想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

老犬との夏

2012-08-31 16:46:27 | Weblog
夏休みが今日で終わるが、明日の土日は休みなんだろうか?
子どもがいない我が家ではとんとわからない。
うちの子どもといえば一人っ子、ベイビーのことだが、彼は今や
老いの境を越えてしまって、この夏を乗り切るかどうかと周囲を
やきもきさせている。
活発で凛々しかった青年期、成熟期を越えて、再び幼かった頃
の手のかかる子どもに戻った。

つい先日、知人が飼っていたセッターが老衰で逝ってしまったと
人づてに聞いた。うちのベイビーと確か同い年くらいのはずで、
同じころに飼いはじめたのでよく話を聞いていた。
家族の中で知人の父上が一番かわいがって面倒を見ていると
いう話だった。日課の散歩から食事の世話、たぶん亡くなる前
の日々は濃密だったのではなかろうか。
気落ちされているだろうことを思って、まだ連絡をとっていない。


(新顔発見。「こっちきーて、ミーナ♪♪」と歌ったが来ない。
ミーナじゃねーよ、ってな顔をしていたが…かわいい)

ベイビーはよれよれになっても可愛いまんまであるが、おっかあは
寝不足で頬がこけているのである。可愛いのに台無しだ(ふふふ)
悪い想像をしないようにしているが、2、3時間置き、短いと1時間
くらいの間隔で様子を見にいくので、どうしても睡眠が足りなくなる。
そばに寝ていない理由は室温が違うから。
彼は冷え冷えの部屋で寝ている。気道を悪化させないために冷温
と適度の湿気を保つことが必要で、風邪ひきやすいおっかあは別
室で寝るしかないのである。

この夏、何度か危うい日があって、乗り切るたびに少しづつ覚悟が
できてきた。あわてまくって医者医者というのをやめた。
医者ではなく、おっかあがあーたを看ていればよし、という方へ
切り替えた。
すると、気のせいかベイビーは調子を取り戻し、ゆたゆたとだが
このままもっと生きてくれるのではないかというふうに見えてきた。

頭でっかちで考えるのはやめなよかーちゃん、と言われたのね、
ぼくはぼくでこうなんだから、ぼくといっしょにいてね、と。
できるだけ触れて私の手で治してあげたいと思う。
手をたくさん使って、そばにいたいと思っている。

彼が逝ってしまったら、わたしはがっくりときてたくさん眠るしか
なくなるだろうから、眠る時間はそれまでとっておくことにした。
疲れてはいるが、胸のうちがゆったりとして、おだやかである。
ベイビーは私の悪い癖も弱い所もみんな知っている。誰にも
見せない顔を彼はぜんぶ見てきた。彼は私の一部である。
わたしも彼の一部にしてもらいたいものだ。







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「圏内の歌」を聴きながら

2012-08-23 12:04:03 | Weblog
「圏内の歌」  七尾旅人(ななおたびと)


火曜日、ひょんなことから古事記と旧事本紀にまつわる
話をした。旧事本紀はここでは先代旧事本紀大成経の事
である。もうずいぶん前のことになってしまって、少し
恥ずかしくもあるが、先代旧事本紀大成経とその周辺と
いう文章を書いていたので、それを読まれたかと思うが
ということで話をした。

帰宅して本棚から取り出して自分の書いたものが果たして
話の通りであったか確かめたくなった。
懐かしかった。
ここでカメなんぞと私が勝手に呼んでいる源宗先生の門
を叩いてまだ3,4年の頃に知った限りのことを詰め込み
書いたものであった。よく調べてはいる、そう思ったが
なにせ若書きというか、「私」丸出しの文は当時の私の
姿なのだろう、やっぱり恥ずかしいものである。

恥ずかしいのはたくさんあって、生きているうちに恥を
かかずにすむなどと無理なことだ、私にとって。
恥ずかしいけれども、いいかげんに新しいものに纏めて
おかないと、いつまでも生きていられるとは限らない。

