想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ピンクは好きか?

2008-10-31 15:03:52 | Weblog
  ピンク、桃色、縁の薄い色である。
  なのに、このバラの花びらは透きとおるピンクで、
  それをわたしは美しいと思ったのである。

  思ってから気づいた、先に言った縁が薄いということに。
  別な言い方をするとあえて選ばない色ともいえるし
  好きではない色かもしれない。

  そのことに気づいて、今まではそう思ってきたが違うのでは
  ないかと考え始めた。

  わたしは前にも書いたが、かなりのじゃじゃ馬で、おてんばであった。
  ヤンキーとかレディスの方々と異なるのは本好きなところである。
  本が好きだということは、おのずと採る方法が異なってくる。
  まず、群れない。次に手順を踏んだり計画性もすこしある。
  レディスの方々はよくは知らないが、体育座りしたりするようだが
  わたしはどこかに座り込んだりする暇があるなら、なんか別のこと
  しようかということになる。ぼーっとはするが、だらだらはしない。
  男っぽいかもしれない、どちらかというと。
  これまではそうだった。

  だからなのか、ピンクはちょっとなあ…という感じ。
  ところがよく振り返って思い出すと、成人式には着物を着ずに
  スーツを新調してもらった。ウエストを細く絞った上着とプリーツの
  入ったスカートで、色はなんとサーモンピンクであった。
  合わせたブラウスは薄いパープルだった。

  なんだかけっこう女っぽい格好してたんだなあ、と急に思い出す。

  どうしてピンクに縁がないと思ってきたのか?  
  記憶のなかで、わたしは黒白ブルー茶の女だったはず。
  ときどき紫が混じるが、ピンクはなかった。
  花束をつくるときも桃色トーンにはならないようにしていた。



  ピンクの美しさに気づいたのはバラを育てるようになってからだ。
  えもいわれぬ香りとともに、その色もすっと入ってきた。
  生活のなかの他のどこにもピンクはないが。
  バラ全体の三分の一ほどを占めるピンク系、少しずつ
  違う色合いを見せてくれる。でも、ピンクはピンク。

  「縁が薄いと思っていた」のは自分に対する思い込みからきたもの
  なのだった。ピンクの女性的イメージと自分は合わないから却下、
  今思うにそういうことなのだった。

  ほんとうを言えば、美しいものは美しい、好きも嫌いもなく
  ああ美しいと思うのである。身にまとったりつけたりせずに
  ただ眺めていたい理由は、美しいから。

  人を花になぞらえるのを、時折り聞いたり見たりする。
  数年前に流行った「世界に一つだけの花」というのもそう。
  深く考えもしないで譬え、そして意味が通じる人と花のセット。

  色々な花があるように色々な人がいるはず、ということはしかし
  好まれたり好まれなかったりする花があるように、人しかりである。
  万人受けするものと、野辺の花や、ふだん手の届かぬ高い峰に咲く
  ものもある、これまた人しかり。
  
  でも、せっかく花になぞらえるなら花の色、形という細部を
  よく見てみてみよう。
  どうやったら、茶色や黒い土から伸びたがさがさ肌の幹から
  つるつるの緑の茎が伸び、その先端に透き通るような花びらの色を
  湧き出せるのか。その色はどこでどう調合したの?
  なぜそんな色になるの? と見つめてしまう。

  花の色形の多様なことは、人の能力や個性の多様性と似ている。
  内側に秘めた不思議も似ている。表からはその力は見えない。

  花に寄せていえるのは、美しいものは美しい。
  好きか好きでないかは気まぐれにかわる無常だが、
  美しいというのに変わりはないのだということだった。
  人が人に惹かれるのも同じことなのだろう。
  薫りとか内側からこぼれる光とか、どこかでキャッチして
  その人を忘れられなくなるのだろう。
  



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走りだせ

2008-10-30 08:26:07 | Weblog


  オモローな顔、連続シャッターが降りる間に眼前にドドドッとやってきた。
  やっぱり速いなあ!
  それにこのアングルだと、ちょっと熊みたいだ?

