想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

どこへ向かうのか

2011-08-30 12:34:14 | Weblog
さよなら原発署名運動は第一次の〆切りが9月10日で、同19日には大集会が
予定されている。ライブあり、パレードあり、あの山本太郎さんも来るらしい。
そして、大江健三郎の発言が聴ける。うさこの仲間は平均年齢が高いからね、
パレード参加の時はゆったりだな、うしろからついてくね。
でも後方が意外に目立つんだよなあ、うさぎの耳付き帽子でも被るかな。

新しい首相が決まってもまだこの国は何一つ新しくはない。
あの大災害直後のまま、小さな幸せさえも取り戻せないままに、このまま、
原発が再び火を点すかもしれないという恐ろしい不安が消えていない。
署名をしてもらって終わりではなく、さよならを言える時まで長い道のりを
まだ歩き始めたばかりだ。
用紙に連なる名前は、ひとりひとりの善意で、希望へ向かって集まってきた。
10人分書き込める行数がプリントされた軽い紙切れだけれど、とても重い。



飽きず、倦まず、歩き続けよう。
カントリーロードの道を辿るように。
ふるさとへ、皆が帰って、花壇に水を遣り大口開けて深呼吸する朝を迎えられるように。
子どもが育っていくのを、まぶしく喜んで見守っていられるように。
人のイノチが人らしい暮らしの中にあれるように。
そして故郷を失う悲しみを、再び繰り返さないために。
善意の力がまばゆい光を放つ時が来る、それを信じて、歩き続けよう。

追記/署名運動は第二次〆切りが12年2月28日、9月で終わりじゃないから
これからでも間に合います。
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故郷に帰りたい Take me Home, Country Roads

2011-08-30 00:49:34 | Weblog
ジョン・デンバーの歌、ジブリの映画でも使われ今の若い人もよく
知っている名曲だ。
ある日、カーラジオから流れてきた。
耳に馴染んでいるけれど、昔はそんなに好きでもなかった歌だった。
なのに、じんと胸にしみる。歌声はジョンでもオリビアでもなかった。
日本語詩の、透き通るような女性の声だった。誰だか今もわからないまま‥。

20年も30年も我が家へ帰れないなんて言われたら、戦火で焼け出されたのより
津波で家を失ったのより悲しいことではないか、我が身に置き換えて考えると
混乱する。実際、混乱し、怒りをどこへもっていけばいいのかわからず悲しみを
分かち合う相手もなく、独りうちひしがれているかもしれない誰かのことを、
その来し方と、これからを思う。この歌のメロディと詞が頭の中で重なる。

大地震と原発爆発のあとは、さまざまな事象と物がそれ以前の印象と異なって
見えてしまう。
好きではなかったカントリーソングのメロディが胸に沁みたりするのは歳のせい
ではないだろう。遭遇した諸々がわたしの神経を過敏にしてしまった。



カレースパイスの味見にハマったり、窓辺に置いた小さな鉢植えの接ぎ木の
成長を毎朝熱心に見たり、小さな世界で生きている。
はい、わたしはこんくらいの(てのひら)世間でね、小さな世界でね、
と言うと、呆れられたり笑われたりする。ほんとうなのだからしかたがない。
しあわせは小さいのがいい、小さいところにしあわせがあるから、という哲学
は揺るぎなく、小さいからさらに内へ内へと向かっている。
春以降に襲った災難で多くの人が失ったのは、そのささやかさである。

仮設住宅に大型地デジ内蔵テレビがあってもお年寄りは嬉しくはない。
莫大な義援金を家電に使うという発想は簡単で、ガサツな金儲けでしかなく、
ビジネスとも商いとも違うし、もちろん支援などにはほど遠い。
人の暮らしを見ないで、会議室でそろばんを弾くのはヒトデナシな仕業だ。
(家電は日赤に集まった義援金で日赤が配布した、日本赤十字社!)
心が潤うために必要なものは金では買えないのだ。
でもおもいやる気持ちが少しあれば、金はそれにともなって動くものだ。
活かすも無駄に捨てるも人しだい、金に転ぶも救われるも人しだいだ。

「絆」とか嘘くさい、と被災地では吐き捨てるように言われる。
裏切られ続けた人の心は荒んでいく。
荒んだ心を抱いたままでもまだ故郷がある者は一縷の望みを信じられる。
土を踏んでいるからだ。

踏む土がない者は、何を信じるのだろうか。
道が続いていることが希望だったはず‥、バリケードで進入禁止になった
故郷への道。














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放射性物質の大気輸送沈着シュミレーション

2011-08-26 01:19:16 | Weblog
(去年のひまわりはおひさまの象徴だった、今年のひまわりは‥嘆きと叫び)

国立環境研究所NIESのサイトで公開されている。
3月の原発爆発事故で放射性物質はどのように大気中に散らばり
地上に落ちていったか。ヨウ素やセシウム137はどこへ行ったか。

ゆらゆらと動く、シュミレーションの図をみていると、涙が溢れた。
泣けるデータがあるとは! 生きていると想像を超えることに遭遇するのだ。
放射能が日本列島地図の上をゆらゆらと揺れながら海へと広がっていく。
動画ではなく、平たい図である。
じゅうぶんに恐ろしすぎて、日付をみれば3月。もう過ぎたことなのだ。
すでに過ちは行われた、そのことに涙は流れるのだろうか。