「圏内の歌」は福島の人々を歌っている。
旧事本紀と源宗先生のことを書きながら同時に日本という
国がどこへ向かっているのだと激しく批判した。その時
福島の現在(いま)を予想だにしなかった。できなかった。
密かな怖れを抱きつつもリアルに滅びる様がこんなふうに
来ようとはおもっていなかったのだった。
この歌を聞いているとそのことを思った。
静かな諦めのような、そして恥ずかしい気持ちと少し似て
もいる。
神の前で人が無力であることを人は知らない、知っている
つもりなだけだったと。

激しさが必ずしも強さにつながりはしない。
再生する道を探すことがこれから生きることだ。
わたしは自分らしく静かに闘っていきたいと思うけれど、
静かに急いで。









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ほんとうに見えないか

2012-08-22 14:24:12 | Weblog
山百合の白がみどりの木々のなかでひときわ映えている。
百合の根がひろがって、去年より花が増えた。
おもがけないところにもまだ年浅い細い茎が生えだし花を咲かせた。
ねえ、どこから来たの?と問いかける。
花が咲いていると、むしょうに嬉しい。


胸の内にあるものは、言葉にしないと見えないのだろうか。
ある不確かな、不穏さはにじみ出ていなかったか。
ある時を境に、それがはっきりと形になっただけではないか。
導火線にくすぶっていた火種が燃え始めただけのこと。

火種は胸の内の小さな思いつきなんかじゃなくて、
己自身の驕りや怠慢さが生み出した「思い」ではないか。
微風が動かした空気でポッと熱くなったり、消えたりしながら
けれど消えないままずっとそこにあったものだ。
風が強いと消える、一瞬だけ消える。けれど熱は冷めないまま
くすぶっている。
消してしまおうという意志が働かないかぎり温存されたままだ。



不用意に口にしたその「思い」。言うのを躊躇した、つまり隠し事だ。
人に容易に語らないようなことを心のうちに隠し持っている信とは、
正しいのだろうか。
すぐに言わなかった理由は何か?理由しだいで悪にも善にもなろう。

悪と結ぶ相手は悪でしかない。
言わなかったことを「裏切り」と言ってくれてよかったのではないか?
信頼とは互いの「信」を頼むことだ。
怒ってくれる人は、少なくとも、潔い相手ではないだろうか。
善も悪も、理という流れに乗って行き着くのだから、悪から生まれた
ものは悪でしか極まらない。

表に現れた反応と事実を見る眼。
その眼に心が宿っていますように。






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森の猫知恵

2012-08-20 10:38:13 | Weblog

まさか江戸が縁側に子どもを置いて居続ける
とは思わなかった。正直困惑しているのである。

子猫は栄養失調が原因か、目やにがひどくて涙目に
なっていたが、日に三度、縁側食堂でご飯を食べて
だんだん治ってきている。江戸も出かけもせず、
ここで寝起きしているのであるが…

ある朝、うちのベイビー、図体が大きな方のベイビー
がハアハアと荒い息をたてるので起きていくと、
廊下がなんとなく散らかっていた。
干してあったタオルが落ちていたり、ソファに脱いだ
ままだった靴下が片方だけ廊下の途中に移動している。

縁側の端のサッシ戸がわずかに開いているのが見えた。
アレ~、開けて寝たのか、と驚いたが、まさかそんな
ことはしない…はずだが。

猫が器用に戸を開け閉めする知恵があることは動画
で何度も見たことがある。
しかし、江戸と子猫が開けたりするとも思えなかった。

さてご飯たべますか、と戸を開けると江戸がスリスリ
と寄ってきて朝の挨拶というか、飯時の挨拶をして、
その脇に子猫もひっついてみゃあみゃあと声を上げる。
最初は遠くで見ていて私が引っ込んでからでないと
寄ってこなかった子猫も数日で慣れ、母親の真似を
して催促するのである。
少々迷惑な感じがするくらい、どんどん入ってくる。

クロ2、よりチビな方は臆病でいつも隠れるように
後ろにいたのだが、その時は顔を並べていた。
大小三つの身体がみな、手からお皿が離れないうちから
我先に食べようとして身を乗り出してくる。
そして事は起こった。



クロ2は小さいので隙間をかいくぐりお皿の前方を
陣取り、さあー一番だぞーと勢いづいたはいいが、
前に来過ぎて部屋の中へ入ってきた。
入ったままUターンせずに廊下を走りだしたのだ。
お皿はすでに縁側に置かれ、母猫江戸とクロ1は
黙々と食べ始めているのにチビは廊下を右へ左へと
走っている。出口がわからないのか?

