想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

小旅2 一切経山

2010-06-30 14:13:20 | Weblog
いっさいきょうざん、と読む。火山性ガスが噴出しているので登山コースが制限
されているとのことだ。普段は浄土平が登山口だ。
九州の阿蘇山に比べるとたいしたことないなーと思ったりもするが、これはこれ、
近寄りやすさがあっていい気がする。



阿蘇山の噴火口は危険きわまりないし全貌を確かめるのはムリな広さであるし、
頻繁に活発化していて火山灰は降る降る、地震で崖崩れは起きるという災いの元
であったことを思いだすと、ここ吾妻連峰の一切経山は平和な印象だった。
でも活火山であることに違いない、その証拠にあの噴煙と通行規制だ。

一切経を山へ埋めたというのが名前の由緒だという。お寺さんが麓へ降りてしまった
阿蘇山と逆である。麓へ降りたので麓の地名が坊中‥なんだろうか(表阿蘇の登山口
は豊肥本線坊中駅、町の名も坊中、ぼうちゅう、と読む)
古はいずれも信仰の対象であったことはちがいない。



望遠レンズで残雪をとらえた。雪は固くなって汚れていて、まさしく春の残り雪。
冬に来てみたい、そう言ったら、冬は通行止めで登れないのさ、と言われた。
そういわれると、なおさらここの冬景色を見たくなる。すごいだろうなあ!
がぜん、想像をたくましくするうさこ、妄想中。



車で走り抜けたので、この荒々しさを体感していない。この道を降り下山途中、
眼下には温泉場の町が広がって、晴れた日の景観はすばらしいという。

昨今、女子登山が流行であるが、うさこは女子の部類に入らないと自覚している
からというわけではないけど流行には乗らない。ミシュランにも載った高尾山も
いまだ行ったことがない。
できるだけ避けて撮ったので写真には写っていないが、実は人、人、人、だった
のである。混雑して山を見るより人のなかを歩くような有様だったって事。
走り抜けたのはそのような理由でありました。
いまでは信仰ではなく進行方向へ並んでぞろぞろと一直線に歩くための観光地、
スカイラインの功罪かな‥ざんねん。

ついでの話だけど、フィガロのファッションページにアウトドアスタイルが登場
してるんだぜー、モデルがキレイなので何着てもサマになってるぜー、女子登山
があれでさらに活発化するんじゃないかーとか思ってしまったよ。
でもフツーの女子がアレ買って着るとどうなるか? それはフツーの登山服に
なってしまうんだよなー、フィガロ的ではなくて、フツーに‥どうするよ?
で、浄土平にわんさかいた女人のなかに、あのイカしたモデルみたいな格好の人
いませんでした。ま、あたりまえだけど。モデルの足では登れんでしょうしねー。
うさこ? いつものジーパンとTシャツ&いつものスニーカーで普段となんも
変わらないカッコ、犬もいつもと同じ黒毛皮、なんつって。



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小旅、猪苗代湖遠景

2010-06-29 10:14:34 | Weblog

古代、人は山をあがめ、広く深く水をたたえたうみをあがめ、その入り口に立ちはだかる
大木を徴として尊んだ。

福島県の中央を走る山並みは有料道路でつながれ、高速東北自動車道からアクセスすれば
半日もかからず磐梯吾妻を走り抜けることができる。
スカイライン、レークライン、ゴールドラインと名付けられた三本の有料道路からの眺め
はやや高めに思える料金にも見合うもので、道を作った人々の執念や苦難を想像させた。
天皇陛下の「あそこへは車で行けますか」という一言の問いかけに、時の知事が「もちろん」
と答えたことから始まったというスカイライン建設の由緒を今の人はサラッと聞き流すだろう。

くねくねと続く道路途中に展望台がいくつかあって、湖見台という名前そのまんまの場所で
遠く霞んでいる猪苗代湖を望めた。
この日は曇りで空との境と水の色が融けあって、立っているこちらがわの足元まで浮いて
いる錯覚で、そのまま目を閉じるといっとき現世を離れていく。



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雨の中のバラ

2010-06-28 10:42:06 | Weblog


誰もこない森の奥で咲いている。どんな気分かだって?
誰も見ていない 誰も触らない 誰も呼ばない。

花のわたしを訪れるのは無作法なハチ 乱暴な蜘蛛 おっちょこちょいの蟻
それぞれが自分のことに忙しい わたしの花びらでとんとんと足をならし
引っ掻き傷を作ってもおかまいなし

