想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

鹿児島紅梅と雪

2013-04-25 10:41:32 | Weblog
先週末の雪景色です。
鹿児島紅梅はまだ細い枝に小さいけれど鮮やかな紅の花を
つけてくれました。鹿児島という名がついているので
こちらへ来た当初は(いただきものです)縮こまっまま
花も咲かないのではないかと心配したものですが、毎年
咲いてくれます。桜待ちにちょうどよく。


       

    

  

鹿児島はいいところ、という思い出しかありません。
住んでいれば、通りすがりにはわからない善し悪しがある
でしょうけれど、いい印象でした。
桜島観光と温泉で賑わう南九州市側と鹿児島湾を挟んだ対岸の
大隅半島は漁業と農業という一次産業が主です。昔ながらの
風景が残り、ゆったりとした時間が流れていました。
高齢化や後継者不足で廃れていくという地元の実情は日本の
地方のどこもが抱える問題ですから、それは置いておくとして
そこは他所とは違う空気、光、風のある場所として記憶に
深く刻まれています。
太平洋から東シナ海へ流れ込む潮と波が打ち寄せる半島には
どこか異国のような風を感じますし、実は慌ただしかった旅程
であったのにあたたかな陽射しを感じて、ゆったりと時のまどき
にたゆたっているような気さえしました。

昨年夏の鹿児島県知事選挙の折、山本太郎氏が原発反対派の
候補者向原よしたか氏の応援演説をする動画を見ました。
保守の根強い利権構造を福島の原発事故後だからこそ変革して
いこうという運動は全国で起きていて、鹿児島でもそうした
声は以前より多くなったかと思い、淡い期待をして見守って
いました。結果は、とても残念なことでしたが。

遠く離れたところからそんなことを思うのは、原発の怖さを
福島の地で痛感しているということよりもっと単純なもので
あの土地を歩いた思い出があるからです。
観光旅行ではなく、生活者の目線に触れながらの旅でしたから
よけいに、やさしい人のぬくもりを覚えています。

昨晩のニュース、南大隅町長の委任状問題。
「貧しさから抜け出すために原発関連施設を誘致して補助金
を前倒ししてもらえればいいと思った」という南大隅町長の
言葉は、政治家としても人としても無能であるとしかいえない
のが残念でなりません。

核燃料の処分場、再処理施設、受入先が決まらないままに
原発施設は作られ続けてきました。捨て場所がないものを
いまなお増やそうとしているのです。
食うため、救うためだからと地元民を騙して暴利を貪る者たちと
闘わなければ、九州南端の美しい土地を次世代へ残してあげる
ことはできません。
なにもかも、汚染されていきます。
そして、九州から北上する風は列島を被う雲になります。

コワイですね、コワイですね、ではサヨナラサヨナラ、
(淀川長治さんを突然思い出したのであった)








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街のかた隅で

2013-04-17 10:48:09 | Weblog
10mくらい距離があるけれど、近づくと解散するかも
しれんので、エンリョして撮りました(ケータイで)。

森では江戸ちゃんが2週間も顔を見せないのです。
餌場の大きなお皿は空っぽなのですが、松太郎が一人食い
しているのかもしらん…と思ったり、元気ならいいのですが
気がかりです。

前回会ったときは目元についたダニを剥がしてやったけど
ダニ除けの薬をしているのに顔が狙われるなんて、ダニめ
と、その日は一日ごろごろと縁側にいたので傷口が悪化
しないか様子を見てました。元気にガツガツ食って寝て、
いつもの彼女でしたね、いったいどこ行ってるんだろう。
野良でも飼い猫でも、心配は心配なんだわ。

ペットショップでダニ除けの薬を買った時のこと。
「もう落ち込んでない? 飼わないの、飼ったほうが
いいですよ、いい子いますよ」と盛んに勧めるので
聴いていたけれど、ぐったりしました。
今は飼わないことにしてるのでと言うと、飼ったほうが
いいってと口説かれる。熱心なので理由があるのだろうと
さえぎらずに聴いていたら、ありました、理由。

知人のブリーダーに子犬が生まれてるというのです。
知人といっても店の客、その犬種の説明をし始めたので
ブリーダーからはまた飼うとしても買わないんですと答えると
でもこの犬種はここにしかないから、日本には少ない種類だし
サンダーちゃんより小さいし、いいですよ、飼いやすくて
大変じゃないからと。