座敷を奥まで二、三周して廊下の端の棚の奥に収まった。
ああ、昨夜、戸を開けた犯人はコヤツだな‥
昨晩遊んだからまた入って来たのだろうと推察した。

すでに食堂の皿は空っぽになってお替りを催促される
段になっていたのだが、クロ2はなかなか棚の奥からお出
ましにならない。放っておくと出てくるだろうと思ったが、
出ない。丸く小さくなっているのが丸見えなのだが。
逃げられるように通路を作っておいた。

猫にかまいすぎると図体のでかい方は一応ボクんち
と思っているわけで、やきもちをやく、大人げなく。
よって子猫にかまわないふりをし、ボクちゃんの朝の用足し
を終え、朝ごはんにつきあう。

そろそろと出てきたクロ2は脱兎のごとくそのまま庭を
走り抜けて行った。子猫は小さな足でよく駆ける。
江戸たちはゆったりとお皿をまたぎ、その後を追っていく。

そんなこんなで子猫の風邪もだんだんとよくなり、涙目
も回復してきた。
江戸は顔面を両手で挟んで「おにぎり」をしても嫌がらなく
なって、なついている風にみえる。
ダニよけの薬をやりやすくなってよかった。
しかし、家猫ではなく今も森猫であることに変わりはない。
ご飯たべにきているだけ、ってとこだろう。

サツバツとした東京の日々をつかのま忘れさせてくれて、
お互い様というところかな。
放射能のなくなった土と新しく芽生えた草の上でゴロゴロ
して、そこでしか過ごさないのは自然の中で生きる感覚が
研ぎすまされているからなのかしら。

人間は情報とかいうものに頼って、偽物に振り回されたりも
して哀れなものだが、森の子どもたちはいわゆる猫の玩具や
オヤツには見向きもしない。風で揺れる草の穂に小さな身体を
巻き付かせて戯れていた。
























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抵抗とパンと

2012-08-16 18:54:44 | Weblog
昨年の原発事故後に植えられたひまわりの道、今年
もまた花をつけた。
ひまわりははじけるような明るさというありふれた
イメージがついているけれど、ゴッホのひまわり、
ソフィアローレンとマストロヤンニの映画ひまわり、
どれも明るさとは縁遠い。そして福島のひまわりは
それに輪をかけて悲壮感さえ漂って少しも明るくは
ないのです、私にとっては。

土中のセシウムを吸着させるために植えたのでしょう
けれど、その効果はほぼ期待できないほど微小なもの
であることがわかっていますが、何もしないよりも
いい、そんな感じでしょうか。
放射能汚染土がそこにあるという目印のように見えて
しまうので、皮肉なものですがこれが現実です。

この別荘?の家主は何を思っているのかと通るたびに
思います。残念がっているだろうな、とか離れがたく
なんとかしたいんだろうな、とか。
悲しんでるなんて言うとちょっと軽く感じます、
相応しくない気もするのです。
悲しみには理由があって、理由ごとに深さもある。
原発事故は人々の故郷を奪ってしまった、人生の根
を殺ぎとってしまったのですから理不尽すぎて、
悲しみには猛烈な消えることのない怒りが混じって
いる、その分ただの悲しみではないのです。

周りを見渡せば以前と変わらない景色がそこにある、
けれど…と現実には変わってしまったのは否定できない
なかったことにはできない、それが事実です。
だいじょうぶ、帰っておいで、と悪魔の囁きがテレビ
から流されていますが、誰も信じたりはしません。
残っている人も戻ってきた人も、理由は行くところが
ないからであって、だいじょうぶだからなんて誰も
思ってなどいないのです。
それほど愚かなわけがなく、悲しすぎる惨い現実です。




