想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

空と大地とかいじゅうと

2010-11-30 02:17:47 | Weblog
冬将軍の、そのちょい下っ端の木枯らし大将が午後からおでましで
ごうごう、ごうごう、樹々を揺らしながらお通りの日。
雪虫も飛んだし、枯葉の地面が見えているのももう少しの間。

ふかふかここちいい枯葉じゅうたんの上で、ごろんちょしてる
かいじゅうは、これでもおまじない中なのです。


何のおまじないか。
それはおっかあに怒られないように、さっき見たのは幻だよと
暗示をかけるためのごろんちょ。
犬は犬なりに必死にヒトをごまかそうという処世を身につけております。

はいはい、何もみなかったですよ~。
ネコ撫で声で答えて、ばっちり撮ります。
誰かのウンチをクンクンしていたのなんか、見てませんよ、悪いクセ
イケナイことはしてないですよねー、かいじゅう君。

彼がもしもヒト語でしゃべるとしたら、こういう場合、いいわけが
下手な、しどろもどろの辻妻の合わないことを焦って言うタイプ
だろうなあ。
好きです、嘘が下手でごまかせないドジっぷり。

いいわけシャアシャアなのは、ヒトくらいなんでしょうが、東京の町中の
野良猫なんかヒトに似て、どっちかってえと嘘八百な顔したコを
よくみかけます。
うさこはうっかり化かされそうなので、遠目にみて過ごします。
くわばらくわばら、ヒトに疲れて湿布薬、肩と背中にベタベタの夜。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続、浄土はどこにあるか

2010-11-26 01:49:45 | Weblog
 神仏の意味を、神とはなにかを学んできた二十年余の歳月、ミナマタ
から遠く離れ、場所ばかりか思いも薄まってくるような気さえしていた。
この稿を書いた最初の日から四日間途切れている間に、水俣病関係の
新しいニュースが一つ流れた。
新潟水俣病の患者へ現環境大臣が直接謝罪するというものであった。

事件からすでに半世紀の時が経っての行為であることに注視した言葉は
「初めて謝罪」という表現だった。しかしそのことに思いいたる人が
はたしてどのくらいいるだろうか。
(新潟阿賀野川流域で発生し、新潟水俣病と名づけられた。
すでに熊本で同じ症状の水俣病が発生していたにもかかわらず、無策
で手をこまねいていた政治、行政の無責任が大きな非難を招き、結果的
に両水俣病の救済の道が前進するきっかけとなった。大きすぎる犠牲)

「漏れたり、手をあげなかった人がいないようにしたい」という患者救済の
一時金二百万円について言及したにしても、それを恒久法へという要望
については返答を先送りするという中途半端な「大臣の言葉」であった。

半世紀以上というのは、生まれた子供が老いの域に近づく年月である。
オレの人生ほぼ決まりと思い出す頃である。
その間、放置され進展しないまま、結論先送り、担当官僚は何代変わり、
大臣何人目なのだろうか。犠牲者の命は無念のまま尽きてしまう‥。



わたしは熊本の出身である。
海から遠く隔たった山間部で育ったけれど、魚は天草や大分、鹿児島の海から
市場へ揚がる。庶民が買うのは近海モノだ。
それがにわかに途絶え、地域の魚店は消え、ミナマタは地元の人々にとって
対岸の火事ではすまなかった。
「これから貝や近海モノの魚を買ってくるなよ」という父の言葉を覚えている。

何をいまごろミナマタか、という問う者はいないだろうが、自らに向けて
それを思わないではない。
ミナマタに終わりはない。重すぎる四文字だ。でも単にそれだけが理由で
考えているのではない、理由は他にある気がする。

石牟礼さんはある意味偶像であった。偶像を崇拝するやからが多々いる中で、
知ったかぶりする大人たちの中で、下っ端の若い者たちは考えたり感じたり
することを止め、その一人であるわたしもビラ配り要員であり集会の頭数と
して駆り出されていくのが常であった。
患者支援運動や訴訟は紆余曲折の長いみちのりを経て、年号が変わり世紀を
またいでようやく一応の終結をみた(ことになっている)

