想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

元気で留守がいいのキズナ

2010-04-30 01:00:21 | Weblog
 (今年も独り身ではないシマコ‥‥カンロク姐さんモテモテ)

便りがないは無事な証拠、こういう言い方はもう古いのか。
病的ひきこもりが増えた今日、便りがないとはては病んではいまいかと心配、
ふだんからメールだけはくるが声は聞こえないというのに慣れているからメール
もないと気になるということだ。
「便りなきは無事‥‥」や「留守がいい‥」は声をかければ届く距離に人と人がいて
つながっている安心感があって成り立っていたのだろうと思う。

ケータイが普及してしょっちゅう電話する、どこにいても電話がかかってくる、
それがいつのまにか音無しのメールとなり着信音か振動音だけは頻繁に鳴っている。
便利かどうかなどいうレベルのことではない。
それなしで暮らせないというくらい生活に浸透し、それは考え方を変えるまでに
至っている。モノは便利な道具だったはずだけど、モノによって思考が変容する。
その思考はそもそも表層の部分しか見えていない程度の、軟弱な感情である。
動じない思考は頑として存在し、軟弱なものは常に流され埋没するサダメ。

病気になって存在感が増すというのは辛いもんがある。フクザツである。
長い間そう行き来もしなかった知人、仕事がんばってるなあくらい思っていたら
癌で闘病生活を送っていると知ってにわかに案じるキモチが募る。
うっちゃっておいて心配も要らないというほうが幸せであるなあ。



うちのベイビーはまたの名をプーと呼んでいるが、プーを抱きしめる回数が
増えて、しんみりする。プーと呼ばれ、きげんがいいベイビー。
抱きしめてぎゅっとして、それをワサワサッとほどかれて逃げていかれた方が
よほどいいのに‥。
ヤツはでれでれと抱かれてままで寝ころんでいる。

しかたがないので子守唄など歌う。
しんみりするのが嫌なので、途中で起きあがると、やや不満顔でさらにまとわりつく。
ヤツは病気のふりをしているのではないか、と思いたい。
思いの強さでリアルを変えたいなんて昔から考える傾向があった。
それは人間の原始的本能であると知ってからは控えている。
そっと祈る。そのほうがスジってもんだ。
人が本能のままに在れば、直ちに傲慢となりさがりかねないからなあ。



毎日帰ってくる夫がたまに帰らないと心配であるが、ふだんからいないなら
気にもしない。
定年退職してそばにいるようになるとうっとうしく思え邪魔者扱いする。
そういうニョーボーと、うちに帰ろうと帰るまいと働き続けたダンナ。
老後はふたりして一緒に寝坊してゴロゴロする時間を過ごすというのは
そうとう楽しいと思う。そういう夫婦もきっといるだろうが、しあわせな
人は己を語りたがらないから世間では熟年は退屈か離婚かなんて誤解する。

不満な声はデカイし他人の不幸は甘い蜜らしくそんな話ばかり取り上げられる。
そういう声ばかりだと世間の空気が汚れてさらにエコにわるいじゃん。
悲しくない話の、あっけらかんのキズナがいいなあ。

コメント (1)
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犬も笑うのである

2010-04-29 01:04:30 | Weblog

山は気温がなかなかあがらない。
でもこぶしも膨らんできた。麓の村道を車で走るとあちこちに白い花が満開の
木。いかにも山里の風景で、懐かしい感じを抱きながらいつも見ていた。
広い庭のほぼ中央に移植されたこぶし、大きく大きく育ってくれたらと願っている。

でも期待しすぎるより、見守って育てよう。
過保護なバカ親になると子は育たんからなあ。



ベイビーは木のベンチの上に置かれたビスケット一個、小さなビスケットを
じっとみつめて、ステイしている。
よく言うことを聞く約束を守る、うさこは自分で教えながら見習いたい気に
なるほどである。
もっとくれ、もっとデカイのくれ、などと声に出して言わないところなど、
ますますもっておくゆかしくつつしみぶかい。
よって黙っていても次が差し出されるこの良き循環、マネージメントに活かそう
などと思ってもヒトには通じるとはかぎらないんであるなあ。