  森は乾いた晴れ間と午後から曇天という日が続いている。
  一年のうちでは珍しい。どんどん秋が深まっていく。
  誰かれ会うごとに、今年は雪が降るなあ、と言う。
  そうか、雪多いか‥と、嬉しいような困るような、むずかしい気持ちになる。

  一方、東京の仕事場から見える空は曇っていた。
  森の奥みたいに薄暗いのだ。
  秋の深まりは、こっちではあまり感じない。秋、だな、程度である。

  今週は古典からきっぱり離れ現代の仕事に没頭するべく頭を切り替え中。
  だがそうカンタンに戻れるわけでもない。
  一年がかりのもあって仕上げるために集中しているのだが。

  ニュースがいけない。
  アホらしくて、呆れて、怒り気合いも通り越すのである。
  こんなときにも、年寄りはエラいとふと思う。
  こういう時代も生き続けて、こんなどうしようもない、アホとしかいえない
  人間のサマをすでに何度も見てきたのである。
  思いは人それぞれだろうし、あまり物を考えない人だっているにはいるが、
  それでも本当のアホでいられる人はいないのではないだろうか。
  表現の違いはあっても、人は心の奥底で感じることには大差なく、この空しさは
  底の底のほうへ重く沈んでいくはずである。

  母親が子どもを小2頃から学校へ行かせず中1からほぼ完全に監禁し続け、
  発見されるまで8年間、誰も助けなかったという事件があった。
  ネグレクト(育児放棄)というが、放棄ではなく誤ち(報道では精神障害だそうだ)。
  情報化社会、でも都会のまんなかに埋もれてしまう人が実際にはたくさんいる。

  人が人とつながっていきるから社会というのではなかったかなあ。
  戦前からの隣組という言葉は、昭和3、40年代まで生きて機能していたと思うが
  その後は敗戦の忌まわしさからなにもかも投げ捨ててきて、今あるものといえば
  孤独があたりまえという状況だろう。

  孤独って青い人が使うと甘いひびきにもなるが、怖いものである。
  その怖さを知らないと一人前にもなれまい。
  半人前くらいがバラバラに競い合っている。

  苦い時代であるなあ、と曇天だとよけいにそう思う。
  こんなときは、親分みたいに素早く走り抜けたくなる。
  韋駄天走りしたくなる。

  シボレーの自転車に乗って、青山墓地を抜け乃木坂、六本木の坂道を
  サササッとその気になって(実際は急な坂道はノロノロ)走る。
  ひとりきりの人、ひとりきりじゃないよ、声を出して
  腕を振りあげ、走り出せ! と心のなかで思いながら。
  切る風がもう冷たい。




  




  

    

  

  
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もみじとチャルメラ

2008-10-29 09:50:16 | Weblog


  チャルメラのひびきは秋の夜長に聞くといい。
  細く伸びた路地の奥までチャルメラのおじさんはやってくる。
  屋台をひいて、哀愁の音色を響かせて、空腹をなぐさめにやってくる。

  秋は腹も減るのである。

  ここには細い路地はない。かわりに細い山道があって、おじさんは
  軽トラででもやってくればいいのに。
  チャルメラの音を脳内再生して、わたしはガスの火をつける。
  小鍋をかけ、湯を沸かす。

  明星チャルメラを袋を取り出して、塩にするかしょうゆにするか、吟味する。
  とはいうものの脳内再生中のおじさんの屋台にはしょうゆしかないのである。
  塩はとっくに食べてしまって売り切れである。

  ぷおぷおぷお~ぷお~とやや高めのキーで自分で言ってみる。
  チャルメラが聴こえたつもりで、湯の中に乾麺を入れ、しばし待つ。
  おっと、しめじも少し入れるね。

  茹でたキャベツと小松菜は別の器によそおって、胡麻をかけ白出汁を少量かけておく。
  鍋のなかは盛り上がっている。

  火を止め、粉末スープを入れてかきまぜると、おお、チャルメラおじさんのラーメンだ。
  すばやくどんぶりに移して、木の実スパイスを真ん中あたりにふりかける。

  窓からもみじを眺め、小腹がすいた~、「おじさん、しょうゆ一丁ね」と言ってから
  十分足らずである。まだ昼前だが‥‥

  チャルメラは秋に似合う。
  頭、小休止。
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きいろもきれい

2008-10-28 00:28:47 | Weblog

  色づいているのは紅のほかに、きいろ。
  木によって、きいろも少しずつ違っています。

  レモンイエローというと味気ないけど、和名では黄檗(キハダ)色、
  緑みのあざやかな黄があります。
  赤みのあざやかな黄は、花葉色(はなばいろ)、または鬱金色(うこんいろ)、
  赤みがにぶくなると黄朽葉(きくちば)色になります。