熊本学園大学では水俣学も開講し、現在は水俣市全体が風化させない活動に
とり組んでいる。
そして水銀ヘドロが堆積した湾は埋め立てられ、産廃処理施設の用地となり、
それを被うように公園が造成された。明媚な湾は変形し、父祖の思い出語りに
出てくる地名を辿りようもないくらい変わった。
長い歳月が経過した。
患者も市民も、人は生きていかねばならない、終わらない業を抱え、人生を
送らねばならない。

ゼッケンをつけバスに乗り集会へ行く、市内の繁華街でビラ撒きし、街頭で
ハンドスピーカーを片手にスローガンを叫び、カンパを募る。
そういった日々にはまるで感じていなかったことが、一昨年ごろからむず痒く、
しかしどこと知れない痒みで、対処できない苛立と、もどかしさがあった。
胸の奥まったところにそれは生れ、小さな瘤を作って消えなかった。

この森のある意味ひとつの浄土に身を置いて十年余りが経った。
もちろんずっといっぱなしではないけれども、ここで過ごす時のほうが主となってから
そのことの意味を自覚しはじめた頃と重なっている。



「苦海浄土」は医学的資料び裁判、交渉過程の資料以外の本文は、ほぼ
水俣弁で記述されている。
水俣弁は熊本市内やそのほかの熊本近郊の方言と相通じている。
わたしは時々長距離電話で話す母の言葉を思い出す。日常では使わなく
なったふるさとの言葉。それは翻訳なしで直に感情を刺激する、コトダマを
内包していた。

字面を目で追うと同時に音のひびきをもって頭のなかで語りかけてくる。
それは、過去に現地に足を運んだ経験よりよほど重く、ずっと大きな力で
わたしを束縛してしまうのである。
言葉のひびきがこだまして、胸の奥のほうでなりやまず、つぎつぎに湧き出し
流れ続ける水の音のように、読み終えているのに止まらない。
眠るわけにはいかず、夢のなかで思い続けるのである。

そして考え始めた「浄土はどこにあるか」ということだが、答えは最初から
あったのに等しい。
それがわかっていることが、掻痒感の原因となっていたのだから。
知っていて、わかっているはずのことをそれと認めない、あるいは行わない、
そういうかい離が、アレルギー反応を起こした。

海は穢され、人間の身体も容赦なく傷めつけられた。

泥に咲く花を覚えておいでだろうか。
仏の指差す花は泥沼の上にある。泥ゆえに花をつける。
苦海となったふるさとで生きていかねばならない人の、その魂はしかし
水銀に狂わされなかった。
身体五感が意志に反して退化し滅びゆく。神経は役割を放棄し、脳幹だけが
人体の最後の砦となるという特質が病状にあった。
このことをカメに問うと、だから傍目に映っている姿と、当人の内面は
全然違うということになるね、波立たず透明な湖みたいな場所を感じて
いるかもしれないよ、と返ってきた。

その身体の上に、輝く魂が立ち顕われているのを、おそらく作家は最初に
みてとったのではなかろうか。胎児性などの重症な患者ほどその傾向が
強いことに気づいていたのではないか。

三部を成す苦海浄土は、現代人が忘れかけた人間の尊厳を、つまり魂を綴った
作品である。多くの人が胸を打たれ、現実を知り、またわたしが思ったように
仏の浄土をそこに見いだした人も少なくないかもしれない。

浄土とは、美しいという言葉と裏腹な、残酷で厳しい世界であると思うのだ。
しかしその奥まった箇所まで手を伸ばせば、たしかにゆるぎない安らぎが
あるのだった。
それはカメが教えてくれた世界と同じである。
そこへ至るには、鋼よりも堅い信と強さがなければならず、その強さは
形容しがたいが、悪の手の及びがたいものとでもいえようか。

そう信じることができたから、わたしは今こうして生き、浄土の樹々と生ける
ものらと語らって、遅々としてだが学んでいられる。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樹のなかで想う

2010-11-25 09:54:35 | Weblog

森は水をたくわえ、水は人の間を通り抜け、海へ。
想像すること。



森にいて、海を思う。
虫も鳥も魚も、つながっていることを想像する。
わたしもつながりたい。




三十年から四十年、一番古い樹でもそのくらいの齢と
おぼしきこれらの樹、樹の世界ではまだまだひよっこ。
なのにあなたがたよりも長く生きてきたわたしを、歳
若くとも慰めてくれる力があるのね。
黙って立っているようにしかみえないけれど。

