月曜日まで雪に被われていた庭が3日ぶりに戻るとすっかり
春めいて風もやわらかく驚いた。
四月にまた降ることもあるが、積もるほどではない。
雪の季節が終わったことにとりあえずほっとする。
春がくるたびに、ああ春だと思う。
樹々の新芽が膨らんで、土が起き上がり、雪の下にあった枯れ草
の間から新芽がのぞいて、緑色が見える。
忘れていた春の匂いは、毎年のことなのに、初めてのように
嬉しい。
縁側ではジョリとジョリの子がひなたぼっこしている。
少し歩こうと表に出ると、ジョリがナニナニと顔を上げ
縁側から降りた。
ついてくんじゃねえーよとジョリパパはジョリの子に。
しかし自分は…頼んでもいないのについてくる。
ジョリは子犬のようだ。ベイビーの身代わりかっちゅうの。
あたしも、とジョリの子がついてくる。
ジョリは足下にまとわりついてスリスリする。
撫でるとごろんちょして、さらにゴロゴロ言っている。
オヤツの時間には早すぎるので、催促でもゴマスリでもない
純粋なスリスリだと思いたい。
ちょっと~、お父さん何してんの~とジョリの子が近づいてくるが
ジョリパパはさらにゴロゴロ甘えて、ジョリの子はあたしも~と
小さな声で鳴いている。
ジョリの傷がだいぶ癒えて、新しい毛がうっすら生えてきた。
春だかんね、もうじき治るよ。
神さま、ありがとう。
古代のヒトが春を言祝ぎ、神を祀った意味が自然に触れていると
理屈でなしに、沁みるように感じられる。
ついでに言うと、国会で自民党議員が発言したことで話題になって
いる「八紘一宇」について、ついでで悪いが大急ぎで言うと…
「世界を一家族に」と解釈するのは間違いでありますね。
八紘の八は末広がりで縁起がいいなんて意味でも使われているが、
周囲すべてをさし、広がる様や網羅することをいい、また一宇は
為宇で、天が下、神のもとにという意味である。
天地の意味を正しく知らなければ違う解釈になる。
田中智學は仏教者であるけれど儒教的素養で記紀を解釈している。
儒教での天地と神道における天地は全く意味が異なるからだ。
原文の八紘為宇の前の、「下則弘皇孫養正之心」が重要である。
それに続いて、しかるのちに、こうしようという志を宣うている。
家族云々という語釈ならば儒教思想なので日本書紀の神武天皇紀には
当たらない。
天(神)の意を受け継ぎ徳の恵みに感謝し、正(かたよらない)心を
養うよう人々に広め、しかる後に地を平かにし都を開き天地一つとなす
という詔なので、政の基本姿勢、基本精神のありようを示したものだ。
戦争を正当化するためにアジア諸国を「大東亜」などと一括りにした
詭弁とはほど遠いもので、また国体という意味でもない。
ごく普通に考えればわかることなのだ。
他国と戦をして、一つにまとめ(征服)して栄えようというのは
侵入された民族にしてみれば奪略であり暴力である。
かたよらざるを徳とするのが天の意である。
それを正といい、まさごとと読む。
この原則は古代倭の思想にあるもので、その厳しさは神といえどもと
いうくらい大切なこととして書かれている。
それを外して天皇の詔勅にするなどあり得ない…。
真の天皇ならば、だが。
明治政府以降、いろいろとおかしなことをやってみて、
昭和の御代で、その結果はすでに出たわけである。
八紘一宇と国家総動員法で国じゅうを駆り立てた戦争は敗北した。
国じゅうが焼け野原となり、大勢の民の命を失った。
国は滅びたといってもいいくらいの敗北である。
滅びなかったのは、天皇は象徴という立場を了承し、現在の憲法下
にあって本来の天皇のあるべき姿に戻られたからである。
そして、日夜、国民と国の安寧を祈っておられるわけだ。
それを亡者のようなやからが、敗北に負け惜しみを言い、八紘一宇
などと死語を持ち出してきた。バカにもほどがあるが、誰かが
つぶやいていた「覚悟をしたバカほど恐ろしいものはない」に同感だ。
万葉集や記紀を出典として、帝国陸海軍は標語や軍歌を作り戦意
昂揚に使った経緯がある。
古典は一般には身近でないので卑俗な意図をもって、切り取って
用いる、そんなことができるのだろう。
祭政一致の時代だからこそ成り立っていた言葉を、政治が人の利害
に堕した世の中にあってことさらに持ち出す。悪用である。
先人に申し訳ないことだ。
しかし、学者がその手先になっていることにもさほど驚きはない。
残念ながら。
なぜなら、3.11以降、原発事故以降、放射能被害をめぐる発言で
信用に値する学者の数は、片手で足るくらいしかないからである。
古伝の言葉を知るには、その御代の心を察する謙虚さと敬いが
なければならないと思う。
詳しくは「かかか」の方に書きます。
ともあれ、芽吹きの春を迎えられたことに感謝。