日本という国は戦中戦後を通して、民衆を蔑ろに
する政治をしてきました。
そのことの象徴が原子力ムラという組織であり、
電力会社が何をしてきたのか、今何をしているのか
が人々の知るところとなりました。
電気がじゅうぶんに行き届き、ネオンの輝く町は高度
経済成長の証のようなもので、いつのまにか電気が
あるから豊かなのだとさえ思うようになっていました。
そう思い込まされてきたわけですが。
人々の心も物に憑かれ強欲になっていきました。
もはや勤勉な日本人というのは過去のイメージで。

原子力ムラに集る勝手放題をしてきた一握りの人々も
また日本人ですが、彼らは国を思っているでしょうか。
彼らの思う国とは何でしょうか。
彼らは自分たちが国を動かしているとさえ思っている
ようです。動かしているというのは正しくなく貪って
いるというのが実態でしょう。
国は少しも動いてなどいない、進んでなどいない、
むしろ後退の一途を辿り、腐敗し腐りかけている、
それが客観的に見た日本の現状ではないでしょうか。

古き伝えの旧事本紀を源宗先生に学び、世俗から
遠ざかる時間を作ろうと森に住んだはずの私ですが
ライフワークの釈義についてほとんどここには書か
なくなりました。
この一年、書いているのは原発と放射能の話ばかり
です。いぶかしく思われているかもしれません。

歴史を学ぶ、古(いにしえ)の伝えを学ぶのは興味
本位ではなく生きる智慧をそこに求めてきました。
そして今ほど生きることが難しく差し迫った問題と
して突きつけられたことはありません。
書斎にこもって古語とだけ付き合っていることが
できなかったのは、一つには私が未熟だからでもあり
ますが。

この一年と少しの間、現実の事象のすごさに振り
回されもしました。
いつもそうですが、この月日、この時間の積み重ね
を通して、私は古からの声をこれまでよりも一層
深く理解して聞くことができるようになる、そんな
気がしてきました。
考え続けているのですから、無駄な経験など一つ
もないのだと思うのです。

お盆が明けて再び、東京そして全国各地で反原発
の声が高まっていくことでしょう。
「抵抗」とは己自身を汚さぬことではないかと
思います。
まっすぐに正しく生きようとすることが何よりの
抵抗する姿であり、己を捨てパンのために捲かれて
しまう弱さや卑屈を自ら拒む力です。

その強さは憎しみや怨みから生まれるのではない、
自分を汚さぬようにという正直さこそが最後の砦
で、何より強固に己を守ってくれるのだと思います。

古の伝えにある教えに己とは何か、魂とは何か、
正しさとは何かが記されています。
人は食うために大きく偏ってしまい、ここまで
来てしまったけれど、今気づき始めたのではない
でしょうか。
嘘のない世界は夢物語ではなく逆に嘘で固めた世界
のほうが崩壊する、その理の流れに気づいてきたと
思います。

残骸を再び嘘で固めようにも、放射能を封じ込める
ことなど人間には不可能で、さらに嘘に嘘を重ね
もうどこへ向かえばいいのかさえわからなくなって
いる嘘つきどもの今日の行状です。
それを哀れむ余裕さえ私たちにはある、なぜならば
自分たちが間違っていないことを知っているからです。
正しいことを知っているからです。

紫陽花革命は思索した人々がただそこへ集うという
静かで穏やかな行動で、そこに暴力はいらないわけは
知っている強さではないでしょうか。
それを見て術を持っていない、集まるだけしか能が
ないんじゃダメだ、地道で気長に…結果はともかく
とか諸々、高みの見物している人々が語っていますが、
集う人々の意思は見かけより強く堅いものであると、
いつも実感します。
そしてそこで新たに勇気や励ましをもらっています。