黙っていると思うのはヒトの勝手で、と答えが返って、
樹は樹の言葉があるという。
あるときは歌うこともあってさ、という。
鳥のヒナをあやすのはわたしの好きなこと、と聞こえる。
そういう声が響いて、さざめいて、周囲を包む。
存在とは、響き。それが生きているものの証。

コンクリートに囲まれたヒトの方は、響きなどとうに失い
ついでに言葉も通わなくなってきた。
遠い峰に昇る烽火を見た眼と遠来の足音を聞いた耳の主も
今はどこを探せばいいのかわからない。
知っている者はひっそりと声を上げなくなった。

いったい誰のせい?誰のせい?
誰しもが隣を見、前を見、上を見る。
都合の悪いことはお上のせいで、前を歩いた者のせい。
では誰が、失ったものを取り戻すために考えるというのか。
明き盲目(めくら)が旗を振り、ぞろぞろと連なる列は
すでに道にはみ出すほどに増殖して。

独りではないと思いたい。
影ぼうしのように離れない不安
他人の背中に続いても消えない。
樹の根元に座われば、聴こえてくる。
忘れないでと呼ぶ声。ささやく声。泣いている声。
そこによりかかっていると、いつか晴れてくるのだ。

(海の底を被った水銀ヘドロの嵩はとうてい掬い採ることは
不可能で、ヘドロごと、水銀ごと埋め立ててしまった。
百年前の美しい湾は消え、そのあとに醜い所行を隠すように
公園が作られているのが現在の水俣湾。人々は生きていかねば
ならないので、それもまた一つの解決であったけれど、問題は
当初から患者組織が反対していた埋め立ての方法。
あと百年持つかどうかが問題だ。埋め立てたコンクリートの亀裂
から水銀はふたたび海を汚し、魚は何も知らずに死んでいかない
ともかぎらないからだ。
水処理の男よ、課題は尽きないぜ。世の資本主義の罪と貴方の仕事は
どうやら風が吹けば桶やがもうかるの関係らしいね。
罪業の傍らで「消し屋稼業」大いなる野望は芽生えたろうか?)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベイビーの踏み台

2010-11-22 23:37:40 | Weblog

ベイビーはまだ子どもの頃、ブレイザーという車高の高い大きめの車に
最初は助手席に乗せていました。隣に座ってごきげんでした。
でも、犬の学校で訓練士にそれじゃあ甘やかし過ぎ、おまけに危ないよ
と注意され、ジャンプして後部に乗るやり方を教えてもらいました。

それ以来、車が変わってもずっと飛び乗るのがあたりまえになっていて
得意そうに飛んでいました。
そのせいで足腰弱ってるはずの今でも助走距離をとって飛ぼうとします。
そして、着地でたまに転けてしまい、ちょっとがっかりした顔をします。
犬も照れたりがっかりしたり、そんな表情をします。



最近とみに足が弱ってきて、筋肉も落ちてきました。
そこで前々からカメが踏み台を作ろうと言ってくれていて、カメは忙しい
ので遠慮していたのですが。
それでも、どんなのが出来るのか、期待しながら待っていたのです。
予想外のスタイルで、使い勝手のいい踏み台ができてきました。



さっそく練習です。
飛ばないように、助走しないように、階段を昇るやりかたでこの踏み台に
足を置いて車に乗るやりかたを教えます。
なかなかできなくて、どうしても飛ぼうとするのです。
見慣れない物を用心してさけようとします。

うさこの言うことを聞いてくれない‥、ちょっとヒステリックになりかける
ところへ、カメ登場。
ほらほら、こうやってやるんだよと子どもをあやすように教えてくれます。
なんだかな~、ベイビーはすぐに覚えたようで、あとは出たり入ったり
慣れたら安心したのか、うれしそうに使っています。

車は乗り換えるので踏み台は持ち運びできるよう軽く作ってあります。
常備して、これでどこへでもでかけることができます。
ベイビーの足も痛めなくてすむと、一つ安心しました。