笑う犬というのを珍百景?という番組でやっていた。柴犬が笑う。
うちの犬もよく笑うがカメラを向けると気取るのでアホ面して笑うところを
お見せできない。
アホ面だけでなく、ニヤニヤ笑いだってするのでオッサンみたいにみえるときもある。
ま、どう見えるかは見る側の心中にあるような気もするが、柴犬は確かに笑っていた。
犬のトレーナーは犬に笑っているつもりはないと言っていたが、じゃあどういう
つもりだってんだ? 笑うときは笑うよ、犬もヒトとほぼ同じである。

違うのは邪心とか憎悪心がないことくらいでひがんだり嫉妬したりもする。
数年前山中で保護して今は里親さんに引き取られているクーという弟分は面白かった。
保護二日目の朝起きて犬たちが寝ている場所へ行くと、クーは座布団の上に寝ていた。
その座布団はベイビーが以前使っていたもので勝手口の脇に置いてあったのだ。
それを自分でひきずってきてその上に寝ていた。
隣ではベイビーが彼用のマットの上で寝ていたのだが、前夜クーは段ボール箱に
バスタオルを敷いてベッド代わりにしてやったのだった。
しかしバスタオルはめくれるし薄い。分厚いのに寝たかったんだなと察したが、
よくみつけたなあと感心したのであった。
すぐにひがむ子であったが、今は一人っ子でかわいがられているのでたれ目になって
いるらしい。

(連休前で立て混み中で更新飛び飛び、やや過労気味で神経回らず飛び飛び、
おまけに連休中も遊んでいないので飛び飛びの予想、懲りずに見に来てくださいませ)





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春、黙っていない

2010-04-26 15:15:45 | Weblog
もう4年が過ぎたが、このドングリの木はもう新芽をつけなくなった。
東北電力が木の枝が電線まで伸びると危険なのであらかじめ枝降ろしをしようと
やってきたはいいが、切りすぎたというお粗末の結果でかわいそうなことをして
くれた。
しばらくは憤っていたが、希望を捨てず朽ち果てたとは思わずにいた。
特にカメはもうちょっと様子を見てようと言っていたし、そう思ったほうが
腹の虫も収まるしで、捨てきれない思いであったのだった。

きつつきの居場所になってしまった。木はなんと思っているのやら。
このきつつき、2号棟の木製雨戸にも穴を開けたことがある彼奴であろう。
きれいな丸を描いて、コンパスでも持ってんのか?




シマコに踏んづけられないで、無事であった。シマコはこの辺でゴロゴロする。



あったかい日射し、ちょっと歩いてくたびれ、その場で休憩である。
春、ゾロゾロゾロ「黙ってねえんだかんな」と北の大地が言う。んだんだとうなづいて
寝ころぶ。寝転んで、んで、考えてんだかんな、ってほんとかい?
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めんどくさいほうが、いい

2010-04-25 14:33:06 | Weblog
遠くにのぞむは冬の顔を残したままだ。
登るにさほど険しく高く人を寄せつけないというほどの高さ
でもない…、ように見えて実は険しい頂上付近。



枝木を積んで整理した真上から落ちてきて、まるで
そこに置いたようにあった松の大枝。でも切り口を
見れば風のしわざとわかる。
そばに赤松の古木があって、一昨日の風で折れたらしい。

風にしなる細い枝は折れないが、しっかりとした堅い松は
いつかこうして折れ、あの松の独特の形状になるのだな。

人は高いところへ眼がいき、このごろ上ばかりしか見ない
から「「ひらめ」とあだ名された某ますぞえ議員などいるが
かの人に限らず凡人ほど上ばかり見ている。
裾野をよく歩き、活路を自ら開き、頂上へいたるのに地道に
我慢し、目配りのできる者は少ない。

人には寿命がある。寿命を天寿などと今の人は思わないから、
歳若いときには怠け驕り、還暦前後すると時を焦り目先しか
見なくなる。
醜く歳を重ねると、老害などと言われかねない。
長い歳月を生きながらえてきた甲斐もなくなる位、浅知恵の
狭量視野狭窄に気づかない。
そういう人は祈ることを知らないのだろう。


(番犬と野良猫共存、時をかけて譲り合う仲となりまして)

