想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ようやく発売中「聖徳太子 三法を説く」

2024-04-23 16:01:44 | Weblog
中央の絵はパウルクレー。
この絵が使われた理由、意味深長なわけは
本の目次の隣に書いてあります。

500ページ分はあった安房宮源宗先生の原稿を
原文、訳文の他の解説を減らして400ページに
納めた。
作業中に多くの学びがあった。
そして最も私の気持ちを引きつけたのは
帯文にもある「葬送」の場面であった。
太子五十年の歳月に三度の葬送がある。
後に聖徳太子と尊称された上宮王、
厩戸豊聡耳皇子の人となりのすべてが
そこに凝縮されているようで胸を打った。
その情景が音をともなって私の中にずっとあった。

幸いな時間であった。
身体が辛かった。
心身満たされ、使いきったつもりだった、が。

本造りは何度やっても後悔ばかり、
できあがるまでほんとに苦悩する。
そしてできあがるとまた悔いること多し。
すでに次の仕事にとりかかっていながら、
失敗を数えると気鬱になってしまう。
そうです、気鬱です。

ですが、日々起きて働く。休むはずの山へ
戻っても頭の中にはしょーとくたいし。
ゲラを何度も読んだおかげか立体的になった
しょーとくたいしが見えている。




私の仕事は未熟だが、すばらしい内容。
どうすればこの本を多くの方々に届けられるかを
考えたり、それは成り行きだからと思ったり
SNSもあまりやらず、宣伝費もかけず、
学びたい人が手に取れるよう流通させただけ。
そういう仕事のしかたをこの数年してきた。

毎月ぽつぽつと売れて、ある時はごそっと
誰だかが買っていく。
今回で第六巻目になる先代旧事本紀大成経伝。
古伝に興味のある人や研究者の購入かと思う。
しかしこの新刊「聖徳太子 三法を説く」は
ふつーの人、ショートクタイシと頭で再現する
人に、知らない人に読んでほしいのである。

なぜならば、聖徳太子は三法を説いたが、
今の人が思うような宗教、神道仏教儒教を
教えたわけではなかった。
人が生きるとはどういうことか、
生きて死ぬまでのあいだに起きることに
どう対処すればいいのか、具体的に
細かく教え行動された。
その記録である。
古伝写本にありがちな加筆や改ざんを
見抜くには聖徳太子の三法を理解することだと
先生は言われ、その箇所をあえて残された。

裏表紙の帯文に
聖人は聖人を知る。とある。
これは原文中にあり、重要な言葉だ。
本文をよく読むとその意味がわかる。
しがない凡人の私が原稿を繰り返し読み
ゲラを読み日々更新しつつ、
その足の爪の先っぽくらいを理解した(と思う)。



それでも私は感動した。
感動とは生きる力だったり勇気だったり
底深い喜びのこと。
悲しみを知り、喜びを得た。
美しい悲しみにはそういう力があるということだ。

さて仕事に戻らねばならないので
積もる感想はおいおい書いていきたい。
今日はここまで。

書店にてご購読を宜しくお願いします。

上のURLページの下の方に購入用の申込み書があります。

















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この頃の事など

2024-04-10 18:31:56 | Weblog
九段下駅から地上に出ると雨が降っていた。
近くのカフェで待つことにしたが店内は
昼時とあって混み合っている。
雨にあたらないテラス席に二人分席を取り
通りを眺めた。
この三ヶ月間、編集そして校正に費やした。
濡れた街を行き交う人や車の音が消え
私のなかは静かだった。やっと、どうにか。

印刷会社の担当部長は遅れてきた。
桜見物で渋滞したからだと息荒くして言う。
遅くなったから社に行きましょうかと言う。
桜見ましたか、とか、言う。

地下鉄で移動し、急ぎ目的地へ歩くので
桜は見なかった。
言われて見渡すと、すぐそばにも桜はあった。
ああ、咲いていますね、たくさん。
いやあ、これじゃなくてあっち、と指さす。

