想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ガーデンご飯の開放感

2009-06-30 01:49:36 | Weblog
(ケータイ画像なので発色がちょっと変ですが木陰に大きなテーブルを)

庭にテーブルを出して食事をするのが楽しい季節です。
とは言っても真冬、雪が積もっても「外が楽しい季節です」とかいうわけなので
夏と限ったことではないのですが。

室内と明らかに違うのは、みんな口数が多くなること。
ふだんから食べているのと変わりないありきたりのメニュウなのに美味しそう。
それだけじゃなくてみんなしてよくしゃべる。
無口な人がいなくなるのはそりゃあ楽しいものです。
うさこの料理も実際より五割増しくらいで美味しい美味しいと言ってもらえる。
氷を入れたグラスで水をグビグビ飲んで、旨い!と言ってる人もいたけど。



そしてデザートをいただきながら、まだまだ話は続きます。
ながーい食事タイムになります。お皿のうえは空っぽになっても、お茶を珈琲をと、
それぞれの好きな飲み物を手にとって話をしつづけます。
屋内とあきらかに違うのは、素直なこと。
なんだか魔法にかかったみたいにシリアスな話でもするすると言葉に詰まることも
ないのです。
だからいつもなら考え込んでしまって終わる話にも答えが見えてきたりします。

お日様のせいか。
緑の匂いのせいか。
肩をなでていく風のせいか。
カメがそばにいるせいか。
みんなの顔がこころなしか、ふだんよりやさしく見えてきます。
そしてわたしは、なんだか心も身体も強くなった気もするのです。
これからますますガーデンご飯メニュウ作りにいそしもうなどと考えるわけさ~(沖縄弁風に)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訳ありなの、シマコ

2009-06-29 02:07:48 | Weblog
(木漏れ日と陰、ゆらゆら揺れて。そろそろ涼しい場所探しの季節)

シマコがまたお腹が大きくなっているのはどうしたことか? 
先々週あたりからメタボか妊娠かどちらかという議論が沸騰していたのが、
後者と判明したのだが‥‥。
じゃあ赤ちゃんはどうした? という疑問がまだ残っている。
この夏には歩き始めたミヨちゃんを連れてご飯をねだりにくるはずではなかったのか。
(いやミヨちゃんじゃなくてシマコの子)どこにも見当たらないので不審に思っていた。
子育てもしないうちにお腹だけ太っていくシマコの怪。
なんの、わたしたちがよく知らなかっただけのことで、かわいそうなことだったのだ。


(ロイヤルサンセットのつぼみ)

シマコの子は雄猫に殺されたのであろうというのが、おおよその推察である。
でなくては孕むことはないというのが自然の摂理で、そのために幼子を殺して雌を
我がものにしようとするのはライオンも同じでネコ科の動物はそうなのだった。


(夕陽のような鮮やかなオレンジ色だったのがしだいに淡い色へ変わって散る)

シマコがいつぞや変な鳴き方をするなあと訝しく思った頃があったが、あれは子を
探していたのだろう、おそらく。
シマコ、悲しい目にあったのだなあ。
N君は生まれてまもない子猫を連れたシマコを見たことがあるだけに今年も今か今かと
待ちわびていたらしく、とてもがっくりきていた。出産祝いの猫缶くれたしな。

縁側の向かって右手に妊婦、左手にオヤジが陣取って、双方とも我関せずで
だら~っと昼寝している日曜の昼下がり。
悲喜こもごもあってまた今日も生きているわけで、悲哀とたくましさの同居した姿を眺め
そう改めて見るけれども、シマコの心ははかりしれない。
だらりと手足を伸ばしあごをつけ、見ているわたしを細目で見ている。

カメはますますシマコに優しくなるであろうことは間違いない。
そして次に雄猫がやってくれば親分出動となる。親分は何も思わずともうさこの
口笛が響くと走り出す。それだけでいい。大きな図体がきっと役立つことだろう。
雄猫には申し訳ないが、ここはシマコのシマである。シマコ天国なのである。
ご遠慮願うしかないと思うが、そう事がうまくいけばいいんだが‥。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

びしっとやらねばびしっと

2009-06-27 12:30:12 | Weblog
本日はひさしぶりに青空が見える天気、ぼんやりと薄く雲がかかっているけど
晴れています。
ときおり吹く風が湿気をやわらげてくれるので、とても良い作業日和です。