若いとき苦しむ者は、苦悩から力を蓄える。
苦悩から知恵をさずかるのだから、シンプル・イズ・ベスト
などとほざかずに、めんどくさいことに首をつっこんで
かき回して振り回されたりしてきたほうがいいんじゃないか。

舗装された登山道路など歩いても山登りとは言わないように。
ツィッターでつぶやいてもフォローしてもらっても、それで
独りでなくなったわけでもないのだし。
簡単を創りだすのは難しいが簡単を使うのはやさしいのだし。

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山道の桜

2010-04-25 00:19:57 | Weblog

森の家へ向かう途中に桜とおぼしき大きな木があった。
毎年見ているはずなのに、今年初めて気づいた。
このあたりのことはよく知っているはずなのに、毎年何か
発見しては驚く。楽しい驚きである。

山桜とは種類が異なるようで、花の色が濃い。
バランスよく広がり伸びた枝が桜の木らしい形を作って
いるけど、ここいらでこの形を保つのは難しいんだが。

昨日も一日じゅう風がうなっていたし、雪を含んだ小雨が降って
陽がさしていても小雪がぱらついていた。
上空の風が強いのは高いところにある枝がしなっているからわかる。

山の中で見物客もいないところに咲いている花、誰に見られるでも
なく咲いている。
無節操に生い茂っている篠竹に阻まれ近づくこともできないので
二十メートルくらい離れたところから眺めている。

はて、桜だよなあ……、しばらく眺めて気が済んだ。
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名残りの雪景色

2010-04-22 12:15:30 | Weblog
先週の雪景色である。よく降った。正月より積もったのだもの。
ようやくこれで春かな、でもわかんないからなあと思いつつ、もう雪は勘弁と
声に出していう。雪、降れば喜んでたのになあ、勝手なんだわ、わたし。

「今日あったかいね」、「そうだね」、「三寒四温だもんね」「‥‥」笑。
この会話、幾度となくしたのである。
三寒四温って、つい言ってしまうのである。
二寒一温だったりしても、サンカンシオンだもんね、と温度変化の激しさを
いいわけしちゃうのである。
いいわけする理由はないのに、おのれに言ってきかせるようについ口が滑る。



言うまい、言うまいと思っていると言ってしまう癖ってあるね。
三寒四温が口癖ってのは変だけど、年寄りの挨拶みたいな意味ない相づちの類
であるので言うまいと思うのである。なんだかなあ~、である。
ぐっとこらえていたら、相手が言ってしまった時など、してやったり。
うれしくて笑いをこらえながら、そうだねえと返す。相手はしまったという顔で
ますますもってうれしくなる。三寒四温の春。

変な気候であった。麓の村では桜が咲き始めた。
北国は春がきたと思ったらすぐ初夏なのでなにもかも一気に動き出し勢いづく。
ここはもうすこし先、サンカンシオン口を滑らせないよう気をつけて待っている。

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ふたり

2010-04-22 01:47:30 | Weblog
ナンギなことが次々に起きるのが人生である。
ま、ずいぶん減ってはきた、わたしの場合年少の頃から騒々しくドラマチック
であったのでその頃に比べればということで。

おだやかな人生、誰もが望むフレーズ。おだやかってどういうこと?
思うに、犬が笑いかけてくれることだったり。
猫なら、あられもなく寝こけていたくせに腹減ったーと臆面も無く訴えてくれたり
そういうことくらいしか思いつかないけど(ったく日常風景だよ)、それがあれば
笑わずにいられない、笑って返すうちほぐれる。
だいじょうぶってことになる。で、ま、やるかーって立ち上がっていくのである。



(ぼけの花、ボケっとしてるから~ですか~、雪降ってもなんのその)

笑いとシリアスは表裏一体、善と悪もそう。
その甘辛を知り尽くしている人は笑わせるのがうまいから、ほんとのところ何考えて
るのか外から伺い知れない印象があったりする。
でもカメの場合、笑い抜きでの話はないからそうなると伺おうもなにも、ない。
おもしろいふたりが雪の上でくつろいでいた。
望遠レンズで撮っていたら、気づいたとたんに変な顔するんだもの、それ使えません。


