想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

複雑な夏です

2016-08-17 20:53:32 | Weblog
夏休み、縁側には7匹。
いつこんなに増えたのか?
それは先週らしい…。





カメがガラケーで撮るために
お皿にのったのをそのまま
持ち上げたり、つまんだり、
これを見せられて早く会いた
かったのであーる。

こんなことができるのも今の
うちだけ…それにしても
ちっちゃいなあ。
連れてくるのがいつもより早い。






江戸ちゃんに続いてジョリコの
赤ん坊、新米ママは二度目で4匹も
産んだ。
ヨチヨチ歩きなのに連れきたのは
つまり、ミルクくれよという
デモンストレーションであるね。



そして一週間経つと少し育った。



ワシワシと入ってくる。
すでに親を真似て入ってくる。
おそるべし…こうして縁側は
犬が居た頃から浸食されて
きたのである。
デカイ犬も隅っこでヒイてた。
その頃の母猫の名はシマコ。
江戸のおかあさんである。

四代目子猫祭りで世俗の憂さを
晴らしております。
猫好きの皆様一緒に和んでください。
犬派の方は、2009~10頃のベイビー
を見てやって下さい。
うさこは犬派ですが、猫まみれ
のこのごろです。



こうしてみるとそれなりだが



実はこんなにちっちゃい。



ミルクくれ、乗り出す母の足下で
ヒトたらしの予行練習。


ばあちゃんとママに挟まって
川の字のしあわせ〜〜〜〜〜

静かな森で涼むお盆でしたが、
高江に集まっている人々に
申し訳ない気持ちでした。

機動隊員は神奈川や千葉から
沖縄へ派遣されホテル泊だそう。
あそこはとてもへんぴな所、
一度しか行けませんでしたが
抗議行動を続けている人々、
支援に集まっている人々、
ほんとに頭が下がります。

国とはいったい何なのかという
詮無い事を呟きつつ、猫の
頭をなでなでして日暮れました。

(お盆の三日)




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8月6日の前に 天皇の…

2016-08-05 22:30:00 | Weblog
苦い話の前に眼福の猫ファミリー
パパが見守るママとチビ。



(続き、参議院選挙直後記す、
長文御免なすって)

「天皇の戦争責任を問う」ことと
「天皇の根源的意味を知る」ことは
同義であり、その答はある。
血を受けたものが何を為すべきで
あったか。
何を誤ったか。
1945年、それを明らかにしなかった。

永田町の伏魔殿の妖怪を喜ばせ
巨大化する力にそれが作用したか
どうか、結果論でいえば、自民党の今
が語っている。
戦後10年経った頃には元軍人の派閥
がハバ効かせ、昔語りの自慢話
手柄話、人脈で商売、公益事業私物化
利権の独占、何のことはない、再び
力を蓄え始め、上にいくほど責任は
取らなかった。
守ったのは国ではなくわが家と係累。

それでも彼らが借り物などという
日本国憲法は唯一戦後の奇跡である。
借り物ではなく、欧米の真似でもなく
古代日本に初めて製られた憲法に
それはよく似て、生粋の日本国憲法に
そっくりなのだ。
(先代旧事本紀大成経「憲法本紀」
聖徳五憲法としても知られている)
天皇陛下は、もしやそれをご存知
なのではないだろうかと思うことが
ある。

元々のその古代憲法は大化の改新後の
律令制度に隠れ埋もれ、消されたが
わずかに日本書紀に「聖徳太子肇て
十七條の憲法を製る」と記述された。
あの十七條の原典は前文と17×5
=85条の文で成り立つ長文であった。

そこには、政治をする者の一切の
私心を禁じ、民に仕え、ひいては
それが国に仕えることだと定めてある。
また政治の根本は学問にあり、とし
学問とは神・儒・仏なりとある。