宇都宮から宮司さんが榊をトラックいっぱい積んで朝からやってきています。
予定通り、残りの垣根を榊を植えてしあげていくのです。
まず前から積み上げてあった丸太を除いて場所を作り、順々に植えていくのです。



右端で手持ち無沙汰でもうひとり立っている君、君、そこの君!
作業は一つのことをすればいいだけじゃないんだよ。
見て、考えて、動け、だよなあ、とぶつぶつぶつ言っているうさこですが、
大勢集まれば仕事がはかどるわけではないのです。
指揮する人とそれに従って効率良く動く人の連携がうまくいけば、人数は多くなくても
どんどん仕事は進みます。
積極的に自分の役割をみつけ、勝手にではなく周囲をよく見ながら働くことが
大事であることを、こういう作業を通してよくわかります。傍目八目。

夏になると一日草刈りデーなんちゃって大勢きてくれて、でも半分も片付かない。
誰もいなくなった庭で残った草を一人見ながら、ぼちぼちやっても、大勢来てやっても
作業効率が同じなんだなあと思うのです。続きをぼちぼちやりながら来年も同じかなあ
とため息をつきます。
どうしてかそうなるのかって、自分ンちじゃないからだろうね。
お手伝い感覚でやってる「ツモリの自己満足」なんだろうな。
だったら草むしりなんかしないで、一日ぼんやりとこの森を歩いたり佇んだりして
遊んだほうがよほどいいよ。

ツモリってのは一番いかん。
やるならびしっと、そうでないのは気持ちがわりーのであります。

今日は宮司さんのおばあちゃんが作って持たせてくれたというお煮しめとお赤飯と
うさこが作ったみそ汁でお昼ご飯。三時のスイーツが水羊羹にモンブランケーキ、
高カロリーで肉体労働にはバッチリ。
それを先に見ているので、ばんばん進むのであります。
そろそろ、飯~と言いに行きます。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

攻防、一寸の虫

2009-06-25 09:37:30 | Weblog
雨の合間の午後、植木の手入れに忙しいカメがふと顔をあげて指差す方をみると‥、
ダンガリーシャツを背景にして映っている小さな薄緑。



最初はツーッと細い糸が木の枝から垂れ下がった先に青虫だけがついていて、
それを撮ろうと近づいたら、どこからか飛んできた黒い小さなハエのようなヤツが
飛びついて二匹になった。目の前で起きた突然の攻防に唖然とし、成り行きを
みていたけど‥。
くみついて離れないハエのような黒いヤツを巻き込んだまま、糸はツツツーっと
ゆるやかに地面へ向かって下がっていくのであった。

世界のあちこちで、毎日はてしない攻防‥‥。
噂のYOU TUBE を開いて見るまでもない。とても身近なところで知らない間に
裏切りや策謀が生まれ、そして悪花を咲かせて散る。
実りという言葉のひびきとは遠いのに、その花にもタネはつくらしい。
どこからかまた生まれてくるのだから。

どちらが先かどちらが正しいか、この広い森の小さな存在にも常に攻防はある。
この狭くも広い地上で、隣り合わせれば角つき合わせる。
自分だけはまちがっていないと思いこんだり、
もしかしたらまちがっているのではないかと秘かに恐れたり、
しかし、いずれの上にも等しく陽は照り雨は降るのだから、小さなハエよ。
そっとその青虫から離れて他の方法を探してくれないか。

わたしが忘れたくないのは、いやないやな思いをひきずった憂鬱の記憶。
忘れ去ったころに訪れる不幸ほど人を打ちのめすものはない。
忘れ去ったころに、ふたたびドジを踏むのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツー好み、苔と山菜

2009-06-24 09:46:36 | Weblog
カメは苔が好きらしい。
苔愛好家には共通するある特性があると言われている(と何かで読んだように思う)。
まず、無口である。
といってもニートひきこもり系パラサイト族などにみられるような、自分の嗜好に関する
ことになると突然堰を切ったように、高いトーンの声でしゃべりだすといった偽無口とは
違って、よけいなおしゃべりをしない人という意味である。


(川べりの草、通ならわかる伸びきった山菜の葉)