やたらと押しまくってくるのは、彼女が肝心ななぜブリーダー
から買わないのかというこちらの理由を聞かないからです。
だからこちらから言いました。すると、やっとおしゃべりは
止まったけれど、いったん…停止。

しかし、「そんなこと思ってるんですか、別にいい人たちだって
いますよ、ここはいい人でちゃんとしてるから大丈夫ですよ」
ブリーダーが悪いと言ったわけではなく、捨てられる犬をできれば
飼った方がいいと思っていると言う意味がわからないらしい。
あまりしつこいので、アホなわたしもああ、そういうことかと、
ペットロスを心配して言ってくれているわけではないと解って
しまったのでした。

下心、情心(よせごころ)があれば筋が通らないからバレる。
狭い日本の住環境で大型のシープドッグは犬も可哀想な事だと
も思ったりもしました。
牧羊犬は牧場の家族なんで、マンションや狭い庭に閉じ込めるのは
ヒトサライ感覚だなあと思うのです。
とはいえ、わたしもワンルームでサンダーと暮らしたときは
それはそれで楽しかったしノープロブレムでしたが、週末には
森で走り回るという決め事があったからできたことです。


あれから数日、サンダーのふわふわぬくぬくモードが
戻らなくて困った。疲れた。不在を思い出すのに抵抗する
あのバカなモードが戻りそうな、ギリギリ。
都会の日常ではあたりまえのことだが、他人の情心(五感)を
防御しようとすると、身体全体がこわばってしまう。
ムーディー勝山風に流していきたい。
ムーディー勝山どうしてるかな、あの歌だけでも存在価値
あるよ。

市民有志が提訴した「大飯原発再稼働」問題を大阪地裁が却下
したことは流すわけにはいかないが。ハレホレハレ。




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アエオニウム

2013-04-10 21:34:13 | Weblog
  (ぼけ~ぼけぼけ~♪♪

カメの事務所では、緑の葉を放射状に重なるように広げた植物が
数鉢並んでいる。話が一段落して気持ちが落ち着いた来客が
それに気づいて、ちらちらと眺める。
珍しいのである。アエオニウムという。

最初の一株はミニ観葉植物が三個セットになったうちの一つで
背丈10センチあるかないかくらいのチビちゃんであった。
アエオニウム(属)という名はとっくに忘れていたので、今回調べた。
いくつか種類がある中のカナリエンシスというものだった。
他に黒法師(サンシモン)という名の日光にあたると葉が黒くなる
(紫がかった黒)のや、いくつもあり多肉植物好きはけっこういて、
マニアックな人気があるようだ。初めて知ったことである。

カメは名前とか人気とかには全く興味を示さない方なのだが、数年前に
先生の机の上にとわたしが届けたミニサイズの三点セットを枯らさない
ようにと大事に育てておられたわけである。
大事にというか、枯らさないのは先生にはあたりまえのことで、増えた
理由はその性質がおもしろいからと、いつのまにか株が増えてしまった
ということらしい。わたし自身はソレがあのチビちゃんだとは気づかず
ただ、あれ~増えましたねと眺めていただけだ。

50センチを超え、横に枝を張り出し、樹皮と同じ色の糸が降りてきて、
それが地中に根を張り、しだいに太く丈夫になり幹全体を支え持つように
なった。それには、やややと驚いた。
生きているなコイツと興味がそそられる。
生きているのは当然のことなのだが、生きていると感じさせる勢いが
あるのだった。不思議なのだった。生命の経過…。

カメのオフィスは昔からテラスも室内も緑が多い。
室内には花が活けられているが、キレイな新しい花がいつもという
ことではない。
枯れたら捨ててしまう、処分するという片づけられ方はされない。
枯れたまま、しばらくあったりする。
ある時、片づけようとしたら、そのままでと言われたことがあった。

枯れたと思うのは花の盛りを愛でる気持ちが強いからで、花の形
しか見ていなかったからだった。
生きてそこにいるとは思わないのであった。そのままで、と言われて
そのことに気づいて、それからはよけいなことはしなくなった。
先生が自分で片づけたり、植木鉢へ挿し木されたりして余生が
続くものがある。余生どころか地植えになって盛んに枝葉をつけ
いっちょまえに家族を増やしている猛者もいるのである。

先生の部屋は地ツ神のはたらきが充満していて生きものが喜ぶ、
いつからかそう気づいて、ダメにした植木鉢をそっと置いてきたことが
ある。ほれ、こんなになったから持って帰れば、と言われるまでだ。
シェルターに避難させ、わたしの(たぶん)毒気から解放した。
しばらくして、めきめきと力がついて美しくなった。けれど、ひきとって
持ち帰るのに躊ちょする。病む以前より増して活気づいているのを
見ると、この子はうちに来て苦労するかもしらん、と一抹の不安が
よぎるからである。