今日は訪ねてきた二十代の若い人達とさよなら原発の署名運動の話をした。
知らなかった、なーんも知らないです、もう落ち着いたと思って安心してた、
と言い、だってテレビでもあまりやらなくなったじゃないですか、と言った。
彼らは都心部で勤めたり大学に通ったりだ。



署名をしてくれた上でネットで用紙をダウンロードして自分たちもやると
約束してくれた。
彼らは知らなかったを繰り返し、署名は一も二もなくし、そしてコエー、
コワーッと連発した。どうしたらいいんすか、逃げられないっすよ、と。
わたしはけっこう疲れていて、1時間もしたら帰ってくれるかと思っていたら
彼らは結局用件が終わっても帰らず、ずっと原発の話をせがんだ。
知りたがったので、聞かれてわかることは伝えた。
いよいよ疲れてきたので、本を読みなと言った。

彼らは熱心にメモを取った。
テレビじゃなくてネットで検索して関連記事を見る方法を伝え、ググるには
どうしたらいいか、キーワードは何と何があるか、教えた。
若い人がとてもいとおしく思え、体力がなくじゅうぶんにつきあって
あげられないことがなんだか申し訳なかった。まっすぐで清々しい若い魂、
そのまままっすぐに、未来に希望がありますように。
帰る背中を見送りながら思った。

あの子たちにあだ名をつけるのを忘れたわ、門から後ろ姿を眺めながらうさこは
チッと舌打ちした。
ひっついているベイビーの頭を抱いて、ねえぷ~ちゃんと同意を求めた。
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不時着しました

2011-08-22 12:48:33 | Weblog
縁側のガラス戸がプツッと音をたてた。
なにかと開けてみると、トンボだった。
昆虫好きではないのでチョウチョもトンボもよく名前を知らない。
カブトムシもたくさんいるけれど、遊びに来た人が騒いでいるだけで
主はとんと興味がないままである。

飛来する生きものでわたしを喜ばせてくれるのはもっぱら野鳥で、
毎日見ていて飽きない。けれどトンボは赤とんぼが増えたね、くらい
の会話で、オニヤンマだ何だと喜ぶのは来客である。
お盆が過ぎて静かになった森の庭。雨が降り出す少し前、まだ朝日が
残っている時間だった。

ガラス戸に衝突して不時着したトンボを発見し、生きているか確認する
と、前脚をこすり合わせていた。
けれど一本の脚が曲がっているようにも見える。
透明の羽はきれいに揃っていて、どこにも傷はなかった。
衝撃が強かったためか、すぐには飛びたたないのだった。



ならば飛ばせようかと羽をそっとつまんで位置を変えた。
飛ばない。じっとしている。
人の手はかえって怯え、脅威かもしれないとも思う。
なにがなんだがわからないだろうし。



トンボにとっては飛べないにしても草の上のほうがいいかもしれないと
縁先の玉石を敷いてある切れ目の、夏草が生えたところへそっと放った。
トンボは草の茎にしがみつくようにして留まった。
見ると、上手に掴まっている。ちょっと感心し、しばらく眺めていた。

ベイビーがそばにきて鼻先でつんつんと膝をつつく。
わたしが何かに意識を集中していると、何かと横から割り込むのである。
ひっつき虫である。昆虫は興味がないけれど、このひっつき虫は好き
なので仕方がない。

頬を挟んでヨシヨシして、顔をあげて草の方をみた。
もうトンボの姿はなかった。その間、数分だろうか。
飛び立ってくれたかどうか、草の間を目を凝らして探した。
どこにもいなかった。
ちょっとほっとして、またヨシヨシの続きに戻った。

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居場所をみつける天才である

2011-08-20 12:18:45 | Weblog

居場所は簡単にみつかりそうで実はそうでもない、
人にとっては。
生きていくことの大事な要件の一つがいごごちの
いい自分の場所を得ることだ。
よければそこに長く留まれるし、居たいと思って
いてもそうはいかなくなることもある。
居ていいと言われても自分が納得できなかったり…。
あるいは移り気な性分ゆえに自ら転々としたり…。
落着ける場所とは現実の場、そして心を鎮め、又、
活き活きと生きられること、この二つがそろって
居場所といえるだろう。

いま、居る場所があなたの居場所ですか?
ほんとうの居場所ですか? 
ずっとこれから先もそこにいますか?
そう尋ねられ、ええ、ここは私の居所ですよと
はっきりと即答できる人は多くないのではない
だろうか。

なんとなくなりゆきでここにいることになった、
ここにいるからいるのだ、特段、いいわけでも
悪いわけでもないが事実いるからいるのだ、とか。
居るにしても受動的だったりするから。

居たくはないが他に行くところもなくて…と嘆く
人もいるかもしれない。
あまりに長いこと迷い続け、考えるのを止めて
しまった人、あるいは今宵、闇にまぎれて夜逃げを
企て、衝動に任せて飛び出した人もいるだろう。
落着く先のあてなどない事に気づいた時は遅く。