次に女性ならば美人ではあるがハッと人目を惹くスマしたスラリとしてる(ス系美女)タイプ
ではなく、どちらかといえば美人かなあと思われる人っているじゃないっすか程度の美女です。
男性でいえば、昔ならハンサム、今ならイケメンなどとケーハクで単調ジュッパヒトカラゲな
形容をされたりせず、しかしいい男ね、あの人とそっと思われるタイプです。
要するに、しゃしゃり出たりしないのに人から注目されるオーラを放つ人です。

もう一つあげると、細かい作業を厭わないということがあります。
これが最大の特長かもしれません。おっちょこちょいには無理かしら。
写真のように土の上に自然にあるものならいざしらず、ガラスのお皿などで苔を
育てると水やりに慎重にならざるをえません。ちょっと賢さが求められます。
それに苔は大きすぎる器は似合わない。

なにごとも控えめな謙虚な人が苔を愛するのではないか。
ざっくりとまとめると、そういうことになるね。
こういうと「実は苔が好きなんだけど」と口バシリそうなそこの君、君、あんた、
おい耳の長~いの、それを言うなってえの。
アホだねえ。
君にはケムシちゃんと闘う薔薇があるじゃないの、とりあえず薔薇なんて意外~
と言われないように努めることだ、そう思うよ。
苔などまだまだ、十年早いよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木は動かない

2009-06-22 22:04:32 | Weblog
森林浴なんちゃって人は樹々のあいだを動き回る。
けれど、樹は芽吹いたときから同じ土の上に育ち、そこを動かない。
あたりまえのことだと笑わば笑え。
そんなあたりまえのことに気づいて立ち止まる、森にいる時間。

ちょっと森林浴へなんて通りすがりに、一時間足らずの短い時を過ごす。
森林を抜ける道や、あるいは舗装された観光道路を。
そこいらを歩いて結局はこぎれいな街のシャレた宿へ泊まる。
そういう旅行はつまらないだろうなあ。ここにいればどこへ行く気もしなくなる。


(ドンファン、今年はたくさん蕾をつけてるよ、N君の奥さん)

立ち止まって考えるというのは、それほど難しくはない。
木が同じ場所で一生を送ることを思えば。

この森はほんとうに考えたい人にとっては落ち着くが、あまりにもなにも華やぐものが
ない素朴な場所なもんだから、なんちゃって哲学したい人は「いいとこですね~」と
相づちは打つが、トンボ帰りの時間が気になって落ち着かないらしい。
うさこにとってはそういう人を相手にするのは居心地が悪いので、長居されないことは
とてもけっこうなことではある。
だから今日のたわごとは独り言、聞かなかったことにしてもらっていいのである。
はい、ここはたいした場所じゃあありませんよ~。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファザコンのいいわけ

2009-06-21 16:54:42 | 
(こうみえても頼もしいのですよ、親分は)

自他ともに認めるファザコンうさこです、こんにちは。
娘と生まれたからにはファザー一番、それは正しき道であると信じて疑いません。
ファザコンの先輩として思い出すのは、森茉莉であります。
彼女のお父上の名は森林太郎、そう森鴎外であります。
森茉莉の「父の帽子」をそうだそうだと首を縦に振りつつ読み、そして我が父の
ことなども思い出されたりするのであります。
料理屋(レストラン)で給仕にむかつく鴎外先生に気難しかった我が父を重ね、
ふいに冗談を言って家族を笑わせようとして、ワンテンポ遅れて笑う母のことなど
遠い記憶を呼び起こさせてくれるのです。
ほんの短いいっときのことではあるけれども一緒にお酒を飲む時間を過ごせた姉貴が
羨ましくもあります。わたしはなにせまだチビでしたので。
そして父の愛用していた中折れ帽がとてもオシャレだったことなど思い出せば子ども
というのはつまらないものです。
なぜなら父の恋人だったならその素敵さにもっと早く気づけただろうにと、秘かな
ファザコンの妄想は年追うごとに募ります。

なによりファザコンにはラブラドール・レトリーバーが合うように思います。
それも黒。彼の短い毛に被われた固くひきしまった身体にすりすりと身を寄せると
子どもの頃、父の膝に乗りもたれかかっていた頃のような錯覚に見舞われたりして
幸福に包まれるのです。
だから小さな座敷犬などもってのほかです。それはもっと寛容な包容力のある女性に
なら向いているかもしれませんが。
ファザコンに包容力はなく潔癖性で自制心が強いのですから、それを緩めてくれる
もっと強い存在が必要なのですね~。


