想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

青空がよく見えるとき

2009-03-31 23:04:54 | Weblog
   努力家といえば、このところ話題はWBCのイチロー選手ですね、
   センター前、ラスト一本のヒットで地獄から天国へ駆け上った人に
   なってますが、開幕以前は天才イチローだったはず。
   世情は移ろいやすいとはいえ、たった一本のヒット。
   時間にすれば、あの緊迫した延長戦で打席にいたのは何分?
   打たなかったら、いまごろ誰が笑ってる?
   
   「どん底にいると、青空がよく見える」
   そんな台詞をイチローの写真の横に吹き出しを作って入れてみたいわ。
   意地悪な皮肉な眼線にさらされ続けた時を、どう過ごしてきたかは
   その後どうなったかよりもずっと大事なこと。
   一瞬にして敵役から主役へ転じ、中傷から賞讃の的へと立場は変わったが
   同じ人なのである。
   変わったのは周囲だけだということ。時が過ぎれば、また転じていく。
   無常を知った人は、とことん強くなっていく。
   頑丈な強さではなく、緻密で美しい強さだから人を惹きつける。
   そして不動(ゆるぎない)の変わらない信を掴みとる。
   それは他の人にはわからない本人だけの宝だ。



   先週は冷たい雨の日が続いた。
   週末、青空に転じて来客もあって賑やかだったけど‥、
   雨の日にひとり、たくさんの植木が傷まないように手当をしていたカメ‥‥
   カメは努力家だ。
   誰の眼にもふれないときに、よくはたらく。
   昔からそうである。
   20年数年前になるが、初めて訪れたカメの事務所でやはりカメはひとり
   黙々と木彫りをしていた。
   趣味でも仕事でもないのに、木彫り。
   思想家然としたりせずに、ああ、いらっしゃいと彫刻刀を持ったまま言った。

   努力しているとき、人は辛いとか、苦しいとか、思わないものだ。
   ただただ、ひたすら、励んでいるだけである。
   そういう人がたまに、停留所にバスが止まるように自然に手に入れたご褒美を
   成功と呼ぶのは当人ではなく、世間であることが多い。

   どん底も悪くない。
   そんな姿を見せてくれる人は少ない。
   わたしにとっては、ずっと前からそれを教えてくれていた人がカメ。
   晴れても曇っても嵐でも、微動だにせず、変ぜず。
   カメが彫った木彫りの人形はどこへ行ったかわからないが、
   あの頃のカメと雨の日に重い植木を運びつづける今のカメは同じ人だ。



   鬱屈とした日にも変わりなく、今なすべきことを為すというのは難しい。
   がんばれとか、がんばるとか、口でいうほどなまやさしいものではない。
   ある雨の日、庭先に現れた野うさぎは、雨に打たれながらじっとしていた。
   じっとしているうさぎを時々みかけ、辛かった日の自分と重なったり
   青空がほんとうに眼に沁みた日があったことを、ちょっと思い出す。
   
   (カメなんて名づけちゃってるが、尊敬してやまない師のことである)
 
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榊の効用

2009-03-30 11:35:23 | Weblog

    榊は山榊と本榊とあるそうです。
    本榊は葉がピカピカしてちょっと厚め。
    神殿で依代に使われるもの、家庭では神棚にお供えしてあるものです。
    でも榊はお供えじゃないし、神道ではお供えという概念はないのに
    神棚とか仏壇とか神聖な場所ではついお供えと言ってしまいます。
    おおかたのお坊さんも神主さんもおおざっぱで、そう言ってもつっこまないしな。
    檀家や氏子を叱って教えようなどとは思わないんだろうなあ、商売にしちゃうと。



    表からは榊が見えるように植えてますが、裏へ回ると内側には前と同じ。
    伐採した木を丸太にして積み上げてあります。
    このあと、もっと高く積んだのでけっこうな高さ。
    道路からの侵入防止、こそ泥対策です。
    榊の垣根をくぐって入ろうとするのは、罰当り覚悟じゃないとなあ。
    神様の依り代に使われてきた榊、こういう効用もあるかと‥‥。

    まる二日かけ、あるだけの榊をぜんぶ植え込みました。
    おつかれさまでした。

    それに、カレーライス美味しかったねえ!
    作るたびに味が変わるんだけど、美味しいと納得できるのは少ないもんで
    成功してほっとしたっす。自分だけが食べるんじゃないからさ。
    次のカレーはN君が作ってくれるそうだから、ドキドキしながら楽しみに
    しとるよ。

    
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楽園からの贈りもの

2009-03-29 16:49:42 | Weblog
  やまざるさんちからいただいた水仙を植えて、親分がチェック、OKだ。
  このフェンスにそってずずずっと植え込めるくらいたくさんあった。
  Iさんが土曜日の朝から約半日かけて植え込んでくれた。
  どうしてそんなにたくさん頂けたのか。やまざるさんは水仙は好きではないのか?

