク。アルチザンパティシエイタバシの絹フロマージュが
届く。「絹のように繊細な大人のためのチーズケーキ」だそうだ。

これを食し、フラックスオイルを一匙飲んでクレンジングすればよし、
なんてコロッと心変わりするのは罪深いというものだ。
これはこれで大切に一切れだけいただこう。そして余分な食事を省略
するのが効率的だ。
というわけで豆のサラダとキノコスープだけ、調理している時間が頭
を休めるのにちょうどいいリラックスタイムになっている。



座業なので長時間座り続けて足が浮腫んでしまう。花木を点検がてら、
庭を歩きまわってたら夏つばき、娑羅の木に白い花がついているのを
発見した。
それから2本目の夏櫨も実が色づきはじめた。
夏櫨(はぜ)の木、さりげなく持ってきてくださって、わたしときたら
実が成るまで櫨だと気づきませんでした。
昨年の夏、アントシアニン豊富のジャムを作ってブログにアップして
喜んでいたのであるよ。わかっていらっしゃったのですね。
ありがとうございました!

森もそろそろ梅雨明けが近そうで、本格的に夏がやってくる。








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予言、占いってなぜ当たるの2

2010-07-17 12:28:23 | Weblog
(続き)
どちらにも偏らないでもっと考え、深く広く考察している知識人
はとても少ないし、そういう人はテレビにも雑誌にも出ない。
よって真実、大衆の不安を解消するところとはならないわけです。
不景気だとテレビも雑誌も占い師がバンバン出てきますね、人気の
占い師募集ってテロップが番組最後に流れたりして、募集って自薦
かよって思うけど。 


(昔のことは忘れたわ、今があるだけよ、by st.simako)

予言とは、物事の理を読み解くことができる人の言葉、簡単にいえば
そうです。預言とは違います。
よって理がわかればその言葉の意味もわかります。

聖徳太子は人口が増えればどうなるか、どのように変わっていくかが
見えていた、つまり理に長けた人でありました。
ゆえに人々の心が荒廃し物質至上主義、拝金主義になり世間も国も
乱れていくだろうと案じられました。
ま、ここ百年の歴史を振り返ってみるだけでもその通りになっている
ことがわかります、でも聖徳太子の時代からみれば、崩御されてすぐ
から激しくなった権力争い、そして新法、律令制施行の時から乱世
は始まったといえます。
聖徳太子は古来から伝わる教えは失われ、人はいかに生きるべきかを
見失っていくことを憂えられました。
そして大切なことは記しておくべきである、これは急務であると時の
推古帝に奏上され、そして編纂された書物が先代旧事本紀大成経です。
難解難解、時には偽りと言われながら、千年を超え、またさらに数百年
を超え今に至るのですが、その言葉は今なお鮮烈で貴重なものです。



テレビで人気の沖縄のユタ、占い師が聞きもしないことをバシバシと
言い当てアドバイスしてるのがなぜか?
理がわかっていれば、その理由はわかります。
なんでもエーッ、当たるぅ、と驚くのはテレビ演出もあるでしょうし、
驚く人の気持ちもわからなくないけど、そんなに驚くほどのことでも
ないのです。反対に、理がわかれば占い師のウソも見えます。
テキトウっぷりが透けます。

うさこは十九歳の頃、占いにハマッテ毎日占い漬けだったというアホ
時代を過ごしてたという、今で思うとかなりヤバイハズカシの過去が
あるのですが、だからこそ占いにエーッ、ホントー、ウソーと叫んで
る人の気持ちはわかるんだなあ。(見てもらう方ではなく自分でやる
方にハマッテました、それで寝不足…、授業中は居眠り…)

でもそのアホ時代を経てミソジになってフルゴトを学ぶようになって
から、占いは遠い遠い昔のこととなりました。
当たるも八卦当たらぬもナントカなんてやってるよりも、理を学ぶ
方が未来を明るくしてくれるとわかりました。
だから今は占いませんよ。
(占いは神事から子どもの遊びまで幅広くあるんだなあ、これが)

