想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

春の雪の朝

2010-02-28 17:01:07 | Weblog
前日はあたたかな陽射しで、猫もこの通り。
親分の場所を陣取って堂々昼寝、しだいに油断して伸びていく。
親分は屋内で昼寝、猫に譲ってといえば聞こえはいいが、争いが
苦手というか、すぐに引き下がるのである。



朝は窓から外を見てびっくりした。
昨日は雪が融けてどろんこの土が見えていたのに。
木々も綿帽子をかぶって、初雪の日みたいな驚きだった。

ベイビーはまだ医者にみせていないのだ(休診のため)が思うところ
あって薬を買いに走った。その薬、効いたようで少し落ち着いている。
ベイビーが子どもの頃から知っているペットショップの姉さんに相談
してアドバイスしてもらったのである。その姉さんはベイビーのことを
りんご頭君と呼んでいつもチビのベイビーをからかっていたのだが、
今や11歳を過ぎたと聞いて、それはね、あのね、と親身になってくれた。
医者よりなんだかありがたい。それに「大学病院はサンダーちゃんは
きっとストレスになるよ、それで病気になる気がするから止しなさい」
と教えてくれた。
それもそうであるなあ、と迷ってしまう。
約束の水曜日まで日があるのでそれまでにさらに落ち着いてくれれば
と様子をみているところ。
母がブログで知って電話をくれたのだが、なんだか人の子が病気と
いうより慌てているような具合で、心配をかけて悪かった。

ベイビーは犬であるが、かけがえのない存在であることを知ってくれて
いる人には歌っているわたしが何を思っているか、バレバレであった。
ご心配、ほんとうにありがたく胸がつまる思いである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どこ吹く風

2010-02-26 00:03:53 | Weblog
シッポぱんぱん、いたずらな眼で誘ってる。
おっかあはあんたの病気を心配で心配で心配でさーーー、さっきからネットで
調べまくっているのにさーーー、どこ吹く風さねえ、あんたってば。

下痢と下血について調べるとけっこう情報があるのだなあ、これが。驚き。
これまで病気もせずにこれたので調べた事がなかったのである。知ってびっくり。
うちのベイビーの心配なんか比ではない重篤な症例がいくつもあって、それに
比べればまだちょっと安心という、なんともまあいいかげんな安心を無理矢理
してみたりして、しかし気疲れしてしまった。
それで、さっきからカーペットの上に転がってこっちを見てヘラヘラしている
ベイビーといっしょにゴロゴロしたり、ゴシゴシとマッサージしたりして遊ぶ。
つまり、わたしがベイビーに甘えてるんである。

かーちゃんはしんぱいなんだよ~、おねがいだから~、びょうきしないでね~
と歌う。
ベイビーはぐぐぐぐぐと変な声で喜びを表し、シッポばんばんして笑う。
かーちゃんはしんぱいなんだよ~、おねがいだから~、おしえてね~、
どこかへんだったらおしえてね~、おねがいだから~、げんきでいてね~。

いいかげん歌ったり、さわったり、ころがったりしあったので、ベイビーは
起き上がりソファへ移動。ほんとは眠たいのに、こっちを見てシッポばんばん、
つくづく愛想のいいヤツ。

心配の原因はかかりつけ医が「うちでより大学病院へ行ったほうが」と言ったからで
冷静に考えてみると、それだけでビビることもなかったのにかなり心配した。
来週は紹介状をもって獣医生命科学なんとか大学病院へいっしょに行く予定。
その前におなかの調子がよくなりますようにーー、神様おねがいしますだーー。
アホなかーちゃんでごめんよーー。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだまだ走れるべ

2010-02-24 18:52:06 | Weblog


どどどどっと根雪の上を駆けてくる。まだ走れまっせ。
前脚にガタがきはじめたけど、まだ走れまっせ。

ジム通い、の代わりでっせ。
幸せでっせ。

ってここは東北だべ。でっせじゃなくてだべ、だべ。
おいらや青山育ちのシチーボーイだかんな、よくわかんね(このわかんねは濁った発音)
十分になまっているのに本人は気づかない東京弁のつもりだべ。
そんでここいらで人の話がよくわかんねー。ステイだか捨てだか、すた、だかわかんねー。
だからおいらは静止を聞かずに走るだべ。