(深紅の大きな花をつけたロブロイ、2年目です)

言いたい放題を言っておりますが、いいわけにおすすめしたいのは昨日書いた困ったちゃんの
漱石先生よりも森鴎外の作品です。
がぜん、こっちが贔屓です。森茉莉女史にかわって断言します。
「阿部一族」「渋江抽斎」、昨今流行の天地人で時代小説に味をしめた方は次は鴎外の歴史もの
はいかがでしょうか。池波正太郎は娯楽に過ぎるので(あたいは好きですが)ビシバシと漢字が
出てくる鴎外先生にふやけた脳みそを鍛えていただくのもいいかと思います(あたいのことです)。
しみじみ武士道に浸ったりしながら日本人の越し方と「道」について考えたりもできます。
読み終えた頃には、ちょっとりっぱな人になったような錯覚を味わえます、ふふふ。
あと半世紀も生きられない年齢の方々は、春樹なんて読んでるヒマはないのですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森を歩く、森の奥へ。

2009-06-20 15:09:26 | 
(花をようやくつけたマルコポーロ、
特に雪で埋もれる損な場所に植えられてるのにガンバってる)



ちょっと前に年配の知り合いの女性が村上春樹をどう思うか? と訊いてきた。
どうして? と尋ねると今話題のあっというまにミリオンセラーの小説を読もうか
どうしようかと考え中だから、と言うのだった。

「ノルウエイの森」「海辺のカフカ」「ねじまき鳥クロニクル」
どれもタイトルがいい。中身が不明なタイトルなのは新作も同じであるし。
村上春樹はみなタイトルがいいですねと言えばよかったのだが、その時はそんなことなど
思いつかず、わたしはどういえば正直以外の答えがみつかるだろうかと数十秒間考え、
そして、手に取って読まないとわからないから、人それぞれだしね感想は。
そんなありきたりで、あたりさわりのない返事しかできなかった。
もしわたしがそんな答えをされたなら、それはそうだ、そんなことは言われなくて
わかっているけど、あなたはどう思うのかと重ねて聞くだろうにアホなことであった。
だがその人は何も言わず、やっぱ止めるわ、今読んでる時代ものをもっとつっこんで
読むことにするわとだけ言い、何か思いついたような顔をしてその時は終わった。

わたしは若い頃、つまり村上春樹が華々しくデビューして世間を賑わし
「大方の書店で赤と緑の表紙が平積みにされていて圧倒された」という時代には
その赤と緑の「ノルウェイの森」にまったくもって興味を示さないままに歳を重ねてきた。
その間にこの小説家はわたしの想像以上に世間での地位を高めていったようだが、
それでもわたしは読まなかった。村上春樹チルドレンと呼ばれる世代が現役小説家になる
くらい時間がたっても読んでいないのである。
先にあげた〈大方の書店で‥‥圧倒された〉というのは、作家大江健三郎の言葉だ。
正直な人である。時代が変わったのか、世間に自分は置いて行かれるのかとその時悩みました
と続けて話していたその作家の方をわたしは好んで読んでいたし、フランスの小説と哲学と
澁澤龍彦と、それに音楽は日本人のジャズメンたちのライブを楽しんでいた。
買ったことはないので本屋で立ち読みした数分間の、一行二行くらいの文章で感じたことは
わかりやすすぎてテレビドラマを観るようだ、ということだったろうか。
これを批判と受取られると困るので言わなかったような気もする。なぜならばこの作家の
持てる力の全てを知ったかぶりで言うのはいやだからだ。
村上春樹はまだ若いのである。まだ、だと思う。



読むべき年齢の時に読む本というのがある。
村上春樹はまだ何も知らない思春期から学生、それから社会に出たばかりの成熟には遠い
迷う年齢の頃なら読める気がする。これといった自分の趣味を決めかねているような年齢。
そういえば甥っ子に村上春樹をどう思う? と訊かれたっけ。彼は高校生だった。
読むなと即答したのだったが、それはちょっと乱暴だった気もする。
しかし、他にも読むべきものはある。読めるものよりも読むべきものを読んだほうが
限られた時間を費やすのだから、よほどいいのではないかと思う気持ちに今もかわりはない。
そして古本屋で入手した旧仮名遣いの夏目漱石全集の普及版を送ってやったが、彼から
わたしの母の手へ渡り、わたしは母から感想を聞いただけである。
母は漱石の「こころ」を読んで面白い感想を伝えてきた。
「こんひとは困ったひとだね、かあちゃんはそう思う」わたしもそう思うと答えた。
母は全集を大事に読んでくれたし、ひととき充実した時間を過ごしてくれたのをわたしは
嬉しかった。

