想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

にほん語で想う

2015-12-25 01:38:46 | Weblog
イチョウの落葉で埋まった道を
黒い毛皮のベイビーが、
お尻ふりふり歩いていく。
リズミカルに、太いあんよで
歩いていく。
ことばがいらない世界。
後ろ姿でも通じあえたよ。
にほん語もいらなかった。

いらなかったけれど、
わたしは君を亡くして
悲しみの渦は、にほん語でした。
どんなにふかく愛していたかを
たくさんの言葉を連ねて
君のいた空のなかへ
投げかけた。

そして、君の返事はにほん語。
やさしいにほん語だった。
ワンと最期に吠えた声音も
ここにいるよ、だったんだね。
ここにいるよ、ここにいるよ、
たくさんの想いがこもってた。

─────────

子どもに英語を修得させたがる親が
周囲にこんなにいたとは、な、と
やや驚いたこと。

なんのためなの?
と尋ねると、それ聞く?
そう言った人がいた。
聞くよ、何なの?
外国に行くときにいいから、
と返ってきた。
まさかの外国?
行くときって?

ネットを使わずに済まない日常で
英文を読まない日はないのである。
しゃべらないけど読む機会は多く
なった。
外国にはできるだけ行きたくないし
ここにいる。行かなくても英語は
要るだろう。スーパーに行っても
要るだろう。レストランでも、さ。
けれど英語とこどもの組み合わせ
それが解せないのである。

こどもにはまず母国語、にほんの
言葉をたくさん覚えて、たくさん
話して、たくさん考える人になって
もらいたい。それがあっての
外国語。
英語に限らないんだけど。

そうでないと、
愛に、めぐりあえないから。

ことばを知らないと、深く考える
ことはできない。
考えようとするとき、言葉を探し、
言葉に出会い、歌が生まれ、
声が生まれて、人は自分以外の
世界を獲得する。

そうやって神という名も
花という名も、
ずっとずっとずっと前から人の口に
のぼり、この世を照らしてきたわけ。

そんなことを省略して早口で言って
みたら、そうね、でもうちは
英語かな~、いいとこ就職するのに
いいからと言われてしもうた。
いいって何が?
 
金の話になっていきそうなので
話題を変えるべくお茶を入れた。

スマホに英語で金儲け。
情緒はいらない、ナイホウガイイ。
安倍政権文科省のおもうつぼであるな、
バカ親は御しやすいと。

言葉に魂を呼びこんで語る。
昔の人は言霊と言ったにほん語。
母国語の味は失って、懐かしむ
てなことになるのかもしれない。
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なおみ的な…明るさ

2015-12-24 02:23:52 | Weblog
なおみ的な人、というタイプが好きである、
という自覚をした。
それはこやつのせいである。
いつのまに洗脳されたのか…

太ってデカイ女の人。
目が丸くてパッチリしている。
大きな口を開けよく笑う。
明るい安村みたいにデブで、
その体型も含めて長所にして
周囲を明るいオーラで巻き込んで
食い物にありつく。
とにかく食べるのが大好き。

そういう女の人、雌ではなくヒト、
いるんですね、たまに。
いつのまにか注視し、笑顔になって
いる自分に気づいたのです。

なにがいいのか、
なぜ、惹かれるのか、
考えれば考えるほどこやつの姿が
思い浮かぶのです。



立っている方がこやつです。
お行儀のいい方はジョリコ。
可愛い系女子であるジョリコに
比べるとおおざっぱで大食いで
みての通りの体格です。
ミャアと可愛い声では鳴きません、
野太い声です。

そうです、共通点は天然でした。
天然ぶりが炸裂しているおデブの
可愛いヒトに会うと、なんだか
しあわせを感じます。

このヒトは人なんだろうか?
という疑問はどうでもいいです、
人でなしでないことは確かで、
たとえヒトであってもいつか
誰かを愛したときには、天然の
ままではいられなくなるでしょう。