人間はいきとしいけるものたちを支配してわがもの
顔で地上を占有してきたはずである。
けれど個々にばらけてみると、そう自由でもなく
むしろ不自由な生き物だ。
少しばかりの摩擦でも血を流す柔かな皮膚で被われ
道具や物がなければ弱いのだった。

弱さを隠すため小ざかしく頭を使う。そして勘違いや
早とちりをしょっちゅうする。柔かなのに鈍い肌。
第六感なんてとうの昔に錆びついて、とろいのだ。
まちがいばかりで、なかなかみつからない居場所、
安らいでのびやかにいられる場所が欲しいのに。

家族も会社も地域も、地べたも、どこもかしこも
夜の大海原のように掴まるところもなく、よるべない。
それに気づくまでは、鈍く、他人を羨んでばかりだ。



雨が止んで静かになったのでふと外を見た。
シマコ姫がこんなところに座ってる! あれま!
それは親分が長いこと使ってたお布団であるよ、
もう捨てようと思って、でも捨てるまでそこで
日干しにしてたんだけど、かえってほこりがついて、
そんなんでいいの?よかったら、あーたにあげる。
犬の匂いつきでもいいんかい?

もうアタシのって顔して、ずっとそこにいるシマコ。
出かけて戻ってきたらまた座ってて、気に入ったね。
あちこちに、たぶん想像以上のあちこちに匂いを
つけ歩き陣地を広げサバイバルしてきたシマコに
気にいってもらえたら、親分も満足だろうね。



組織からはみ出す人がどこにもいる。
大きくても小さくても人が集まって一つの組織に
なれば、郷に入れば郷に従えという日本の慣習がある。
それになじまない者が飛び出していく、そう考える
のは簡単すぎて実際にそぐわない。
出る者、入る者、ぐるぐる回って組織は依然として
進路を変えることはない。

「君が辞めても代わりはいるよ、地球は回ってるし
これからも回り続け、周りつづけるんだよ」
組織のせいで出ていくというより、個人の意識が
大きな原因で、考え方次第では組織を動かすことも
できるのだ。

人より早く出世したいという望みは悪くはないが、
人より、と思い描いた段階でもう失敗している。
比べる相手は己自身でなくてはならない。闘う相手
は己の我欲、それが仕事をするときの秘訣だ。
己の不足を克服し上へ上へと昇っていく秘訣だ。

けれど自信がいつか慢心になり、仕事に活かされて
生きていられるのを忘れてしまう。
無心に仕事に没頭していたときの純粋さをつい忘れる。

個の輝きの実体は、魂の輝きにほかならない。
純粋な光だけが外へ放たれて、他人にも賞賛される
こととなり、結果、勝てる、勝たせてもらえるのだ、
他の人々に。それは正確には勝つではなく譲られる
というべきところ。
(元々、勝とうなどと驕ってはならないわけで)

組織の力を信じなくてはならない。競争に走る人は
それを忘れがちである。
組織とは枠ではなく、中身なのだ。中身とは人の力で、
それを寄せ集めたものが組織力である。
どこが欠けても歯車はうまくは回らない。
針の穴一つ水は漏れ、ネズミの穴一つで壁は崩れる。

一人の才能を持ち上げ、基盤で支えるのが組織だ。
組織をあなどり、オレがオレがとケチな考えを隠し
持つ者が増え、言ったもん勝ち、やったもん勝ちの
下品な風潮が蔓延しているので、そうかオレも遅れ
を取らぬと合点して、勘違いをする。
そういう者の行く末は、そう失敗と尻拭いのための
心の切り売りと決まっている。一度手を汚すと後戻り
は難しく、我欲に負けた人にはムリなのだ。

いやなに、原発の話、永田町の話ではなくそこらへん
にころがってる話である。
天才シマコを眺めていると、つくづくと人の愚かさを
思わざるをえないものだから。



どこにでもいて、どこにもいない、そんなふうな
のが憧れだったりしたなあ…、ずっと前は。
うさぎ穴がみつかってからというものの長いこと
ここ、一つところにいるようになったけど。



居場所だと思えるようになるまで長かったような
短かったような…。
うさぎが自分はうさぎだと知ったその日からかな、
居場所に気づいたのって…。



花を植え、水をやり、人にもやさしい気持ちを
抱けるようになった。
あんなに人嫌いで、生きるのも厭だったのにな、
あの頃、うさぎはひねくれた猫だった。
偽もの猫だから、天才みたいにはいかなかったわけだ。

どこ行っても、ここじゃあない、わたしの場所は
ここじゃない、どこか別のところ、そう思ってた。
思い上がっていた。跳ねすぎて、地を忘れてた。
上ばかりみて、つまらなくて、さみしかった…。
いつもピリピリ、ゴロワーズをスパスパ。
意固地な猫だったからね、あたりまえさね。

森全部を味方につけたみたいにしてほくそえんでる
シマコ、犬小屋の内も外も屋根も自在で、表札など
無用ってね。
君の自由さをカメは愛してやまないんだなあ。
何にも持たず、ぜいたくだなあ。
いつ死んだっていいって顔して、で、毎日元気だ。



君がしあわせでなくて誰がしあわせになれようか。
神さまはいつもみていてくれる、とてもフェアに。

追記:放射線量は地上10センチと50センチ、1mで
計測される。都会の濃度は地面に近いほうが高く、
森林や公園は地面近くと、そして樹木が茂る場所は
高度が高いほうが濃くなる。
森で安全圏は子どもの身長。そして犬猫は最も危険な
レベルに晒されている。
犬小屋の屋根1mくらいかなあ…天才天才。






