想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

伏せ、隠せ、覆え

2018-02-27 15:35:17 | Weblog
なんの話か?
ミサイル攻撃と放射能防御の方法だと。

北の脅威から身を守る避難訓練として
机の下や道路の端っこで頭を抱えて
縮こまっている人々の写真を見た事が
あるだろう、この数ヶ月来のこと。
まるで戦前の竹槍訓練、空襲を頭巾で
守ろうとした銃後の守りを思わせる。

核弾頭搭載のミサイルが落ちたなら、
放射能汚染したならば、という危機に
備え、「口をハンカチで覆え」という。
それが国民保護法下の核攻撃対処指針。
2004年に制定されている。

2011年の福島原発事故の7年前だ。
現在、事故から7年経って、再び
国はこの愚かすぎる避難訓練を実施
するよう自治体へ通達し、行われた。
国と地方自治体と合同、あるいは
地方自治体独自で行われている。
やらされている方は本気ではなかろう。
そんなことで助かると思っているのか、
ほんとうに。

子どもなら知らないかもしれない。
けれどたいていの大人は口を覆えば
いい、頭を隠せばいいとは思わない。
福島原発爆発時には三日間、為す術なく
冷却できず、放出され続けた放射能は
雨雲となって関東まで流れ、200キロ
以上離れた東京、神奈川まで汚染した。
福島のうつくしまふくしまと愛でた
山、川、田畑はいまも元には戻らず
人だけ帰れ帰れもう帰れと仮設住宅を
閉鎖して追い立てられている。

だが故郷はどうなっているか。
戻れない、住めない。
元通りにはなっていない。破壊され、
荒廃し、野生動物の住み処と化して
人が暮らす仕組みも作れないままだ。
ハンカチ、マスクなど役に立たないと
もう誰でも知っている。息をつめて
水を買って暮らさねばならない。
それが安全神話に乗っかったつけだと
わかっている。



ただ言われるままに訓練に参加して
とりあえずみんなで合わせているが、
危機意識を持っている人にとっては
逆に腹立たしい、ばかばかしすぎて。


避難訓練や危機に備える知識は必要
だろう。
なにごとも想像力が大事だから。
しかし決して役立たず、助からない方法
をわざわざやるのは危機回避をするためか。

これで助かる、こうやって備えて戦う、
そういう意識を植えつけ、防衛を意識
させ、防衛のための備えに国防、軍備
を必要なことと刷り込んでいく。
かつての戦時の、総動員の感覚を醸成し
再燃させ、協力させようという企み。


問題は、実際には訓練内容が何の役にも
立たず、過剰軍備は戦争を招くもとと
なるということである。
対話せず、譲歩せず、非寛容の強硬な
姿勢は外交とはいえない。
だから「伏せ」と言われたならば
立ち上がって抗議しなければならない。

猫はみずからのテリトリーを守るため
日々みまわりをする。
たまに血筋以外の他猫が入り込む。
すると江戸ちゃんのダーリンの雄猫が
どこからともなく現れ、ウーっと唸る。
他猫も離れたところで粘る、守る側も
動かない。
日が暮れ、他猫は立ち去りファミリー
の会食が始まる。
ごっつぉーをみんなで食べる。

ウーとわたしには聞こえたが、
他猫とジョリの間には人には解せない
猫語が流れていたはずだ。

猫は相手を見定めながら距離をとり、
自然にさからわず生きている。


ジョリの頬をなでると、ごつごつと
かさぶたの感触がする。ああ、また
どこかで闘ってきたな。
妻と娘は縁側の日向で昼寝している。
パパジョリの威風堂々、大きな図体を
撫でながら、ワタシは
己も属する人間の、天上無しの強欲が
恥ずかしい。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かくすなかれ

2018-02-06 08:54:53 | Weblog
この母娘は正直です。が、猫がいつも
正直とはかぎらない。
そのたくみな演技力に踊らされて
縁側を行ったり来たりしてしまう。

そもそもが正直とか嘘つきとは人の世
だけのことであって、自然界の他の
いきものたちはみな、その本能の
おもむくまま、まっすぐ命を燃やし
命を尽くし、自然に還っていく。

旧事本紀ではこの自然を「地」と表し、
そのはたらきを地神という。
つまりいきものの命は地神のなかに
あり、そして命が尽きれば還る。
それはヒトも同じではないかと思って
いるムキもあるが、そうではない。

話は戻って、猫は正直も正直、素直
このうえないが、正直とは限らない
という私の言い分は、ヒトの都合な
わけである。
騙したわけでなし〜
騙されたアンタがおバカさん〜と
いうこと。
毎度毎度そうやって、甘い顔になり
ミルクやらチュルチュルをごちそうし、
ささやかな幸せを感じたりしている。
その後、猫はさっさと居なくなる。
そうだったか、とがっかりする。
これを懲りもせずくりかえしている。

それにしても、猫のことはわからない。
犬とは話せたが、猫とは話せない。
勝手にこちらが喜んだり心配したり
しているだけの関係。
少しさみしい……いや、そんなことは
ない。
そのほうが気楽であると悟った。



ヒトにも猫のような者がいる。
みかけないなあと思っていると
ひょっこり現れる。そしてどこに
言ったかなど言わないで当たり前の
ように目の前に座るのである。


やあ、しばらく、この前はねえ、
と親しく尾っぽ振り振りスリスリ
してくる犬のような態度のヒトも
いて、どっちもどっちである。
犬猫なみに自由なふるまいをして
ヒトなのだから。



犬か猫か、それならまあわかる。
カワウソとか、ムジナとかだと
どうしようもなく部屋を明け渡す
はめになりそうだ。

この頃は、よその犬をみても
ああ、犬といっしょはいいなあとは
思うが、それ以上は思わない。
種は同じでも唯一無二の相棒と
同じ存在になるとは限らない。
まあムリだろうと思う。
愛はそうかんたんに手に入らない。

猫にちゅるちゅるを見せて
仲良くしてもらって、まあ、少し
しあわせ、というくらいがちょうど
いいのである。

かくすなかれ、とタイトルを
つけたのに、なんのことはない話を
だらだら書いていることに気づいた。
正直から始めて逸れてしまった。

では、何に正直であるべきか。
それは善に対してである。
善はかくすなかれ! ということ。

ヒトは良さそうなことを言いながら
その裏に己の欲を隠していることが
ままある。偽善である。

善はかくすなかれ。本当の善ならば。
欲もかくすなかれ。それが実ならば。
明らかになればこそ、
そこから
始まる。

話を逸らし、問いに答えない国会答弁
が毎日続いていても、国は回っている。
そう思うのは間違い。
思わされもし、思いたくもあろうが。

がらんがらんと音をたてて
どこへ向かっているのだろうか。
確かなのは、善からは遠ざかっていく
ということ。

善はそもそもの始まり。
日々人が勝手にしている神だのみの、
神の心の本質は、善にほかならず
その善は悪という対立が生じる以前の
純粋の善である。

純善はあまりに高望みというなら
せめて悪に対しては善を建てる。
そのくらいのことをして人といえる
のではないか。
地ではなく人の還るべきは
天なのだから。
(第四十巻 神教経)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする