想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

2012ノ心象

2012-12-31 15:47:27 | Weblog
木立に靄がたちこめる。
死んだことに気づいていない亡霊たちの話、
アザーズという映画のワンシーンみたい。
でも縁側からの景色である。
ガラスを隔てて、こちらは生きていることの
悲喜こもごもを味わっている。

外より内、精神世界にいることが好きで
森の中の隠れ家はこの上なく幸せであった。
好きというのは「私」である。
「私」なので口にはしない。
よってワタクシは活動的で外向きのヒトと
思われてきた。世間を欺くつもりはないが
なぜだか、「お酒強いでしょ」とか「活発」
という印象を抱かれる。あ、「オサレ」と
いうのもたまに言われるが(うふっ)一番、
当たっていない。

マレに内省的であることを見抜かれると、
その人になつくようになる。

しかし、昨年の春以降、その幸福は暗く翳り
うさこも外へでかけざるをえなくなった。
人並みに。

原発即時停止を求め官邸前や国会議事堂前や
代々木や日比谷や都内あちこちで群集の一粒
となりに行った。
ブログには心象を書かない日が多くなった。

外へ出て、外界の情報を求める毎日。
毎日、毎日、騒音と雑音。
喜びの少ない日だった。
つかのま我が家、つまり自分の内がわへ戻り
深呼吸して、また出かけた。



立っている足元が揺らいでいるのだから
しかたのないことであった。

出てみると、想像通りに疲れた。
疲れて、想像以上の無力感を感じた。
自分にできることは何かを再考せざるを
えなかった。

かけがえのない出会いもあった。
亡くなった人もいる。
これから先、ずっと共に、互いを切磋琢磨し
励ましあえるだろう人もいる。

大晦日、一皮剥けようかと思っとります。
ではでは、皆様、美き新年を。



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争っている場合かよ、と

2012-12-25 10:06:23 | Weblog
モニタリングポストが正しいとは限らない。
この件、いろいろと前科がある文科省だかんね。
上の写真は選挙日前のだが夏より低くなっているのは
雪のせいか‥、昨年も冬は0.1前後低かった。そして
春からぐんぐん上昇、もとに戻って0.5代になった。

2011.3月から始まった放射能との闘い、冬が来てまた
三度目の春が廻ってくるかどうか未だわからない不穏な
状況は続いている。
だのに未だに空間線量の危険域をわきまえていない人が
たくさんいるのに驚く。
死にたいのか?というと逆で、真逆であるのに。

0.4μSv(まいくろしーべると)パーアワー/hだから
かけ算して24で一日分。かけ算して365日で一年。
3.504ということは年間3.5ミリシーベルト。
原発事故前は1ミリシーベルトが限界とされていた。
だから人体に著しく害があるレベルの放射線が毎日飛び
散って、飛び交って、それがずっと続いていくと。
最低でもこれだけは認識してほしいと、バカもの、いや
若者に言った。
へーーーー、へーーーーと二、三度、返ってきた。
まったくバカだ‥親の顔が見たいと口の中でモゴモゴ、
いいませんが、思います。

子が知らないなら親は知って諭すべきではないか。
子を守っていかなければ国も地も滅ぶということは
動物も知っていることであります。
本能まで退化して情報脳の肥大化。人間が一番愚かで
危険な生きものなんて、思いたくはないが現実。

付け加えると、住み続けるために除染の努力をしている
人を愚かと一言で言えないことも知っていただきたい。
愚かという前に生活する手だてを国が示さないことが
一番の原因だ。東電は避難者への救済を打ち切った。
選挙はそれを闘ったはずだったが、再三の期待が裏切られ
続けるまで元気でいられるかどうか。
住民にもわからないのだ。
しかしそれを愚か、罪と言ってしまっては心がない。



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黒き心なくして

2012-12-20 09:30:02 | Weblog
丹き(あかき)心をもちて、清く潔く斎り慎み
と続く一文。「倭姫命世記」(旧事本紀)
黒きと宛ててきたなきと訓む。
続きは‥‥
左の物を右に映さず、右の物を左に移さずして
左を左とし、右を右とし、左に帰り、
右に廻る事も万事違う事なくして大神に仕え奉れ
元を元とし 本を本とする故なり。

