想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

愛ってなんですか?

2017-09-24 01:05:25 | Weblog
(こんなところに落ちた種が
育っていた…大きくな〜れ)

愛とは何か、一口に答えるのは難しい。
たとえば…たとえば…といくつもの
エピソードを添えて話さねばならない
だろう。

この世界は愛で始まった、なんて
言っても今どき誰も信じてくれない。
けれど、ほんとうは世界は愛に満ちて
いると言えなくもないのだ、今だって。
愛は人の特権ではないのだから。

与え、恵み、わがことを勘定にいれず、
相手を大切におもうまごころ、それが愛。
そして、この愛を複雑にし、あるときは
暗闇の穴に人を落としてしまうのが感情
だということも同時に知っておかねば
ならないだろう。
なぜなら、多くの人がこころと感情の
区別がつかず、愛にとまどうからである。

愛を一口には言えないと言ったけれど、
この詩ならばどうだろう。

うつくしいこころがある
恐れなきこころがある
とかす力である
そだつるふしぎである
(「愛」八木重吉)

そう、とかし、そだてる力…
与えっぱなしではなく。
また次のは最も大きな愛について

なにゆえに
きりすとはくらきにときしか
木の実をみよ
土におちざればはえず
つちにおつればくらきなり
(八木重吉 遺稿より)


愛は知らぬまに芽吹き、始まって
人の感情を揺らす。
喜びと戸惑いの間で揺れ動きながら、
育まれ、ようやく目に見えるように
形を表すのが愛である。

一粒の種に土の滋養がいき、双葉になり
陽の光と雨の潤いで根をはり
茎を伸ばし
小さな蕾をつける。
愛には試練がつきものだから、
蕾が膨らんで
ちゃんと開くとは限らない。

根をはってさえいれば、
光を浴び、雨に生きることを教えられ
根をはってさえいれば、
再び新しい芽をつけることができる。
巡り会えた小さな種から離れず
たいせつに慈しむとき
なんどでも生きかえらすことができる
そのこころを愛という。

これではどうでしょうか?
愛とは何か、とたずねたあなた。
じゅうぶんに愛を生きていても
目に見えて手に触れて抱きしめて
人は納得するものだから
愛についての言葉はいつだって不十分
ですね…

ただ、八木重吉の詩が例外なのは
肉体を捨て(ざるをえず)
欲を削ぎ落とし(ざるをえず)
命を燃やして高みをめざした人の言葉
ゆえ一語に宿した魂の勁さがある。
そこに「私」はあってもうつくしい私
であり「感情」は無二の愛ゆえの葛藤
だからでしょう。


そして付け加えると、愛は与え、
恵むというのは「仁」とも書きます。
それは犠牲ではなく
無私ゆえに得られる喜びを伴うもの。
それをキリストは愛といい、古くは
日本では仁といいました。











コメント
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