「浄土はどこにあるのか」一つのまとめに至ったけれど、まだ考え中。
考えていると、さらに見えてくるものもあって明日あたり更新できれば
いいんですが。

ではまた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄土はどこにあるか

2010-11-20 14:43:29 | Weblog
新装版「苦海浄土」わが水俣病(石牟礼道子著講談社文庫)は
あとがきの後に解説、原田正純医師の「水俣病の五十年」が
加えられている。(2004年1刷、2007年2刷)

国による産業公害と公害病認定に恐ろしいほどの歳月を要した
「ミナマタ」の名を聞いたことはあるけれどもよくは知らない
という人にとって簡潔でわかりやすくまとめられている。
まずこの解説を読み、本文を読まずにスルーするならヒトデナシ
であるよ。

本書は1969年が初版。2004年刊行の石牟礼道子全集には
苦界浄土に続く第二部「神々の村」、第三部「天の魚」が
改稿、また書き下ろしを加えて収録された。
長く重い、命について書かれた読む人を圧倒する珠玉の作品。

いや、本の紹介などせずともすでに周知のこの作品はしかし
多くの人に読まれているのだろうか。
文庫版が持ち歩きに便利なので書店に立ち寄ったところ、
本好きと見える(いまどきは珍しいのだ)書店員が即座に
「ああ、石牟礼さんのは近頃新しいのが出始めているから
うちにも置いていると思います……、いや、あれ、ないな、
新装版出てるからあったと思ったんだけど取寄せですね」
と言った。10日ほどかけて届いたわけだけど、3年たって
2刷という奥付の数字を見てやはりなあとため息が出た。

本は売れていない。
紙の本より電子書籍へ移行したほうがいいと思っている書き手
も増えているだろうし、付録つきのアホ雑誌ばかりで商売
せざるをえないような状況で出版社も事業継続そのものが
危ういのだろうが…。
とまあ、そのようなご時世にあって宝物のようなこの作品に
めぐり合うことができた人が紙であれ、電子版であれ、
どんな形でも少しでも増えてほしいと切に願っている。
子々孫々まで語り継ぐべきことであるから。


(東北自動車道那須PA。塩焼き魚、眺めるだけで買わずじまい…)


苦しい海とは不知火海(八代海)、新日本窒素肥料株式会社の
チッソミナマタ工場はその海浜に建ち、あろうことか工場の
排水口からは廃液の有機水銀母液が海へ垂れ流しにされ、魚介
が死に絶え、沿岸に猫一匹も生存しなくなった漁のできない
海のことだと誰にでもすぐに知れるが、その後に続けられた
「浄土」という言葉は何を意味するのだろうか。

いくら読んでもその理由は見えてこない。
反対に古寺の堂内に煤けて剥げかかった色合いで、でも十分に
恐ろしさの伝わってくる地獄絵がそのまま現実になってしまった
漁村の風景が緻密な言葉で描かれているのだ。
生きる糧を恵んでくれる海を奪われ、一家の大黒柱の生命を
奪われ、いつまでたっても立ち上がらない乳飲み子を産む母親
が列をなした生き地獄しかかかれていないのである。
作家自身の声を聞きたいと思った。浄土の意味は何なのか。

読むほどに苦しさの増す本書を携行し、気を取り直し取り直し
しながら読み続け、感じたかった。
極楽浄土よ、天然の恵みで生きられて栄華よ、龍宮城は本当に
あるとよ、と語る漁師の言葉通り海の美しさ。他所モノには
羨ましくてならないだろう風景が作品の冒頭に描かれている。

チッソさえなければ、そこに生きる人にとっては浄土であった
というような意味ならば、それは浅薄すぎる。
なぜミナマタの残酷な物語(フィクションではない)に浄土と
名づけられたか。
若い頃はぼんやりとした疑問であったが、ぼんやりとしていた
のは浄土も穢土も境目を知らなかった、無知だからであった。
(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二重丸だったけど…

2010-11-19 06:31:38 | 親分

ベイビーの検査結果は予想外の二重◎でした!
担当医の先生もびっくり、この年齢でおまけに薬の副作用もなく
「あんたーすごいなー」とゴシゴシと撫でてもらいました。
おっかあは一安心でした。