誰もわたしを呼ばないので 雨粒に頭を垂れ 少しうとうとして過ごした
 


ただ雨に打たれて咲いているだけじゃ かわいそうよねとあなたが言って
わたしを摘み取って行く
その声に目が覚めて そうなのか、かわいそうなのか、と考えてしまった。



わたしはかわいそうだから あなたの元へ行くのですか。

雨にあたらず、ただ眺めているだけの位置に来て、きれいな冷たい水を吸い
あなたの得意げな声が聞こえている。
あなたの声はあの梢でさえずる、あの太った鳥に似ている気がした。
ここいらで森のおしゃべりおばさんと噂されているあの鳥に。

わたしは咲いているだけじゃかわいそうなのか、その疑問を早く忘れるために
またじっと目を閉じてしまった。
雨の日に咲いて、気持ちが清々としているよとつぶやいて、眠りに落ちていく。

花を咲かせたのはわたし、とおしゃべりな鳥が歌いながら木の葉を揺らしている。
君に歌うことを教えたのは誰?と、桜の木がそっと尋ねたのも届かない高らかなさえずり。
「かわいそう かわいそう」と雨音にだぶって聴こえ、子守唄のようにわたしを包む。
ふたたび降りだした雨が地表を叩く音がして、勢いを増して広がっていった。
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ツーショット近況

2010-06-24 12:59:59 | Weblog
縁側のふたり。
動じないシマコ、でもやっぱり近づきすぎると撮らせてくれない。
雨が止んだすきに撮ろうと。
ひたすら寝るんだな、猫って。赤ん坊はどこやったんだよ! って感じ。


(近頃元気そうですね、そういうお便りいただいて…はい、みかけはこうですけど)

ベイビーは病気は良くなりません、薬も効き目なしです。
出血はあいかわらず。ご心配いただいて気にしてくださって本当に感謝です。
サプリメントが効いて肝臓の数値がよくなって、足取りは軽いです。
医師もあきらめムード、薬、どうしましょうかね~?ってこちらに相談する
感じで困ったちゃんっす。

ベイビーはカメに診てもらってますよ、老衰して枯れきるまでこのままずっと
なんとかかんとか、やっていこうと思ったり、また不安になったり‥。
薬、効かないといいながら処方してくれる医師、何考えているのかと思うけど、
医師も迷うんですね、たぶん。
名医はいないかとネットで検索したり‥、彼はそばでグーグー寝ているんだけど。

ボチボチ、やっていくよってベイビーに言われてる気がするので、気を取り直し
見守ってます。
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森暮らしの意味

2010-06-23 09:05:12 | Weblog

それは悪から遠ざかること。



ヒトの知能は悪を覚えてしまう。
生きものすべてがそうではなくて、ヒトは他人の領分を浸食するために知能を
使うのである。境界を越えるとき悪が生まれる。

悪に平気になれるのはヒトの中にいてたくさんの悪にまぎれているからである。
ヒトッコヒトリイナイ場所では悪は浮き上がる。
地図が盛り上がるように、ヒトの場所、悪の場所が盛り上がって目立つ。
森に飲み込まれてまぎれたりはしないのである。

だから森のなかで悪は長続きできない。
ここにいれば、悪を生じなくてすむのである。
あるとすれば己の頭の中の妄想。妄想を現実へ持ち出したとしても意味をなそう
としてもせいぜい一ヶ月。風が吹いて季節が変わるころには朽ち始める。

ヒトが複数やってくると、脅威である。森の脅威。森ではなくヒトの場所になり
そこに悪が生まれる。

*最近、悪をテーマにした物語をいくつもみかけます。昔からあるけれども人間性
として描くのではなく悪を取り出して追究してみるという試みは今の時代だから
ではないか。ドストエフスキーが読まれた時代と異なる気がしています。
でも、悪は今も昔もヒトのいるところ、どこにでも栄えているのです。
悪ではございませんわ、という顔をしてすましているヒトなんか、免疫力が強く
自前の繁殖力で増殖させているわけですから。
せめて他に感染さない良識もあわせもたねば、人の道に劣るというもの。

うさこは悪人にときどきなって犬に諭されたり、森と世間の境界では必ず急ぎ禊いで
それから森の道へ踏み込みます。
神聖なる森に穢れを持ち込みたくない、これ、古来からの信仰であるとふと気づき
そうだ昔の人は本で学んだのではなく、こうやって生きるなかで実感として知って
きたのであるなあと思ったことでした。
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いのちを感じる