  はい、その答は楽園の希望の星の子羊ちゃん(詳細は楽園ブログでどうぞ)
  名前はジェ夫君(ジェフではないところがやまざる家らしい‥‥)
  ちなみに後ろは見ないことにしてあげてください(笑)
  人形使いじゃないんだからさあってか。
  (抱っこされちゃってます)



  ジェ夫君のことは楽園ブログで経緯を読んでいただくとして。
  放し飼いの楽園暮らしは動物にとって幸せそうなんだが、水仙の芽や球根などを
  食べてしまうと毒になると知ったやまざるさんが敷地内の球根を全部掘り上げた。
  そして深い穴を掘って埋めてしまおう作戦だったところで、うさこの顔を思い出した
  奥様の鶴の一声ならぬスーさんの一声で、風の谷へ贈り物となったしだいである。

  植木も、球根も、買う予定だった。
  「金は天下のまわりもの」というが、植木と花もまわってきたのである。
  なんと嬉しい春だ。運を使い果たしたんじゃないか?とか陰口たたかれそうだが
  なんのなんの、運は最初からないので心配ご無用。
  で、どうして「金は天下のまわりもの」というのか? 銭のことをオアシと言うね。
  だから回るというのは逆で、まわるからお足でしょう。
  風が吹けば桶屋が儲かると同じだーとか言ってるそこの人、ちょーっとちゃうで~。
  (なぜ関西弁かは放っておいてくれ)

  俗説はさまざまにあろうが、ここでは旧事本紀にちなんで解いてみようか。
  金(きん)は、すべてのものを融かしまたつなぐ媒体の役目を果たすハタラキ。
  天思兼命(あめのおもいかねのみこと)の兼を金と書く場合もある。
  (でも正しくは兼)
  天思兼命のはたらきは、記紀では天照大神の参謀として知られているけど、参謀って
  いうとなんだか昔の小沢一郎みたいな~、ちょっと前の大河ドラマの主役みたいな~
  な感じだけど、要するに知恵袋です。
  思索し神々に対して采配をふるうのですが、ハタラキは「つなぐ」ということ。

  だから、お願い事をすると叶う叶う叶うーーーーーーなのである。
  しかしあまり知られていないし、この神様を祀った神社はとても少ない。
  少ないほうがいいのである。
  御利益を求める人がどしどし押し掛けると、何やら怪奇だけが漂いはじめる。
  そんなところに天思兼命のハタラキが降りようもない。
  無心でかたよりないところでハタラクと決まっている。よって御利益信仰とは
  相容れない。金なのにどうしてだろうね?
  そうなんです、御利益信仰で得た利益は死に金。金はまわってこそ生きるので
  欲の皮がつっぱって金に執着するとそのハタラキは消え、流れは澱み腐ります。
  かる~く言うと運が逃げますぜ、ということね。

  もひとつ面白い写真(やまざるさんに断りなく撮ってしまったんだけど)
  脱走兵「大信」、吠えること吠えること、番犬にもってこいである。
  本人はさかんに吠えて威嚇しているんだが、とても可愛い子ちゃんなのだった。



  テラスの上から下を歩いているうさこへ向かってずっと吠えていた。
  君ね、脱走したでしょ、行方不明になったでしょ、ドジ踏んだでしょ
  と言いつつ笑ってやった。
  たぶん大信ちゃんは「今日に幸あれ」と吠えまくっているのだと思う。
  よしよし、元気でいろよな、心配かけんなよな~。
  やまざるさん、どうもありがとうございました。

  もっと暖かくなって水仙が開くのが楽しみです。

  
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テーブルの下で

2009-03-28 19:16:08 | Weblog
    テーブルの下へもぐった親分が、柔らかい手でよしよしされて
    チョーごきげんなところを激写。
    こんな顔してたのー!

   土の上には粉砂糖をかけたようにふわっと雪が残った朝、気温は零度。
   風が冷たいが空は晴れた。
   気温はなかなかあがらないが、雪が融ける時間になると来客。
   先日のたくさんの植木の贈り主、宇都宮の宮司さんと巫女さんが
   植え込みの手伝いにきてくださったのである。
   いつものN君とU君、Iさんも加わって、垣根に榊を植える作業をして
   お昼の休憩時間。
   持参していただいたお赤飯と豚汁をたらふくごちそうになった。
      


   まとわりつきすぎ、うさこに叱られたので、ちょいと離れて一服。
   親分は人が来るとうれしくてたまらん、たまらん、とついてまわる。
   でも、それでも誰でもいいわけでもないところが、憎いヤツである。
   犬嫌いの人も、親分になつかれて嫌いではなくなることもあるので
   ドッグ・セラピーである。
   遊べて嬉しい親分と、堅い気持ちがほどけていく人と、どちらもシャーワセである。