きっと、その素直さで、あふれる
魂のひびきに気づきます。
すると、大きな口を開け笑わなく
なります。ときには涙を流す時が
くるでしょう。
喜びのあとに悲しみがくるのでは
なくて、それはいつも背中合わせ。

声をたてて笑うことが減って、
なんだか静かになっても
なおみ的な人の明るさは変わらず
そばにいる人をあたたかくします。

とりえというほどのものは
とくにないのですが、素直さが
運んでくるものがあります。



懐かしい、ベイビーと散歩した道。
東京で仕事する日は、ここを散歩
した。
ベイビーはクニツカミだったから
素直の塊ね。

一緒に過ごしていて、
ほんとにしあわせでありました。
なおみ的なモノが好きの原点は、
ベイビーですね、たぶん。

猫やら犬やらの話なのか
なおみが先か、猫が先か、
あまり深く考えない考えない…
たいした話じゃありません。












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森庭から見る光の方が…

2015-12-19 14:52:45 | Weblog
今週頭からクリスマス恒例のイルミネーションが
灯った表参道。
仕事帰りに赤信号で停車したついでにパチリ。
ボンネットにも映ってキラキラしている。

で、いつまでこんなのやるんだろうか、と
毎年思う。
3.11の後、原発事故の影響もあり大節電を
した都心だったが、当時は環状道路の灯り
も消えていて、田舎道を走っているみたい
で困惑したが、すぐに慣れた。

そしてまた、元に戻って今はどこも明るい。
イルミネーションはLED照明になった。
だから大丈夫という感じなんだろうか。

夜がこんなに明るい。
電飾で明るい都会を、人々はどう思って
いるのだろうか、と考える。
テレビの中の人々は、キレイ、ワー、キレイ
とやたらと叫ぶけれど…ほんとかね。
キレイなの?

人口の少ない地方は、夜は暗い。
あたりまえだ。
だが、これがあたりまえでなくなって
いるのではないか、という疑念が…

住んでいる村が、このところなんだか
明るくなった。
景気がいい、という人もちらほらいる。
もちろんそれは復興予算と東電ガラミの
アレに過ぎないのだが、結果オーライ。
それで、予算が余っているのか、街灯が
増えたのである。

山の家へ向かう途中の舗装道路が明るく
なっていて、気づいた。
まあ、あってもいいが、それよりも
もっと他に必要な急務なことはたくさん
あるのだが。

駅前に新しくできた土産物売場(村営)
も明るい。食べて応援と観光業を猛烈に
プッシュして、臭いものに蓋、あった事
も無かったことに。そうすれば、予算が
ガンガン降りてくる。
で、明るくなった。

でも、都会と違って明るくしてもそこに
人影はみえない。

晴れた日の夜は、庭に出る。
もうとても寒いけれど、見上げれば遠く
近く、「宝石箱をひっくり返したような」
星々がなんて比喩があった気もするが、
金のかからない輝きがあって、
それは、こんなあたいにも届くのである。
ロハでーす、予算外でオーケー、放って
おいてもらっていい。
いや、できれば触らないでこのまま。


何億光年の記憶が一瞬に届くのを
わたしの細胞たちがたぶん、キャッチ
しているんだろう。
頭のもやもやがすっきりして、いい気持ち
になる。

そして、諸々の世知辛いことを忘れて
眠りにつく。
森のいきものたちが、幸いでありますように。
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荒地の恋に触れて

2015-12-06 17:31:53 | 
この秋に読んだ荒地の恋にまつわる、
というより華やかな田村隆一の影法師
だった北村太郎を描いた本。
「珈琲とエクレアと詩人」(港の人刊)
「いちべついらい 田村和子さんのこと」(夏葉社)
著者 橋口幸子さん。

橋口幸子さんのことはツイッターで知った。
港の人(出版社)から出ている方を先に
読み、その後しばらくして夏葉社から出た
「いちべついらい…」を秋の初めに知り
アマゾンで取り寄せて読んだ。

薄い小さな本なのだが、二冊を併せて
読むと密度が増し、息苦しいほどの内容
だった。
「荒地の恋」はそうだったっけ…と思った。
小説に描かれた北村太郎と北村本人と交流
した日々を綴った著者の記憶にある詩人は
かなり違った印象であった。
別人のようでもあった。

人は出会い方や関係性、スタンスで別人に
なる。なるというより映る。当然のことだ。
けれど、橋口さんが北村太郎の本質により
迫っている気がした。

書く事が生業であれば、何故書くかという
動機によって、書かれた作品の質は異なる。
質とは善し悪しという意味ではなく、焦点
がどこにあるか、グラデーションはどうか
というような差異である。
ねじめ正一の「荒地の恋」に登場した
北村太郎と田村和子とは別なふたりが
橋口さんの言葉で生きていた。

「ふたりは孤独に見えた」
ふたりとは和子と北村のこと。
好きな者同士が、解決せぬことを抱えたまま
二人で生きることを選ぶ。
一緒にいるから幸せになった、そんなふうに
完結するのでもなく、一人と一人がより添う。
心は結ばれてもふたりの身体の周辺には
あれこれも世俗のことが入り込んだままで、
それは時にはさざ波を立てる原因にもなる。

そのことを、ではどうするということもせず
ふたりでいつづけるだけだ。
離れないように。

それが孤独に見える時もあるのは、
何かを捨てているから。
捨てて、大事なものだけにしたから。
多くを望むのを止め
多くを持たないから。

若くはないふたりの恋は、若い人には想像も
できないくらい激しく、切羽詰まる勢いがある。
恋と呼ぶには辛く重すぎる、生命の燃焼だった。

北村さん、と呼びかけるように書く橋口さんの
表向きの顔とはたぶん違うであろう純粋と潔癖が
修羅場の生々しさを昇華させもして、凪の静けさ
を思わせてくれる。

そこまで辿りつくのに、どんなにか苦悩した
であろうかと、珈琲を飲みながら考えた。

エクレアを添えてみたが、エクレアは名前の
由来通りパクッと一口二口で食べてしまうから
北村太郎のいとおしそうな食べ方はうさこには
真似できない。
橋口さんの文章は、潮や樹々の香りもしていた
ことに気がついた。




ジョリコの声なき声が聴こえるので
ふと顔を上げればすぐそこにいた。

─────────────────


荒地といえば田村隆一を思い浮かべる。
若い時に買えた詩集は現代詩文庫(思潮社刊)
だった。小説よりも詩作品からの影響が
大きかった。中でも富岡多恵子。
荒地派では黒田三郎を唯一よく読んだ。

田村隆一の言葉はとうてい好きになれなかった。
だが記憶に残ったのは露出の多い有名人で
あったせいか。本棚にエッセイ、雑文を
集めた本などあり、なぜそこにあるのか
自分でも思い出せない。

90年代の女性誌がとても元気だった頃、
田村隆一はダンディというより危ない匂い
のする、知的で、魅惑的な不良老人として
世代を超え女性たちに人気があったようだ。
表紙でポーズをとる田村隆一は欺瞞の時代
の空気を、余すところなく伝えてシュール
であった。

一方、北村太郎は詩集以外には存在を
知らしめるものがなかった。

光を当てたのは同じく詩人のねじめ正一で
ある。直木賞作家でもあるねじめ正一の
小説の形を借りた評伝のような「荒地の恋」
(2007,文芸春秋刊)は、荒地派詩人たちの
人生を、恋という最も人間味が溢れる出来事
を切り取ることで描いてみせた。

荒地の恋というタイトルなのに、主人公は
モテ男田村ではなく朴訥そうな北村太郎である。
詩の言葉はシャープ、だが外見は普通だった。
恋多き人は田村の専売特許のようであるのに、
そっちではなく北村太郎が中心なのは、
いわゆるスキャンダラスな恋だったからと
いうことではないだろう。
小説の構成云々とは別の、ねじめ正一の詩才と
人柄を感じさせた。
男性目線の感が拭えないというのは置くとして。



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