  日本の伝統色という色見本の本をよく見ます。仕事で使うときもありますが、
  着物の色など確かめたり、今日のように葉っぱの色を知りたいときなど
  ぜんぜん目的のないときにも、見飽きないので手近なところに置いて、
  ぱらぱらめくって楽しみます。

  黄檗は染料として紙を染めるのに用いられ、虫喰いを防ぐ効果があるので
  写経用の染紙に用いられたそう。
  また、黄檗と藍を合わせると、緑や藍色へと色が広がるし、
  染料の用途のほかには、煎じると腹痛薬になります(本草綱目譯説)。
  そういえば漢方薬で檗の字が入ったの、見たことあるなあ。

  うさこは風邪薬など漢方を使います。
  ツムラとかカネボウとかから出ている市販されているものですが。
  できれば、木の皮を剥いて、「ほれ、これを煎じて飲みなされ」とか
  言える仙人(いや五百人で)のような婆さんになりたいなあと思いますが、
  ま、無理でしょ、アホですけん。

  仙人はねずみ師におまかせ~として、わたしは風邪を引かないように気をつけよっと。
  今日の親分は、シャンプーをしたのでピカピカの黒毛になって
  ちょっとシチーボーイっぽくなってます。
  おみせできなくて残念(もうグーグーイビキかいてるので)
                          


  

  
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森のなかの特等席

2008-10-27 10:52:27 | Weblog

   まだ本番少し手前の紅葉です。
   あと四、五日で全身が紅に被われ、同時に風が強くなって
   はらはら吹雪のように散ってしまいます。

   ここ一番の見頃は、人知れずひっそりと、森の住人だけが知る時間にあります。
   儀式のようにすみやかに、終わるのです。

   いつもわたしたちは、そのちょっと手前とか、そのちょっと後しか
   見ることはありません。
   余韻を楽しんで、偲んで、それでもこの特等席があることで
   満ち足りた時を過ごせています。

   木枯らしが吹きはじめる前の、今年最後のおだやかな季節。
   それにしても、この色は、まるで平安朝の歌のようで、
   屏風絵に描かれた顔料みたい‥
   人は自然を模倣し、それを文化と呼び、誉めたり誉められたり、
   羨んだり讃えたりします、人同士で。
   (やがて受勲のニュースが読み上げられる文化の日だなあ)
   木には名はないし、勲章はもらわない。
   けれどそれぞれに少しづつ違った華やぎをみせ、そして散り、
   長い眠りの冬を迎えます、いちねんの実りをことほいで。

   勲章はないが、人はかなわない美しさです。
   この前で、傲慢にはなれない、やさしさも兼ね備えて立っています。
   

   
   
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おつかれ!

2008-10-26 16:34:35 | Weblog
   あくび、始め。



   あくび、〆。

   怒られると中あくびで、
   「あい、わかったよ、わるうござんした」と態度で示すが
   おおあくびは、お疲れのときである。
   疲れるって、なにしたわけじゃないんだけど、散歩である。
   点検、偵察、うろうろしてまわって、ついでに用足しもして
   あとは朝飯食って、さて、寝るか、の親分さん。

   紅葉より、落ち葉の匂いがいたくお気に入りで、
   木の根元にたまった落ち葉にスリスリして、怒られる寸前で
   ダッシュするというのを繰り返し、疲れたのである。

   おっかあは、東京の知り合いたちに紅葉通信をすべく
   撮影にいそしんでいるが、いまいちのようである。

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今がしあわせ きぬかつぎ

2008-10-25 23:02:28 | Weblog

  朝陽のあるうちに外へ出た。
  ゆうべの雨の名残か、湿り気のある雑木林に陽が
  射し込んでちょうどよい温みだ。
  陽がなければ、森のなかは朝晩、肌寒いから。



  歩きつかれて、庭先にトドが一匹寝ていますなあ。
  オ トド メクダサルナ、ミョウシンドノ…と言ってみる。

  今日は朝から忙しかったが、来客にいいものをいただいた。
  掘り立ての大根と里芋、そして曲がり葱。
  大根を作りたいというばかりで、いまだに畑の用意もできない
  うさこには畑の見学を勧められる。
  見て倣え、そうすりゃわかるべ、と言われた。

  さといもを洗って、ふと思った。
  「今生(こんじょう)のいまが倖(しあわ)せ
           衣被(きぬかつぎ)」 鈴木真砂女
        
  これは波乱万丈の日々の生き抜いてきた真砂女さんの
  晩年の作、ほんとうの気持ちがこんなにぴたっと表れて、
  いい句というのはたくさんあるにしても、折に触れて思い出す。