小説家にはいろいろなタイプがあるので、善し悪しなどはない。読者が何を求め何を好むか
によって手にとるものが違うということだ。音楽と同じで娯楽であるかぎりそうなのだ。
小説にある恋愛や生死の物語より手ひどく苦しんだり悩んだりして生きている人はその物語
の中に入っていくことはなく、入口で引き返すのはもっともなことなのだ。
小説を読むということはその文章の森へ足を踏み入れ、樹々の匂いや無数の茂る葉音を
聴き、そこに吹く風に身をゆだねることなのだから。



そういえば「朗読者」(ベルンハルト・シュリンク著)が「愛を読むひと」というタイトルで
映画になったそうだから観にいこうかと思う。原作は文体の美しさとストーリーの
重さに打ちのめされるほど感動し考えさせられ、三度読んだ。
ドイツの深い森を歩いた時間だった。
あの深くて悲しすぎる愛と人生の不条理をどう描いているか楽しみである。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドッグとローズ

2009-06-19 16:50:29 | Weblog
親分がお尻をくっつけて座っているのは、ドッグローズによく似たペネロープ。
イギリスの野バラ、ドッグローズは狂犬病に効くという由来もあるとかないとか、
ハーブとして愛用されますし、原種の野バラだから強くてどこにでもあるそうです。
ペネロープもローズヒップ(実)がとれるしジャムにするととても美味しい。
白くて清楚な花びらは地味だけど、カメの好きなバラ。



今年はジャムにするほど花がつかないのですが、見ているだけ去年のジャムの
味がよみがえり、ゴックンと唾を呑むうさこです。うさこは食い意地優先か?



今日も曇り、森全体が湿っています。
でも昨夜、雨上がりの空をなにげなく見上げたら満天星空でした。
パラパラと光る石が降ってきそうに、こんなにたくさんあったのかと驚きつつ
星空を見ていたら首が痛くなったけど‥‥
こういう時、生きていて良かったと思うんだよなあ。
人ごとみたいな言い方をしている自分を少し笑い、ソレってオマエだよとぶつぶつぶつ。
ひとりつっこみして家の中へ。
幸せは瞬間瞬間に訪れます。
さっきまでひどく疲れていたにしても、です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小判印のシマコ

2009-06-18 05:43:50 | Weblog
庭先に敷かれた玉砂利が陽にあたたまって気持ちがいいらしい。
近くに親分もくつろいでいる。ほとんど警戒しなくなってシマコはシマコの居場所を
決めて居座るのである。
この頃はご飯を食べたあとにくつろぐ指定席になっていて、窓から顔を出していると
見上げてくれる。無言の会話をする時、親分に気兼ねしつつも甘い顔をしてしまう。



猫の鳴き声の意味をよく知らないがアイコンタクトは少々わかる。
目をシュパっと細めてじっとみつめてくるのはシマコのお愛想なのだろうけど、
これに参ってカメはいそいそとご飯を運ぶはめになったのか、いつのまにか、
うさこも僕(しもべ)にしてしまっているシマコ! 嗚呼。



紋所は、額にしっかと刻まれた小判印でございます。
シマコの子、シマオもシママもみんなこの紋所をつけている。
(猫をよく知っている人は、ああアレね、よく見かけるよと言うかもしれないが‥
ビミョウにそれぞれ違うのだから、これはコレ、小判印と呼ぶことにしたのだ。)
縁側にバラバラに現れる親子は体毛の色と柄はかなり違うが、おちょぼ口と額の印は
確かにそれとわかる共通点で、紋所なのである。