悪政に抵抗し、国を取り戻す闘いを続けるために、
智慧を絞っていきましょう。















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老若犬猫の時間と‥

2012-08-03 09:13:06 | Weblog
なんちゃーない時間がとてもいとおしい。

江戸ちゃんの子とりあえずクロ1、クロ2と呼ばれてます。
クロ1が先にタイヤに駆け上り、一回り小さなクロ2が後を
追いますが、なかなか昇れない。
タイヤの上部で先に昇ったクロ1の目が光っているのが
見えるでしょうか、ほとんど保護色になってしまって(笑)
よく見えませんが。



うちでほとんどゴロゴロしているこちらの大きい方の黒も
たまには登場しましょうか。
こんな顔してます、あいかわらずのバッチリ笑顔(ipod撮)



生まれて間もない子と、ヒトなら80歳超えのご長寿になった
ベイビー(まだベイビーと呼んでる)親分、両方の愛らしい
波動に救われます。

親分は気道が腫れないように涼しい環境をできるだけ保って
過ごしています。
山の中も夏真っ盛りになって蒸し暑くなりましたが、猛暑の
都内に比べると夕立や天気雨、雨がよく降ります。その後は
涼やかな風で過ごしやすくなります。

さて今日は金曜日、猛暑の官邸前へでかけ、原子力ムラの権化
田中俊一を原子力規制委員会委員長にする政府案を撤回しろと
抗議してきますか。再稼働阻止も。福島を返せも。18:00~20:00










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水と緑と大地、と

2012-08-02 13:42:01 | Weblog
森に住む。ごくあたりまえにあった水と緑と土。
夏に輝く樹々。
あたりまえでなくなって、とてもいとおしいと思うが、
時すでに遅し。

我が国土は、古来、樹を植えつづけ、土を耕し続け、
人の手によって慈しまれてきたのだった。
名もなき草木の一本とて、それらに連なる命であった。



どうしたら取り戻せるか、と考えるのをやめた。
わたしたちは何をしてきたか、と振り返ることをもっと
じゅうぶんにしなければ、復興はない。



人は先へ先へと、反省したふりをして進みたがる。
進むことが良いことのように思い込んでいる。
進めばなしくずしに過去の過ちを消して上書きできると
思っている。
記憶を書き換えることもできる。

かようにできると思っていたことごとが、すべて不可能
だと思い知らされたこの一年。
これからも深い悔恨の淵に立ち続けなければならない。
急ぎ、焦ることで自分を偽っていないか。
他を欺いてはいないか。

まことあやまちを認めるとは、己を捨てたときではないか。










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「私」が壁です

2012-08-01 11:14:17 | Weblog

先週の土曜日。
草刈りと芝植えが残っているのでやり始めたらすぐに、雨が。
大粒の雨に、ワーッと家に駆け込んで、しばし休憩です。
というより雨音を聞きながら、昼ご飯へと突入。
どんなときも食べることだけは忘れない、執着以外の何もの
でもない方々が来ておりまして‥、食べることばかり‥‥。



そうめんを茹で、オサレに盛りつけました、と言われたが
どこが? と言うとへこんでましたね。
の、つもりです、と言い換えて、それより量が足りんという
オチでした。雨ですゞやかになって来たので食欲も旺盛なのね。
食べ終わっても、そのまま。
降ったり止んだりする森の庭。
午後はカメの話を聞きながら、ゆっくりと過ごしました。

教わるということ、学ぶということ、わかっているようで
なかなか新しい事を我が身へ収めるのは難しいのですね。
「私」を基準に、新しい事の選別をしながら話を聞いてしまう
ので、そっくり聞き取って考える、試すということまでに
至りません。まずは考え、つきつめ、試し、それから捨てるか
入れるかは決まっていきますが、そこまで行くのがなかなか
できない。それは「私」という障壁があるから。

私を滅すは、物事を知るためにも、対話をし和していくため
にも肝心要。ひとりよがりや自己中が目立つのは、「私」から
逃れられないから。争いと謀(はかりごと)ばかりで日暮らし、
なんて人生になってしまいます。
恐ろしいことにそれが常態化している人がなんと多いことか。

「私」を滅すは訓練すれば身につけられます。道徳心などとは
違って、脳のコントロールですから。



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