   明日も植え込みの続き。
   

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情景、庭の変遷

2009-03-27 09:16:41 | Weblog
  まだまだ寒さの残る森と谷間では、水仙待ち。
  ぽかぽかしてくるちょっと前くらいに咲いてくれます。
  これは前年のもの。
  花壇の変遷は、そのときどきに計画して行ってきたことは忘れていて
  写真を見ると思い出します。
  数年間には柵を作り、その柵はもう腐ってしまって取り外したので
  今は一部をテラコッタで囲んであるし、盛り上げてあった土も平坦になった。
  キメになるような花や木に巡り会わないから、変遷しつづけていたわけです。
  



  恋するたびに、今度は長続きすると思ったりする。
  でも数ヶ月の蜜月を過ぎると、醒めている自分をもてあますようになる。
  あとは惰性なんだけど、惰性のときこそ鍛えられるというもの。
  この花壇で、この1、2年間、うさこのアサーイ愛に耐えてきた薔薇は
  忍んだかいあって、植え替えしてもらいました!

  運命の出会いかどうか、まだわからないけれど花壇のクイーンの座におちついた
  山吹、プリンセスの座には黄色い花をつけているサンシュウ。
  若葉の頃まではうさこの視線は熱く熱く注がれるわけで。

  変遷のときを経て、成熟していく庭。
  庭は己を映すと思うのだが、ヘッセの晩年は庭仕事がなにより第一番だった。
  文学と庭仕事が同義にあり、優先順は庭にあり、ヘッセの思索はガーデニングに
  よって生まれた。
  そういうことを知ってはいたが、森で造園するという冒険をしていると
  実感としてわかる。
  メイ・サートンの静謐な詩と、そして示唆に富んだエッセイも庭抜きには
  ありえないし、飄々として日本全国の働くサラリーマンを癒し続けた作家、
  故山口瞳氏は国立の自宅の庭で焚き火をしていた。

  都会で花木を映しても力が足りないので、つい空を撮る。
  空にビル群が映りこむので、ならばと地面を撮る。
  人だけ、撮らない。撮る気にさせる出会いが少ない。
  もっぱら地域ネコなどに熱視線を送ってしまう。

  何も無い、だけど土と水と木があるこの幸せをどこにいても覚えていたい。
  それは愛されている実感と同じで、一人でいられる秘訣だから。
  冷たい風のなかで土をいじっていると、考えが湧いてきて、家に戻るのである。

  家の中で、まんじゅうを食って、とりあえず落ち着くと考えは消える。
  再び、庭へ戻ってゆくうさこである。
  人は、いかにして恥を知ることができるか。
  そんなことの答を探しているが、わかっているはずのことを書けるほどには
  わかっていないのである。ボーゼンとする。
  庭の変遷はまた、住む人の情景と重なっている。
 


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影武者一号

2009-03-26 10:21:52 | Weblog

   よく似てる? 影武者1号でごわす。
   親分は移動中につき。
   ちなみにこの子は監督と呼ばれてます。
   監督の上に親分、その上にお頭、みんなエラーいんですわ。
   うさこは監督の発見者、荒野にたたずむその姿に才能を見出し
   S家へ奉公をすすめた。
   今では家主を監督する立場にまで昇進し、親分をしのぐ勢いである。



   ワープ! (できんので、道路づたいに行きます)
   妄想と笑うなかれ、霜柱のたつ森へゴーホーム。
   ちょっと年度末につきぎゅうぎゅうぎゅうです。

   
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言いまつがいbyいとい

2009-03-25 09:30:12 | 
  朝から笑うのは、脳みそにいいのである。
  けれど「昨晩、深酒した」人や、「昨晩、ふられた」人や、うさこのように
  夜更かしして結局なんもできんかった人などは、朝起きたばかりのときに
  笑うのは難しい。

  そこでこの一冊、必笑本をおすすめしたい。
  (いや単に今朝がた、本だなをぼんやり眺めていて思いついたのだが)
  効き目抜群なので、こんなにどんより曇った朝などには特にいいと思う。

  既刊本なのですでにご存知で愛読されている方ももちろん多いと思うが
  朝目を通すということを改めてご提案、ということで新しい(?)