理ってなんだよー、わからんぞー、占いのほうがわかりやすいと
思うなら、迷い続け、あるいは妄想の日々をできるだけ楽しむべし。
そして疲れきるほど妄想すれば、少しは理を思えるようになるかも
しれないですね。うさこはカメに「よせよ、妄想すんな」と言われ
怒られ、かなり努力してやめたんですけど。
おかげで理はわかるようになりました。

理とはなんぞや、そう難しいことでもないです。
過去記事に書いてあります。
理とは「縁→生→極→易→定」の流れ。
神といえども理を以って成すとあります。ゆえに理を見抜けば、
予めわかる、予言できるということです。
必然か偶然かということでおおかたが迷いますが、理を見通せば
偶然はないということになります。
「不思議」もまたないわけです。知らないわからないと不思議と
いいます。また仏教で使われる不思議の意味は、法力、仏の力の
偉大さを称える意味あいで使われています。
文字通りにとって今風の解釈、奇跡的ではないのですね。
意外に仏教者、僧侶でもそのことを知らない人がいるので要注意、
一般の人が惑わされます。

付け加えると、理が見えるようになることを理を明らかにすると
言います。理を極めるには理明が必要なのです。
それはどうすればいいの? と言う人はカメの門を叩くしかない
のでうさこがここでダラダラ書いても無理ってもんです。
不思議は不立文字、理明もまたそういうことですから、フルゴト
では霊しき(あやしき)と表されています。

結論、理がわかれば予め今より先がどうなるかわかるってことです。
言い換えると、今の状況を冷静に分析できなくて未来はわからない
ということです。


























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予げん、占いってなぜ当たるの

2010-07-16 16:41:12 | Weblog
ベイビーやシマコのことや、食いもんの話が続いてて、
久々にフルゴトの話です。中間を取って軽めのタイトル
でいきます。

聖徳太子の予言といえば「未然本紀」のことかと知ってる
つもりの方もいるかもしれませんが…、ちょっと違う、それ
以前の話です。

そもそも予言があったとして、その予言の書をどう読み解くか
を後世の人がああだこうだと議論しますね。推察するわけです。
そういう想像には限界があります。
言葉の用い方、字義、時代背景など考慮したにしても、狭義の
解釈になりがちです。

すくなくとも旧事本紀の未然本紀についていえば、膨大な量に
及ぶ全体像を把握せず未然だけ取り出して論ずるからなのです。
未然本紀を解明したぞーという本は幾つかありますが、そうか
そうか、わかったのかと手にしてみると、いわゆるトンデモ本
だったりします。ユダヤ教とかY4とかと結びつけたり前世とか
いう言葉も飛び交っててがっかりします。
勝手に解明して満足してんですねえ、で、それがどうした?と
ツッコム気にもなれないザンネンさです。




なんでそういうことになるのかというと旧事に使われている字義、
文体の特徴、それが何を意味するのか、そもそもクジキの根底に
あるのは何かをわかっていない、それがズレれば当然文意の解釈
も違ってくるのです。

聖徳太子が存命の頃に、人の数(人口)が増えていくと人の心が
荒廃し世の中が乱れていくだろうということを懸念された一文が
「未然本紀」ではなく他の巻に幾度か出てきます。
なぜそうなるかという理由とともにどうあるべきかという教えが
書かれています。これを読み取れば「予言」とは何かがわかり、
未然イコール予言というとらえ方とは異なります。

たとえば何年おきかにノストラダムスの予言がブームになって
終末論が雑誌をにぎわしますしオタクもいて、好きなんですねえ、
そういうの、みんな釣られてふとそうかもしれない、そうなの?
なんて半信半疑な気持ちになったりするんですね。
でもあおるだけあおっておいて時が来ても何事も起こらずに、
煽ってた人はいつのまにかいなくなってて…同時に人々の不安も
忘れ去られていきます。気にしなくなります。オタクは別の
不安案件を探します(笑)