でも残念なことに、担当医の先生は今年いっぱいで日本を出て勉強しに
行ってまいります、ごめんなさい、という話だった。
勤務医なので独立する口実かと思って尋ねたら、そうなのだけどまずは
留学して来年は都内ではなく神奈川に開業する、だからプーちゃんとは
もう会えないね、ととても申し訳ないと謝ってくれました。
引き継ぎしますからと言われたけれど、患者の立場ではやや不安で…。

歳とった人間も病院でこういう目に多々遭ってるのかもしれんなあ。
プーとふたり、喜び半分の結果でした。
ご心配いただいている皆様、いつもほんとうにありがとうございます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いのちの温もり

2010-11-18 00:19:12 | Weblog
先日の午後、曇りだった空が急に晴れ、陽がさしてあたたかくなった。
思わぬことに喜んで外で遊ぶ。
つかのまのことでまた雲が戻ってきたけれど、温もりが恋しい時節に
なったことをしみじみと感じる。



このごろ、君が遊んでいるのをこうして離れたところから見てると
カメラをかまえるよりも、もっとずっとずっと見ていたい、いつか
君が歩けなくなることなど、思いたくもない。そんなことをふいに
考えてしまう。
いけないねえ、目の前にありもしないことを思うなんて。
脳みそにあやつられて、悪い性格の心配性が顔を出すねえ。

じっと見ていると、こっちへよたよたとやってくる君。
頭をいくぶん低くして歩いてくるのは、抱っこしてと言っている時。
おっかあもかがんで両腕を広げて、さあと待ってるさ。
君はこんなに大きいのに、赤ん坊のときの、ほんとうに抱っこされて
いたときと変わらない。

君を抱き寄せる温もりを、しっかりと覚えていたい。
もう夏でもないのに水に濡れた君の身体は両手にあまって、
人が見ればおっかあが君に抱きついて甘えているように映るだろう。
前かがみになってふところに入ってくる君の顔を両手に包んで
頬を寄せた拍子に、君はぶるんと身体をゆすって水をはじいた。
感傷とは縁のなさげな君のそういう無骨なところも、おっかあは
好きだなあ、だから毎日明るくしてこれたんだな。

おまけにだんだん君に似て、近頃じゃあひょうきん者で通ってる、
泣き虫だとはバレなくてすんでるさ。
サンキュー、ベイビー。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤と黒

2010-11-17 09:39:53 | Weblog

九割方、葉を落としてしまった樹々の中にひときわ艶やかに衣替えして
周りを慰めてくれる「どうだんつつじ」の赤と、ベイビーの黒。



東京では歩くのもやっとだったベイビーが森に帰ってからよく走る。
走り疲れてドタッと休んで、休めば快復してまたあちこち散策している。
くんくん親分の本領発揮で、留守の間にやってくるケモノの匂いでも
感じているのか、嗅ぎ回って飽きない。

庭の手入れを手伝ってもらって今年もなんとかしたくを終えて
一面雪に埋もれる季節を迎えられそうだ。
バラ全部に肥料をやるのも大仕事なので助かった。でもそれをしないと
あの香りと色とに包まれる喜びは来ないもんね。
花が咲いたらまた見に来てもらうくらいしかお礼もできないけど、
ほんとうにありがとうございました!








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

午後4時半の月

2010-11-15 17:30:00 | 


愛娘にぞっこんのT君が「○子ちゃんオススメのお汁粉、うまいんです!
ほんと!」とリキ入れて言うので、ではでは、と作ってもらいました。
作ったのは○子ちゃんじゃなくて、すっかりパパになっちまってるT君
なんだけど‥。

あっさりとほどよい甘さで小さなお餅がオサレなお汁粉。
みんなでいただいて、しず~かに。日暮れ近くなってるこの時間に
ちょうどよい温かさで小腹にしみわたりました。
ま、いい感じね、とかそこそこ褒めて(ほんとはとても美味しかった)
箸を置くと、カメがカメラを取り上げてパチリ。
何を写してるのかと思ったら、お月さんでした。