2010-06-22 12:30:09 | Weblog
品のいい芳香と鋭い刺という二面性でお出迎えするルペンスアルバ、だいぶ育ってきました。
6月はバラが多くなるこのブログ、昨年の写真より背が高くツルがよく伸びて
います。刺に痛い思いをしながらフェンスの上へ誘引しておいた甲斐がありました。


(オフィーリア1年生苗、この春植えたもの)
まだか弱い茎で、強い雨に打たれたらうつむいてしまいそうですが、名前の通り
透き通るような肌で、幽冥の境に咲いているような花をつけました。
実はどんな花がつくのか知らないまま名前で選んだもの、よかった。


いつものペネロープ。ドッグローズ、今年も元気に花をつけてくれて、親分も
あやかりたいです。このあたりをいつもクンクンして歩いています。
ジャムにするとめちゃ旨い。でも今年は眺めるだけにして花を増やします。
食べなくてもお腹いっぱい、気分いいから。



すこしずつしっかりとした幹になって、どうにか花をつけてくれる。年々育って、
手塩にかけたりなんかしていないのに育ってくれていて、ニームオイルと少々の
肥料くらいで、ヒトで言えばまあ晩ご飯はあるけど朝ご飯は作ってないわよ的な
お母さんなんだけど、ちゃんと育っているのをみると命があるってことを尊いと
思う。命はそういうものなのだと思う。
根っこから枯らさないようにだけは注意しないと。

その命をさらに手塩にかければ、もっと輝く花をつけてくれるのではないかと、
少し反省しながら今年のバラを見回っている。


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やっぱり人だよってさ。

2010-06-21 21:25:53 | Weblog
 (オイラは犬ですが‥、やっぱり人ですか‥‥犬ではダメですか‥)
なんつって。

「やっぱり人だよ、人らしい人。そこに人がいないと」
カメがそう締めくくった話がなんだったかはさておき、昨今の世情にそのまま
通じてしまう話であることよ。



その「人」とはなんだったのかをおおかたの人間は忘れそうになって、さながら
未来映画の主人公のような孤独がはりついて離れない。
人らしい人、それは心があって、心が中心になっているってことだろう。

アニメはほとんど見ないけれど映画化されるとたまに観て、その中の一つが
押井守監督「スカイ・クロラ」。(森博嗣原作、未読)。
菊池凛子の声が印象的で惹かれるように最後まで見てしまった。
映画はあっけなく終わったけど、声がずっと残っていて、映画評論とは全く
異なる感想が残った。
何のために生きているのか、それがわからないってことはとても重要な欠落
なんだってこと。

昨日今日明日忙しくてどうにも舌足らずにしかならないから親分のヘラヘラ顔
で一つよろしくお願いしますです。





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時には花になってみたい

2010-06-19 16:40:27 | Weblog

白バラはホワイトクリスマス(六月に咲くのにな)。
濃厚すぎない甘い香り、近くに寄らなくても空気が動くとふっと
漂う。

花瓶は那須にあるレストランのオーナーが焼いたもの。陶芸家だった
その方はすでに亡き人だけれど、カメが若かりし頃に通った思い出の
場所だ。そこへ我らアホどもがドヤドヤとついて行ってたらふく飯を
ご馳走になったことがあった。二度三度と口実つけてねだって。

そのときカメは何も言わなかったけれど、この青の静謐さを前に
すると、あのドヤドヤはカメからほんとに遠い遠い次元であって、
恥ずかしくなる。他のみんなも思い出したくないだろうなあ、
ほんの数年前のことだが、大昔のことにして土に埋めてしまいたい。

何も言わない人に、甘えてしまう。
甘えられるがわに立つと、相手が甘えているとは思えないことが多い。
たいていの場合、無神経からくるただのえてかってであるからなあ。
カメはふだんはおおらかでやさしい。笑っているから誰もカメの心中
をほんとのところ、わからないだろうなあ。

恥をそこいらじゅうにふりまきながら、生きている。
ヒトを時々やめて、花になってみたい。
バラじゃなくてもいいから、いや、バラにしてもらえるなら野生の
ノバラでいいから、なってみたい。棘のある地味なノバラ。



川べりのノバラが年々育って、今年はアーチになった。
ベイビーの水飲み場兼水浴び場はノバラのトンネルになっている。
白い小さな花がついて、遊ぶベイビーを見守っている。
香りはしないけど、赤い実を結ぶ。