  糸井重里の陰謀で作られた【言いまつがい】
          (2004年バレンタインデー初版/東京糸井事務所刊)
  ほぼ日刊イトイ新聞への投稿により編纂されたようで、つまり書いたのは
  日本中の誰かと誰かと誰かである。
  天才がふつうに暮らしている事がよくわかる一冊である。
  すてきな人が日本にはたくさんいることもよくわかる。

  朝から古事記伝で頭を悩ますこともなく、大笑いで始めることができる。
  ちなみに一、二抜粋して紹介してみたいが、著作権もあることだし
  遠慮すべきであるし、でもテーマ「侍」からちょっとだけ。


 
  「ある会社に電話して「Aさんいらっしゃいますか?」と聞いたら
  アルバイトの女の子が「今、うちあい中です」と答えました‥‥
  打ち合わせ中だよ。」
  「学生の時、居酒屋でアルバイトをしていたときのことです。
  年末の忘年会シーズンで、店内大わらわ。あちらこちらから声をかけられ
  接客にてんてこまいだった私。あるテーブルに小走りで駆けつけ、大変
  お待たせいたしました、と言おうとしたところ、
  「大変お待たせした!」と言ってしまった‥‥お客さんは大爆笑で、その
  テーブルに行くたびに「ビールをひとつたのむでござる」と侍言葉で注文
  をされ続けました‥」てな具合。(言いまつがい 糸井重里事務所刊より)

  ここに書いたのを読んでもイマイチ笑えないかも。
  そのときは直接、本を手にしましょう、絶対に笑えます。
  ちなにみテーマ侍を選んだ訳ではないよ、ページを開いたら侍だった。
  昨日から「侍フィーバー」だからかなあ。
  侍が野球やって勝っちゃうとこが日本っぽくてシュールでいいわ。
  イチローの「神が降りてきましてね」はネットニュースの見出しになって
  いたけど、神がバットを振り回したんだなあ、良かった良かった。
  

 
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キャバクラのオッサンのような

2009-03-24 09:20:57 | Weblog
     (親分は切れ長の美男子である、とうさこだけは信じている、自由だ!)

  眼は口ほどにものを言う。
  言葉が通じないので眼で話すアイコンタクトが常のことである。

  生後50日から120日は手元でかわいがりまくり、それが過ぎたら調教師に
  預かってもらった。
  なぜならその調教師の飼い犬が主人のアイコンタクトでとてもスマートに
  行動するのを見て、その関係に憧れたからである。
  落ち着いて言うことを聞いてくれる犬を見たのはそれが初めてだった。

  しかしそうカンタンに事はいかない。
  調教師のもとから帰ってきたベイビーは横暴で頑固な犬になっていた。
  白い金属棒を見せると、とたんに言うことを聞く。
  訓練時に使われていたものと同じ色だから。
  大型犬が暴れ回ると棒をふりかざすくらいしか、落ち着かせる手段がない。
  蹴っ飛ばしたりしても逆襲されるくらいだ。
  ベイビーはさすがにわたしを噛んだりしないが、突然吠え出す走り出すを
  やめなかった。
  これでは調教に行く前よりひどいではないか。

  二ヶ月ほどで落ち着いたが、疲れはて、調教師に頼ったことを悔いていた。
  調教師は自分の犬には棒を使わないで教えたが、預かった犬には使うと後で
  知った。それは「大型犬と主従関係を作るためには力が必要で、あなたは
  女性だし雄犬を扱うのは並たいていの力ではない」という説明だった。
  わたしは棒を見せるのをやめた。

  二ヶ月のあいだにわたしがしたのは、アイコンタクトである。
  暴れていても走り回っていても、そのそばでじっとベイビーを見ていた。
  少し落ち着くと呼びかけて、しゃがんで待っていた。
  すると、どうだろう。
  すっと寄ってくると出したコマンド通りに、脇に、前に、と座り伏せる。
  それは最初の儀式であった。
  わたしはベイビーの眼を見て「何?」と聞くようにした。
  何? に応えることがわかってきて、それからはこちらが相手をよく
  理解しようと努力する番である。

  わたしはベイビーに調教してもらった。
  澄んだ眼はよく教えてくれた。
  わたしたちは、相手のことをよく知っている。
  知っていても、「何?」と今もたずねる。  
  
  

  この方へも、何? とたずねる。
  ミルク~とたいていは答えてくるのでちょっとがっかりであるが、
  わたしも一時期ハーゲンダッツにハマった事があるわけだし、
  水で三倍に薄めたミルクでも、彼女には極上のスイーツだろう。
  それでわたしの眼を見てくれるようになったのだから、いいです。
  ミルクをペチョペチョやっているシマコの首筋をそっと撫でていると
  巣鴨のキャバクラで安物のプレゼントを渡して女の子の肩に手を回している
  オッサンの気分で、どうも気恥ずかしい。
  キャバクラのオッサンを早く卒業したいと思いつつ、つい撫でてしまう。
  シマコは、昨日あたりからちょっと力を入れて触っても嫌がらなくなった。
  ミルク効果であることはわかっていても、用心されなくなったことをひたすら
  喜び、まるでオッサンの性(さが)と自嘲していてもやめられない。
  ベイビーとアイコンタクトを始めた頃を思い出して期待しているから。