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目先じゃだめですか

2011-08-18 20:58:56 | Weblog
(○○じゃなきゃダメですか-ってレンホー語をもじって)

もじりそこねているけど…いいえ、目先しかみていない、
とも言えますなあ。
目の前のことを今一生懸命なんでそれだけとも言える。

山暮らしはけっこう忙しいので、今やらねばならんことが
次々にあってそれを片付けているうちにあっというまに
日が暮れ始める。一日が過ぎるのはとても早いです。

大ぶりの雨が降ったり止んだりして、時々陽がさして、
静かになったから雨はもう上がったのかなと外を見ると
あれ陽が傾いてきたなあって、樹の影で気づくのね。

お茶なんか淹れて、ついでにシマコのミルクも用意して
一緒に夕闇の時間を楽しみます。
親分はオイラのはどこ?ってガンミするけど無視。
だっておやつばっかで太るでしょ。太るとあんよに悪い。

目先のことしか考えない、ってのは悪口、非難であるが、
目先のことしか考えていない、一見そうみえる人って実は
違っていて、そういう人ほど目の前の事が見えていないね。

そこにあることは見ない、なぜなら先へ先へと思いを走ら
せてるから。おまけに頭ん中は自分の利益(都合)にしか
気がいかないときている。事実の確認ができなんだな。

都合のいい話を作り上げて自分で納得して安心してオシマイ、
あとのことは忘れちゃって何も見ないし頭はさらに先へと、
サクセスストーリーとか宝くじの夢とかありえないことで
占められたりして、ったく不思議ちゃんの脳みそだね。
(異常ともいうけど)まずもって客観性なんてゼロだから。

人間、目先をちゃんとやれれば上等だってのがお約束。
いやむしろ今をきちんとやるから次があるし、明日がある
ってことなんだな。
義務教育、あれはそうやって退屈な日々を我慢して宿題を
こなして、学期末試験であたふたして、やっと卒業するね。
思えば、日々を送るしつけなんだね、毎日ガッコ行くって。
自分の席で時間割どおりに過ごすって今思うとすごい。
でも今のことしか考えない子どもはそれがやれるんだな。
子どもには理解しがたいだろうけど、大人になる準備だな。

最近バカを通りこして異常な人が増えてる。
あ、これ原発の話じゃないよ、けっこう一般論。
原発の工程表の進捗状況を皮肉ったりして言ってるんじゃ
なくて、本当に普通の人の生き方の話。
今年は特に平凡をやりぬくことの難しさを思い知らされ、
目の前の一刻一日が貴いと思うんですわ。

単純なことを反復してできる人を昔から尊敬してたなあ。
飽きっぽかったうさこ、いつのまにか変わって単純になり
つつあるなあ。ちょっとうれしい…、だってしあわせの
原則だから。

追伸/冷やし中華部の方々、頼んでおいたマーク入りの
Tシャツが届いてますよ、来週おいおい配りますよ。
1枚1000円也。缶バッジ、多めに注文したからあるよ。
バッグや上着につけて通勤電車に乗ろうぜ。










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治そう、自分で治せるものは。

2011-08-16 00:08:10 | 
(クール機能首巻を巻いたオヤジ、ガンバ!)

自分の体を大事に、自己管理をすることは親孝行です、
親にいただいた体を大切に健康に維持しようとするの
ですから。それはまた神さまに来ていただく身体を
作っておくことでもあります。五臓六腑がしっかりと
働いていない身体に神は働けませんから。


えーっと「かかか」とまちがえているわけではないよ、
今わたしの部屋ではカメ先生の講義の録画が流れている
からね、それを聞きながら忘れないように書き留めた
んですねー、ある人へちょうどいいメッセージだかんね。
病気は早く治そうぜー。

病気に慣れてしまってる君、それはつらいよねー、
元気、元の気をきっと忘れてしまってるんだね、騙し
騙しなんていいながら病んだ身体とつきあってると。
それは申し訳ないことだよ、親にもらった身体だかんね。

ということで最近始めたのがマッケンジー体操であるよ。
本を買いましたね、キャッチコピーは「自分で治せる」、
何をか? 腰痛ですね、うさこの持病、腰痛だー。
治療院頼みもいいけれど情けないのでいつも不満でした。
なんとか治したいと思ってきたけれど、これがしつこくて
ある原因にぶつかると必ず発症するんだなあ。

痛くて嫌だとかいうよりも、やらねばならないことを
やれない状態ってのが苦痛、申し訳なさが積もりつもって
気鬱になる、それがまた申し訳ないことで堂々巡りさ。
弱点を突かれることを知っていて防げない弱さ、克服
したいと切に思う日々なのであったよ。



腰痛関係の本は3冊目。どれもそれなりに効いたけど、
書いて人に伝えるほどの効果ではなかったのである。
それが今回はちょっと違ったね、マッケンジー体操!
えびぞりなんであるよ、前屈じゃなくて後屈。
うつぶせになって両手は脇において、それから腕を伸ばし
身体を起こす、つまりえびぞりになる。腰が痛いときは
ムリしちゃダメですよ。