○子ちゃん、生まれる前から知っていて、生まれたら名前を考えて
その子がすくすく育ってるってことが、胸の奥のほうをあたたかく
してくれる。そのたからものを大事に大事にいとおしんでいる彼から
家族の団らんが伝わってくる。
生活できることの喜び、シンプルなそれだけのこと。
それが人をこんなにも変えてしまうなんて、ステキだ。

そういえば、うさこも生活を知ってからほんとうに幸せを知った、
そのころのことを、少し思い出しました。

石牟礼道子さんの「苦海浄土」を傍らに置いて、数行読むと本から手を離し、
置いてからしか再び読めない衝撃を、いくたびもくりかえし身に受けて、
それでもまた手にとって目を凝らす。
シンプルな喜びを奪われた苦しみを「知らないことの後ろめたさ」が
体中を駆け抜けて、しあわせとはその足元と手元と唇の先、まなこのすぐ
前にあるものだと割れるような音響が耳元で叫んでいる。
同じ日の午後、うさこの胸の中には現実と過去の悲劇が混在して
どちらかといえば疲れ、ひしゃげたような心持ちだったのであります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩秋の敵?

2010-11-15 13:11:46 | Weblog
ほとんどのもみじが散って、この木がいつも
一番最後に残ります、今年もトリをつとめて。
見ごろを先週中ばに終え、散り敷かれた枯葉のじゅうたんはとても
ぜいたくです。歩いているだけで気持ちがほんわりします。



晩秋の森は気持ちいいのだけれど、問題は家の中!
あの臭~いカメムシの襲来に今年も備えが足りなくて後手に回って
しまったのであります。
建物の周囲の落葉をブロワーで吹き飛ばし、熊手で掻き集め、
あの手この手でカメムシの巣を無くし消毒します。
一日がかりでも終わりそうにない‥。

夜は豚しゃぶをみんなで食べて、そのあとはビデオ鑑賞。
ビデオったって、出演者は皆の衆ですけんね、
数年前、十年前の建設作業中のほぼ遊んでいるか食べて
いる風景の映像で、時がたってみてみれば、その時の感情も洗われて
海辺から凪いだ沖を眺めるようなもんで‥。

のはずだったんだけど、ボーゼンとしている方がいましたね~。
「あんなにバカだったなんて」「ほんと自分勝手なことしかしてない」
「先生に申し訳ないことしてたんだなーと思うとガックリですよ」とか
いろいろブツブツ言ってる人、何人でしたか、いましたねえ。
あの頃はあんなに悩んだのに、苦しんだのに、って思ってたんだけど
ほんとかよ?ただのアホだっただけじゃん、って感じなようでした。

事前に編集で確認済みだったうさこは、それにしても木材やいろんな材料を
無駄にしてたんだよなあ、打ち込んだ釘は曲がってるし‥、二度手間どころか
三度も四度も同じこと行ったり来たりしてるし、無駄無駄無駄‥、知らんかった、
と粗捜しはじゅうぶんに済ませた後なのでレーセーに観られたのでした。

素人の蛮勇、メクラ蛇におじず、若かったなあ、バカだーとしみじみ思えて、
すべて過去形で話ができるのって、晩秋のしあわせな夜ではないですか、
とは言わなかったけど、さて、まだ観ていないみんなはどんな顔して若い自分を
見るのやら。コワイもん観たさ半分懐かしさ半分かしらね~。
ドキュメンタリーに仕上げたら、またみんなで観ましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんばんは~

2010-11-10 19:26:31 | 親分
ばんごはんを早めにいただいて
おっかぁに何かベツバラちゅうのは
ないのでしょうか?
とアタックちゅうですよ、
明日は病院で検査だもんね、
甘えるの作戦展開ちゅうであります。



ひっつき作戦、どこまでも~ついていくのだ~。
おっかあが冷蔵庫のオヤツ入れのタッパーを
開けるまであと少しである‥、と思う‥

ps:闘病犬ベイビーは血液検査をしにいかねばならんのです。
薬を飲み続けているので。二三日前まで実はぐったりして
歩くのもようようという状態になっていて、とても心配してました。
カメのところへ一緒に連れて行って、なでなでしてもらってごきげん、
帰ってきたら、なんだか元気になったような。
ずんずん歩いて散歩して腹も減るらしい‥。
なんだったのかなあ、と思いますが。上がったり下がったりして
こちらを緊張させてくれます。
感謝しています、先生とベイビーに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふるごとじゅくと森の学校についてのご連絡