  その句を何度か口にのせ、芋を洗いつつ、う~っと唸り、
  「大根の 泥みずながし すきとおる」
  と駄作をひねりだす。

  今生の~と言い切るにはまだちょっと修行が足りないので
  大根と里芋の黄金コンビを晩飯の膳にのせ、よく思案して
  みようと思うのである。
  食えばわかる、の理屈である(わからんだろ?)
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銀河の星つぶ、清志郎の歌声 

2008-10-24 00:08:45 | Weblog
    低血圧絶不調の朝、人の声など聴きたくもないが渋滞情報を聞こうとラジオをつけた。
    いきなり、ギターのイントロだった。
    長い長いイントロ、そして女性の声のうしろから小さくかすれて聴こえてくる声、
    清志郎だーーー! と盛り上がり、血圧上がり、元気になる。

    「ぼくらは銀河の星つぶだよ、はるかな銀河の星つぶだよ
     わからないという名の銀河を泳いでわたる
                     星つぶだよ」

    ネットで、今流れている曲を調べ、即、ダウンロードした。200円也。
    すばやいなー、仕事もこうやればよいのになあ。

    曲名は「銀河」 原田郁子(クラムボン)と忌野清志郎とのデュオ。
    清志郎はまだ療養中のはず‥‥と思ってたらこれが休養する直前の仕事
    だったそうで、いい仕事してくれはるなあ、ありがたい、まことにありがたい。
    原田郁子さんの声とてもよいです、でも清志郎の声とメロディーをおおいに喜ぶ。

    ふたりともすてきだ。
    



    ぼくらは銀河の旅人だよ、わからないという名の銀河を泳いでわたる、旅人だよ、
    そうだなあ、そうなんだなあ、としみじみする。

    昨日の風に聴け、の続きをつらつら思っていて、なぜなんだろう?と。
    のど飴をしゃぶりつつ運転、そしてしばらくして閃く。
    「古代は母である」なのだった。
    人はつながりたい、と思う存在だ。何に?
    それは元の元の元の元はどこか?ってことだなあ。
    何県のどこそこ町という故郷よりもっと以前、ずっと前、どうつながって
    今があるのかってことを知りたがる。つながりたいから。

    銀河の旅人、うまれでどころへもどる旅をしてるわけさー、と思いついて
    すっきりする。

    ねずみ師に話を聞いてもらう。
    うんうん、そうだね、と小学生を誉めるような態度で、よし、と言ってくださった。
    ありがたい、ありがたい。
    
    仕事場でも itunes を立ち上げ(調子づいて機嫌がよい、単純である)
    せっかくだから清志郎の「石井さん」(アルバム「メンフィス」に収録)
    を聴く。知らない人は知らないが、知ってる人は知っている愛妻ソング。
    「いしいさん、いしいさん、いつでも~、いしいさん、いつでも~」と陽気に歌う。
    みんなもダーリンの名前を入れて替え歌にするといいよー、
    リビングで歌おうぜ、子どももじいさんもばあさんも、だんなさんもかみさんも
    みんなで一緒に歌うといいよー。
    

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ふたつ名 2

2008-10-23 01:33:31 | Weblog

    唐突だけど名前で思い出した、ちょっとおもしろい話。
   一般に読まれているのは記紀(古事記、日本書紀)だろうが、
   それより旧事本紀(72巻本)のほうが詳細に神名が出てくる。
   そして、神名には一つの法則があることをわかって読めば、
   書かれている意味がわかってくる。

   神名とは、どういうハタラキをしているかを表しているのである。
   一つの流れ上で、ハタラキが変化していく。すると名も変わっていく。
   ふたつ名以上である。

   名が変わって別の事がついてあるように思うと、意味をなさない。
   これがわかれば、読み解いていきやすくなるのである。
   同じ訓みをしていても宛字が違うことがある。
   それはハタラキが変わったからということで、「降る」くだるたびに
   名が変わる。

   天思兼命→天八意命 くだってハタラキは細分化される。
   物質界でいえば、くだって眼に見える方へより近づく。

   ハタラキそのものの意味がわかれば、わかる話なんである。

   旧事本紀に記された神名は、〈あがめたてまつる偶像のような偉大な神〉ってイメージを
   捨て去って読むべしで、皇統連綿の史観はこの際要らない。
   それがあるだけで最初からけつまずいて、立ち上がれない。
   つまり意味不明になってしまう。




