(続)
土地探しは誰にとっても難しいものだ。案内役がいても自らの判断基準、ものさしを
持っていなければいいのか悪いのか見当もつかないね。
かつて土地を探して歩いた時の苦い思いが蘇ってくる。なにごともケイケン、ケイケン、
地図と図面、他人の話だけではわからない。
これから山のふもとなんかで暮らしてみたいなあ、どうしようかなあと思っている
人達がけっこういるだろうから、余計なお世話なんだけどちょっとブツブツ言ってみた
んだけれど‥。
富士丸父ちゃんがアドバイスを受けたという(プロの人らしいけど)土地の造成費用の
見積もりがすごい。木を一本(大木らしいが)根っこから除くだけで何十万とかいう話
をしているのだから驚いた。それを真に受けたわけではないだろうけど、その土地を
見送る理由の一つになったことは確かだろうから、アドバイザーの影響は大きいのでは
ないだろうか。
ブログ友の「山奥で家族の楽園創ってます」のやまざるさんは自分で家を建てた人だ。
彼がこの話を聞いたら「オラにやらせろ、その半分、いや三分の一でいいべ、いやもっと
安くするべ、だいじょうぶだあ」とか言いそうだ。
実際、東京から移住した人の依頼を受けているようだし。やまざるさんは顔が広いので
(リアル顔の事ではもちろんないです、幅広い人脈というフツーの意味でございます)
あちこち連絡して下請けに丸投げなどせずにやってくれるタイプ、プロでないのがいい。
プロをあてにばかりすると家造りは妥協の産物となってしまいがちである。
えー、素人じゃできないでしょという方、その先入観が命とりです。
不動産会社と金融関係と住宅建設会社が仲良し三人組、つまりローンを組むとなると、
関係業者がぞろぞろっと現れるのでおまかせ!っとなってしまう。それを常識と思って
しまい、常識だからと頼ってしまい楽していると、あとあと悔やむことになったりする。
目を光らせて、耳かっぽじって、関係各位とつきあわねばならないのである。
家を建てた後、脱力感に襲われるというのは本当で結果が良きにつけ悪しきにつけ
そのくらい疲れるのだ。楽したくて建て売りを買っても同じことで、金に糸目はつけない
なんて成金でないかぎり、大仕事なのである。
願望を実現したいと思ったら、ああしたいこうしたい、あれが欲しいという自分の希望を
明確にしてブレナイことは、この際とても大事である。
ふだんは「私を滅す」なんて言っているわたしだが、これは決して矛盾してはいない。
「こんな場所買っていったいどうするつもりなんでしょうね?」と売り主が言ったという
その場所を伐り開いて家を建て十三年経った今、その言葉の意味するものが何だったのか
よくわかるようになった。
最初の仕事はぼうぼうと茂った草木、大木の始末であった。金とヒマが必要と最初に言った
けどそれよりなにより信頼できる仲間がいることが一番大事かもしれない。
建物とその周辺だけ刈り取って視界をよくするのに遊びながら一年かけた。キャンプ生活
に憧れるアホバカ軍団は童心をとりもどしてよく働いた。とても貴重な思い出だ。
便利なものが何もないというのが、どんなに大変かということを実感した日々である。
それとあらゆる道具は使いようであることも知った。つまり工夫の大事さである。
このあたりは別荘地ブローカーが暗躍しているので騙されて別荘を建てる人もちらほらいる。
少し離れたところにいるSさんの別荘が建ったのは三年前だった。造成中から観察していた
のだが、案の定、現在のSさんの悩みは庭に何を植えても育たないことだ。
あたりまえである。業者は木の根っこを掘り返して均した土の上に砕石を敷き詰め固めた
のである。茶色い地面がむき出しになって、毎年夏の草刈りの労力は省かれるのだが。
湿気の多い森のことだ。10日も留守にするとカビが生えてくるので新建材で建てクロス
張りにしたりすると、その家は捨てなければならなくなる。
ログハウスとは名ばかりの偽物ログ建材で壁を作ったりしても同じこと、そうした別荘が