みんなでかわりばんこにゴチになっていく。
お皿の盛られたカリカリや缶詰を誰も独り占めにしないでちょっと残していく
仁義ある食べ方をする。
姉妹三人でおやつを分けっこしていた子ども時代、ひそかな葛藤があったことを思うと、
人の子はけっこう卑しいもので、猫のほうが上等かもしらんと思ったりする。
そんなことを言うと姉貴たちに、そりゃアンタが末っ子でわがままだったからよと
突っ込まれるかもしれないが。
これもみな野良として山に生きるために身についた智恵なのかもしれないなあ。
智恵とも知らず愛嬌だと受取ってまんまとハマっているのだろうけれど‥
小判印で商売繁盛、家内安全なシマコ一家なら、これ幸いである。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迷子のライダー

2009-06-17 07:15:25 | Weblog
ブルルンブルルン、ダッダッダッと大きな音がするので親分に付き添われて表へ。
すると前の道をバイクが数台上ってきている。
見過ごすと、行き止まりのこの道をぐるぐると走り、結局出られないわけだから
騒音が小一時間、長いと数時間は森を騒がすことになる。
獣生き物鳥たちに迷惑であるので、手をあげて制止した。
すると先頭を走ってきたライダーは素直に止まり、エンジンを切った。珍しい。
たいていは無視して走り去り、迷子になってずいぶんたって道を尋ねに来たりする。

ヘルメットからのぞき穴みたいに見えているその若い人の目は涼やかで、落ち着いていた。
この道はぐるっと回って、この家の右のこの道路へ続いているので、一周して戻って
くるのです、だからつまり行き止まりで、それにここは私道なのです、
どこへ行かれますか?
そう言うと、行き先は答えず、ああ、そうか行けないんですか、とつぶやくような
声で言った。この道は戻るしかないってことですか? と困ったような顔をして言う。
国道へ戻って、どう行ったらいいんでしょうか、‥‥。

だから、あんたはどこへ行きたいのさ? とは言わなかった。
なにせライダーと言っても、彼らのバイクは新車らしくピカピカで、ウェアも真新しい。
ヘルメットを取った顔はまだ少し少年の風情が残っていたのだ。
先頭の青年が後ろを振り向き、道間違えちゃいましたーと少し大きな声で言うと、
皆、同じようにバイクから降りて向きを変えようとした。乗ったまま、片足をついて
方向転換するような技は使わないのであった。
しずしずと、静かなライダーたちが気の毒になったので、国道へ出る近道を教えた。
先頭にいた青年は、それを復唱し確認すると、頭を下げて礼を言った。
他の男たちも、すこし会釈みたいにヘルメットの頭を下げてバイクにまたがった。

なんだか青春だなあ、ほんとの青春だなあ、と思って後ろ姿を撮ったのである。



水を蓄える森、東京ではゲリラ豪雨と呼ばれているような雨が、ここでは丸一日
降り続ける。例年のことなので驚かない。
雨の合間、ひと休みしているような樹々と草が伸びた土の上に、靄がかかって美しい。
窓から眺めていると、ほんとうにこの地に来てよかったと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お立ち台の彼女

2009-06-16 15:00:15 | Weblog
雷雨のあと、樹々の間に光が射して‥‥つかのまの晴れ間にシマコが遊びに
来ています。
   (中央の若木の名はエゴの木、冗談じゃなくてホント)

 
まっすぐに縁側へやってこずに、なぜだか庭石の上にあがっておすわりしてます。
目線はこっち。
カメラを取り出すと、カメラ目線。
わたしたちが留守の時にも、シマコ姫はお立ち台で遊んでいるのかな。

森の樹々に守られて、彼女がしあわせでありますように。

幼なかった頃にも我が家には犬がいた。
父にとてもなついていた最初の犬ハチがトラックに轢かれ重症を負い、
介抱のかいなく死んでしまった後にもまた次の犬を飼った。
犬とわたしの年齢は三、四歳しか違わないので犬は今みたいにペット
とかいう役割ではなく本当に友だちだった。
友だちだから変な気は使わないし過保護にもしない。
そして犬だけでなく、床の下で生まれた子猫三匹もまた私たち三姉妹
それぞれの友だちとして家族の一員になった。
犬好きの父親と犬猫どちらも大好き姉妹のせいで、母は忙しくなるば
かりなので最初は反対するのだが、結局は母が誰よりも面倒をみてい
るのであった。

育った環境のせいなのかと思っていたが、わたしの犬好き、猫好きは
別なところに原因があるように思う。
もしも彼らが自立し好戦的で征服欲もあり、その意のままにこの世の中
を跋扈できる存在であるならば、わたしは敵意を抱いたかもしれない。
すべてがその反対で、限られたテリトリーのなかで分相応にけれども
懸命に命をつなげている存在であるところが、私に生き物として存在
の原点のようなものを見せてくれるからではないだろうか。