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しあわせのツブツブ

2010-06-18 21:17:51 | Weblog





朝、ベイビーと散歩していると近くの別荘の主が珍しく声を
かけてきた。コレータベマセンカーと手に何か平たいものを
持って小走りにやってきた。

何かと思ったら、シイタケだった。あまりに立派でびっくり
していると、置いとくと黒ずんでしまうんです、だから食べて
くださいと言われる。

シイタケのお礼に何もないのでちょうど咲いた赤と白の薔薇を
あげようと思った。バラは次のつぼみのことを考えて短くしか
切れないのでお店で売っているバラのようにスーッとしていない。
短いけれど、花は大きくてこんもりしたブーケになった。
急ぎ届けたら、さっきまでいたのに留守。
花なので玄関に置いてくるわけにもいかず、持ち帰って花瓶に
活けた。
部屋に香りが広がって、しあわせのツブツブが降ってくる。

シイタケは玉こんにゃくと一緒にしょうゆでサッと煮た。
仕上げに唐辛子を振って、出来上がり。
料理上手になったツモリになれる旨さ、シイタケのちから。
しあわせのツブツブがしいたけに乗って運ばれてきた。

生きていると醜いものにたくさん触れる。どんどん汚れていく。
禊という言葉、その汚れを灌いで本来の清さを取り戻すこと。
穢れなき心が本来の姿、神道の教えである。
悪人が出直しを図るために便宜上使いすぎてもはや言葉の効力
が薄れてしまって俗な感じさえする。
美しい方へということが大事、そういうことなのだけど。

朝起きて禊、一日を終えて禊、と日々行うのが本当は正しい。
リセットして生まれなおす、生きなおすという方法。
誰のためでもなく自分のために自分自身が行う禊、禊もしないで
頼みごとばかりしてもなあ、出直してこいと神さまは言わないし。

神さまに頼んだはずの己の欲、穢れていれば届く相手が違う。
つながる先は己につりあう相手なんだから、神さまは遠い遠い。
邪の道なら、オワシマスは蛇と昔から決まっている。
自分の姿を要チェックである。清いか? 汚れていないか?

美しい方へ、そんな世界はないと昔は思っていた。
その頃は毎日がさびしく、悲しかった。悲しいことだらけ。
そして、わたしもずいぶん汚れまくっていたんだった。

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モノグサのプチプチ菜園

2010-06-16 10:28:18 | Weblog
庭の手入れが一段落したので、空いていたプランターに野菜の苗を植えた。
ホームセンターカンセキで買ってきたオクラ、ミニトマト、ピーマン。
そしてずっと前から買い置きしたまま撒かなかった小松菜の種を試してみた。
去年、オクラとトマトが採れて味をしめたのである。

収穫というにはほど遠い、天文学的数値くらい遠い数だけど、うさこの仕事
であるからして実が成るだけでもう成功と喜ぶのである。
朝昼兼用飯に添えて、味わうより眺めまわし、大いに満足する。
198円と298円の苗が高いか安いか、そういう問題ではない。



腹一杯で昼寝しているんだな、と言えば、いいえアタシは気持ち的に満たされて
こうして横になっているのです、とか言い返されそう。シマコはほんとに安心
したようだ。右目の上にたん瘤作って現れてから元気がなかったが、まだ傷が
十分に癒えない。よほど強いヤツにやられたとみえる。
闘う母、たいへんだなあ。
傷ついてもヒトとの距離は変わらず。甘えないのか、甘えを知らないのか?

いや、甘えずとも生きていけるのである。
ヒトはいつから甘えていいと思い込むようになったのだろうか。
いやなに、ヒトってあちきのことですけどね。




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九輪草、カワユスなあ!

2010-06-14 21:44:58 | Weblog

昨年いただいて移植した花が次々に見事に咲いて一安心と嬉しさと驚きです。
特に「これ山野草だから」と植木のオマケみたいにしてくださったのが名前もわからないまま
(聞いたのに失念したんですね、たぶん)放っておいて、大変だった移植作業が一段落した頃、
アレ?これもあったねというくらいで植えたのでした。
あまりに可愛らしい姿に、にわかにアイドル化! カワユスナ~と皆に褒められてます。
遅れてきたアイドルみたいな、です。その分、人気沸騰なわけです。


 
名前は九輪草ではないかと思います。
寺社にある塔の尖端にある飾りの「九輪」に似ているところから命名」されたそうだけど、
九輪というのは仏様を象徴した飾りです。そう思って改めて花をみつめると可愛いだけでなく
なんだか別な感慨も湧いてきます。
仏さまが小さな花びらのなかに座っていらっしゃるような‥。
ほら、と指差さなくても訪れた人が自然と目に止め、立ち止まっていました。