両腕を伸ばしきるのが負担がかかりすぎるときはひじを
ついた状態で低めに起こしてもいい、それでも効きます。
1回10セットを一日数回反る、それだけです。
マッケンジー先生がひょんなことから発見したこの反る
方法は整体の世界の常識を覆したそうです。

いやはや、実はうさこは反るのが苦手なんですな、ほぼ
反らない、一年に一回も反らない、っつうくらい反らない
まま歳をとってきたのです。なにせ17歳から腰痛だから。
マッケンジー法はまさにこういうタイプに効果てきめん
らしいです。(個人差があるのでよく読んでからやって
下さいね)
ヨガのポーズに似たようなのがあるけれどレッスン中に
腰痛になってからは止めてしまって、久しぶりだった。

ひさびさに反ってみた結果、これがなんとまあキモチが
いい。このところ毎日幾度となく反りかえってたら、
ずっと治らなかった痛みが軽減されてきたんですねー。
なぜ痛むかということも理論的にわかりやすく書いて
あるので納得、あとは反ってみぃということだったね。

治ってくると気持ちが明るくなってやる気も出てくる
んだなあ。なにせ腰が痛いってのはほんとに何もかも
重くて苦しいものなのです。
座っても立っても歩いてもパッパッパとはいかない、
ソロソロソロでおそるおそるって具合、それが毎日…。
治ったり、またか、という繰り返しの間隔が狭まって
いたこの1年、気づくこと多々アリでした。

うさこが元気になる、いや~な予感がすると警戒して
いるそこの君、だいじょうぶ、ぷ~ちゃんと同じで元気
でももう歳ですけんね、おとなしいもんですよ~。
カレー作って喜んでるくらいだかんね。
(米とぎ汁乳酸菌は継続中でお披露目まであと少しね)

こちらの気温は平均25~27度を行ったり来たり、
東京に比べたら天国並に過ごしやすくて仕事がはかどり
ますなあ。仕事してればの話だが。






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玉ネギ40分、泣いた後にはマイウー

2011-08-11 18:46:13 | 
大きめの玉ネギだと3個、中だと4、5個。
薄切りにする。涙が溢れる。

フライパンを熱しおろしたショウガとニンニクを
炒め香りが出てきたら玉ネギをど~んと入れる。
水分を飛ばしながらしんなりするまで焦がさない
ように気をつけて炒める。
30分くらいで嵩が減り、ねっとりとなってくるが
まだ、もうちょっと炒める。小口切りの唐辛子1本
を加えてさらに、最低40分は炒める。

ネトネトになったら薄力粉大匙2杯半を振り入れる。
いっぺんい入れないこと。混ぜながら絡ませながら
入れ、なじんだらカレー粉香辛料各種を入れる。
粉っぽさがなくなるまで炒める。
この間ずっと弱火で焦がさないようにすること。
深めの中華なべがやりやすいね。



次にコンソメをお湯で溶いておいたものを加え、
量は必要な分だけだが、まあカップ5か6が目安。
これも半分だけ加え、よくかき混ぜなじんできたら
トマトを入れる。トマトは生でも缶詰でもいいが、
細かく刻んでおくこと。ちなみは今回は有機トマト
缶詰(イタリア産)が安くなっていたのでお手軽に
使用。

よく混ざったら残りのスープを入れ、中濃ソースを
小さじ1、ケチャップ小1を加える。
ローリエの葉があればここで入れ、弱火で20~30分
煮る。焦がさないこと。
味見して、カレーの味がしたらオーケーである。



しかしすぐに食べないで一晩寝かせること。
決して起こして夜中にちょい食べなどしないこと。
マイウーなのでちょい食べでは止まらなくなるから。
以上、午後は手作りカレーソースに挑戦したのである。

実は食欲がなかったので、そうだカレーを作ろうと思い
たったわけ。
カレー粉から作るのにこのところハマッているけど、
会心の出来にはまだ至ってないので挑戦なのである。
これが旨いんだなあ。
肉を使わなくてもおいしいし、食べる前に肉でも魚でも
野菜だけでも、気分で具を選んで仕上げる。

固形のカレールーを買わなくなって台所の棚には香辛料
の瓶が並んでいる。ターメリック、コリアンダー、クミン
唐辛子、シナモン、クローブ、ナツメグ、ローレル、
ジンジャー、ブラック&ホワイトペッパー、ガーリック。
そしてマサラ。おまけにこんなのがちょうどよく配合して
あるインディアンカレーの小瓶もある。

作りながら思い出したのが昔母が作ってくれていた
家のカレー。ハウスバーモンドカレーが出る前か出た後
か知らないが、家ではカレー粉と小麦粉を合わせて炒めた
ものを溶いて、煮えたジャガイモや人参や肉の入った鍋に
流しいれていた。母に念のため電話して尋ねると、なんと
味の素が隠し味だったそうな。しょうゆや塩も入れたね、
でもコショウは使ってないよ、と。