人の手によって、人の思惑によって命運を左右される存在であることは
非情である。それは捨て犬や捨て猫に限らず家庭でペットと呼ばれる存
在でも同じことなのだ。人に愛された分だけ、彼らは健やかである。
自然の恵みと同じように、人のおもいやりで息をしているのだ。

恵みの受け皿、器である彼らの姿がなければ、わたしは穏やかなやさしい
気持ちを引き出す時間をどのように持てばいいだろう。
利害と策略にまみれてしか生きれないならば、わたしは深呼吸をしたに
しても、眉間に深い皺を刻んで早々に老け込んでしまうしかないにちがい
ないと思うのである。

親分はこのところ中耳炎に悩まされ、オヤジみたいに大きなくしゃみを
連発し、わたしを笑わせながら心配させてくれている。
もっと早くに気づいてあげられなくて、本当に済まないことをした。
Dr.タカギが特効薬だよと処方してくれた点耳薬を耳にさしていると
パタパタと尻尾で礼を言い、ニカニカと歯を見せて笑う。
けなげである。

シマコの顎にへばりついたダニは野生なのでとってあげようがないが
それでも栄養だけはたんとつけ免疫力をあげて対処するように考え
豆アジなど買いに行く。
豆アジはパックに5尾入って185円也。シマコはそれを一日一尾食べて
三尾目を食べる頃にはダニは落ちていたので残りはわたしがから揚げに
していただいた。安上がりな愛だこと。

恵み、おもいやりというのは言葉だけ一人歩きするが、すぐそばに
人の世のあちこちで彼らはそれを体現するためにいるような気がする。
だからこそ、その逆の非情にさらされてもいる。この人の世で。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花は正直です

2009-06-16 02:18:06 | Weblog
(手前の白いつるバラはルペンスアルバ、芳しい香りと鋭い棘が特長)

手をかけて育てた分だけ咲きます。
雨、風、土、そしてうさこの愛の分だけ、咲いて香ります。
もちょっといっぱい咲いてほしいという気持ちもあるけれど
花は正直に応えてくれているとわかっているので、これでいいです。


(後ろの写真はお気に入りのmakudecoさんの猫の写真です)


嘘は嘘とわかりますね、はい。
言い終わられる前にわかります。
世間では、嘘にもちゃんと返答する会話というのが常識として成り立っているので
うさこもそれにならって黙って聞き終えますが、イマイチ返答が遅れたりします。
ぐーっと唾をのみこむんですなあ、クセです。
そのぐーっが相手に伝わるほどではないけれど、胃に悪いようです。

このところ電話の声で胃痛です。胃腸薬を飲むほどチクチクしますので、電話にゃ
もうデンワと言って一人で怒ってます。

そこへ母上サマが電話してきて言いました。
「あんたがの、下手な梅漬けなぞ作るよりか、梅でジャムを作りなっせ。
梅ジャムば作りなっせ、一時間ばっかし煮らんといかんよ、おいしいよー、
母ちゃんはもう作ったよ、梅ジャム、おいしいよー」と、のたもうて切りました。
どさくさにまぎれて「下手な梅漬け」と言ってたなあ、と気づいたときには
話は終わっていて、母上サマの根っからの脳天気な声を久しぶりに聞いたなあと
思いました。

母は花がとても好きです。
狭い花壇にいろいろ植えて、咲いたよ咲いたよと楽しんでいます。
そうです、わたしは母に似て、本来は脳天気なのだった! むずかしい話など
苦手なのは遺伝です。嘘で固めた話など、聞けなくてもいいのであった、と
自分の処世下手なのを許す気持ちになったのでした。
正直な相手とだけ、一緒に生きていけばいいと思っています。
いいも悪いも、それしかできないのであります、はい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バラが咲いた

2009-06-13 19:35:29 | Weblog
「お待たせしました、あの時のツルです。」

なんてわけわかんないことを唐突に言われて、意味はわかんないけど
笑い転げているうさこです。
鶴の恩返しのギャグなんでしょうねえ、カメはどこで聞いてきたのか
ナンですか、それ? と聞き返すと、わっかりませーん、と去っていきました。
本日、多忙なのです。