平成生まれの人が昭和の時代をほとんど知らないので、何を聞い
ても「へーっ?、そうなの? うっそー?」とリアクションする、
このように時代が違えばわからないので繰り返し同じネタで不安
心を煽る者が現われるのです。
不謹慎なことに予言もネタ扱いにする人は無責任に本なんか出し
たりします。それがまた売れたり話題になったり…それが世間の
現実です。
富士山爆発、地震で首都壊滅!そういう話が飛び交っていたのは
まだ記憶新しい気もするのですが、ブームは沈静化してますね。
次はいつでしょうかね。
おかげでハザードマップが作られたのはとても良いことでしたが、
戸棚の奥にしまったまま…なんてことになってたりして。

一方で科学者、あるいは知識人であるよんと自認する人々はこの手
の話をバカにします。フン、ばっかじゃねえの、ってなもんです。
心配は人並みにするけど科学的根拠がはっきりしないものは一切
認めないという考えですね。
ごもっともだと知識人でもないし科学に疎いうさこも思います。

思いますけど、科学的根拠というのは物事が起きて後付けでないと
わからないことが多いことも確かなのです。地上のあらゆる場所
で、事故と破壊という失敗が今も繰り返されているのですから。

実験したり調査してデータを取り統計をとったりして、仮説を
立て、仮説ですから地震予報もザンネン、天気予報もはずれる、
でも世界は明日も明後日も続いてる。科学はどうした?と後で
ツッコンでももう過ぎてるし、結局人為的なことというのが最後に
問題になります。
(今、ニュースになっている振興銀行の木村氏の言葉を借りれば
「ヒューマン・エラー」よく言うなあ…知ったかぶりの知識人
もどきは英語で言えばわかんないと勘違いしてる例ね(蛇足)。

科学でもそれを使って考えるのが人なら、予言するのも人、人々の
迷う不安な気持ちがインパクトのある予言の方へ傾いているのは、
現実に科学が当てにならない事に関してのようです。
科学か、予言か、どっちもどっち的なくらいの勝負だけど未来を
知りたがるところは人みな同じです。悟らないかぎり、ね。
(次回へ続き、結論)

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縄張り拡張す、シマコ

2010-07-13 10:44:16 | Weblog

広い庭、どこにいてもいいんだけど、でもなぜここか?
その理由は‥↓。



堂々と陣取って親分の席で昼寝してるシマコ。
ここにいればいいことあると知ったのである。親分はここにステイして
廊下の椅子から外を眺めているうさこにおやつをもらったり、時には
ナデナデしてもらったり、おしゃべりしたりしている。
縁側のもう片方の端からそれをみつめていたシマコはズッズッと少しづつ
寄り、とうとう居座るようになった。

大きな犬なのにねえ、威嚇もしないし、縁側のそばを歩かないで遠回りし
芝生に座ってる謙譲の精神、親分はいい子である。

選挙、終わってみればなんとやら。責任追求組と居座り組の陰湿な攻防は
有権者の生活とは遠くにあって、自民も民主もやっぱり名前似てるしなあ、
やることも似てて。
勉強できて威張ってて、無神経なのに自分ではそう思っていなくて女子に
人気ないのに、オレ女に興味ないし、みたいな気取り方してた男子。
クラスにいたよなあ、職務を全うするとおっしゃってる幹事長見てると
その男子が頭をよぎります、わたしだけでしょうか。

ちなみにうさこの小学生時代、男子とよく喧嘩して先生に怒られてました。
父にも叱られてました。謝ってこいと言われてたおてんばでしたけん、スマン。
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まだ早いです