母はあれはおいしかったねーと自分で作っていたのに
言っていた。固形ルーは使わないの?と聞いても、使うよ
と言いながらカレー粉のがおいしかったねーとまた言う。

自画自賛かよと突っ込んだが、あんたたちがお代わりして
食べるからいっぱい作らないかんかったよ、と言うので
あった。玉ネギは煮崩れするから最後にね、とつけ加えた。
玉ネギは最初、が王道であるが、母の意見は実績を尊重
してそれもアリだなということにして。

本当は玉ネギを刻む前にも泣いた。
「水の透視画法」(辺見庸著・共同通信社刊)の
『「なにか」がやってきた-涙の総量そして九条-』を
読み進んで、最後の10行ほどにさしかかり突然涙が出て
止まらなくなった。
抑えていたものが溢れて、ベイビーが心配顔する位
泣いてしまった。
よって食欲がないのであった。

でももう大丈夫さ~。
明日は茄子のカレーでマイウーの予定。
明日が来ますように。





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さみしき夏休みかな

2011-08-11 17:32:55 | Weblog
(続き)
汚染物質の正体は、循環し舞い上がり雨風とともに流れてくる。
セシウムという放射性物質の性質は半減期が長いことくらいは
情報として流されているけれど、それがどこにどういう状態で
降り、その後どうなるのかを知らない人が多い。
政治家でさえそうだから一般の人が知るよしもない。
原乳や牛肉や野菜、米になれば大騒ぎするのだが目の前の今は疑わず
いつも後手にまわり、あげく犯人探しだけ盛り上がってるんだなあ。


(もう帰るの? と短い散歩に不満不満のベイビー‥)

千葉のある場所で、学童児の母である女性がみずからカウンター
で測定し、放射線量が異常に高い場所があることを見つけて行政
窓口に通報したというニュースがあった。
側溝きわの土が高濃度になっており、そばを子供達が通学路として
通っていたのである。通報後、すぐに土は除去された。

一つの事実から見えてくるもの、それをとらえる力が問われる。
目に見えないものは恐れない、このごに及んでの鈍さ‥。
逆に、見えないという不安からすべてを忌避するという感覚が露骨に
表われた京都の大文字焼きの出来事。
どちらも現実的ではなく、乱暴な感情の世界だ。
感情だけが先行し、知性と情緒が失われた世界は荒廃していく。

子どもは学校、親は勤めがあり、借金は待ってくれない日常の中の
非日常を生きているフクシマの人々。
自分ちの土地だけ掘り返しても、そのことにまったく意味がなく、
なす術はない。個の力ではどうしようもないのだ。
自治体の金庫はカラっぽなのに除染を緊急にと国会で気勢をあげる
政治家は現地には来やしないし、業者がいつまでもボランティアでは
従業員を路頭に迷わすはめになるので撤収していくしかない。
金はどこやった?血税はどこへ消えた?義援金はどこに沈んでる?

山と丘陵に風がさえぎられ、比較的線量がすくなかった風の谷で、
自分だけはまあなんとかなるなどといくらアホでも楽観してはおれず、
去年の同じ日の、恍けていられた夏休みの写真を眺めている。
今にして貴いことよと眺めている。
その日わたしは確かに幸せであったという証しだ。
キラキラした光の中に、満たされた一日を思い出すことができる。

プランター 雑草ぼうぼうと茂り さみしき夏休み

追記:外出し長距離を走った後に書きなぐり、目覚めて
読んでびっくり。読みにくい文で失礼しました!
感情的ではいけないって、自分のことは棚にあげて、
実に感情的に粗雑にウダウダ言ってますなあ、ウサポン。

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あの夏、幸せだったね‥

2011-08-10 19:02:37 | Weblog

って、去年のことだがや。
昼寝してたし‥大収穫だった‥ピーマンとプチトマト。
プランターに野菜を植えてプチプチ家庭菜園など作ったりしてたね。
毎朝サラダに使うのが楽しみで、人が来るとしつこく勧めたもんだ。
まあ、世間並ないかにもな山荘暮らし風をやってみたりして楽しかった。
「しあわせ」な時には、幸せについて語ったりせず食ってばかりいる
気がする。実感先行で、理屈はいらないからね。

今年の夏は、産地を気にしながら野菜を買わねばならんし家庭菜園
も安心できないからやらない。
だって原発事故は収束してはおらず東電と政府が工程表通りに進んで
いますと何度発表しても実際には放射能の元はそのままなんだから、
放射性物質は大気中にも(もしかしたら海へも)出続けている。
空気はタダなんて言ってた時が懐かしい。空気はタダじゃなくなった。
水もタダじゃなくなった。キレイな時に戻すには莫大な金が要るのだ。

芝生に犬がねそべる風景はいいなあ。これもこの夏は要注意事項。
犬は放っておくと寝そべりたがるが、実際にはダメダメよと促され
すぐに立ち上がり屋内へ戻される。戻ったらタオルでゴシゴシと拭く。
北国の、待ちわびた夏なのに、短いほんのひと月ばかりの夏なのにな。

たった一年前なのに遠い遠い懐かしい風景のように感じる。
あたりまえにあったはずの風景。

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ボクですよ~

2011-08-07 00:36:29 | Weblog
ボクです、どや顔じゃないです、どうやあ顔です。
ケーキはどうやあ~。ボツボツでっか~とゆるーく読んで
もらうとボクらしいです、はい。
調子が外れたところでフーッと息を吐くとお腹へっこみます。