ツルはツルでもつるバラ、去年も咲いたあのツルが咲きました。
名前はコクテール(カクテル)、親分もなんだかはしゃいでます。



他のバラもまだ咲き始めです。あちこち、ふくらんだ蕾がたくさんあって嬉しい。
アイスバーグという白いバラを摘んで花瓶に挿しました。
ダイニングテーブルのあたりは、いい香りがただよっています。

今日は降ったりやんだり。
湿り気をおびた緑がいちだんと色濃くなり、野鳥もいろいろやってきます。
いや、元々ここにいるので、やってきたっていわれてもな、ですな。
カメラを構えるとすぐに飛び立ってしまうので、鳥を撮るにはヒマがない。
親分といっしょにバラの手入れで忙しく過ごしています。
この時期、子どもが目指す学校に無事進学できて嬉しいと張り切るかあさん的な
そんなミョーなテンションになります。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

末っ子の領分

2009-06-12 09:37:27 | Weblog
(6月の神事、夏越祓でいただく和菓子、水無月。
氷にみたてた外郎の上に小豆をのせ三角に切ったものです。小豆は悪魔祓い、
氷の替わりはもちろん暑気祓いで、これから向かう夏へ向かって無病息災を
祈願します。あ、もちろんこれまで半年の身の穢れを省みて禊祓いの後にです。
お茶会定番だけれど水無月は神事と関わりのある和菓子、しみじみと頂いた)

先日の〈ちょっとバタバタしてたもんだから‥〉にひっかからなかった母は、
受話器をとってすぐに実際には何と言ったかというと、
「あ、オカサンハ イマ オフロ ハイッテタモンダカラ」と言いました。
ザンネン!
そんな時間でもなかったんですけれども、油断も隙もあったもんじゃない
さすがの母であります。
湯冷めするといけないので、つまらないイタズラ電話はすぐに切りまして
改めてかけなおした次第。
で、かけなおしての話題は6月になると全国津々浦々の家庭で(特に西日本か)
行われるであろう梅干し作りについてであります。
産直で取り寄せたりデパ地下でブランド梅干しを買いますわという方が増えて
いるかもしれないけれど、この時期になるとスーパーマーケットでは梅1キロ
という張り紙と、そのそばには漬け込み用のガラス瓶などもみかけるように
なります。

梅の木を見上げると、大粒の青梅がついているのを発見したわたくしは、
今年こそは自前の梅干しを作るべく、年季の入った母に作り方を尋ねたわけです。
で、まだ熟していないからダメよ、採るのはもちっと色づいてからよと言われ、
この一、二日は梅の木をじーっと観察したのでありました。

浅漬けならともかく、わたしが梅干しをつけようと考えるとは、そりゃ青天の霹靂
と一番上の姉貴はおもったのか、あぶねえあぶねえと案じたのか、その後
「母さんに聞いたんだけどファックスするわ」と作り方詳細を送ってくれました。
口頭で聞いて、ふんふんカンタンじゃん、と思っていたけれど、よく読むとやはり
色々と抜けておりました。ありがたいことです。

姉妹とはいくつになっても、相手の三つ子の魂の部分でつながっているのだと思います。
歳をとったのだから少しはマシになったわけですよ~といくら言っても、そんなものに
説得力はないのです。
わたしは永遠に〈な~んもできん末の妹〉、それはそれでラクチンであることよなあ。
と、大人になると許されることの少ないラクチンな立場にしばし浸りながら、
ファックスで黒くつぶれてしまった写真を眺め、ま、了解了解、字は読めるからと
いつになくゆったりした気分でありました。

末っ子というのは、一番最期にオトナになるわけで、つまり先に歳を取った子供が
わかることをわからないでいられるということです。
わたしは姉たちが見聞きした大人の事情を理解せずに、ただ感じていただけの頃が
あったわけで、理解しなかったことで救われていたのだなあと思うのです。
感じていたアレコレを大人になって考えて理解するのは、余裕がある分、受け止め
方に大きな違いがあるのですから。

貧しかった子ども時代、貧しさの意味など知らないぼんやりと明るい世界に片足を
残していた妹と、同年の子どもよりずいぶん先に大人にならざるを得なかった姉。
わたしは末っ子で恵まれていたのだと思うのでした。
妹の気分は少し幸せで、少し切なくもあります。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする