「万象」八木重吉
人は人であり
草は草であり
松は松であり
椎は椎であり
おのおの栄えあるすがたをみせる
進歩というような言葉にだまされない
懸命に 無意識になるほど懸命に
各各自らを生きている
木と草と人と栄えを異にする
木と草はうごかず 人間はうごく
しかし うごかぬところへ行くためにうごくのだ
木と草には天国のおもかげがある
もううごかなくてもいいという
その事だけでも天国のおもかげをあらわしている
といえる
…………………………………………
十代おわり頃に買った普及版の
定本「八木重吉詩集」が今では薄茶色に
なった。元はクリーム色の
柔らかな和紙のような表紙と、
箱入りだった。時を流れを感じる。
そのだいぶ後に買った上製本の定本は、
パラフィン紙で被い、大事にして
綺麗なままだ。
わたしの後は誰の手元へ行くのか
なあと、たまに思ったりする。
第一詩集「秋の瞳」にある
「草に すわる」は若い時分、
とても沁みた詩だ。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
三行の言葉が意固地を棄てさせた。
まちがいばかりしてきたこと、
気づいても遅い、改めようにも
どうにもならないことがある。
悔しさではなく、ひきずってきた
重荷を降ろし偽りない気持ちに
戻っていく
自意識からの解放と、
すなおに詫びる気持ちだ。
誰に向けてでもなく自分自身を
偽らなくていい安堵、
うちに還った子どものような
はだかの自分になることだ。
三行の詩がそう教えてくれた。
本の扉の後や雑誌に載せたことが
何度かあった。
作品にも当時の自分の気持ちにも
しっくりと合う言葉だった。
反対する人がいなくてよかった。
八木重吉を知らない人がいいねと言った。
難しいことばは使われていない。
けれどそこへたどり着くのは
むずかしい、とてもとても。
数行の言葉を読み終え、わたしは
新たな気持ちに、もといに、
戻る。
そのために開くようなこともある。
八木重吉の作品は29才までの数年間に
三千作余り書かれ、二人の幼子と
七歳下の妻を遺して逝った。
神へ向かう透徹した心を託した詩は
キリスト教徒でなくとも
神を想う者、仏の慈悲を想う者、
また心の奥底で善人たらんとする者に
沁み透る深い言葉ではないだろうか。
批判や皮肉、歎きを濾過して除き
無条件の無垢の美しさを視ていた人、
その喜びを覚っていた人。
「私」
人が私を褒めてくれる
それが何だろう
泉のように湧いてくるたのしみのほうがよい
こういう人が生きて在ったことが
文学やら詩人やら関係なくただただ、
人として嬉しい。そして、尊い。
最も大事なことかと思う。
いうまでもなく妻登美子と後の夫
歌人吉野秀雄の尽力のたまものである。
人は人であり
草は草であり
松は松であり
椎は椎であり
おのおの栄えあるすがたをみせる
進歩というような言葉にだまされない
懸命に 無意識になるほど懸命に
各各自らを生きている
木と草と人と栄えを異にする
木と草はうごかず 人間はうごく
しかし うごかぬところへ行くためにうごくのだ
木と草には天国のおもかげがある
もううごかなくてもいいという
その事だけでも天国のおもかげをあらわしている
といえる
…………………………………………
十代おわり頃に買った普及版の
定本「八木重吉詩集」が今では薄茶色に
なった。元はクリーム色の
柔らかな和紙のような表紙と、
箱入りだった。時を流れを感じる。
そのだいぶ後に買った上製本の定本は、
パラフィン紙で被い、大事にして
綺麗なままだ。
わたしの後は誰の手元へ行くのか
なあと、たまに思ったりする。
第一詩集「秋の瞳」にある
「草に すわる」は若い時分、
とても沁みた詩だ。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
三行の言葉が意固地を棄てさせた。
まちがいばかりしてきたこと、
気づいても遅い、改めようにも
どうにもならないことがある。
悔しさではなく、ひきずってきた
重荷を降ろし偽りない気持ちに
戻っていく
自意識からの解放と、
すなおに詫びる気持ちだ。
誰に向けてでもなく自分自身を
偽らなくていい安堵、
うちに還った子どものような
はだかの自分になることだ。
三行の詩がそう教えてくれた。
本の扉の後や雑誌に載せたことが
何度かあった。
作品にも当時の自分の気持ちにも
しっくりと合う言葉だった。
反対する人がいなくてよかった。
八木重吉を知らない人がいいねと言った。
難しいことばは使われていない。
けれどそこへたどり着くのは
むずかしい、とてもとても。
数行の言葉を読み終え、わたしは
新たな気持ちに、もといに、
戻る。
そのために開くようなこともある。
八木重吉の作品は29才までの数年間に
三千作余り書かれ、二人の幼子と
七歳下の妻を遺して逝った。
神へ向かう透徹した心を託した詩は
キリスト教徒でなくとも
神を想う者、仏の慈悲を想う者、
また心の奥底で善人たらんとする者に
沁み透る深い言葉ではないだろうか。
批判や皮肉、歎きを濾過して除き
無条件の無垢の美しさを視ていた人、
その喜びを覚っていた人。
「私」
人が私を褒めてくれる
それが何だろう
泉のように湧いてくるたのしみのほうがよい
こういう人が生きて在ったことが
文学やら詩人やら関係なくただただ、
人として嬉しい。そして、尊い。
最も大事なことかと思う。
いうまでもなく妻登美子と後の夫
歌人吉野秀雄の尽力のたまものである。