  庭先で見ているとシマコはカメの後をついてまわるようになった。
  親分もカメの言うことをよく聞く。
  カメは誰からも好かれる。
  カメの波長は気持ちいいので、特に人間以外のものは寄って来やすいが
  たまに、ごっつい人間もやってくるので、そこんところがビミョウで
  単純にカメはやさしいから、というわけでもないのである。
  右にも左にも上にも下にも寄らず、真ん中にいるからなのだろう。
  それはつまり無私なのであって、相手には心地よい。
  でも自身をそうするのは、言うほどたやすいことではない。
  カメは疲れてはいないのだろうか‥とふと思う。

  結局のところ、巣鴨のオッサンは見返りを求めている。
  心配や気遣いもまた、オッサン並ならしないほうがいい。
  右往左往するうさこである。
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わたしの孤独

2009-03-23 00:04:42 | Weblog
    (川上順一氏(スペイン・セルビア在住画家)の作品「二十歳のころ」:テラコッタ)

  孤独はわたしの友だち、影のようにいつもそばに寄り添って‥
  わたしはひとりぼっちじゃない‥
  そう歌うムスタキの「わたしの孤独」、よく知られた歌だ。
  メロディも歌詞も静かに沁み入ってくる。
  CMやかつてはドラマの主題歌に使われたこともあってか、好きな歌に
  あげる人は多いようだ。

  だが、孤独を友と呼ぶ、その心はと考えると単純に好きな歌というより
  考えさせられる歌ではないだろうか。
  シャンソンにはそういう歌が多い。(ムスタキはギリシア人)
  でもシャンテ、歌うという行為は、孤独も寂しさも愛しさもある高みへ
  人を誘うことができる。
  メロディに乗った詩は、羽を持ち、翼となり、苦しみという重力から
  しばし解放してくれる。それは救いとなって渇いた心を潤す。

  日本人に孤独は似合わない、そう常々思ってきた。
  徒党を組んで行動を起こしてきたことは歴史をみれば明らかだし、孤独な
  ヒーローなどいない。そうそう、出る杭は打たれるという言葉もある。
  孤独を嫌い、恐れ、避けるのである。
  おおかたの人はそうではないかと思うのだが。
  孤独を避けてにぎわいを求めているように‥

  孤独を体験しようにも、孤独の淵には決して近づこうとしないのだから、
  孤独と友にはなれない。
  わがままで得手勝手なだけなのに、一人がすき、なんてほざいているのを
  聞いても阿呆らしいだけだが、孤独を知っている人は実のところ朗らかである。
  人に愛され、人を愛し、大事にするので、その人が孤独を友にしているとは
  思いもよらないのだ。
  たとえ万人に愛されようとも、孤独は避けられない。
  すべての人に愛されるより、一人のすべてを愛する方が孤独ではない。
  それはエゴイズムとは違う、別な言い方をすれば無私である。

  たった一人に愛され、たった一人を愛することしか孤独を超えることはない。
  その一人にめぐり遇うまで、「わたし」を最も赦し理解しているのは誰でもない
  それは孤独なのである。
  だからこの歌は耳に優しいというより涙を誘うので、なるべくなら聴かない。

  うさこの日常はできるかぎり感傷的にならないよう涙を惜しんで暮らせ、が
  モットーである。
  わたしの涙は、愛する人のものだからである。

  
  
    
  
  

  
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人間の故郷~アッバス・キアロスタミ

2009-03-21 12:20:50 | Weblog
    今日もこんな感じの森の庭。
    ちょうど一年前に撮ったものだが、山がもっとくっきり見えるくらいの違い。
    カメラがないので、そっくりな一年前の3月半ばのを代用した。



   中央あたりのねじ曲がった枝にも花がつく。この木はずいぶん歳をとっているけど
   命名、くにちゃん桜(わかる人にはわかる名前であるな)。
   がんばって咲いているからなのか、命名したから元気になったのか、そこんところは
   不明だけど、突風が吹いても折れない。
   でもいつ折れるかという心配もある。
   「からだ弱いの、あたし」とか言う人ほど長生きするの説が該当することを秘かに祈る。

   ところでタイトルの「人間の故郷」というのは映画、ともだちのうちはどこ? の中の
   村の年寄りの台詞だ。
   アッバス・キアロスタミの初期傑作と名高い作品だが、何度も見ているのにこの台詞が
   ひっかかったのは今回初めて。映画を観るとは、良い本を何度も読むのと同じである。
   ストーリーの流れの、細部にある言葉に作家の想いが込められていて、それを発見する
   のは一度観たくらいではわからない。本も然りだろう。(いや、わたしの場合だが)