腹筋鍛えて、いざというときのためです。
腹筋イノチです。
ウンチの出具合も腹筋と足腰のふんばりでキマリです。
ボクはこのまえ池田先生(オールハート動物病院)に触診して
いただいて、「大腸が元の大きさに戻ってきましたね、太く
なってます」と褒められましたよ。
おっかあは「はい、そうなんです、ウンチもスルッと出ます」
と威張ってて、池田先生も目を丸くしてホホォーと言われました。
ボクもまあ、まんざらでもないのでシッポでバンバン答えました。

そして寝ころんでいるボクの後ろ脚をとって、1、2、3、4と
屈伸させ「ほらこうやって運動させて筋肉落ちないようにしたら
いいですよ~」と池田先生がやってみせてくれました。
おっかあは毎晩ボクの脚をとって1、2、3、4、1、2、3、4
とやってますが、まあ遊んでるみたいにも見えなくもないです。



ひさしぶりにツーショットを撮ってもらったけど‥。
おっかあはボクに乗ってるわけではありません。

放射能と冷やし中華の話ばかり書いててボクのことがあまり
出てこないねーという声がおっかあに届いて、おっかあは
あーたは好かれちょるね、何の役にもたたんのにね、と言い
ましたよ! そうでしょうかね~。
ボクが入院してたときのことを、もう忘れたんでしょうかね。
あー、忘れた忘れた、なんのこと~とおっかあはボクの背中
をクッション代わりにしています。




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強い言葉と声で、

2011-08-05 19:30:00 | Weblog

黙ってないんだがんな、と歌うのは‥友川かずきだよん。

稲わら問題で農家をインタビューしたテレビニュースでよく流れる
「廃業せねばならんなら、先祖に申し訳ない」と話す農家の声。
辛いし、腹立たしく思うのは話の前後をカットしていることだ。
農家がなぜ先祖に申し訳ないと思うのか、原発と政府に怒ることも
せずただ申し訳ないなんて言っているわけがないだろう。
土地を汚染したのは自分たちではないものを、なぜ先祖に謝るのか。
ありえない文脈なのに、そこだけ切り取ったら報道ではなく茶番劇に
しか映らない。

農家をバカにしていると、食うものに困るぞと農家がムシロ旗掲げて
行進する図でも映してくれないか!エキストラ雇って代々木公園で。
ヤラセで作るならそのレベルの事をやってくれと思う。

もしも農家が本当に詫びるとしたら、原発推進の行政に鈍感であった
ことだろう。
他人事にし、交付金漬けになっていることをよしとしてきたことだろう。
そのことを騙されたと言い訳するだろうが、自分の罪ととらえている
農家はいないのではないだろうか。
怒りと涙しかないはずなのに、それを映さずして何になる?

本当のことを単刀直入に口にすると「言葉が強い」とかよく言われる。
経産省の海江田大臣が退職勧奨中の官僚、古賀氏に言ったそうだが、
アホくさい話だ。物事の本質を突かれて返す言葉がそれではなあ‥。
言葉が強いとか言っている側のほうがむしろ感情的になっていて
筋違いの事しか考えていない、そういうことはままあるんである。

強い=イケナイ、そう勘違いして慇懃なしゃべり方をする人がいる。
言い方を工夫しすぎて本質を違えてしまっても気づかない。
柔らかく婉曲が過ぎて相手に伝わらないのに、自分の話し方に酔って
満足している人は相手がどう思っているかなど気にしないのだろう。
謙虚さのカケラもない人にかぎってエンリョするフリをする。

伝わらないなら、では何のための言葉だろうか?
自分の言葉には魂はないのか。
このような時に強くなくてどうするかと思う。
言葉は時として武器になり、武器は闘う道具だ。
そしていま、闘う時、平和などとっくにオワリマシタであるよ。

かかか、更新ひさかたぶりにできました。
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黙ってないんだがんな、

2011-08-05 10:23:28 | Weblog

楽天ではガイガーカウンターがバカ売れしているようだ。


山百合はセシウムを吸い上げているかどうか? わからないので
触れないで、ただ観ている、山道にて。
ありがとう、咲いてくれてと立ち止まって話しかける。
よーく見ているうちに、花粉はどうか‥と食物連鎖の方へつい考えが
行ってしまうこのごろ‥。
小鳥は無事か‥、野鳥は病気になっていないか‥。



庭に咲いた大好きなギボウシ。
山吹の陰に植えてあるけど、今年は葉っぱがこんなに大きくなり
同時に花の蕾も膨らんだ。君もセシウムの具合はどうだい?
なんのなんの、呑み込んでしまってもう溶かしてしまったわって?
雨に濡れ、光っている葉が美しい。静か。
森の家にいると、「沈黙の春」(レイチェル・カーソン)を思い出して
ならない。

で、行政はというと、放射能汚染した農地を除染する試験を
農水省と福島県が行うことになったようだ。
でも除染ではなく、除染の試験とさ、遅いなあ‥。
ここに詳細があったが、物理的手法、化学的手法、生物学的手法と
三つのやり方が図表にあって、ひまわり作戦はチェルノブイリ
を参考にしたらしい‥ギョエエッ! 国の仕事にしてはなあ‥。