この人はいつも明るい顔をしている。
あのね、丸坊主ではないけど坊主頭が
似合いそうで目がまん丸、
で、顔もまん丸なの、なんとなく
両手で挟みたくなる感じ。
そう説明したら、ああ、わかるわ、ああ。
知人はうんうんと肯く。

担当部長とは何回も仕事をした理由は
他のなんでもない、まあるい顔と眼である。
安房宮源宗先生の新刊の印刷も依頼した。
聖徳太子 三法を説く 先代旧事本紀大成経伝(六)。
4月19日発行にどうにか間に合いそうだ。



エー・ティー・オフィス

400ページの校正はきつかったが丸い部長が
へーきな口調で、戻しは明日ですよね、
だいじょうぶですよねと急がせる。
神経症のようになって校正をし続け、
修正ミスに気づき、ああああと慌てる、
そういう夢を日々見続けた。
緊張の日々であったが、もう桜が咲いている。

印刷会社を出ると人が流れる方へ歩いた。
北の丸公園の方だ。
しばし歩き、歩いている場合じゃあないと
気づいて引き返し地下鉄に乗って事務所へ戻った。

地下鉄といえば先日、ちょっとした出来事に遭遇した。
乗車口の扉のそばに女性が背中を丸くして
立っていた。発車して間もなく泣き声がした。
声はすぐに大きく激しくなり、号泣であった。
声の主は小柄なその女人のようだ。
電車はそこそこ混んでいて背中しか見えない。

次の駅に停車している間、声は小さくなり
息を継ぎ、鼻をかみ、再び泣いた。
ターミナル駅に着くまでの数駅、泣き声は
止まず、周囲の人はみなその声を聴き続けた。
項垂れている人、片手で耳を押さえる人、
だが誰も怒らなかった。
声を揚げる人はいなかった。
赤ん坊の泣き声にいらだつ人はいるけれど
大人の女人の哭泣にはひたすら堪えていた。

降りるとその人のそばに行った。
小さな背中。手をおき、小声でたずねた。
どうかしましたか、だいじょうぶですか、と。
改札口へ急がず立ち止まっている人が数人、
何事かと見つめていた。

うつむいているが若い人だとわかった。
かすれた声が途切れ途切れに言った。
勤めにいかなくちゃならないのに涙が止まらない。
いかなくちゃならないのに。

その人の背中を抱いたまま少しずつ歩いて
改札を出た。
改めてだいじょうぶかと尋ねるとようやく
顔を上げ涙を拭いてうなずいた。
だいじょうぶそうではないなと思った。
周りにいた人はすでにそれぞれ去っていた。
名刺を渡し、何かあれば電話してと言い別れた。



コンコースを歩いているときだった。
脇をさっと追い越した人がいた。
ふとみると、さっきの女性だ。
わたしの倍くらいの速度で先へ歩いていく。
髪をうなじの上にきっちりまとめ、
着物の裾を濡れないように上げた足元が見えた。
私がさっきまで触れていた背中の柔らかさは
あの絹の着物コートだったのか。
まっすぐに背を伸ばして歩く後姿を見ながら
拍子抜けの安堵感にちょっと笑った。

しかし、だ。
笑えない理由も思い当たるのだった。
突然悲しみにとらわれて涙が止まらない、
歩きながら泣く、立ち止まっても泣く、
どうしようもない、理由などない涙。
若い頃、幾度も経験した。
理由を知ったあともそれは続き、私は学んだ。

泣くという行為だけでなく、怒るという人も
いるだろう。止まらない怒りや暴力、暴言。
自分なのか、誰なのか、理由を思う余裕もなく
押し寄せてくる激しい感情に捕らわれる。
憑依が原因であると知れば逃れられるわけではない。
さまざまな形で表れ、翻弄される。

私は電車の中で泣き声を聞きながら、
その人に安らぎをどうかお与えくださいと祈った。
それで叶うほど容易くないことはよく解っているが願い、
祈り続けるしかなかった。



さて森は最後の雪が三月に降り、今年はそのまま春へ
向かっているようです。
ふきのとうはもう薹が立ちはじめ、
水仙が咲きはじめました。












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