これは今回の選挙のことではない。
1945年8月15日を青春のまっ只中の
19 歳で迎えた詩人茨木のり子の言葉だ。
敗戦の夏、地べたに突っ伏して泪した
はずが「何故負けたのか」、それを
考えきらないまま、衣食住の確保に
奔走し、そのまま慌ただしく敗北は
なかったことにしてしまってきたの
ではないか。
その疑念は現実の体験から生まれ
やがて疑いようもない事実として
認識されていった。
茨木のり子は感性の人である。
自らを軍国少女と認める茨木は十分に
戦争の悲惨を味わった一人だ。
そして1960年安保闘争では国会議事堂
前のデモ隊のなかにいた。
「声なき声の会」という市民団体の
列に加わり「夫でもない知らない男性」
とスクラムを組んだ。
国会議事堂にはそのうち終るとうそぶく
岸信介首相がいた。
この安保闘争の犠牲と敗北、さらに
「りゅうりぇんれんの物語」に書いた
ある事件について、思うことだった。
劉連仁(りゅうりぇんれん)とは
日本軍の強制連行によって北海道の
明治鉱業昭和鉱業所炭坑で働かされた
中国人である。
彼は中国山東省で拉致され、
故郷よりも寒い見知らぬ土地の
炭坑から脱走後、獣さながらに
生き抜いて発見された。
戦後十数年経った頃、南方の島の
ジャングルで元日本兵が発見され
帰国したという話を知っている人は
いるだろう。
彼らはヒーローの如く迎えられ帰還
した。人生を取り戻すべく補償を受け、
それぞれ再出発している姿は、TVや
雑誌で取り上げられたし、著書を
出した人もいた。
劉さんは北海道の山中の穴の中に隠れ
住んでいるところを発見された。
劉さんも終戦を知らないまま捕われる
ことを恐れて山野を逃げ続けた日本兵
も同じ、戦争の犠牲者であった。
当別町の住民が発見保護し、劉さんは
祖国へ帰還したが、日本政府の対応は
劉さんには冷たかった。
その後、起こした損害賠償請求は他の
強制連行同様に却下し、国家間賠償で
済んだことにされている。
ときおり白昼に現れる戦争の傷跡と
未だ秘かに引きずる戦時中の幻影を、
茨木のり子は見逃さなかった。
そして上のような言葉を綴ったのだった。
「1958年(S.33)北海道で劉連仁氏が
発見された時、新聞の報道は大々的で
当時誰もがこのニュースを知っていた。
その渦中であえて書く必要があるだろう
か?という逡巡もありながら内部から
衝きあげてくるものがあってどうしても
書かねばならぬという思いに従った。
人間の記憶の風化は恐ろしく迅い。
今頃になって「これは現実にあった
話なんですか?」と半信半疑の様子で
質問してくる人が多くなった。
やはり書いていてよかったかもしれない。
1945年8月15日の日本国の負けっぷりの
悪さが今に尾を引いていると思い知ら
されることが多い。」
(「鎮魂歌」あとがき)
茨木のり子はA級戦犯に再び国政を
託した、信じ難い選択をした国民と
書いている。
負けっぷりの悪さ…というわけだ。
それから半世紀を過ぎて今尚、
信じ難い選択を繰り返す国民なのだ。
「戦争を知らない子供たち」という
フォークソングが流行り、子供は
長い平和と繁栄を謳歌しながら成長し、
その子から孫へと世代が移った今、
きな臭さが漂い始めている。
子供だった大人たちは、気づいて
いるだろうか。
茨木のり子が時代の風潮に逆らって
書き続けていた敗者や少数派の涙と
怒りの意味を。
負けた理由が何だったのかを考え
伝えようとした意味を。
1945年8月15日を青春のまっ只中の
19 歳で迎えた詩人茨木のり子の言葉だ。
敗戦の夏、地べたに突っ伏して泪した
はずが「何故負けたのか」、それを
考えきらないまま、衣食住の確保に
奔走し、そのまま慌ただしく敗北は
なかったことにしてしまってきたの
ではないか。
その疑念は現実の体験から生まれ
やがて疑いようもない事実として
認識されていった。
茨木のり子は感性の人である。
自らを軍国少女と認める茨木は十分に
戦争の悲惨を味わった一人だ。
そして1960年安保闘争では国会議事堂
前のデモ隊のなかにいた。
「声なき声の会」という市民団体の
列に加わり「夫でもない知らない男性」
とスクラムを組んだ。
国会議事堂にはそのうち終るとうそぶく
岸信介首相がいた。
この安保闘争の犠牲と敗北、さらに
「りゅうりぇんれんの物語」に書いた
ある事件について、思うことだった。
劉連仁(りゅうりぇんれん)とは
日本軍の強制連行によって北海道の
明治鉱業昭和鉱業所炭坑で働かされた
中国人である。
彼は中国山東省で拉致され、
故郷よりも寒い見知らぬ土地の
炭坑から脱走後、獣さながらに
生き抜いて発見された。
戦後十数年経った頃、南方の島の
ジャングルで元日本兵が発見され
帰国したという話を知っている人は
いるだろう。
彼らはヒーローの如く迎えられ帰還
した。人生を取り戻すべく補償を受け、
それぞれ再出発している姿は、TVや
雑誌で取り上げられたし、著書を
出した人もいた。
劉さんは北海道の山中の穴の中に隠れ
住んでいるところを発見された。
劉さんも終戦を知らないまま捕われる
ことを恐れて山野を逃げ続けた日本兵
も同じ、戦争の犠牲者であった。
当別町の住民が発見保護し、劉さんは
祖国へ帰還したが、日本政府の対応は
劉さんには冷たかった。
その後、起こした損害賠償請求は他の
強制連行同様に却下し、国家間賠償で
済んだことにされている。
ときおり白昼に現れる戦争の傷跡と
未だ秘かに引きずる戦時中の幻影を、
茨木のり子は見逃さなかった。
そして上のような言葉を綴ったのだった。
「1958年(S.33)北海道で劉連仁氏が
発見された時、新聞の報道は大々的で
当時誰もがこのニュースを知っていた。
その渦中であえて書く必要があるだろう
か?という逡巡もありながら内部から
衝きあげてくるものがあってどうしても
書かねばならぬという思いに従った。
人間の記憶の風化は恐ろしく迅い。
今頃になって「これは現実にあった
話なんですか?」と半信半疑の様子で
質問してくる人が多くなった。
やはり書いていてよかったかもしれない。
1945年8月15日の日本国の負けっぷりの
悪さが今に尾を引いていると思い知ら
されることが多い。」
(「鎮魂歌」あとがき)
茨木のり子はA級戦犯に再び国政を
託した、信じ難い選択をした国民と
書いている。
負けっぷりの悪さ…というわけだ。
それから半世紀を過ぎて今尚、
信じ難い選択を繰り返す国民なのだ。
「戦争を知らない子供たち」という
フォークソングが流行り、子供は
長い平和と繁栄を謳歌しながら成長し、
その子から孫へと世代が移った今、
きな臭さが漂い始めている。
子供だった大人たちは、気づいて
いるだろうか。
茨木のり子が時代の風潮に逆らって
書き続けていた敗者や少数派の涙と
怒りの意味を。
負けた理由が何だったのかを考え
伝えようとした意味を。