2010-11-09 18:57:15 | Weblog
   (ここんとこ、だらだらと体力維持に努める日々のベイビー)

想風亭日記、〃newを読み続けてくださって、ほんとうにありがとうございます。
勝手気ままに仕事を離れた文を書きたいと思って始めたこともあって、最初は
ふるごとについてはあまり触れないできました。
けれども本音を書くとつい出てしまうわけでありまして~、それはうさこの勝手
かと思っており控え目にとこころがけておりました。
ところが、でございます~。

テキトーに、いつものうさこのだらんとしたカンジで書いた日よりも、しっかと
思いつめて書いた日のアクセスがダダダダーっと多いことにある時から
気づいていました。
そして知っている方も知らない方も、会ったこともない方も入り混じるネット
なので気をつけて書くようにしてはいるのですが、そこんとこがうさこなもんで、
気配りも足らないときも多々あります。
自分のために書いていると居直る気持ちはまったくないので、気にしながら
書いてきました。

パスワードで閉じたページは
カメのことをすでに知って学んでおられて共通の言葉を知っている方へ向けて
のものでしたが、あるとき、そのパスワードがどうやら漏れていることがわかり
更新をやめ、パスワードを変更しました。
カメ先生に迷惑をかけてはならないと考えたからであります。
なので、閲覧できなくなった方々からパスワードを教えて、開かないよ、という
メールを度々頂戴することとなりました。
ご連絡できた方もいらっしゃいますが、コメント欄から入ってこられると、返信が
できません。うさこの連絡先へメールをいただければ返信します。
(当初のパスワードは破棄し、新しくなっています。)

そういう事情もあってふるごとじゅくでの新記事は投稿していません。
また9月にはカメのことをもっと知りたい方へ「くじほんき.com」へリンクを
しましたが、カメのページそのものはまだ閉鎖されたままです。
12月の森の学校再開に合わせて更新されますので、そのときにはまた
お知らせします。

この秋は色々と新しい試みが始まったり、また出会いもあって、新たな
気持ちで学ぶことに意欲が出てきました。内省的ばかりでなく、挑戦も
しようかというカンジです、ウホッ、うさこにしては珍しい…。
いつも拙い未熟モノの話をお読みくださって、ありがとうございます。

うさこ連絡先は右欄カテゴリの一番下をクリックして開いてください。
よろしくお願いします。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧事の学びの場で

2010-11-08 16:51:03 | Weblog
知るには問えと言われる。
箇条書きで問うのとは違う、自らの答えを内包した問いは
次へ進むための確認であり、試みである。

小さな子どもが父親に抱かれたまま、電車の窓から見える
一つ一つを指差して、あれは? あれは? あれは? と
尋ね続ける。父親はそれに淡々と応じる幼子の遊び。
同じような単純な問いかたを大人がしてどうするかと思うが
おとなもすなるクイズなる暇つぶし、なんてものがある。
前後の脈絡もないような「箇条書きで問う」ことでわかる
ものはいったい何なのだろうか、何を知りたくて問うのだろう。

旧事の学びは問うことが学びの形なので講義をだらっと聞くだけ
では次へ進むことも深化させることもできない。
人の数だけ問いはある。形式はないから自由だが要点は、学ぶ目的は
何なのか?を自らがわかっていることである。自分が知りたいのは
何なのか、くらいわかってないと‥。資格取得などの実利が目的では
ない学びかたは意外に、「で? それで何になる?」なんて思い始めて
挫折する人が多いんである。

知ったかブッタになりたくて来てもしょうがない場所だから以前から
問うことを条件、足切りがされるわけじゃないけど居場所がないから
黙っているだけだと続かないんである、結果的に。
人集めして、銭とってナンボ、なんてカルチャーみたいなことやって
いられるほどカメは暇ではないこともその理由で、問わない人の前では
話してくれないのである。