森から10数キロ下った民家の敷地の縁にもひまわりが植えられて
いることに気づいたのはずいぶん前で、もう背丈が伸びている。
そのあたりの放射線量は0.6μSv前後、道路の両脇から雨水が流れ
込む地形なので自力で対策を考えたのだろう。

農水省も民間のトーシローの努力レベルのことで試験なのか?
二番じゃダメですかとレンホーちゃんに言われても言われっぱなし
ではおかぬと一番に返り咲いた科学技術先進国日本、まだ健在のはず。
我が国の民間企業には新技術がすでにいくつもあって東大児玉教授の
発言を待つまでもなく明らかなのに、なぜやらないか。

簡単なこと、この期に及んで利権がらみでしか物事が進まないからだ。
企業も行政も同じで競争原理に縛られて動きがトロイ。
愚か者ども、欲にかられて目が見えず聞こえず、狂気の沙汰なのだ。
良識的な脱原発の知識人は3月から早急に除染にかかれと発信してきた。

ガラパゴス化を危惧されて久しいケータイビジネス、IT産業だけじゃない、
あらゆる方面にその古くさい思考と行動パターンは広がっていて
国の中枢は浸食されつくしている。
脱原発は脱利権構造なのだ。エネルギーの選択が問題なのではない。

黙ってないんだかんな、と東北なまりの歌声は誰のだか知ってるかい?



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国会で吠えた!東大 児玉龍彦教授

2011-08-01 22:37:59 | Weblog
110727東京大学 児玉龍彦教授15min


M君、いや、松ちゃん、急げよ。
おねげえしますだ~、除染は一刻を争うだよ。
ビジネス然り、国益然り、益もさることながら大志を叶える時、
それは今だよ~。
うさこ、毎日祈ってます。
叶ったらおおいにオマケします。
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歌に救われること

2011-08-01 14:40:47 | 

地震にも原発にもやられなかったので避難先に選ばれていた南会津が
大雨と洪水で水浸しになった。只見町も。
この森から北へ90キロあるのだが、テレビニュースで福島と新潟がと
報道されるので知人友人肉親らから大丈夫かい?という電話があった。
ノーテンキでゆるゆるな声で「デェージョーブだ~』と答えるので
えええっホント、と妙な安心のしかたをされて、オトナ声でいや本当に
こっちは降ってないんです、と言い換えた。

この森と谷間を挟んで10キロほど南は大量に降っているのだから、
天気図で列島の雲の位置など観ても詳細なことはわからない。
とにかく恵みの雨は降ってくれたが、災いの雨は降らずに済んだ。
ありがたやありがたや、ほんとにありがたや。

雨の合間にベイビーも小走りで散歩した。小走りだよ!
木曜日に打ってもらった鍼が効いていて、土日はいつも元気なんだ。
今はその疲れでぐったり寝てるけど、とにかく軽やかに走れるように
回復している。これもありがたや、ありがたや、ほんとにありがたや。
胸が詰まることばかり続いていて、ありがたいことに敏感になった。
冷凍庫に監禁された後に扉を開けてもらって毛布にくるまれ、温かい
お茶をふるまってもらったようなものであるね。
(喩えがどうもなあ‥なんだかなあ‥ユルセ、思いつかん)
ヨロコビはふわっと胸を熱くするんだなあ。

ところで、大岡信の「折々のうた」夏版をひもとき、心を鎮めた。
「入れものがない 両手で受ける」(尾崎放哉/オザキホウサイ)
自由律俳句。万葉の代から昭和まで、優れた歌を四季に分けて編纂
されているとても便利な本で、机の上に置いて時に手にとってみる。
その時々、心にかかる歌が違うが、昨日は尾崎放哉の上の句にギュッと
掴まれてしまった。

津波で町ごと集落ごと攫われてしまった岩手宮城フクシマの人が
目に浮かぶからであった。
届かぬ義援金と国家補償と、その日暮らしに支給される弁当待ち。
どんな気持ちでそれを手に受けているのだろうかと連想した。

自ら世捨て人になった者と突然の災難で丸裸にされた者は、捨てた
のと失ったのとで立場が違う。それを承知で思うのだった。
無いという目の前の現実一点で等しいことを。
現実は同じでもそこへ向ける思いしだいで生き様が変わるものだ。
成りもするし失いもする。嬉しさと悲しさに分かれる。

歌が人を救うこともあろうかと、無一物に生きた放哉の歌を詠んで
思ったりしたが、そんなアホなと反発される向きもあろうかと思う。
けれど、両手で受ける、という句の持つ意味はとても重く、深い。
明日の補償を声高に訴える感覚からは遠く隔たり、またそれまで持ち
得たモノ事への意識をも改めて問われはしないだろうか。

一方、自力で立とうと無理を承知、奮起する人の寂しい背中を温かく
押し、あるいは包みこんでくれるのではないだろうか。
捨てると得るは紙一重で、究極のところで一つとなる。
大空を覚った詩人の声をそんな気持ちで繰り返し、声にして聞いた。
本来無一物の境地は人を芯から強くし、温かな血を通わせてくれると
思うのだった。

ここは被害が少なくて済んだはよいが、周囲は生殺しの地獄図であるし、
気持ちが安らぐことなどない日々にあって、肩の力が抜けるひと時だった。


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