地ツ神の「神」はハタラキという意味なのだが、神という言葉に
変なアレルギーがある人のために別な言い方をあえてすれば
命の源とでもいえばいいだろうか。
尊ぶ気持ちがあればアレルギーなど持たず自然にカミは神と言える
のではなかろうかとも思うが…
残念なことに、戦後のこのかた、人々の感性は根底から捻じれて、
日本人的な魂の消息は途絶えつつある。即物的なものの見方が
増長し、表紙を新しくつけかえた野蛮がはびこっているから。

動植物は命の源に忠実に生きている。
そのハタラキは響きとして伝わる。妨げられない場所であれば、
すくすくと育つことができる。
前人未到のジャングルなど未開の地は自然のエネルギーが溢れ
ている。エネルギーと人が呼んでいるのは命のひびきだ。
そこにないのは人間の邪悪さである。
ハタラキを邪魔し、妨げているのは人間であって、それ以外の
生きものは自然の流れに乗って存在する。
流れを変えてしまうのも人間である。

弱い種は弱いなりに生きる術を身につける。
強いものだけが生き残るともかぎらない。
イノチは流れに乗って生まれ、育ちそして源へ還る。命の数だけ生の
形があり、そこに是非も善悪もない。

神は天津神、そして地津神、八百万の神と呼称があり、段階的に
ハタラキが降り伝わる。
天津神ほどご利益があるとおもいがちだが、それは人の勝手な
思い込みに過ぎず、神のハタラキは人の利害など無縁なのだ。
在るべきようにあるのみなのだから、ハタラキの質と意味を知る
ほうが大事である。

地津神は人にもっとも身近で、その中に肉体ごと生きている。
日の光や空気を意識しないまま恩恵にあずかり、とくにありがたい
とも思わない日常にあっては神に出会うことは難しい。

出会うもなにも、そこここにあるハタラキで人は息をし、それなしに
生きてはいけない。
だのに気づかぬ人間の愚かさが、命本来のひびきの妨げとなっている。

犬と暮らし、それと知らないまま地神のひびきにどっぷりと甘えていた。
そこにいると妄想は無用で、子どものように素直さを取り戻せた。
それが身について、犬が神さまのところへかえり姿を消してからも
ひびきを見つけることができる。
先生の部屋のアエオニウムの笑声やおしゃべりがときおり耳を
かすめる。
仁と智と義と礼と一つになった信、その本来の姿のまま、神が
人の形をとっているところでなら生き物はすべからく、命を謳歌し、
文字通り歌をうたう。
寿ぎの歌。



(ちなみに、アエオニウムは夏が休眠期で、猛暑と酷寒に弱い
とのことです。 もらってきた孫がそろりそろりと育ってます。)





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H.ヘッセ「庭仕事の愉しみ」を傍らに

2013-04-06 23:15:00 | 
  (before 3.11 夏の庭)
週末には注文したバラの培養土が届くので新しい苗木を
植える。花がつかない弱った木には液肥をあげ春に乗り
遅れないように今のうちに勢いをつける手伝いをする。
植えたり育てたり、読んだり、目を瞑ったり、山の時間は
ゆったりと、そして濃密に流れる。

山での時間。
ここには義務やノルマといったネバナラナイは無いので
主体的に喜んで働く。何かを成し遂げようとして動いて
いるわけではなくて自然に動きたくなるからだ。

ヘッセは子どもの頃から親しんだ庭を造る愉しみを作家と
して成功した後に庭つきの家を手に入れることから始め、
終生、庭を持ち、植物だけでなく昆虫や鳥、庭をとりまく
自然のすべてを愛し友として生きた人だ。
その中で庭の労役を常とすることについて、苦役となる
ほどやってはいけないと悟ったと記しているのが興味深い。
農夫の辛さを知ってしまうほど庭仕事に打ち込み、自分には
向かないと知ったと書いている。収穫の喜びだけを強調して
書く偽善的な自然愛好家とは異なるところだ。



庭仕事を生業にしていなくとも趣味と呼ぶ以上に大きな
価値を自らのなかに置いて暮らしている者にとっては
荒れ果てる庭を放置するのは忍びないことである。
仕事やつきあいや諸々の事情を優先すると庭はいつのまにか
荒れて自然に戻っていく。
手をかけて育てた花木を害虫から守り、繁殖する強い雑草
が風通しを妨げることから守ろうとすると働かねばならない。