信州喬木村の村花として有名で、九十九谷森林公園では九輪草の群生を見ることができます。
「九輪草、四五輪草で仕舞いけり」(一茶)みたいに、うちのもまだ花が少ないけど、
これから丹精して育てて増やしていこうと思います。



バラはやっとこれからです。カクテルのつぼみが一番先に開きました。
マイローズガーデンの元祖アイドルなんですが、昨年はあまり咲きませんでした。
これから順々に咲いていくので、虫退治の日々です。












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ハタラキながら考える

2010-06-13 16:10:44 | Weblog

芝刈り前はこんなんでした↓。



寒冷地用牧草を植えているので伸びて伸びて、ヤギが喜びそうな
景色となる。夏に二度刈り込む。



効率よくやっちまってすっきりしたら庭でくつろぎつつカメの話を
聞くのが楽しみで、だからみんなサッサカ働く。
考える時間と身体を動かす時間が一緒、ここではそれができる。



働いてないけど、お疲れちゃんの方もいる。

とても静か。空のかなたをジェット機が北へと飛んでいく爆音。
旅客機なのでちーっとも怖くない。手を振ったりなんかして童心である。
見えないだろうけど手を振る。もし見つけたら、きっといいことあるぜよ。
この場所は平和。
誰にもらったかと問われれば、それは神さま。
平和をあげてるでしょ、と言わない神さま。恩着せも取引もない神さま。
見える人にだけ見えるのである。





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六本木の空

2010-06-12 15:20:52 | Weblog


(基地の実態というサイトに詳細あり)

仕事場にいると、日に幾度となくヘリコプターの轟音に見舞われ
テラスのサッシを閉めなければならなくなる。クーラーを使わない
時期に閉めると暑い。けれども我慢ならないヘリの音より、まだ
ましなのである。
テラスに出て、すぐそば上空を飛ぶヘリを見ることもあるが、誰が
乗ってるんかい? とつぶやく。渋滞なしの空を縦横に行き来できる
のはいったい誰なんかい? と。

轟音に慣らされて二十数年過ごし、でも沖縄や近くの横田よりマシだ
と思うから特に物申さずにいたけれど、たまたま六本木へ向かう道の
歩道橋を歩いている途中、ヘリの音に振り向き、グッドタイミングと
ばかりに撮ったのであった。
撮りながら、ヘリの中からこちらを双眼鏡で見てるんじゃないか?
撃たれるんじゃないか? なんてチラと思ったんだとカメに話し、
大ウケしました、はい。
しかし、米軍のヘリに脅威を感じているのはわたしだけではないと
(http://home.att.ne.jp/sigma/azabu/jittaitop.html)知った。

武装しているかどうか知らないが、乗っているのは将校、つまり軍人
であるからして、わたしはおっかないのである。
二十代までは警察官も怖かったし、武装と制服が大の苦手なんである。


軍隊は怖い。軍人も怖い。武器を持っている人からは逃げたい。
目の前の、いつも窓から見えている緑のこんもりと茂るオアシスの
ような風景の中に降りていく羽を生やした黒い鉄の塊が怖い。
落ちたらどうしようという以前、軍用だから怖さが煽られるのだ。

都心部のさらにど真ん中の一等地にも日本の統治できない場所。
外国人が占拠したまま、ずっと轟音が響きつづけている場所。
その引き換えに平和をあげてます、と言われちゃって、もらったのか、
平和は。

上から目線の物言いに胸がむかつく。したり顔の評論家にもむかつく。
頭のいいふりをしているだけじゃないか。
そりゃあたしは何もできないよ、でも上から目線にハイそうですか、
とは言わん。
ほんとに正しいなら、米軍で稼ぐ軍需産業とナシツケテコンカイ。
と、ツィッター怖いのでブログでつぶやく今日この頃であります。

新国立美術館でゴッホのムーディーな星降る夜を見た帰り、轟音に
見舞われるかもしらんよ、いい気分がぶっ飛ぶよ。
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超越したい

2010-06-10 00:15:27 | Weblog

あご髭がすっかり白くなってきたベイビー、おやすみ中である。。
知人からずっと前の誕生日プレゼントにいただいた名前入りタオル、らしくない色
だけど大事に使ってる(長持ちするようにあまり使わないのだ、ハハハ)。

余命半年と言われてもう三年も経つのよ、死ぬ気がだんだんしなくなってきたわ。
映画「プール」の中でもたいまさこ演じるキクコさんの台詞である。
そういう人が実際にいるのだろうなとも思う。
その三年の一日一日は、余命を数えないで済む体で送る日々とどのように違うのか。
濃密なのか、軽いのか。輝いているのか、ひっそりと静かなのか。
キクコさんは、「かもめ食堂」や「めがね」の時とほとんど変わりなく見える。
そう、ひょうひょうと風に乗るのが上手で、意志なき意志で動いているような人だ。

生きているものはいつか死を迎える。死に向かって時を過ごすともいえる生。
死を知らないばかりに、死を恐れているのだ。
知らない、ほんとうに知らない? そうだろうか、とも思う。

夜遅く、寝いっているベイビーをじっとみつめ、その死を想像すると息がつまりそうだ。
体が震え、悪いイメージが湧いてくる。
恐がり症を克服するためにダンドリを何度も復習してある。キクコさんもダンドリして
タイで暮らしているんだろう。

準備オーケーだから、光そそぐ場所にいよう。
死を恐れず超えられるよう、悔いなき日々を送ろう、な。
ンガーンガーとイビキ轟く夜に思った。



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ジコチュウ、花に諭される

2010-06-08 00:32:02 | Weblog

鉢植えの花が終わって葉だけになっていたものが、ふとみたら違う花に植え替え
られていたら? どうする? びっくりしません?
フラワーショップのレンタル植木鉢のメンテナンスじゃないよ。プレゼントして
もらった苗を植えておいたらよく育って、花が盛りになって、留守にして戻って
きたら消えてた。よく見ると、違う花に変わっていた。

デスクの伝言メモのカードには「植木鉢の花、雑草化してたから換えておいたよ」
とある。これ、二度目(東京にて)。
気を利かした友は十分に自己中なんだけど、自分では良い事をしてあげたと思って
いるわけで、捨てられた花には申し訳ないことだった。

「頼んでないよ、元あったの返せ」とガツンと言おうにも、タイミングが問題で
角がたつ。(いや、こちらにはすでにトンガってるわけだけど、相手はノー天気で
通じないから困った‥)
花の扱いにはその人の性格が反映されるんじゃなかろうか。枯れた植木鉢がベランダ
に並んだ部屋の住人、いい印象をもたれるのはムリって感じで。たとえ何か事情が
あったにしても、そんなの言い訳とか思われるのが一般的だろう。

で、枯れるのをイケナイと思っているのではないだろうか。
枯らして放ってあると、価値のないゴミみたいに思ったりするんじゃないか?
そういう人は、障害や老いにどう向き合っているんだろうか? なんて考える。
上っ面だけで生きてるツモリになってるんじゃねーよ、とついでにボソボソ。
ツイッターやってないけど、つぶやく。



久しぶりにハハが電話してきて言った。「バラが枯れとるわ、なんでだろ?」
すぐ上の姉が重曹が虫除けになるとどこからか聞き込んできてハハに教えたらしい。
ハハはそれを実践した。「重曹もちゃんとやって虫もおらんようになったのに
枯れた、新芽が伸びて葉がフサフサしてたのに」とたいそう残念がって話した。
園芸はバラに限らず、人が施した結果しか出ないんだよ、と答えた。
なんでかって、母さんがやったことを思い出せばわかるんじゃないの? と。
だってちゃんと手入れして肥料もやったし、薬も撒いてるし、とボヤキ続ける。

バラは咲いたときの喜びが大きい分、虫や病気の被害のショックも激しい。
他の花が少しダメになったくらいで騒がないだろうに、わたしもバラが咲かない時は
憂鬱になった。ハハの気持ち、わからんでもないが。
「勉強勉強、もっと知るしかないよ、失敗してわかるってことね、バラもさ」と
答えると、もうわかった、あんたと話してたら思いついたからもういい、そう言って
電話は切れたのであった。

何を思いついたか、思い出したかわからないけれど、あの執念をわたしは引き継いで
いるのであろうかと、ふと思ったりした。それともバラがそうさせるのであろうか。
反省したり悔いたりして、手を尽くした分の喜びをいただくバラ栽培。
本を読んだりサイトを調べて参考にしたりで少しずつ覚えてきたけど、花の語る声が
聞こえたら、無神経だわね!、やさしくないね! とか言われているかもしれない。
いずれにしろ、自己中は通用しないのが植物、自然相手であるなあ。
まあ、そこが楽しいんだけど。ハハもたぶん人より花の方が好きなんだろう。







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