   「今はどこの家も鉄のドアに替えてしまう。わしの作った木のドアのどこが悪いかね。
   ここの家は四十年前にわしが作った窓が、ほら今も昔のまんまだ。
   ‥‥鉄のドアは一生壊れないから丈夫だということなんだろうが、家はそんなに持たないよ。」

   イランの風景をわたしたちが観るのはテレビニュースくらいで、キアロスタミの映画は
   世界中に戦場以外のイランを伝えた。
   そこにある風景は、土と木と石で作られた家。何代も使いつづけるだろう絨毯。
   作品は今から二十年以上も前(87年作)だから今はもっと近代化されているかと思う
   かもしれないが、日本や韓国のようにめまぐるしい早さで欧米化した国の方がむしろ
   少ないのだ。インドネシアやタイ、ベトナムなどアジアの国の発展はめざましいが
   表通りを一つは入れば、そこには昔懐かしい変わらない景色と家が立ち並び、人々が
   自分たちの暮らし方を続けている。
   つまり、そんなに簡単に文化は捨てられないのだ。

   ときどき仕事場のある南青山の風景、断片を載せるが、あの街を好きなのでは
   ない。単に長い間そこで暮らして働いてきただけのことである。
   むしろまるで植民地だと住み始めの当初から思ってきた。
   それがますます進んでテナントのほとんどが外資のビルと瀟酒で金のかかった住宅が
   整然と並んで、お金の匂いばかりが先立つ街になってきた。
   長く住んでいた年寄りは郊外へ移り、このところのリーマン・ショックで何かあった
   のか立ち退きや壊される家も目立つ。地上げされコインパーキングになるところが多い。
   しばらくするとコンクリート造りの賃貸ビルになり、規制の網がかかっているので高層
   にできないだけで、平屋や二階建ては皆無だ。
   昔はよく歩いた路地は日当りが悪くなった。
   この街にも木のドアは、もう見当たらない。

   故郷が消えて行くことで、人は何を失うのだろうか。
   都会の消費生活に倦んだ人は帰りたくなっても、どこへ行けばいいのだろうか。
   疲弊し、年金生活者となり、小さな庭に故郷を見出したくても
   それまた難しい時代、未来は暗澹としている。
   故郷は心の中さ、などと言うのは歌謡曲だけでいい。
   実際、人間が土と水と木から離れて生きていけるわけがないのである。
   
   (このごろ、俄に注目されはじめた林業事業者の回し者ではございませーん)

   ともだちのうちはどこ? の少年。
   その後はどうしているか、どういう大人になっただろうか。
   90年に起きたイラン北部の大地震で甚大な被害を受けた撮影現場の村に
   急遽駆けつけたキアロスタミ監督は、カメラを回した。
   92年の作品「そして人生はつづく」は、そのときのものである。
   

   
   
   

   
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塀の内?外?どっちやねん

2009-03-20 12:43:30 | Weblog
        (親分、どっちやねん?)    





    東南の方角はまだ暗い雲が。
    でも北西の空は晴れてきた。
    これは庭の真ん中からで左、右と向きを変えて撮ってみた。
    雲の流れ、見ていて飽きない。

    雨雲の下を北へ北へと走り、帰り着いたらちょっと晴れ間が出ていた。    
    今日はカメラを仕事場に置き忘れてきたのでケータイで撮る。
    カメラの腕などないので、何でとろうが対して変わりもなくお天気だけが
    心配なのである。だから青空を見たとたん、身支度もそこそこに表へ出た。

    フェンスのそばに立つ監督さん、いや親分さん、あーたは内側ですか?
    それとも外側ですか?
    はい、正解は外から内を覗きこんでいるところです。異常なし!ってか。

    山にはまだ白い雪が見えるが、このところの暖かさで地面はなんだか
    もっこりと持ち上がってきたように見える。
    樹々の細い枝に、プチッと芽がついているのもあちこちで発見。
    いわゆる春らしい芽吹きはとても遅い。
    ゴールデンウイークに桜が咲いて、若葉も一斉に存在を主張してざわざわと
    騒がしくなる。
    春と初夏が一度にやってくるこの谷間で、今は春でもあり冬の終わりでもあり、
    でもやっぱ春なんだな、と服の軽さで気づく。
    セーターの上にフリースを着てさらにダウンジャケットを着てたんだものなあ。

    (で、気持ちはどうだ? 軽いかい?)
    (う~む、そうもいかんのよ‥。人生は常に重く、ゆえに楽しみありだなあ)

    

