想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

遅かったのね、去年は

2019-05-11 13:12:36 | Weblog
遅ればせながら山桜と
更新しなかったけれど、更新しようという気持ちはあったことの証拠でござる。先月末に山へ戻り、例年よりも10日も早くに咲いた桜を眺めることができた。所用でゆっくりはできな......



gooが昨年の記事を送ってくれたので思い出した。

今年の同じ日は(同じ日はないけどね)桜は散りおえて
花吹雪も森の主さんたちが楽しんだだけでヒトのいないうちに
宴は済んでしまった。

代わりにというか、順番待ちの花たちが咲き始めた。
写真はないけど、利休梅が小さな白い花をたくさんつけているし
ドウダンツツジは若葉の緑と白くかわいい花が鈴なりだ。
シャクヤクも新しく芽をだし背丈が伸びてきた。

気鬱を花に慰められておりますこの頃、そろそろ、そろそろと
再び犬と暮らす準備というかそれを考えるのも、もう一つの気晴らしです。

しかし、保護犬を引き取りたくても高齢者不可、とあります。
高齢者って何歳からですか〜と尋ねたら、50代から、とのこと。
それはあんまりじゃあないですかと言うと、個人差があるので
幅広くしたという話。
で、ほんとうは60代から70歳までの方という答えでした。
でも、わんちゃんも高齢ならいいですよという話もあり…


老犬介護という言い方は変な気がするのは、ヒトも犬も年を取れば
それは身体能力は衰えるからだれかの手を借りることもある。
けれどそれは小さな赤ん坊犬の時も、育ち盛りの時も
手がかからないということはない。
手をかけないというヒトは別の話だ。
そして高齢犬の世話は、赤ん坊犬よりたいへんである。
そのたいへんさを高齢者が引き受けることは難しいはずである。

そのため愛犬を保健所に持ち込んだり(嫌な言い方だ)、
遺棄したりする事があとをたたない。
高齢犬+高齢者はヒトでいえば老老介護、だから高齢者には高齢犬の譲渡はしない
というのならばわかる。
しかし活発に動かない老犬ならば高齢者にも扱いやすいというのは
違う気がする。

これは、飼い犬の寿命よりも長く健康に生きるという保証がないから高齢者には若い犬は
譲渡しない、だが先行き短いであろう高齢犬ならば譲渡してもいいという話である。
一面では正しいだろうが………それを聞くのはなんだかかなしい。

いちいち気にくわなかったが、ダメなものはしかたがない。
ブリーダーから買いたくないので、保護犬をと思うけどむずかしい。

ヒトの性格はそうそう変わるものではない、と我身をして思う。
でもいいところや明るいところを引き出してくれる存在がいれば
根暗も目立たないのであった。

犬と寝起きし話し、いつもかたわらにそのおおきな存在を感じながら
(ほんとに大きいからね35㎏は)暮らしていたあいだにはひっこんでいた
自分のいやな性格が、日々顔を出し始めてきたこの数年にいい加減にうんざり
しているけれどどうしていいかもわからない、というのが正直なところである。
ベイビーは私にはすばらしいセラピー犬であったということを実感しながら。

今できるのははた迷惑にならないように気をつけることくらい。
今できるのは仕事を増やして没頭する時間を長くすることくらい。
その仕事も終わってしまうと、ぽっかりと空いた虚ろな大穴に疲労が押し寄せる。

こんなことを誰にも言ったことはないのだが、
言われる方も答えようがないだろうし。
書いてみたけどどうなるわけでもないから書かずにきた。

ツイッターで東雲鈴音さんという方がソーヤ君という老犬との日々を
載せておられた。それを発見して以来(気づいたのがだいぶ遅かった)
毎日それが楽しみであった。そしていつかは来る日の別れのときがきた。
それはでも、とても静かでおだやかなふうだったので悲しみよりも
ありがとうのコメントがたくさん寄せられていた。同感だった。

今はときどき、鈴音さんがソーヤ君の思い出を載せてくださる。
「おじいわん ソーヤ」も出版され(講談社刊)17日に発売らしい。
途中から読者になった身にはありがたいことだ。
ソーヤ君はおじいさん犬だからおじいわんと鈴音さんが書いて、
多くの人がおじいわんをかわいがった(ツイッター上や路上の散歩中に)

うちのベイビーがおじいわんになったときもそっくり同じようなかわいさで
ぷ〜ちゃんと呼んだ。
若い頃よりもうんとかわいくて、筋肉がふにゅっとなって好きだった。
あごひげが白くなってもハンサムなままだった。

けれども逝ってしまう数ヶ月前に撮った写真は、どうしてもここに
上げることができなくて、見ると涙が溢れて止まらなくなるので
触らないようにしてきた。


(上のとこの写真は2012.11撮影)


そして、ソーヤ君を知ってから久しぶりに、そっと開いてみた。
やっぱり涙がいきなり溢れてしまう。
なぜなんだろうか、と思うけど、あの頃、そして最期の時、それをわたしは
鈴音さんのようにおだやかに静かに送ることができなかったからだろうか。

悔いは再び犬と暮らすことをちゅうちょさせ、虚ろな大穴はそのままにしてきた。
高齢者まっしぐらの日々、虚ろを埋めるのは仕事しかないというあちきを
「遊びを知らない」と笑うでしょうか。

あそびをせんとやうまれけむとはよく書くけれど、あそびは遊びではないのだもの。
かみさまといっしょにいるしあわせをいうのだもの




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2 コメント

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Unknown (sanchan)
2020-01-25 20:46:26
私は犬2匹と暮らしています。
2匹目は保護犬を、と決めて何年間も探し続けました。
探し始めたのが20代後半でしたが、60代じゃなくても、20代独身の時も30代独身の時も団体から譲り受ける事はできませんでした。
諦めつつあった頃に保護犬カフェというものを知ってダメ元で問い合わせ、事情や今までの経緯を話したらすんなりOKというか、とりあえず見に来て下さい!そこでお話ししましょ!となり、見学に行った日にそのまま里親になる事ができました。
あまりにもとんとん拍子で拍子抜けしました。
そこは団体ではなく、個人で保護活動をされている方だったので団体の様なたくさんの約束事や飼育するにあたっての細かな調査のようなものもなかったです。
良かったら保護犬カフェからというのもひとつの選択肢に入れてみて下さい。
返信する
Unknown (raichiooo)
2020-01-26 12:06:28
保護犬カフェというのがあるのですね、探してみます。
返信する

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