もう一軒、放置されたままになっている。一昨年の夏、家中カビで大変と夫婦喧嘩をして
いたのだが、あれから姿を見せなくなった。もう来ないのだろうなあと荒れ果てた姿を見て
思いだすのは、完成した後しばらくして初めて挨拶に来たときの言葉である。
「いやー、アウトドアが好きなんですよ、自然っていいですよね」であった。
アホな男やなあとテキトウに挨拶したのだが、アウトドアが好きという割には最初の夏、
短パン姿でテラスで寝ていたので、なんちゃって別荘族だなあと推測しその通りであった。
安上がりに建てたログハウスの恐怖を知らないお気楽オヤジ、今はどうしているのだろう。
ある程度整備されて安心安全というお墨付きのついた土地を求めようとする気持ちも
わからないではない。そういう場所は純粋に住むだけでなく利殖を考えて購入する人もいる。
地代が多少高くついても後で売れると思うからだし、不動産屋もそう説明するからだが。
けれどそのことと、山のふもとで犬と暮らしたいという願望は両立するかどうか、そこが
問題である。欲しい物の軸足がブレてはいないか、よく考えないといけないのである。
わたしは地図にないような場所をあえて選んだ。それはわかりやすくいうと資産価値が
ないということである。
逆に、山梨や軽井沢などの別荘地は場所にもよるが利殖を念頭に求める人が多い。
しかし実際に別荘を持っている知人に聞くと、この十年ほどで様変わりしてしまい東京と
変わらなくなったと嘆く話しきりである。
なにせ利殖が念頭にあるから大きな声では言わないだけで内々の話ではそういうグチもこぼす。
人が人を呼び、周囲の景色も人が増えて変わった、山アジサイが根こそぎなくなった、
散歩道にあった野バラがいつのまにか刈り取られてコンクリートで固めた駐車場になっていた、
大型観光バスが停まって近所の隠れ家オーガニック・レストランへ人が大挙押し寄せた。
夜なのに車の往来でうるさくなった、きりがないくらいグチは続く。
別荘地は便利、けれども山の麓で暮らしたいというのとはちょっと違う感じがする。
どこからかド演歌が聴こえてくるなあと音のする方を見ていると、おじさんがやってくる。
カセットテープを流しながら歩いているのだ。熊除け?と尋ねると首を横に振る。
人除けだな、と笑いながら安心したようにヒトとイヌ一匹に挨拶して通り過ぎる。
草刈りの下請けをするので距離を測っているらしい。村人のアルバイトである。
村人が怖いと言ったのは山奥は不審者や盗人と遭遇しても一本道じゃ逃げ場がない、熊より
怖いという妄想をかきたてるからである。
字名はあるのに地図にない。地番もあるけどもちろん出ていない。そんな場所で一般的な
資産価値はない。固定資産税を取り立てるために一応評価額はあるにはあるが、世間相場
の価値より、価値を決めるのは自分自身ではないだろうか。
わたしにとって山のふもとで犬と暮らすというのは、世俗から離れること。
十牛図の中盤のように遁世求道のつもりが執着心を起すことになっては意味がない。
あまりこだわらず静かに、鳥のおしゃべりや虫の羽音に耳を澄ましたりして過ごす。
時が止まったように感じるときがある。
犬もまたいい顔をしているので、ここだと思った勘は当たっていた気がするのである。
さまざまに工夫をして山のふもとで暮らしている無名の人がけっこうたくさんいる。
それもブログで発信している人や、偶然知り合った人たちなのだが、誰かに見せびらかす
ためや商売でなく、生き方として実践している人たちだからおもしろい。
それぞれが悪戦苦闘して、ブログ上では見えない闘いを日々やっているのである。
それを厭わないなら、こんなにすばらしい生き方はないかもしれない。
何を捨て、何を得るか、そういうことがわかってきて、自分らしさが見えてくるだけでも
意味はあるような気がするのである。
ブツブツ、きりがないので終わります。
(富士丸君と父ちゃんファンの方、わたしももちろん無事うまく行く事を祈ってます!)