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in 南青山

2009-03-20 05:20:15 | 
    
    デジカメをもって南青山を散策した週なかば。
    ライブハウス「ブルーノート」の出演者リストなどを
    眺めて、このごろはジャズはもっぱらCDで聴くばかり
    なのを慰める。気になるアーティスト見当たらず。

    根津美術館は改修工事中で(今秋オープン予定)工事用塀に
    囲まれ無粋な姿になっていた。
    青山通りへ向う道への途中、プラダのはす向かいにひっそり
    立つコンクリート打ちっぱなしのビル壁面に能装束のポスターが
    飾られている。
    コンクリート壁に貼付けられた表札は、鉄仙会能楽研修所。
    ここでは毎月月例の公演と水曜日の青山能が催される。
    この通りを歩く人はファッションビルや流行のショップや
    近隣に多いデザイン事務所などで働く人が多い。遠くから
    遊びに来た人も能のポスターなど見向きもしない。
    外人旅行者さえ気づかずに通りすぎる。

    「能」の演目を「男」「女」「鬼」にジャンル分けし、読み
    安く編集された多田富雄氏監修の本「あらすじで読む能50」
    を読めば能を見たくなるかもしれない。

    「井筒」は、亡憶(ぼうおく)の物語(世阿弥)。
    日は命の次元で真実を映す、月は魂の次元で現実を映すとある。
    (この頁解説:観世流河村晴道)
    そうだなあ、先日書いた月夜見尊にもあるように陰のハタラキ
    だから現世に生きる肉体が陽なら対して魂は陰、そして月。
    ゆえに永遠性を表す。

    物語の冒頭、井戸に水鏡して遊ぶ二人は、すでに丸い月のなか。
    互いに今生の生を終え、契りに変わりはないことを謡う。
    始まりと同じように恋慕は続き、終わりない円環のように思い
    続ける女心。決して執着ではなく。

    人が人を恋いこがれ思うとき、願うのは相手と一体になり
    とろけあうこと。
    後シテで井筒の女は業平の、つまり男の装束を纏って舞う。
    一つになることで、恋慕は遂げられる。
    それができるのは女と男であり、鬼ではない。
    思い続け、執着ゆえに鬼になる物語もあるわけで、紙一重の
    違いであさましさと切なさが分かれる。

    現実には月に光に照らされて想い人への気持ちを回想するのは
    男の方ではなかろうか、とふと思う。
    父は成仏したとき月光を浴びながら、残った母の安寧を願って
    いたから。
    母は今、老いの日々を楽しみ過去など忘れてしまいたいようである。
       


    青山通りでみつけた花屋の店先は、春でいっぱい。
    写メを母へ送った。
    意外にも「覚えているよ、その場所を歩いたね」と言ってきた。
    少しはとっておいていい過去もあるようで、ほっとした。
    父を恋した気持ちは生活の重みに押し流されたのであろうから、
    それもまた切なさゆえだろう。
    忘れたような顔をして長生きしても、少しもあさましくはない
    と思うのである、ね、父さん。
    
    ~寄り道して移動中、もうすぐ森へ~
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カメの焚き火

2009-03-17 14:07:09 | Weblog

  数十年間、住む人はおろか手入れをする人もいなかった
  この谷間の森で、木々は上へ上へと伸び太い幹は少ない。
  ひょろひょろと伸び、上の方で枝を広げている。
  大風が年じゅう吹いているから、枝もなべて細い。

  ところがその根っこときたら、地上の姿からは想像も
  つかないほど深くじょうぶで太いのであった。
  間伐した丸太は積み上げて乾かすが、根の処理は
  粗大ごみ同然で始末におえない感じである。
  ではそれをどうしているか? 
  


  カメは火を扱うのも、うまい。
  あちこちに根が放置してあるが、考えあってのことだ。
  土が雨に流され根がしだいに乾き燃えやすくなるまで2,3年は
  かかる。太い部分をあらかじめ割っておき、ほどよい長さに
  してから熾きている火へ放り込む。
  根は、延々と燃える。

  カメは燃え尽きるまで火を監視し、後始末をする。
  ていねいである。
  辛抱強いのである。

  だが、それだけではないところがカメのカメたるゆえんである。
  カメは森の生き物や彼女と話しているらしい。
  じっとして、一服やりながら、頭上でさえずる鳥や地を這う
  ねずみたちの声。カメを避けて先を急ぐ蛇もちょっと止まり
  雪解け水が音をたてるせせらぎとともに、生きるものの音を
  聴いているのである。

  彼女の声はもちろん一番大きく聴こえているらしい。


      (森の魔女シマコ女王、しのび足)
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岬へ、みのえを立つる

2009-03-16 11:23:33 | 
  旅に出るならどこがいい? =タダシクン   
  そうね、なんだかわかんないけど縁(へり)がいいな。
       岬とか島とか、端っこ。 =うさこ
  そうか、「みのえに立つ」だな。 =カメ

