読書より、愛が足りない。
というのは他でもない本は大好物だから読書を否定
したわけではない。
本とのつきあいかたのことだったが言葉足りずで
わかりにくい話だったと反省、ごめんなさい。
知らないと思われたり言われたりするのが嫌で本を
読む。それはわからなくはないけど、ドンピシャで答を
出してくれる本に出会えばいいがそれが難しい。
逆にそういう読み方では本は答えてくれないのではないか。
ネットで検索するような感じで読み流し、何かを知った
と思うならそれまでのこと。
そこから先、そこから奥へと進んでいくのには考える力
がいる。また、そこを刺激してくれる本がいい。
考える力がなければ、愛はみつからない。
愛は感じるだけではない。
人は考える生きものだから、感じて、考えて、さらに
感じてを繰り返し、ある時、行間に著者の息づかいを
感じ、理解する。その瞬間、時の壁が消える。
本は歩きながら、山道を上ったり下ったり、険しい道を
行きながらそばにあるものだと思う。
書斎から出よ、と賢人たちが言う意味は肉体と情緒と
そして知性がつながって一つになることを目指せということだ。
頭でっかちの言葉は薄っぺらくて、その薄い汁には滋養は
ないのだ。
カメに出会ったばかりのころ、本を片手に質問を繰り返し
叱られたことがあった。君の言葉で問えと。
「君の言葉で」は私自身という意味がわからず黙った。
自分自身に向き合う日々のはじまりの頃のことだ。
自分のことがわからないのに、他人の経験ばかり
読んだり聞きかじったりで後追いしてもしょうがない。
自分で歩いた分だけ道標ができる。
保田與重郎は戦後、公職追放の憂き目に会ったとき、
田んぼで米作りをした。保田が他の評論家とは全く異なる
のはこの点である。
田を耕し稲を育て米を作る。
日本人の原点であることを身を以て行った人の語る万葉集は
万葉集を通じて日本の源流を示している。
当然、古事記の世界をも関連する。
旧事紀の研究をしていても共感するところが多い。
これは稀なことである。
古代人の心に寄り添う保田の言葉は的確で、単なる古典の
素養といった知識の領域を超えて力強い。
西郷信綱の古事記注釈は学術的に評価されるかもしれないが
保田は文芸である。
国学の先人の跡を丁寧に踏襲しつつも、自らの血を通わせた
言葉で語る力強さを、国粋主義と片付ける傾向は未だにある
ので、愛国と戦前の国粋主義を混同しないだけの古典の
正しい素養がなければ保田を座右に置くには勇気がいるだろう。
そしてこれは本だけ読んでいる人にはわからない世界だとも
いえる。
また、両者はどちらも戦中戦後を生きた人だ。
その違いは、田んぼと書斎。
共通点は歌詠みだが、伝統的和歌と現代短歌に別れる。
それは歌詠みと歌を解析する人、そういう違いでもある。
どちらも体制寄りではなかったことも同じだ。
西郷信綱氏は「9条科学者の会」呼びかけ人という経歴。
戦前の保田は日本浪漫派の旗手として脚光を浴び活躍したが
政府よりの復古思想とは根本的に異なるものだった。
昭和20年に招集される寸前まで保田宅には特高の見張りがいた。
要注意人物とされた。結果、重篤な病身のまま、終戦間際に
徴兵されて、戦地北支の病院で過ごし、そこで玉音放送を聴いた。
保田は過激な左派ではない。正当な保守派である。
祝詞を自費で印刷製本し戦地へ赴く学徒や若者に持たせた。
国粋主義的な煽動活動でも右翼のそれでもない。
命を賭して戦地へ行く者への餞として送られた。
それをなぜ餞とするか、それを理解するには古事記、古伝を
どう解釈するかによる。
戦後の批判の多くは「戦後」であり、戦中ではないことに
留意すべきであるし、保田自身は一貫して変わっていない。
祝詞出版は日本の古層にあった思想を理解し尊んだゆえの
行動である。命を尊ぶがゆえの計らいであった。
国に命をささげよとは言わなかった。逆である。