あ~キレイねと観光植物園を眺める喜びと別の種類の充実感が
労役を伴った庭の景色にはある。
そこでは庭と自分がいつのまにか一体になれるからだろう。
たまさか訪れた場所では望めないことだ。ともに過ごした歳月
というものが人とだけでなく、もの言わぬ樹々との間にもある。

ひとつまみのタネの時分から見知り、双葉が出たと喜んで、
蕾がかわいいと見つめ、雨に打たれるのを心配し、水をやり、
長じていくのを見守る。
花を見たいばかりに土を豊かにすることも学び、落葉の効用を
知り、木の種類を覚え、木の名前を知る。ある頃から木を
眺める目に尊敬のまなざしが加わる。
そして、人は木になれず、木からとても遠いことを知る。
そして、そして、木の悲しみもまた、知ってしまった。



『ある木が語る。
「私の中にはひとつの核、ひとつの火花、ひとつの思想が
隠されている。私は永遠の生命の一部だ。
永遠の母が私を相手に行った試みと成果は二つとないものだ。
私の姿形と私の木目模様は二つとないものだ。
私の梢の葉のこの上もなくかすかなたわむれや、私の樹皮の
ごく小さな傷痕も唯一無二のものだ。
私の使命は、この明確な一回かぎりのものの中に永遠なものを
形づくり、示すことだ」
(ヘルマン・ヘッセ 「庭仕事の愉しみ」から〈木〉(1918)
v・ミヒェルス編 岡田朝雄訳 1996草思社刊) 

私たちは自然という言葉をふだん都合よく使っている。
だが自然に囲まれて生きながら、そのぜんたいを感知して
などいないし、できない。できないことを自覚する者は少なく
大方が驕った口調で自然は…と言う。
ぜんたいを感じる、それがどんな夢よりもすばらしいか、
森にいるといつも思う。
できないことをわかってからというもの聞く耳をそば立て
何にむけるということもなく、ただ一つになれるようにと
願う気持ちだけをかすかに残して。

(写真はすべて夏の風景です)



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円墳ぷー

2013-04-01 17:32:43 | Weblog
元気になってきました!
春というにはまだ肌寒い森ですが、雪の下から新芽が
少しづつ顔を出しています。



ぷーちゃんの円墳を整えていただきました。
(力仕事ができないのでカメ先生がやって下さってまだ途中ですが
うさこは花を植えました。花の脇には夏に咲く球根を植えました。
ここは初夏と春が一度にやってきます。その頃には芝の芽も出て
円墳は緑色になるでしょう。
縁側から丸く盛り上がってよく見えます。
横にある石はまんなかに窪みがあります。そこに座っていると
あら不思議、笑みがこぼれてきます。
なんだかぬくぬくとしてきて、身体の芯から熱くなってきます。



パワースポットだーと言うと、先生はnonという顔。
「聖地」と一言。
うさこもふだんはパワースポットとか言ってる場所を鼻で嗤って
いるのですが、身体で感じて軽く言ってみました。
カメはこの広い敷地の中でここが一番いいからここにしたのだ
と教えてくれました。

この石に座っていると、さっきまでのもやもやもくさくさも
どこかへ消えてしまったようで、その後はバラの手入れを
さっさかやって本当にひさしぶりに庭仕事をたくさんしました。
植え替えや新しい苗のための培養土を入れ込んだり、堆肥を
撒いたり、それから秘密兵器の液肥も散布しました。
本当にあまりに本当に庭仕事をしたのですが、自分ではごく
普通にやってる感じでした。
周囲でみてた人が驚くのでそうか、元気かと。

回復してくるとそれまでの異常がよく自覚できます。
それまでわかっていたつもりは、不都合を感じていただけで
異常だという認識ではなかったわけでした。だから治らない
ことの焦りがいつもあって、気分が落ち込むのでした。
まだ万全ではないけれど、芽が出てきた庭を楽しむ感じで
身体もいたわりつつやるべー、とちょっと嬉しいです。

調子に乗ってパンを焼きました!

初心者なので大目に見てくだせー。シナモンロール!

あんこがはみ出たあんパン。
まあまあ、おいしいよ。
これから腕をあげるべく修行します、隣でふんふんと
鼻を鳴らして待つヤツがいないけど、ヤツの分は誰か
が食べてしまうでしょうから。









コメント (2)
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