   先日の記事に古代史のことにふれたりしたが、旧事を研究し学ぶことは
   必ずしも歴史、古代史に焦点をあてているわけでない。
   ここに限っていえば、まったく違うと言ったほうがいいだろう。
   旧事にある神名で読み解いているのは、哲学、思想なのである。
   しかし、思うに歴史とは思想抜きで考えられるものでもないので、
   それぞれの史観に(いろんな学説に)、すくなからずその人の哲学は
   表れることになる。

   神話は、事物と現象がどうようになりたっているか、
   世界はどのように成立したかということ。さらにいえば事物の誕生。
   権力闘争の歴史物語という解釈から抜けられないのは、
   視野狭窄か、感性の問題なんじゃないかと思うんである。
   少なくとも千年以上も時を経た文献を読むのに、現代の感覚や価値観を
   基準にして、堂々と推量を述べたまうのはおこがましいというものである。

   そういえば偏狭な歴史観しかない考えをさして、南方熊楠は「思いやりなく」と
   言い、そのことについて西郷信綱博士は、
   「この思いやりは事象を時代の文脈そのもののなかで見ることで、歴史的想像力
    という言葉に置き換えることもできる」と書かれた。(『古代人と夢』)
   ほっとするが、こういう考えの人は数少ない、稀である。

   古代を考えるに、いや古代という時代をさらに超え、時空さえ超えて考えるとき、
   「時代の文脈」とはいったいなんだろう。
   どうすればわかるのだろう。
   無為、ではないか、と思う。風に聴け、か。

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ふたつ名 1

2008-10-22 15:11:24 | Weblog
 
   
   鬼平こと長谷川平蔵がカックよすぎの鬼平犯科帳。
   映像もいいのですが原作を読むと、さらにいい。

   最初の出会いは、とある地方(たしか湯布院?)の日本旅館で
   ロビーのソファ脇に誰かが置き忘れたような、かなり傷んだ文庫であった。
   読書は濫読ではあるが、なにせ池波正太郎までは手がまわらず
   初めてだった。
   一人で話相手もない、お酒も飲まない、歩きまわる気もない、そこで
   残るは読む、しかない。部屋に持ち帰ることを女将さんに了解をとると、
   あっさりとくださるというので頂戴した。
   たたみの上に腹ばいになって読み通し、帰路の新幹線の中でも読み
   気分はどっぷりと鬼平の世界。東京駅の雑踏で、少し我に返った。
 
   テレビ放映のせいで、中村吉右衛門のイメージが焼き付いている。
   読んでも頭の中では吉右衛門が動き回っていて、おまさは梶芽衣子。
   彦十おじさんも、同心たちも、みなはっきりとした顔が浮ぶのである。

   文庫全巻を揃え、何度か通読し、筋がわかっていてもテレビも見て
   飽きない。放映が終わると次はビデオでまた見る。
   精神衛生上まことに良いのである。
   疲れたときのリフレッシュ、毎日のろくでもないニュースにうんざり
   してるときなど、スカッとしたり、鬼平の人情にほろっとしたり、
   即効回復する。
   こんなのはなかなか他にないので、ハマルのである。

   ところで、登場する盗賊たちをはじめ女たちもみな、ふたつ名を
   持っていて、本名のほかに通名、綽名がある。
   それが個性を言い表しその名の付け方が絶妙で、誠に的を得ている
   のである。池波ファンならよく知ってることで。
   狐火の勇五郎とか、雨引きの文五郎(すきま風の異名あり)とか
   名前が物語をひっぱっていくんである。

   うちのベイビーは、ここではくんくん親分だが、
   もう一つの名はプーちゃん。プーちゃんって……ねえ?
   
   おおいびきで寝ている最中、プーと快音がし匂いがただよって‥。
   いい匂い(飼い主だけはそう思う)ふふふふ。
   あんまりよくプーをを発するので、プーちゃんとからかっていたら、
   それが普段の名になってしまった。
   生まれたときに付けた名ではあまり呼ぶ機会もない。
   注意を喚起しなければならないとき(車に注意とか)だけに
   なってしまって、つまり彼の名は彼の生態を表しているな。


        地面に這って緑の葉をつけている蔓性植物、赤い実がついてていいなあ。
        ところで、君はだれですか~?