雪が激しく降りつける夜道を走って家へ急いでいる時
この、左を左とし右を右とし‥が脳裏に浮かぶ。
雪が必ず降ってくる。
春は廻るけれども、この寒い季節を経なければ来ない。
冬は用(まどき)という時の働きだ。
ゆるがせになっていたものを調整する時を与えられて
元へ正して春に備える時だ。



わたしは私はという言葉を極力使わないように注意
しながら文を書くよう努めてきた。
うっかりするとすぐに「私は」から始まるのだ。
「私は」から「思う」と結ぶ。それは普通に書かれた
文章によくあることだが、なぜそうしないように努める
のか。

うっかりするとそうなるというのは常に誰にも「私」
が在るからだ。私を以て生きている。
それが人のサガ、そう考えるのも普通のことだろうが、
その「私」は黒き心を生んで行く元でもある。
私に限ってと思うなら、すでに少し黒い点々に侵さた
証拠だ。
わたしは私はと書かなくてもわたしの気持ちはそこに
表れることがよくわかった。
振り返ってそこの「私」が散見する文章を見つけた時
恥ずかしい。

「私は」と書いても恥ずかしくない人になろう、とは
思わない。人とは油断するとすぐに間違う。
私に限ってそういうおっちょこちょいだとしても、
「私は」から遠く遠く離れたところに生きたいと願う。

「私は」が無い世界で、わたしはつかのましあわせを
感じる。
嬉々とし、嬉々としたあまり我に返ってしまった。
そういうことが度々なのだ。
あ~、と残念がる我を残して。

この世が朽ち果てた時、人はどこへ帰るのだろうか。
この世の証が、その肉体だと思う者は灰と化すと言う。
その灰はどこへ葬られるのか。
葬られた土の中で、「私」は終わっているのだろうか。













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政治的前衛から「猫の神様」まで

2012-12-19 01:53:24 | 



「かくありたし。かっこいい」というツイートに
曵かれて映画を観に行った。
東京渋谷の雑踏を抜け、路面店をいくつも通り越して
UPLINK (シアター)に辿りついた。

「美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/
足立正生」
前衛的映画監督を撮ったドキュメンタリー
のシリーズ第1弾として「足立正生」を取り上げていた。
同時にUPLINK では足立正生の特集企画をやっていた。
胸の底のほうに沈んでいたものが起きあがって、くるくる
と回り踊り始め、たちまち血行が良くなっていった。

政治的前衛はつまりは左翼、極左、革命という意味だと
思っていいだろう。
すべては終わり飼いならされた大人しい羊のような時代
にモノ思う年頃になり、退屈で、世の中の嘘がキライ、
アレもコレもマチガッテル、沸々とした思いを向ける先も
なかった。私は父親の話と書物から革命の2文字を密かに
意識しながら成長した。
しょせん憧れにすぎない「革命」だったのだが。

フォロワーさんがなぜ「かくありたし」と言ったのか、
「かっこいい」とつぶやいたのか、すぐにわかった。
映画の内容はここで書きようもなくて、なぜならば
それは「観念的」とフォロワーさんが言っていた通りで
あった。
頭の中にイメージを積み重ねながら言葉を丁寧に慎重に
理解しながら観るフィルムだったのだ。

わかりやすい平板なドキュメンタリーもあるが、これは
「美が私たちの決断をいっそう‥」をシリーズのタイトルに
持ってきたというところからすでに始まっている実験で
ある。フィルムに何をどう焼き付け伝えるか、映画の手法
をつきつめた作品である。解説をしようがない。
観て感性で受け止める映像、カメラを感性に直結させた作品
と言ったらいいだろうか。足立正生という存在もまた感性の
人である。
芸術=感性なのであるが、芸術と呼べないシロモノが溢れる
昨今に感性という言葉がどれほどの意味を持つか疑わしいが
見えないものを感じ取る力、美を瞬間に捉える力と言えば
いいだろうか。醜に抵抗する力でもあるだろう。
即物的思考しかしないなら理解不能、まあ、理解される必要
もないということだ。

そして、足立正生という人の言葉の一つ一つをよく理解
している作り手(監督)が、それをなぞるのではなく自らの
意志をもって新たに創作(抽出)した足立正生を映しだして
いた。
革命が目的ではなく生きることが目的、生きるとは衝動で
ある。衝動を後押しするのは美、美は命の瞬間である。
まあ、そういうことをさらりと足立さんは語っていたように
受け止めたが、肉体と魂を一体化させるとそうならざるを
えないわけだ。ああ、そうそう、と頷きながら涙が溢れた。