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死んではならない

2010-04-21 15:50:42 | Weblog
仕分け第二弾とか言ってますなあ、派手に目立ちますなあレンホーさん。
議員の仕事も官僚も本来やってあたりまえ、縁の下の力持ち的存在なんだが
成果を競ってるように見えるのがサミシイ。

世界の警察なんて自分で言ってるアメリカ。
問題の沖縄の米軍海兵隊基地は戦争有事の際に最前線で活躍してくれるそうだから、
薬でいえば抗がん剤であり特効薬のステロイドである。
ということはだ、使いすぎると他が傷み弊害が必ず表れるということで、テロの
反撃はしかり、当然の成り行きとなる。復興支援さえ金儲け、NGOもコネ次第。
悪循環を繰り返し局地的戦闘が止むことはないので米軍は常に活動中である。
そして各地に平和は戻っていない。つまり特効薬は効いていないのである。
劇薬を当てにしても健康を望むことはできないということだ。

なんてことを普段はもう考えない、考える余地などなく戦争反対軍隊いらん
主義だから。鉄条網にリボンつけてくる派だから。
アメリカは癌だと思っている。ケーサツじゃなくて癌細胞。
福岡伸一の生化学の本によればガン細胞にだって一理あるわけで、アメリカ人の
コラムニストがエラそうに日本の総理大臣をコケするのもしかたがない。
言いたいヤツの口を封じることはできない。だが、耳を貸す必要もない。

リボンつける派、歌って座り込む派なのに、こんなこと考えてるのはやっぱり
劇薬使ってる日常があり、そこに疑問を持ち続けているゆえの連想である。
差し迫った現実があってこその思考なのである。
一カ所を治そうとしても全体の免疫力を高めねば逆効果だとしみじみわかる。
血は止まっても足腰、からだ全体を動かす力もなくなってしまうのである。
抵抗しているのであるなあ、からだ全体が民族運動化しているのである。
薬を選んでいる医者に言わせれば「仕方が無い」こと、しかし当事者にとっては
死活問題である。従っていれば寿命を縮めるやもしれぬ。

アメリカを相手に我が国はいまだ打つ手がない。戦争は終わったはずだが、
いまやっているのは何なのだ。防衛というが、何と闘っているのだ。
求めているのは何なのだ、という話は癌には通じないのであるが、じわっと
効く薬はかならずやある。平和を望まない者よりも渇望する者のほうが人口が
圧倒的に多いのだから。

聖徳太子の人間像は間違って伝えられていて今の政治家は見向きもしないが、
その奥深い中庸の思想を学べば、友愛なんぞ紙吹雪みたいだと気づくだろうに。
私を捨てずして政治(まつりごと)を行えば偏り、出口は塞がる。
ガラガラポンの時代、戦国時代と名付けられた時代区分があったが似てきた。

足利氏室町幕府が朝廷を支えきれず諸国の大名たちに頼ったあげく侮られ、
滅びへの道を辿っていく端緒にあったのは、私情そのものであった。
「私」は国を滅ぼし、大義を偽ることとなる。
それをバカ者が政局なんぞと言っている脇で、自暴自棄の中高年が線路へ飛び込む。
悪人跳梁跋扈いと易しだ。
時代はめぐる、愚かであるなあ、人間。
だが、死んではならない。
私を滅して私を生きるすべはあるのだから。

追記:朝日新聞20日付け記事。
大江健三郎の『定義集』タイトルは「強者に有利なあいまいな言葉」
明らかな言葉が抵抗の力、とあった。
最後の5行、大江氏にしては珍しく明解平易な言葉で締められていた。
戦後最大の正念場、確かにそうだ、そうなのだが、と思うわたしは
あきらめてはいないが、すでに違う方角を見ている。
それが独りよがりな逃避にならぬように注意せねばならない。




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樹木の恵みを分けていただく

2010-04-19 00:07:12 | Weblog
昨年の夏(2009.8.11の記事)、たらの木を枝下ろしし葉を一枚づつ取って乾した。

手のかかる作業だったが「たらの葉茶」を作ろうと思い立って、
その突然の思いつきを実行するのにちょうどMちゃんが現われ、
うさこを助けてくれたのであった。
(というかほとんどMちゃんが仕切ってやったんだけどさ)