この行動力が戦後に公職追放された際に、田んぼで米を作れば
よしという日々につながっている。
古伝を学ぶから古伝に学ぶようになるには、
全身全霊をもって上古日本の声に、地に耳を澄ますことだ。
座って、字面を追うだけでは難しい。
日々の生活と、人との交わり、自然に身を委ね
一喜一憂する人としての自覚に、目の前の事実に正直で
なければならない。その違いが表現に顕われる。
少年の頃から古伝に凝縮された智恵に興奮し、深く理解し、
安堵していた保田は、田んぼで働くことは胸中に蓄積してきた
モノをなぞる行為であったはずだ。
そして自分が感じたことを確信した。
読者と著者の間にある長い時の壁が取り払われる瞬間に、
古びた本の文字に魂が宿る。
語りかけてくれる言葉が聴こえるようになる。
これは古伝も現代の新しい本も同じだろう。
この学び方の違いをカメに教わってきたわけだが、
カメは理屈を語ったわけではない。
保田を読んでいた私に
「その人は田んぼで自分で米作ってたんだから信用できる
よねえ、そこが違うんだよ、大方の学者なんかと」と
言われたことがあった。これも理解するのに数年かかった。
自ら行うことでしか仁も恵みも実感できない。
本に頼っていると、歴史という文字につまづいてしまい、
先に進めない。利口な人ほどその穴に嵌りやすいのだ。
先人の心にまで辿りつくのは容易ではない。
さて、漢字「愛」と訳した言葉には「仁智義礼信」の五つ
の心が含まれている。
漢字で表された五つだが、古代人の真心といってもいい。
(音読みではなくやまとことばで読む)
英語圏では愛は一般に感情の世界として使われるLOVE、
老成した人なら英米の人にとっても同じく、わかるはずだ。
日本人のいう「愛」も彼らの愛も深く普遍のことをさしていて、
それこそが人の生きる力であり、術となるということ。
それを本のなかに見いだせる人は、あらかじめ愛を知っている。
だから、読書より、愛こそが足りない。
というのは他でもない本は大好物だから読書を否定
したわけではない。
本とのつきあいかたのことだったが言葉足りずで
わかりにくい話だったと反省、ごめんなさい。
知らないと思われたり言われたりするのが嫌で本を
読む。それはわからなくはないけど、ドンピシャで答を
出してくれる本に出会えばいいがそれが難しい。
逆にそういう読み方では本は答えてくれないのではないか。
ネットで検索するような感じで読み流し、何かを知った
と思うならそれまでのこと。
そこから先、そこから奥へと進んでいくのには考える力
がいる。また、そこを刺激してくれる本がいい。
考える力がなければ、愛はみつからない。
愛は感じるだけではない。
人は考える生きものだから、感じて、考えて、さらに
感じてを繰り返し、ある時、行間に著者の息づかいを
感じ、理解する。その瞬間、時の壁が消える。
本は歩きながら、山道を上ったり下ったり、険しい道を
行きながらそばにあるものだと思う。
書斎から出よ、と賢人たちが言う意味は肉体と情緒と
そして知性がつながって一つになることを目指せということだ。
頭でっかちの言葉は薄っぺらくて、その薄い汁には滋養は
ないのだ。
カメに出会ったばかりのころ、本を片手に質問を繰り返し
叱られたことがあった。君の言葉で問えと。
「君の言葉で」は私自身という意味がわからず黙った。
自分自身に向き合う日々のはじまりの頃のことだ。
自分のことがわからないのに、他人の経験ばかり
読んだり聞きかじったりで後追いしてもしょうがない。
自分で歩いた分だけ道標ができる。
保田與重郎は戦後、公職追放の憂き目に会ったとき、
田んぼで米作りをした。保田が他の評論家とは全く異なる
のはこの点である。
田を耕し稲を育て米を作る。
日本人の原点であることを身を以て行った人の語る万葉集は
万葉集を通じて日本の源流を示している。
当然、古事記の世界をも関連する。