前衛や左翼にありがちな理屈や理論武装などから遠く
隔たった世界観だ。
胸の奥深くに刻み込まれる言葉は「気」や気配となって
注意深くないと消えてしまう。それが映像に焼き付けられて
いた。



で、猫の神様って何のことかといえば、本のタイトル。
初日に足立正生とトークショーをやった東良美季さんの
著書である。
東良さんの足立さんへのインタビュー記事が面白く、
ナニモノ?と調べていくうちに文庫化されていた
「猫の神様」に遭遇した。

表紙の、ごろんちょしている猫がうちの縁側住いの
ブチャと江戸を足したようなおかしな顔で(シツレイ)、
おまけに仰向けになって真っ白なお腹を見せているもんだから
ついさわりたくなって注文した。
後日、猫の神様はfacebookやブログで有名な存在だと、
知るに至ったが、最初は「かくありたし、かっこいい」で
始まり、猫との愛しい日々を綴った本に出会った。
選挙前の修羅の日々にほとほと嫌気がさしていた時に偶然、
手の中に良薬がころがりこんできたような二重のヨロコビで
あった。
















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犬神健在です

2012-12-11 17:53:54 | Weblog
日比谷野音へオイラも行きたい
さあ、行ってきますぅぅぅぅぅエレカシのライブ以来だわ日比谷野音なんて久しぶりだ。オイラも一緒に行きたい行きたい。連れてけ、連れてけ、と訴える親分さん。お気持ちだけ...


なつかしい写真、去年のプラカードだし。
去年の12月10日は日比谷野音でさよなら原発の集会だった。
あまりにいろいろなことがあり、今もまだ続いているので写真
でも撮っていないと忘れてしまいます。今、今、今、でまだ道
の途中なので振り返ったりする余裕はないから。

gooブログのサービス機能で一年前の記事をメールで知らせて
くれる。頼まなくてもくるある。サービスといえるかどうか、
ありがたくもないが、たまに使っている。
しょっちゅう当ブログへ来てくれている方からは昔の写真を
使いまわしてるね、なんて言われたりするのである。
まあ、そういうことにならなくもない………ね…。



写真を撮る時間がないのであります。
行ったり来たりばかりしている日々、日暮れるのが早いから
森へ戻っても外へ出ないまま翌日は仕事で明け、また暮れる。
東京の風景は撮りたい意欲もなし、では親分をとなると、
カメラを向けると斜めを向く。

この斜めを向くというのはどういう意味なのか?
こっちから撮ってくれない、あたしは右側からがいいのよ、
と女優、、いやオネエみたいな注文なのか?
たまにカメラ目線でもシャッター音とともにあっち向いてホイ
になって、結果ブレている。
大口あけて笑いながらカメラへ向かって突進してきたのは
最後はいつだったっけ。

ウツ顔をしているのである。
で、ユーウツなのかと思ってごきげんをとると、そうでもなく
アホ顔に戻ってヘラヘラする。
手足をバタバタさせて挑んできたりする、寝転んだまま。
すべてが省エネモードなのである。

彼は歳を重ねて、重くなった足をゆったりゆったりと運び
躓いたり横倒しに転んだりしながら3メートル歩く。
立ったまま突然動かなくなるときもある。
補助ベルトをひっぱっても、重いからだをふんばっている。
ふんばる力があるのかと思うが、そうではなくて私に力
が足りなくて引っ張りきれないのだった。

すべてがゆっくりになった。
ガツガツと食べること以外は。
そして焦点があわなくなってどこを見ているのかわからない
眼で、何かを見ている。
見ているとき、ちょっと小首をかしげる、あのビクター犬の
ようなポーズをとる。
それがあまりにかわいらしくてipodのカメラを立ち上げ、
構えるとプイと斜め。

見えないのかなーと思っていると、まっすぐこちらを向いて
なんかくれービームを送ってきたりする。
ああ、見えてるんだね、オヤツを差し出すと、オヤツに
気づかない……。

なんかこう、よくわからないのである。
わからないけれども、感じることはできる。
犬神、いつも守っていてくれる君は犬神だということ。
唐突に羽交い絞めして、好きだよーぷーちゃーんと
叫んだりして拝んでいる。

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