真剣で真面目でなければ話の輪には入れない。なんとなく混ざるって
のは居心地が悪いから感化されて想定外に考えちゃったりする。
そんな場所、いまどき珍しいから覗きたいというような、そんな
好奇心の人も混ざる。きっかけが好奇心でも、嘘でも、本音は隠しようが
なくて不真面目は淘汰されていく。

うさことて、最初から何かをわかっていたわけでない。漢文が苦手で
天皇アレルギーの左寄りな無知であった。自分でもハマったのが意外である。
どこにもなかった答えがここにあったから難しくても魅力であった。
要は本音が問題かな。わからないことは早く認めて問えばいいんである。
根っこが腐っていなければ‥。

貞善という言葉がある。
貞は卜と貝の合体した字で、神に問う形を示している。
貝とは宝のことで、おのが宝を捧げて神に尋ねるのである。
宝は善、おのがまことでそれを物質にかえると金である。
銭ではなく金であり、桃である。
いったい何のことかとわからないままに、こういう話をだらっと
聞いてもしょうがないのである。つきつめると面白い。

それって何? と言葉の意味を問うのは幼子の問いに似ている。
何?ではなく何故?と問い、なぜならばを考え、だから、と突き詰める。
この一連を含めて問う、そこまで自分で思考した上で問え、である。
一行解るのに一ヶ月、ザラである。
それがおもしろくて二十年やってきたが‥もちょっと速度を上げると
熱など出て、ちったあ易われるかもしらんなあ。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海から遠く離れて

2010-11-08 12:15:08 | Weblog

ニュースでは東シナ海の波頭を毎日映し出している。
行ったことがない場所、これから行くこともないだろう遠いところ。
争いの火種がそこにくすぶって人の心をかきたてている。
そうでもないかぎり、わたしには見ることがなかった小さな島影と
波の上を高く低く飛び交う海鳥。
啼く声が聴こえてきそうだ、こんなにも毎日見ていると。



島国の端っこにあるやや大きめの島の真ん中あたりの山裾の町で
育ち、北上して大きな島の都会へ移り住んだ。
そしてまたさらに北へ、大きな島のヘソあたりにある森へ。
海から遠く離れて暮らしている。

島国に生まれ、海を懐かしまない日本人はいない。
海を母と慕い、恵みに甘えてきた。
甘やかされて幸せだった。

苦海へ変えてしまうのは、いつも我々人間だ。
大陸の大地も海の潮水も、ひとつづきで母は独りだ。
母の嘆きをおもいやることもなく、甘えてばかりの二千年。
そろそろ、潮時なのだろうか。
海から遠く離れて、母を想う。
もっと大きな心で、遠くまで見はるかす眼を持てと、聴こえる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛行船を眺める

2010-11-06 16:08:11 | Weblog

あ、飛行船だ。
窓から外へ目をやってそういうと、隣から「さっき、そう言ったじゃん」
とするどい指摘、聞いてないねえ人の話~と言われたのであった。
そう、そういうこともありますなあ…、もっと「ああっ、飛行船だ!」と
叫んでくれればすぐに「ああっ!」ってなったのに、そう応じました。
バタバタとカメラを取り出し、すっかり話の腰を折ってヘーキのへー
ザエモン、「で、なんだったっけ」と撮り終わって聞く始末。





いつも混雑しているけど、たまたまなのか空いていた。
以前から興味しんしんであったドーナツを買うチャンス!である。
並ばなくていいからね。
シナモン味のシュガーがかかったのを注文すると、揚げます、とさ。
そうか、揚げたてをくれるのか。そりゃいいなあと、ゆったりと待つ。
不思議なほど混雑していない246、ほんとに珍しい。



先に買って食べている人などを撮ったりしながら待つ。
ドーナツというか、揚げパンですね。マラサダっていうのがほんとの
名前でポルトガル生まれでハワイ育ちだそうです。
ふわふわっとして、ほとんど油っこくなくて、中はわりにしっとりと
していて食べこたえもあって、そんなに甘くなくてちょうどいい。
昼時に並んでたのはランチ代わりにもなるからだとわかりました。
スイーツ解禁、と小さく言ってうさこも食べたのでありました。

山の中では味わえない都会の味っつうかね~、そうでもなくて
ロコスイーツだかんね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする