猫のゴロゴロ音は人間の脳みそに良き影響を
与えるという研究結果はよく知られている。
居るだけでじゅうぶんヒトサマにお役立ちである。
かわいい顔かわいい仕草。居るだけでいいとは
ヒトはなかなかそうはいかない。
猫はそのあまりある可愛さを武器にして横着になったり
はしないし仁義や礼節もあるわけで、猫は勝手気ままと
いうのはヒトの驕りからくる誤解のようである。
猫には猫の礼ってのがありまして…。
カメは人だけでなく(いや人よりもかもしらんが)
猫犬鳥獣一般に一目置かれていることは前にも書いたが。
つい先日、縁側のお皿のそばにシッポのようなものが見え、
もしやと思ったら、そうだったという話で…。
白い小さなねずみ。貢ぎ物はこれで三匹目。
これ、江戸からカメへの仁義である。
理由は歴然、ママの愛ゆえの溢れる思いだと察した。
直後に、江戸は赤ん坊をつれて来たから。
一つよろしく大勢ですが…、というご挨拶である。
しっかりしとるわ。
カリカリと缶詰に加え、猫用ミルクを奮発しても
惜しくはないと思うのである。
あちきには御礼はいらない。
カメにばっかりと僻んだりは決してしない。
じゃあこれで、と細長いオオモノでも運んでこられたら大変で
話に聞くだけでじゅうぶん嬉しい。
シッポつきコモノを正視することもできないのだから。
芝生はそもそも猫の運動場用にというカメの構想で植えた。
当時の愛猫シマコは赤ん坊を隠してなかなか連れてこず、
半年以上たってかなり大きくなってからぞろぞろ来るという
ことが多かった。だから運動場はもっぱら親猫が昼寝する
くらいで子猫が跳ね回る景色を眺めることはできずにいた。
変化したのは一年半くらい前からである。
生まれて一ヶ月くらいの歩き始めの子を江戸が連れてきた。
ようよう歩く脚を絡めならがじゃれあうのを見て、
やーやーやーと、ヒトは皆、遠巻きにして盛り上がった。
いまや、定番となりつつあるが…
江戸の子、江戸の子の子、と赤ん坊五匹、大ママとチイママ、
そしてチイママの姉妹たちと大所帯でしあわせそうだ。
増え続けると猫屋敷になりますよ~という来訪者の警告は
この地の自然の厳しさを知らないゆえのことで聞き流し
つつ、そうゆうことは想像しないことにしている。
彼女たちは野良である。自由猫である。
人ならばサバイバルだが猫にとってはそれがあるがままである。
そうはいっても姿を見なくなると心配して声など張り上げ
呼んでみる。
しばし待つともなしに庭をみていると、来た来た、
と安堵して、なんだいるじゃないの、となる。
(まみれてない、真っ白だね~)
朝から頭のストレッチでそらにころがっている本を
読む癖がある。
今朝は鴎外の文庫本(ちくま刊全集)を手にした。
これはこのところ漢詩づいて色々拾い読みしていた
からで、中にある「魚玄機」を読んだなごり。
しおりが挟んであるところを開いたら「山椒大夫」の
最後の頁であった。(次が魚玄機)
偶然にしても、山椒大夫を朝からとはいい日(私にとって)だ。
小学生低学年時か、安寿と厨子王の物語と
習ったけれど、今の子どもたちも同じだろうか?
人身売買の話あるいは仏教説話的だと括られているかも
しれないが、これは壮大なテーマがぎゅっと圧縮された
珠玉の物語だと思っている。
あらすじは旅に出た母と幼い姉弟が人攫いに合い、
母は佐渡へ、姉弟は丹後の分限者へ売られる。
月日は過ぎ、脱走を企てた姉は安寿が大事に持っていた
持仏を弟に託しその導きで弟厨子王は助かるのだが安寿は
入水して果てる。
逃げのびた厨子王は助けられ姉の悲願通りに母を探し出す、
というもの。
粟の鳥追いの女、盲目の婢となっていた母を偶然見つけた
厨子王の驚きの情景。
現れた厨子王に気づいた母はその目が開き「厨子王」と
叫んだ。鴎外が描いたこの場面は感動的だ。
厨子王のその時の姿、ボロをまとった母の姿が神々しい。
朝から清浄な気持ちになれる話なのであります。
読む前から実は「嗚呼」と思い、この最後が目に浮かび、
そのくらい強く記憶しているからか、不覚にも読んでもない
のに涙がにじんできた。
思いなおし、最初の頁から開いて読み、う~む、
これはやっぱり深い話だと思う。
人の世の塵芥善悪無常、現代に通じる人間の業が
つまっている。
旧事紀研究つながりで古典を読むが、鴎外は歴史ものを
多くてがけ、その中で歴史を超越したいとしてこれを
書いたらしい。超越とは科学的実証主義という束縛を
離れたいということだろう。
拘っていると、神々しさは見失う。
人間味もなくなる。
それは旧事紀も同じで、写本の年代や表記にだけ囚われて
いると、肝心の深奥にあるものになかなか触れることが
できないまま、周辺をうろつく始末となる。
頭のストレッチに鴎外の短編はぴったしであった。
江戸のママらしい写真、むりやり厨子王の母の愛に
つなげたわけでもないけど、よろぴく。