同じMでもこっちはオヤジのMと道端で偶然出会ったので、
「あのさ、あんたさ、たらの葉ほしてあっからさ、取りにきなさいよ、
お茶にして飲むのさ、ま、人体実験ぽくもあるけどさ、ね、きなよ」と
いきなり言ったのだった。Mは念願の起業を果たし、おまけは糖尿病
なのである。仕事に支障をきたすので病気はちゃんと治しなよと言い
おいてすたこらと去った。

それで今日、Mに渡すために葉を袋詰めしていて軽く軽くなった葉に
病気に効く成分が入っていると思うと、もったいないような気になった。
いや、もったいないというのはケチるという意味のそれではない、
ありがたいという意味のほうのもったいないである。




先日、犬友からびわの葉をいただいた。びわの葉や種は大昔から薬効が
知られているようで、その方はふだんから医者要らずなのよと言って
使っているのを聞いてはいた。もったいないことである。
葉はきれいに洗ってあったのでそれを1枚細かく刻み、煎じた。
色が薄茶色になるくらい煮出し、大匙1杯をベイビーに飲ませた。
含まれているビタミン17が炎症に効くというのを期待して。

がんに効くという広告もある。がんと書いてあるとかえって眉唾にも
思えるが、直腸にあるおできが癌であるかないか定かでない今、
なんにしろ効くものは試してみたいのである。
そういう人の思いにつけこんだ商法にくれぐれも騙されないようにと
思ってはいる。
そこんとこが難しい。

聞くだけでどんな病気も治るというか効くという音声データを
送りましたなぞというメールも来たりするのであるが、それも無料
ですよ、なんて言っちゃって、そうなるともう騙す騙されるではなく
そこまで気弱ではございませんって言いたいのだけれど、相手が
誰だかわからないのである。



この森の樹木、わたしの知らない力が備わっていることを思うと
取って食わないまでも、そばに立っているだけで不思議に清々として
力が湧いてくる気がする。
ベイビーも、今日はいつになく足取りが軽かった。東京にいる日より
格段に調子がよいようだった。犬も人も、もったいないものに包まれ
もったいない暮らしである。

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夜が明けたら停電

2010-04-17 14:06:38 | Weblog

朝、雨戸を閉めた廊下が暗いので灯りをつけようとスイッチを
押した。だが電気がつかない。電球が切れているのかと、ほかを
押したが、これも点かない。
ん? とさらに他のスイッチを押す。いやはや、停電だ。
ということはつまり、水も出ないということ……。

井戸水は電動ポンプがくみ上げているからね~、井戸もまた文化生活
なわけですよ、なんか変な気がするが。
おまけにストーブ、石油ストーブの炎が見えるタイプは危ないからファン式
を使っていて、これもお尻に電気コードがついている。
エアコンは無論のことガスファンヒーターもだめ、電気がタイショウ。
こうなると暖を取るには炭を起こして囲炉裏を使うしかないのである。

まあ台所のガスだけは点火したのでお湯を沸かして茶を飲むことは
できて、うろたえつつ少しほっとした。
そして電力会社へ停電してるぜよと伝え、至急大至急大大至急、向かって
いますとすでに出発しているらしいことに驚いた。
そうか、隣の別荘の主、久方ぶりに来ていたので電話したのはあっちが
先なんだなと気づく。
雪のなかをわっさ、わっさと歩いて出かけることにした。

「おはよーございまーす」と道路から大声で話しかける。
「いやー、いい景色ですねー、珍しい、こんなすばらしいの!」と
ノー天気な方である。ふだんからのんびりした方で好感がもてたが
こういうときもああゆー態度でいるとはなあ。
停電ですねーと言っても、そうですねー夜でなくてよかったねーと
言うのみである。早く来いとか、遅いとか、決してクレームなど
つけないタイプではなかろうか。
テラスに夫婦二人並んで、正面を向いて立っているのである。
正面には他人の土地だが雑木林は一面白、木々は雪の実をぶらさげて
寒そうに立っているのだが。

なんだか次の言葉が出てこないので、来た道をまたすごすごと
自分の長靴の足跡の上に足を置きながら、なるべく体力を消耗しない
ように引き返した。
いつ電気がつくか定かでないのだから用心しているのである。



今これを書いているということはすでに通電したわけで、約4時間の
停電。パソコンも電話の高速通信回線(といってもここはISDN)も
使えないのであった。
東京のカメにケータイで神頼みの電話をする始末である。
カメはソーラーパネルだなあ、考えるとしようと言っていたが、
電話を切って1分としないうちに電気がパパっと点いた。
家じゅうのスイッチを入れて歩いたので、あちこち、パパパパっと
おまけに水道も蛇口を開けてあったので、ジャーーーと音立てて
流れてきた。騒々しく通電し、わたしは飛び上がって喜んだ。

ちょっと、情けない。
雪かきでヘロヘロに疲れ気弱になったが、確かに見渡せばすばらしい
景色であった。



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西の魔女へ

2010-04-16 10:44:06 | 
「西の魔女が死んだ」(梨木香歩著、新潮文庫)の中での会話(筆者要約)。
死んだあとにどうなるの? という孫(主人公まい)の問いに祖母が答えて、
魂が抜け出していくのよと言う。まいは、からだがなければ嫌な思いもしなくて
いいんじゃないかとさらに問う。
そこで魔女こと祖母は、からだがあるから様々な体験をして魂は成長するのよ、
それが魂の本質なの、と応える。
まいは納得したわけではないけれどうなづいて‥、今ある苦しさを引き受けようと
するが‥。



魂は目に見えないから、あると言われてもどこにあるのかといぶかしい。
けれども魂があるということは認めたほうがなんとなくここちがいいことも確かだ。
からだだけだと、不都合で理不尽な自分を救いようもなく逃げ場もないからだ。
人は見えない魂の存在に最後の自尊心を託すかのように、あいまいな信頼を寄せる。
普通はこんな感じではないかと思うのだが、先に書いた西の魔女の言葉が気になる。
「魂は体験して成長する」という箇所。

わたしは魂が成長するのではなく、人(脳)が魂に近づくだけではないかと思う。
魂は完全無欠のまま、それをからだが体験するごとに傷つけていくのが人生の歩みで
あって、そのことに気づいた者は魂の無垢さ、完全な恵みに救われるだけではないか。

なぜならわたしは歳をくってもあまり成長していない。
世間の事に少しは通じてきたが、それで成長したとも思えない。むしろ三つ子の魂を
日々感じる(三つ子の魂というのは人間性であって正確には魂ではなく性格のこと)。
直しようがないが体験は人を過ちから救うだけのことはある、それは脳に蓄えた知恵だ。
魂はそれとはまったく別なところでわたしを救っている。
そのことに気づくのがもっと早ければ三つ子の魂も違ったものになったかもしれない、
(それは欲というものだが)少なくともわたしの破れかぶれな行動に魂が左右され
たりはせずに、ひっそりと鎮まっていたのである。

ある直感や強いて自分を押しとどめようとする感覚にあらがえないときがある。
そういうとき以前ならばさらにつき進もうとしたのだが魂を知った今は違う。
自分を疑い、周囲を確認し、耳を澄ます。
考えるというよりも、目を閉じて耳を澄ましてじっとする。
そうやって魂の声を聞くようにしている。

人は成長して魂に近づき、そして時満ちたらからだという殻から「魂脱出」をはかる
ということではなかろうか。タマシイダッシュツセイコウ、と遺言した西の魔女へ、
東の東のコヤネノコはそう思うのでありますよ。
(梨木香歩さんの本はこれ以外もどれもステキなのですよ~)
西の魔女は、たしかに西側のそれである。シュタイナーを学ばれたということだから
源流はそこにあるのかもしれないなあ、と思うが。
うさこはわが国の古伝を学んでいるのでそこんとこが西と東、ビミョーに
異なるのである。そこんとこ、小説のすばらしさとはベツモノだから仕方がない。

カメによく尋ねて、また書く事にしよう。

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ダルダルなふたり

2010-04-14 02:44:04 | Weblog
オイラ、腹いっぱいで寝てるんじゃないぜ、ビョーキなんだぜ、自慢じゃないけど一応
言っとくぜ。ただの大食いじゃないんだぜーー。