  わかる人にはわかる、わかんない人にはなんじゃこりゃな会話である。

  縁(へり)へ行く。
  半島の先端、岬。
  陸から少し離れた小島。
  東西南北に広がる日本列島には、東は千葉の犬吠埼、最果て西の与那国島に東崎、
  鹿児島南に佐田岬、風の島と呼ばれる最北の礼文島、ミスター終点宗谷岬、
  積丹半島神威岬、日本海は能登の録剛崎、少し下って島根は日御崎、‥‥
  列島と島、いずれにしろこの地(くに)は島国でその端っこからは水平線が見える。

  岬の先端は縁(へり)ではない。
  へりという解釈は内陸を主とした発想である。
  岬へ行きたいという思いは、「みのえ」への内的志向に発している。
  (もちろんうさこに自覚などあろうはずもなく、いつもの無意識‥とほほな頭)
  カメ曰く、みのえに立つとは、背後に背負った陸でもなく海をへだてた水平線の彼方でもなく。
  今の瞬間に留まり居ること。

  「みのえ」より外へ出て、咎をなし、内へ入れて、咎をなす。
  「みのえ」に留まるとは、人の感情と思いを起こさぬことである。
  フラットな位置である。

  岬は端っこなのに、なにゆえにフラットか?
  わかる人にはわかり、わからぬ人にはとんとわからない話だけど
  旧事本紀に著された観念は、物から離れた思考と物を深く見据えた観察の
  両方から成り立っている。
  すべてが暗喩や比喩だとは限らないのが古伝書、神話解釈の必定である。
  知的及び現実的経験(事実)の積み重ねがあって、その示されたイメージを正確に
  とらえるのだ。
  あらゆる社会的偏向を遠ざけよ、である。

  岬はフラットなのである。
  フラットな場所に立てば、いらぬ思惑や焦燥で波だった心はしばし静まる。

  右でも左でもなく、上でも下でもない。
  善悪いずれでもなく、いずこにもふみ出さない間(あわい)が「みのえ」、
  境と書く。
  静かに深呼吸をして、待つ。
  待つでもなく、じっとする。

  そこで、あーそうか! と合点してしまうと‥‥
  とたんにふみ出してしまうのだ。
  そしてみのえから外へ、外へ出れば内へ入れるものもいずれあり。
  ふたたび乱れ、人は人の咎をなす(感情)。

  岬は魂の安息場。
  風が清めて通りすぎる。


  (縁にある名高い天守閣頂く城下町、松江の茶菓子。
    茶聖の名冠して商い上手。俗世間では好まれまする。然り、美味!)
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草食系男子的な親分

2009-03-15 17:54:04 | Weblog
   霜柱が立って午前中はまだ陽がささず、とても寒かったのです。
   親分はざっくざっくと土を駆って走りまわっていました。   



   朝からわたしは薪割り(ウソです、なわけないでしょー)。
   この丸太、そんなにカンタンには割れないから。

   うさこが本当にやった仕事は、白山吹の植え込みです。
   山吹といえば黄色い花だと思っていました。
   昨年植えたオオデマリはまだ一度も花をつけないけど、白い花をつけた山吹と
   どちらも咲けば、この花壇は白い花でいっぱいになるなあ(妄想中)‥。



   草食男子という言葉を最近ときどき聞きます。
   では肉食女子というのもあるのかしら。
   うさこはほぼ野菜と炭水化物の食事なので草食女子ですけど(うさぎだし)、
   親分はどちらかというと草食男子系に属します。
   シマコは肉食女子ですね、なんと今日は野ネズミを獲ってましたから。
   (庭先を横切る小さな野ねずみに飛びかかり、くわえたところを目撃!)

   カメ曰く、草食ってもインパラからイボイノシシまでいるからなあ‥と。
   ずいぶん美醜に差がありますが、草食男子の世間のイメージはどちらかと
   いうとインパラなんでしょうね。
   草食でイボイノシシだったら、どうする?
   それを言うなら肉食女子だって、パンサーとかチータとか華麗なる猫族なら
   カッコいいけど、ハイエナもいるぜよ。
   ライオンならちょっと女子には孤独すぎ。

   草食男子と肉食女子の有名カップルは、あのジャガー横田夫妻ですね?
   ちょっと極端な例しか思い浮かばない‥
   ま、うさこは草食なので旧来通り、肉食男子がいいわ、
   父さんみたいな~(ファザコンは永遠である)。
   雑食の熊はちょっと悲哀がありすぎで、肉食の王者ライオンがいい。
   孤独そうなのも素敵なんだわ(妄想、広がる一方である)

   なんでこんな話してんだろ、ね?
   休日の息抜きでございました。 
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