旧事紀の研究をしていても共感するところが多い。
これは稀なことである。
古代人の心に寄り添う保田の言葉は的確で、単なる古典の
素養といった知識の領域を超えて力強い。
西郷信綱の古事記注釈は学術的に評価されるかもしれないが
保田は文芸である。
国学の先人の跡を丁寧に踏襲しつつも、自らの血を通わせた
言葉で語る力強さを、国粋主義と片付ける傾向は未だにある
ので、愛国と戦前の国粋主義を混同しないだけの古典の
正しい素養がなければ保田を座右に置くには勇気がいるだろう。
そしてこれは本だけ読んでいる人にはわからない世界だとも
いえる。
また、両者はどちらも戦中戦後を生きた人だ。
その違いは、田んぼと書斎。
共通点は歌詠みだが、伝統的和歌と現代短歌に別れる。
それは歌詠みと歌を解析する人、そういう違いでもある。
どちらも体制寄りではなかったことも同じだ。
西郷信綱氏は「9条科学者の会」呼びかけ人という経歴。
戦前の保田は日本浪漫派の旗手として脚光を浴び活躍したが
政府よりの復古思想とは根本的に異なるものだった。
昭和20年に招集される寸前まで保田宅には特高の見張りがいた。
要注意人物とされた。結果、重篤な病身のまま、終戦間際に
徴兵されて、戦地北支の病院で過ごし、そこで玉音放送を聴いた。
保田は過激な左派ではない。正当な保守派である。
祝詞を自費で印刷製本し戦地へ赴く学徒や若者に持たせた。
国粋主義的な煽動活動でも右翼のそれでもない。
命を賭して戦地へ行く者への餞として送られた。
それをなぜ餞とするか、それを理解するには古事記、古伝を
どう解釈するかによる。
戦後の批判の多くは「戦後」であり、戦中ではないことに
留意すべきであるし、保田自身は一貫して変わっていない。
祝詞出版は日本の古層にあった思想を理解し尊んだゆえの
行動である。命を尊ぶがゆえの計らいであった。
国に命をささげよとは言わなかった。逆である。
この行動力が戦後に公職追放された際に、田んぼで米を作れば
よしという日々につながっている。
古伝を学ぶから古伝に学ぶようになるには、
全身全霊をもって上古日本の声に、地に耳を澄ますことだ。
座って、字面を追うだけでは難しい。
日々の生活と、人との交わり、自然に身を委ね
一喜一憂する人としての自覚に、目の前の事実に正直で
なければならない。その違いが表現に顕われる。
少年の頃から古伝に凝縮された智恵に興奮し、深く理解し、
安堵していた保田は、田んぼで働くことは胸中に蓄積してきた
モノをなぞる行為であったはずだ。
そして自分が感じたことを確信した。
読者と著者の間にある長い時の壁が取り払われる瞬間に、
古びた本の文字に魂が宿る。
語りかけてくれる言葉が聴こえるようになる。
これは古伝も現代の新しい本も同じだろう。
この学び方の違いをカメに教わってきたわけだが、
カメは理屈を語ったわけではない。
保田を読んでいた私に
「その人は田んぼで自分で米作ってたんだから信用できる
よねえ、そこが違うんだよ、大方の学者なんかと」と
言われたことがあった。これも理解するのに数年かかった。
自ら行うことでしか仁も恵みも実感できない。
本に頼っていると、歴史という文字につまづいてしまい、
先に進めない。利口な人ほどその穴に嵌りやすいのだ。
先人の心にまで辿りつくのは容易ではない。
さて、漢字「愛」と訳した言葉には「仁智義礼信」の五つ
の心が含まれている。
漢字で表された五つだが、古代人の真心といってもいい。
(音読みではなくやまとことばで読む)
英語圏では愛は一般に感情の世界として使われるLOVE、
老成した人なら英米の人にとっても同じく、わかるはずだ。
日本人のいう「愛」も彼らの愛も深く普遍のことをさしていて、
それこそが人の生きる力であり、術となるということ。
それを本のなかに見いだせる人は、あらかじめ愛を知っている。
だから、読書より、愛こそが足りない。