ご心配いただきやして、まっことありがたいこってす。
オイラ、ヤクのせいでダルダルでさー、もうこーんな感じでさー、たまんないね。
おっかあがお医者の薬だけじゃなくて免疫力高めるサプリとかなんとか調べまくって
オイラのご飯にバンと入れて、お食べなさい!と迫るんだなあ、毎日マイタケ入りごはん
とか具たくさん野菜飯とか、トッピングまであるぜ、ごちそうだ。
子どもの頃に戻ったみたいだぜ、偏食だった二歳の頃以来だぜ、毎度かあちゃんの手作り
ごはんだぜ。病気するといろいろとごっつおが出てくるぞー。

でも、あっちの縁側のハジッこに寝てるあいつは別な意味でダルダルらしいぞ。



腹いっぱいなのか、シマコ。
いやー、ちょっとだけしかいただいてないわよー、あたし。
そうか‥‥、おなか膨らんでるぞ、食べ過ぎじゃないなら、もしやのアレか?
食べ過ぎの方がいいんだけどなあ、シマコ嬢もうそろそろ婆ちゃんになって日向ぼっこ猫
になったほうがいいんじゃないか。おっかさん業は大変なんだからさ。
ところでまぶたの上につけてきたダニ、それ出てきたってことは暖かくなったんだなあ森ん中も。

(シマコにもフロントライン、首筋へポタっと落とすのは猫ミルク飲んでるスキにです)

ステロイドを投薬していたときはハイテンションだったが、現在は非ステロイドの消炎剤
を服用中で、これは原因除去ではなく対症療法的な薬(バキソ)。
顕著な副作用は吐き気・下痢が伴う薬だが、今のところそれはみられない。
しかし、からだが重いらしく散歩の距離が日ごと短くなって、とても気になる。
ベイビーは基礎体力がかなり強いので闘っているのだろうと思うけれど、心配は
拭えない。もともとわたしは心配性であるので、それに輪をかけている感じで。

高齢になれば介護、たとえば車高の低い車に乗り換えてジャンプしなくても乗れるように
とか、室内で転ばないように歩く場所には敷物をとか、いろいろ考えていたが、まったく
予想外の角度で訪れた老いの時間である。
病気と老いはセット、とも考えるが、元気なまま歳を重ねてほしいという欲があった。
希望的観測、予測などあるだけ落胆が大きいという現実である。
バカだなあうさこ、ハイソウデス。

これらがすべて杞憂で終わり、再び森の道を歩ける日が早く来ますように願っている。
励ましてくださる方々にまた元気になって会えますように、と。



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魔除けの笑い

2010-04-13 19:03:06 | Weblog
ベイビーが何ゆえに笑っているかというと‥‥
2号棟の窓から顔を出し、遠方の山を撮ろうとしていたら、そこへカメが現れて、


カメラに気づいたら、かくのごとく固まってポーズを取るんだもの。

     
連続撮影機能を使って瞬間をとらえたのではない、被写体自ら静止して
いるのでそれをしょうがなく撮っているのである。
ヘンなオジサン、ではなくカメ、ではなく、先生であるが、やっぱりヘンだ。

可笑しいのでバカ笑いしながらふと窓の下を見やるとベイビーがいた。
なーんだいたの、って君も笑ってたんだねという具合。

このところ、いつにもましてそばにいるベイビー。
なんだか、くっついてくる。ベイビーは愛称なのにほんとの子どもに戻ったみたいな。
じわーっと寄り添う感に隙間がなくて、あたたかい。
これは何愛というのか? 親子じゃないし、夫婦でもないし、兄弟でもないし、
同士愛でもない。ありふれた愛でない感じの愛であるが、そうだ、仁だな。

仁に包まれれば、ツッパっていたってすぐにほどけてしまいまさあ。
笑ったあとは誰だってほっとする。
節分に豆まきなどしなかったけど、宮司にいただいた南天も山しゅうも植えてあるから
魔除けはバッチリ。
仁のバカ笑いで多少の難儀は吹き飛ばすし、小鬼くらいなら養ってあげてもいい。
角がとれるとどんな顔になるのか興味あるしな。
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夕闇で遊ぶ

2010-04-12 22:16:08 | Weblog
夕闇がおりてきたばかり、庭に漏れる灯りがネオンのない森ではことのほか
美しくて撮りたくなった。
三脚を使わないのでシャッターが降りる前に手ぶれ、光が流れてこんな具合に
なったけど、これもなんだかこの場に似合っているようでいいなと思った。