   プーちゃんと呼ぶようになって、うさことの距離はまたいっそう蜜に
   なり、その役目は番犬以上介護犬並、ほんに気がまわる犬なのである。
   名は体、体ははたらき、能力を指すという話、明日へつづくー。
    
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幸福が戻ってくるとき

2008-10-21 09:47:12 | Weblog
   いつでもぼくは、やっほっほー、たのしいです。
   おっかあが黙って歩くので、ぼくはぐるぐるして、行ったり戻ったり
   早くこいよな~、です。

   おっかあは歩きながら考えごとしてます、ときどき立ち止まります。



   ポケットの中に手をつっこんで歩くおっかあ、そこになんかあるの?
   なんかくれるの? 期待して、立ち止まります。

   三つのことを平行して進める秘訣、あったらおせーてくだせえ。
   おっかあは、こっそりとねずみ師に相談していましたね。

   やっている最中に思いついた(別件)ことは、書き留めて準備中の箱に
   入れておき、一つが済んだらその箱から取り出せばいいよ。
   すぐにメモすれば、頭の中だけで混乱してしまうことはないはず、
   整理できれば平行しているのと同じことで、結局やるときは一つづつ
   なのだからね、混乱さえしなければだいじょうぶなのだよ。

   おせーていただきましたので、そうしますというわけで、
   わかっちゃいるけど、メモ箱ごと混乱させてしまったりするわけで
   焦る焦る焦る。

   そして、
   「長いこと私を離れていた幸福がもどってきて、夜半目を覚ますと
    興奮のあまり眠れない。私の頭のなかでふたたび、さまざまなことが
    起こりはじめていた」(メイ・サートン/海辺の家より)
   というときが、うさこにもたまに起こり‥‥

   今朝は睡眠少ないけど、すっきりと早朝に起きると、ベイビーは子分をくわえて
   ブンブン振り回し、すでにスタンバッてました。
   昨日おとといからの疲れが出たか、昨夜は夜更かしのわたしの隣ですごいいびき、
   どんなときも、いつでも、幸福は行ったり来たりしないでここに留まっているみたいな~、
   やっほっほーと夢の中で山歩きか、足をバタバタさせてたけどね。

   彼のいきざま、かなりうらやましい。
   でも、羨むという心理はたとえベイビーに対してでも幸福の大敵!と知っているので
   うさこもやっほっほー、で行きます。
   戻ってきた幸福が出て行かないうちに、チャチャチャと励んでおこうっと。
   これからも、どこにいても、晴れたり曇ったりなんだから。   

   

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古代史と恋愛小説

2008-10-20 13:41:58 | 
   旧事は漢文ばかりで、眼がクラクラして辛い時には、
   畑違いの恋愛小説を。
   近江地方を舞台にした小説は数多いが、そのうち恋愛小説を一つ
   紹介します。ご存知の方も多いかと思いますが‥

        芝木好子「群青の湖」1990.講談社刊

   最近の若い人(セカチュウ、コイソラなど好む人ね)には縁遠い作者かと
   思います。大人が読むにたえる恋愛小説ということでは、「あると思います」と
   おすすめです。

   舞台の近江は日本歴史の発祥の地であります。
   しかし、そういうと怒る人がこの東北の地にはたくさんおられますねえ。
   九州生まれのうさこにはわからん心理ですが、東北地方は大和地方の中央集権政府に
   組み入れられていなかった、我らは独立した国家であった、という気持ちがとても
   強くあるようです。
   それはあってしかるべきことでありますよ。
   いい悪いではなく、しかるべき‥、あたりまえということです。

   なぜなら、大和朝廷というのは「おらが土地だーどけどけ」という政策で
   侵略していったわけではありませんね、日本列島は長い!
   融和していくという方法をとったことが旧事を学ぶとよくわかります。
   ゆえに東北地方(蝦夷ですね)にはその地独特の文化があったというのは
   ごく自然なことで、ことさらに独立していた、といいたてるのは近代人の発想でしか
   ありません。

   話が逸れましたね(いつもですが古代の話になるとリキが入ってしまって)
   近江と古代史と恋愛小説、これはとてもロマンチックなテーマであります。
   群青の湖(うみ)とはもちろん琵琶湖のことです。
   この巨大な湖の周辺には古代古墳群が「立錐の余地もない」ほどにあるのです。
   もちろん発掘され保存されたりせず、ただの山、丘となっているところが
   ほとんどなので開発の波にさらされて、掘ったらあった、という情けない話のほうが
   多いのですね。