この三法を一つに束ね広く世の中に
浸透させることによって、渡来人が
増え外来文化流入や人口増大化による
混乱と不正や悪事の増加に備えようと
したものだ。

十七條憲法で知られる部分は通蒙憲法
という総論の部分である。それに加え
四家(政治家、神職家、儒士家、仏氏家)
それぞれに細かく規則を定め、私利私欲
と僻み嫉み、妄りな行い、偽善行為を
禁じたものだ。刑罰こそないが規範と
なること、してはならない行為を明文化
したのは、建国以来初めてのことだった。
成文法無くして乱れを防げない時代に
なったことが理由であった。
ただし、肝心なことはこれらは庶民へ
向けてではなく、公卿(役人)たちの
義務としてであった。
その意味では、公僕である国会と議員
の憲法遵守を定めた日本国憲法と同じ
である。


「今がいちばん天皇のあるべき姿に
近い形であると思われる」という
ご発言からは伺えるのは、
陛下が旧事紀をご存知なのではないか
ということ。
絶対君主などと陳腐な言葉はなかった
時代の観念をまったく知らないぼんくら
学者が、天皇を祀り上げた明治憲法は
陛下にしてみれば汚点、恥でしかない
ことは確かである。
そこへ戻りたいと思われるわけがない。

今上天皇陛下も皇后陛下も民の平穏を
と繰り返し語られ祈りの中におられる。
慰霊の旅を続けておられる。
父である昭和天皇の償いを、老齢の子が
その身を削り鞭打って続けるお姿だ。
天皇と人、この二重の呪縛を背負う
宿命の重さを人々は許したのだろうか。

否、人々はその意味さえ知らない。
単に事実を時間で流しただけである。
しかたがなかった、などと知った風な
態度だ。
戦争で死んだ者の恨みを想像しもしない。
戦前と同じく日の丸を振り、喜び甘え、
流されていく、そんな人が大半だ。

天皇の世紀の幕開け、明治維新は
大貧困の時代の始まりでもあった。
そして貧困は戦争を作り出す一番の要因
ともなる。
方程式通りの愚かな歩みを選択し
日本は徳川幕府でさえ踏み越えなかった
朝廷の垣根を破壊し国のかたちの根幹を
作り替えた。
天皇を大元帥とし、帝国陸海軍の統帥権
を与えたことであった。

昭和に至ってさらに戦争は激化する中、
万葉歌人として知られる大伴家持が
詠んだ歌を切り取り「海行かば水漬く屍
山行かば草生す屍」の歌詞にした歌は
昭和12年に政府が国民精神強調週間の
ために依頼して作らせたものだ。

作詞家はどのようなつもりで引用した
のか想像もできないが大伴という古代
随一の武門の家に伝わる心を詠んだ
家持の郷愁と憂いと自負を果たして
読み取れていたのか疑問である。

天皇、和歌、古事記、さまざまに
古き時代の日本を政治家が持ち出すが、
すべて読み替え、意味を違えている。
八紘一宇、神武天皇LOVEを叫ぶ
ヤンキー女優だけではなく間違い
だらけである。
古典を知らない者たちが政府御用を
請け負って大和魂を俄に作り上げる、
ヤマトダマシイなぞ、そもそもあり
はしない、あるわけがない。
魂は普遍無色なのだから。

たとえ日本から天皇制が消えても、
愚かな歩みは続くだろう。
天皇が罪なのではないからだ。
しかし天皇を棚上げにすることは、
戦争の傷みが風化していくことに
つながり、知らぬまにそこへ再び
連れ戻されることでもある。

巨悪の為政者だけが亡国の徒ではない。
国家は人の集合体である。
お上のせいにはもうできないという
ことくらい、知っとけよと隣人に。

天皇を書けば右翼か左翼かといった
幼稚な話はもうどうでもいい。
そもそも天皇を好きとかなんとか
言うのもどうかしている。
オマエが言うな、というわけでなく
意味深だからだ。
まず「天皇」と天皇陛下の違いから
考え始めなければならない。
神道がぶっ壊れて久しいから調べようも
ないってのが一般の事情だ。
かようなことも含めてツラツラ、
できれば多くの人に考えるきっかけ
にしていただければ右を論破できる
かような本もあります↓
ご高覧、よろしく。

「薫りたつ人 其の結
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忘れたふりしてなかったことにする人々

2016-08-05 16:59:13 | Weblog
(2012.経産省前デモにて撮影)