一日外で働いて、大物の植木や枯れ枝、伐採後の丸太など片付け終わった。
ガクとU氏はこのところ粥にハマっているので、何食べる?と聞くと、カユっすと
すぐに応える。芸がない。力仕事めいっぱいした後だから少しは考えようよと言い、
だったらと精進揚げを添え晩飯をこしらえている時間。


(足元がフラフラしているのについてきて、混ざっている親分である、
なんと付き合いのよい犬! 殊勝である。見習いましょうと言い合う)

頭にいっぱい詰まった人の思いも、ここで働いて(作務)いると広い空間に
吸い込まれていくんだから、それでも残ったのは妄想の滓である。
滓を集めてまたグダグダやってもいいが、そこから先の迷走はからだに悪い。
お粥さんを腹八分食べて、坊さんよりも贅沢だーとか言って、いや悟ってない
もんね、腹が減るのさねーとか言って、さっぱりと一日の務めを終え満足。
いや自己満足だが、続けてゆけばなんとかなる。なんとかしよう。
ここまできたら、後は無い(ってか)。



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ゴミか否か、愚問

2010-04-12 01:45:52 | Weblog

わかってはいたけれどベイビーの症状は今イチ、副作用を懸念しつつ投薬継続と
なった。新しい薬が効くことを祈るばかり。
診療所の待合室では珍しく他の犬たちと一緒になった。
どの子も静か。騒がしい子がいないのは揃って老犬だったからである。

待合室で点滴を受けていたのは器量よしのゴールデン・レトリーバーで聞けば14歳半
だという。慣れた様子で医者に身を任せ、クンとも言わない。注射針を刺した状態で、
ベイビーとクンクンしあっていて、いったい何を話し合っているのか、わかったふうな
顔をしてうちのボクちゃん、心なしかうなづいているようにみえたりする。

その他に17 歳の猫、13歳の黒ラブとみんなジジババ、飼い主も中年以上、みな穏やかに
処置を待っている。騒がしいおしゃべりなヒトも大声のヒトもいない。ほっとする。
生きてきたらどこかしら具合悪くなる、なったら手当する、あたりまえのことをやってる。
治療を放棄し、あげくは捨ててしまうヒトもいるからこのあたりまえは良いことのように
思われもするが、良い悪いではなく、それしか選択肢はないというのが本当である。

ペットの死骸はゴミか、という問題提起などしないでほしい。愚の骨頂である。
殺人犯が殺した死体を切り刻んでゴミ袋に入れて投棄しても、それは死体であってゴミ
ではないのと同じことだ。犬が猫があるいはその他ヒトに飼われて暮らした動物が
死んだのち、それをゴミと呼べるはずがないではないか。
かたわらで息をしていたことを知っている者にとって、たとえ保健所へ引き取ってもらう
しか方法がない場合とて、生ゴミではないのである。

日本には忠犬物語がいくつかある、といってもすぐに思い浮かぶのがハチ公と南極物語の
タロージロー(だったっけ?)だけだが。感動は語り継がれていたはずではなかったか。
犬はヒトの及ばぬ能力を発揮し、ヒトを導きもし、守りもする。
ふだんはかわいいおもしろいでヒトを癒しているが、実は見えないものを見、
ヒトには聴こえないものを聞くのであるからな。

賢さにおいて犬は偏ったヒトの脳みそを遥かにしのぐし、俊敏な足と鋭い牙まである。
遠い目をしているのが老眼とかぎったことではなく、風に乗った匂いをかぎわけ密かに
堪能していたりするのだ。

根性の曲がったヒトの心を開くのは難しい。その固く閉じた扉を蕩かしてしまうのも犬だ。
なぜなら、彼らは嘘をつかないし策を弄したり裏切ったりしない、まっすぐなのだ。
まっすぐは、神さまに近い証拠なのである。
人づきあいは苦手でも犬ならば心を開いて当然である。
その命が尽きようと、通いあった心と絆を捨てようがないではないか。永遠である。

山桜、数年前に撮ったもの↓。四月末から五月三日位までがいつも見頃だ。
いまはまだ固い蕾、淡い花など想像だにできない顔をしている。


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