   しかし、それとは知らず今歩いている道を、はるかいにしえの人が
   誰かを恋いうる心を秘めて駆け抜けたかもしらん‥、湖岸にたちつくし
   霧の向こうの彼の地に去った人を偲び、追いかけたかもしらん‥、
   などと妄想しつつ行けば、ただの道とも思えなくなるというものです。



   近江といえば安土城ばかり脚光を浴びてきた近年ですが
   織田信長は時代区分では戦国の世ですが、古代からみれば近代人みたいなもので
   うさこはあまり興味がないのです(信長ファンにはスマンがしかし)。
   近江商人などまだ現れるまえに、その礎を築いたマボロシの人々の息に
   ふれてみたい、そう思うのです。

   「群青の湖」の背景は昭和ですが、土地に染み付いている古代の匂いが漂い、
   その風土に生きる人間を哀しくも気高く描かれています。
   染色織物、その原材料となる木を扱う木工の木地師、そして土と火を操る陶工、
   伝統工芸の技を辿ればこの地に集結してしまうという土地柄なのですが、
   その隠し味を控えめに、あくまで人と人の絆と縁を切なく美しく書かれています。
   分厚いですがその読後感は浅い大河ドラマよりも、いいかと思います(笑)。

   古代への興味、その入口は人それぞれにいくつもどこからもあります。
   古代史を知って、で、どうする? ですが、それは今を考えるよすがに
   なろうかというものです。
   その風を感じることで、素粒子以前の息吹に瞬間でも触れる、それはちょっと
   この重い重い肉体の呪縛から自由になれるような気がするんではないか、
   そういうわけであります。

   
   
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きっぱり、だー

2008-10-19 01:09:34 | Weblog

   昨日のどんぐりランチプレートの写真を見て、
   「おしりで作ったね~」と言った人がいます。
   しばし、ん?
   「だって、ケッサクでしょ」と自ら説明していただきましたので
   一件落着、うさこは修行がたりんようです。

   ねずみ師の戯言はさておいて、今日の空はごらんの通り!

   きっぱりーーーーだ。
   秋なので、それでも夏のように激しくはなく、きっぱり。
   オトナな明快さで、ちょっとやさしげでもあり、です。

   思いがけないことはよくあるものです。
   人生、思う通りにはいかない、それが人生。
   で、なにかあるとその先の先の先くらいをころがるように想像して
   先々、全部がだめになってく気がする、って奈落的思考のパターンに
   はまったことありませんでしょうか。

   そういうときは、先の先を思うのをまずやめる。
   思ってもすぐにやめる。
   やめてどうするか? 
   はい、やめるだけです、思うのを。

   思うと次のページが開ける、それは脳のはたらきですね。
   別に命令しなくても脳は次のページを開いて、どうよどうよ、こうよ、と
   たずねもしないのに見せてくれる。そういうふうにできているねえ。
   よけいなお世話なのであります。



   先の先を思うより大切なのは、まず目の前にあることだけを
   どうにかしようと考えるってこと。

   創作しようとすると、なぜか先の先の先へとどんどん開けてくるという
   便利な脳のはたらきがストップすることがよくあります。
   よけいなお世話をお願いしたいときに限って、何も出てこなくなる。
   この場合にはどうするかというと、はい、きっぱりーーー考えるのを止め!
   ぽか~ん、すこ~ん、と歩いたりしてると、脳は勝手に動き始め、
   突然ページがめくられます。

   そう、人生は予想がつかない。
   つかないのを考えるのがどうかしています。
   いや、そのときこそ考えねばバカでしょ、と思っているカシコイ人は
   どこまで考えているのでしょうか。

   カシコイならばせいぜい考えるのは先の先ではなく、先の手前の今、でしょ。
   うろたえて脳の暴走にまかせるのではなく、今やるべきことだけをしっかりと把握し
   (把握する方法は誰かに相談してもよし、調べてもよし、そのことに集中)
   そこに全神経をそそぎ、行動し、展開を待つ。
   その繰り返しが先の先の先の先へと続いていく、そしておもいがけないことからの
   自力脱出をはかれる、すると思い通りへと無事着地するわけです。
   な~んだ、そうかそうか、とか言うようになったりします、現金なものです。

   きっぱり派のうさこは、だいたいにおいて、ぽか~んの時はベストコンディションです。
   そいでもって、きっぱりと行動している。
   一見矛盾に見えますが、心身一如には最適です。