2010-07-12 11:27:55 | Weblog
宇都宮の宮司さんにいただいた花木が次々に咲き、緑一色だった森
の景色に点々と彩りを添えてくれています。
ピンクのアワアワとした花がどうだんつつじの緑に映え、遠目に眺めても
とてもきれいです。下野草に似てますけど‥‥葉の形が違う気もします。



そうです、食べるにはちょっと早い、あと数日でしょうか。
数センチ伸びたら下葉2枚残して切ります。太い茎も葉と一緒にいただける
ツルむらさきは栄養価がとても高い野菜。苗2株をプランターに植えて観察中です。
青々として肉厚の葉っぱはおいしそうでしょ?
アクが強くて苦いので下茹でしてから炒めたりおひたしにしたりします。



ピーマンは1株、三つ生りましたねえ、器量よしです、うん。
美男子、いや美少女だもんで虫がつくかもしれないと心配して早速いただくことに
しました。あたしが虫に代わってお先に。


 
これもまだ早いプチトマト。これは昨年も植えて次々に生って朝のサラダに
役立ちました。今年も期待して2株植えてあります。

人気があったのか市営団地に入居するときに最終選考がくじ引きだったという
部屋に住んでいる母は、そうです、見事くじを当てたわけです。
そして便利な1階の角部屋前にある空地を畑にしてしまった話は前に書きました。
その地面を狙ったわけではなく母は足腰が弱いので1階でなければ不便だった
のです(エレベーターのない4階建!年寄りは困ります)が、畑にしても
誰も文句も言わず、作った野菜はお隣さんやくじ引きでライバルだった人にも
分けて喜ばれているようです。のどかですねえ。通勤途中の人も畑の緑をちらと
見ながらオハヨーと言ってるでしょう、たぶん。

しばらく作るのを休んでいたようですが、今年は再開したことをナスやゴーヤの
写メールを姉が届けてくれたので知りました。
プランターで菜園ごっこをしているのは、つまりおっかあの真似です。
ミトコンドリアご接待ばかりでもなくて、子は親の真似をいつのまにかするもの
だと己をかえりみて思う日々です。花好きも母に似たんですね、たぶん。母は
とにかく花をみていれば一日過ごせる人、他の時間はひたすら読書してます。
何でもすぐに読破してしまうのでシリーズ物を手に入れても3、4度繰り返し
読まないと時間が余るらしくて、もてあますと電話してきます。特に用もなく。
ツルムラサキはほうれん草より効率的だというミトコンドリア対策だけでなく、
そういう真似っこ菜園なわけです。

先月タネを撒いた小松菜のプランターは見事にそれは見事に虫たちの饗宴の場
と化しています。虫は夜のうちにやってきてディナーを楽しみ、そのまま朝寝
して昼寝していつきますね。
無農薬とか有機栽培とかあたりまえのように言うようになりましたが、農家は
労働が何倍にも増えているでしょうから、少々値段が高くてもあたりまえだと
思います。殺虫剤を使わない良心の分、お金を払わねばなりません。
代価、お金というのは心に払うものというのが農業を見ているとよくわかります。
労働に払っているわけではなく、労を厭わず食べものを作る人の心にです。
その良心はめぐりめぐって世の中へ行き渡っていき、人を真から豊かにします。

そろそろ「まびき菜」でも採ろうなどと思っていたら、ほとんどが
虫食いで筋しか残っていないようなありさまだったのはショックでした。
森の中で葉ものの野菜を作るのは無理だろうとカメに言われていたのですが
(農薬を使わないので)予想以上の経過に思案中。
野菜は超人気で(虫にですよ)ニームオイルでは追いつかないようです。
ニームは殺虫効果ではなく厭避するだけで、ま、だから人や動植物に有害ではない
わけです。バラには効くんですけどねえ。

冷涼地のここは春が遅く一気に夏になり、その短い夏のあいだにさまざまな植物が
育ちます。懲りず、まだほうれん草の種があるなあと、未練たらたら‥です。








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