なぜ負けつづけるのだろうか。
(負けっぷりの悪さの余韻)

自民党念願の2/3議席確保という選挙
結果を一夜明けても繰り返し流すTVを
消せばいいのに消さないまま、聴いて
いた。
野党統一戦線も三宅洋平も、未だ遠い
夢であることを自分なりに整理し、
認めがたきを認めようと考えていた。

安保法案が強行採決された夜に流した
涙とはまた別の、もっと苦しくて
切なくて、激しいもの、悲しみか、
目から溢れる涙に頭がついていかない。

自分が強く望んでいることが何なのか
頬を伝う涙によって再認識し、
悲しみが怒りに変っていく。
(そうか…怒りは脳で作られるのか)

そして、今必要なのは三宅洋平が言った
「愛」とは違う別のものではないかと
そんな思いがよぎる。

愛でつながる、という言葉や
信じ合おう、という言葉は
人々の夢を遠ざけるだけではないか?
それに、それってほんとに愛か?

何を失い、何を奪われ、何を諦め
させられているのか。
それを人々が知るまでは、
変革の波は高く荒く轟くことはない。
奴らが築いている高く頑丈な壁を
打ち砕くことはできない。

蜂の一刺しならぬ蟻の一穴ほどか
なにかしら穿ちたいものだが
それさえかなわない。

「日本人には革命はできない」
30年前、通信社で働いていた知人は
静かな口調で若い私に教えた。
ベトナム戦争従軍経験のある記者で、
カメラマン故沢田教一をよく知る人
である。サワダに興味を抱いた私に、
どこにも書かれていないサイゴンや
サワダの話をしてくれた時だった。
英雄じゃないよ彼は、と。
ヒーローに憧れるミーハーを諭す
ような口ぶりに返す言葉もなく
黙って話を聞いていた。
その諦めに軽蔑が混じったような口調
をいまだに思い出す。

その指摘は2001年の小泉内閣発足から
実感として感じるようになったが、
内閣支持率が80%台になった時には
もう信じるしかなくなった。
「革命はないね」と。
ポピュリズム、劇場型政治、様々に
批判をされながら堕ち続けて今に至って
いる。

今日、政界を引退した元首相が反原発
を主張したところで、安全地帯から
批判をする無責任さを否めない。
人を人が裁くことは法以外にはない
のだから、小泉氏に現世の法的な罪は
ないが…倫理上の問題なら歴然として
いる。それを償うとでも思っている
のだろうか。

信念が変わったのなら、高い所から
マイクとカメラの前で話すこと以外の
地べたに近いところに降りて話して
欲しい。カメラではなく人の耳と目の
前に立って。
小泉氏に望むべくもないことだが。



若い人に「知は力なり」と教える党派
は、今回はそれなりに成果をあげた。
だが、いつものそれなりだ。
勝ち切るほどではなかった。
ちょっと議席が増えそれを喜ぶ、
そういう繰り返しでも「善戦」と叫ぶ。

しかし、知だけで闘うには奴らは
強すぎる。悪はもっと複雑である。
知ではなく、知と血、互角になるには
こちら側は血が足らない。
血巡りはいいが、その血は冷めている。

脈々と受け継がれ流れている血。
そして、奴らは血のみで立ち、頭は
からっぽなのだ。
汚い血を守るためには何でもする。
むしろ血のためには悪を悪と思わない。

比べて、革新を訴える人々は
生まれる前も、生の終わりもなく、
今だけを感じている。
今が大事、今を生きる、聞こえが
いい言葉だが…。
そんなふうに思える今は、もしや
泡沫(うたかた)なのではないか…。

先祖の血、そのまた先祖の血、その
またまたもっと先の先祖の血。
顔も知らぬ人々が生きて、歩いた
同じ土地の上に、今がある。
それを感じないで、
わが血が滾ったりすることはない。
血が頭に上ったくらいならすぐに
冷め、悔しさもぼんやりと霞んで
そのうち忘れてしまう。







(この文は7月15日参院選直後に書き
そのまま放置していた、感情が強すぎて)

(続く)
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