   先のことなど、知りようもありません。
   願いは今日のひとひでありますなあ。

   
   
  
   



   
   
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秋のおすすめランチ縄文風

2008-10-17 13:51:10 | Weblog
    ノーベル賞受賞で素粒子がにわかに脚光を浴びるのを秘かに喜んでいるこの頃、
    山へ戻ると少し秋が進んでいましたよ。
    やっぱりほっとします、この空気。
    首も回るようになったことだし、背伸びし、ばくばくばくと息を吸いました。

    呼吸の文字、よくみれば呼ぶ? ああ、吐く息のことですね。
    息は最初、吐かないと入ってこない、深呼吸は最初は吸ってはいけない、呼ぶ息、
    つまり吐くと自然に入ってくる。うまく出来てますねえ、ハイ(肺)。
    ばくばくばくと欲張りに吸ってばかりだと、ただの過呼吸に陥るので用心!
    明るい過呼吸なんて聞いたことないけど、アホな子はやりかねないので。
    
    今日はすでに書いていた記事を却下して、食材を探してきました。
    すぐ前の小道に数日前には栗がたくさん落ちていました。イガがついたままで
    ピカピカの栗。小ぶりでかわいらしい、そう思いながら歩いてたのですが‥
    今日はつぶれたイガがたくさん散っているだけ。栗は見当たりません。
    誰かが栗拾いしたようです(たぶん、村道の草刈りにきた村人1、2号でしょうなあ)

    栗の実はイガを残して一ツブも見当たらなくなっていましたが、
    どんぐりちゃんは、たくさんあります。
    今日の目的は、実はこのどんぐりなのです。

    どんぐりを食べていた縄文時代の人を思いつつ、ホウの木の葉っぱをお皿にして
    盛りつけしました。
    



    竜胆も咲いていました。
    来週くらいには、楓が色づくかもしれません。
    ねずみ師の吹く尺八が、風のなかに聴こえる季節です。
    秋をもうしばらく楽しみながら、神代以前を想像しています。
    素粒子以前‥。

    
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脳トレより筋トレ

2008-10-16 00:46:19 | Weblog
          川べりで朝の体操でーす、ってか(ウソピョン)。

   首がまわらなくなったのである。
   いや、借金取りに追われるアレではなく、胴体の上の首のことである。
   そして腕から手へつづくところの首である。

   ようするに運動不足がたたり筋肉が衰える一方で、脳トレよりか
   筋トレを怠っているから、かたまってしまうのである。
   ここまでくると、ストレッチなんかじゃどうにもならんというわけである。

   治療院とか整体とか、世間にはたくさんあるが、いったいどこへ行けばよいのやら
   見当がつかないし、疑り深いし(本人は用心深いと思っている)、人見知りときている。
   実に長い長い長いながーい間、腰痛で苦しんだあげく、昨年のちょうど今頃
   現在お世話になっている治療院を探し当てた。
   いや、探しまわってみつけたわけではなく、ネットで一発、勘ですね(自慢かよ?)

   ではなぜもっと早くみつけなかったか? それは気がむかなかったから、それだけのこと。
   人生はたいていそんな感じで、多かれ少なかれ気分に左右されるものだ。
   それがある段階に達した時、右か左か、きちっとぶれなくなって行動を起こすことになる。
   せっかく行動したのに、ハズレの場合だってある。
   それでメゲてしまうと、また左右される日々に戻ってしまうので、自分で決めたときの
   手順を忘れないことが大事、ね。
   これとても重要!
   ハズレはハズレ入れの引き出しにしまうといいのである。
   それを分析する、そして貴重なデータと換えてしまう、こうして行動した成果は無駄にはならない。   
   

   
   人間、ちょっと良くなると調子にのる(ま、あたいのことだけど)。
   このごろ治療院へ行くのが間遠になっていたら、キタ~! と回らなくなった。
   いけないねえ、と治れば思うのだが、じわじわと悪くなっている最中には、
   もちょっと、もすこし、と無理をし続けてしまうのである。
   まるでズルズルと悪の道へ入り込んでいく、気弱で根性なしのあんちゃんである。

   ゴキ、ゴキ、と治療院の寝台で首を回されて、深く反省した。
   そして一週間後の予約をいれて、殊な顔をして外へ出た。
   月がまんまるで光っている。
   父を思う、するとふわっと身体が浮いた、気がした。
   また調子にのっちゃって~。

   秋嫌い(子どもの時分からの)が卒業できそうだ。
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