地元のおっちゃんがうさこの真似してステイというが、ちっとも止まらない親分。
まーあの犬さ、バッカだなー。とおっちゃんが言った。
‥‥‥、うさこはモゴモゴと独り言、なんでベイビーがバカなのさ‥‥、
あの子はアホだわさ、親に似てりっぱなアホ犬なのさ、天下一品アホなのさ、バッカじゃ
ねーよー。

追記:えーっと、この場合アホの定義はなんだー?と尋ねられたので、
お答えするぞ。
アホは脳みそ使いません、ちなみにつバッカは脳みそ使えませんってことで。
ベイビーは第七感の犬神なので脳みそより直感なのだー。
うさこはそもそも脳みそカラカラ音がするので直感なのだー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聞くべし、見るべし

2010-02-23 01:17:40 | Weblog
正法眼蔵随聞記一の五 に曰く。
古人云く、聞くべし見るべし。
耳で聞け、眼で見よ、とは何のことだろうか。
それに続く言葉は、「きかんよりは〈経〉べし、見んよりは経べし、いまだ
経ずんば見るべし。いまだ見ずんば聞くべしとなり。」

仏教は作法に始まり作法で終わるというところがある。
これなど神道行事の作法も同じと思われるかもしれないが、仏教の作法はすなわち
修行そのものに作法を修することが含まれているので神道とはまったく意味が違う。
神道では厳密にいえば作法に重きはなく、人同士の了解のためにのみ形がある。
仏教では心を得るために形を修める。
それが〈経〉〈聞く〉〈見る〉という言葉で表され、行って知ることの大事さと
それ以外に方法がないことも〈べし〉で表されている。

心心心がわからないと理屈を百万遍言い、聞きしても、心はつかめない。
ふれることができない。
経験する事以外に方法はないというのである。
その入り口に作法という修行がある。

作法を美しく一糸乱れずして修めたからといって満足しているなら、それは
いやらしくわざとらしく映るであろう。また人の心を魅了するものにはならない。
人の心を打たないのに、神仏に通じるわけもないのである。
声しかり。音しかり。

なにもわからなくてもいいから真似をして、ついていく。
真似しかできないことを承知して必死に真似ているうちに、真似ている己を
忘れる。
己を忘れなければ我が出てしまい、師を真似ているにすぎないのに我も我もと
勘違いすることになる。
そこまでで終わりというのが凡人コース。

真人と書いてかんつびとと詠む。かんつびとは、人を真似ず神を真似る。
神の五心を真似て、人の五常を抱き、五行を勉める。
つとめている意識など露ほどもなく朗らかであるので、人は真人を前にしても
それと気づかぬほどである。
うさぎがカメなどと呼んでいるので、どんな種類ですかなどと聞く人もあり。

シマコ、おろかびとを操り今日も馳走に舌鼓。おぬしは今どこらへんにいるんかい?



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひこうき雲

2010-02-21 13:57:37 | Weblog
今年のスキー場は天然雪ですなあ、雪はあるのに客が少ない……らしい。
白銀の山のいただきをここから眺めて、裏山の坂道をそりで滑るのである。
ここは賑わってます~。



ひこうき雲、冬の晴れ間にうっすらと線を描いて、すぐに消えた。
あ、ひこうき雲!するとユーミンの歌を思い出すんだなあ、これが。
歌の旋律の最後の方だけ頭の中で流れるんだ、ピアノで毎日歌ってた
もんなあ、勉強もせずに。
昨冬、ユーミンのステージをWOWOWで観たけど、なんの感動もなくて
ああ、ユーミンも歳取るんだわなあと思ったり、でもディーバなんだなあ、
とか思ったり、けれどひこうき雲を見て、あ、と思うときのほうが
ユーミンの歌声が響いてくる気がする。

目の前にあるものよりも、形のないもののほうが数倍も数十倍も
人を惹きつけ、忘れられないものになるんじゃないだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奇跡の犬と暮らすこと

2010-02-20 12:25:48 | Weblog
犬雑誌も犬種で特化してきているけれど、ラブラドールレトリーバーは
早くからあって専門誌にベイビーはモデル犬として登場したことがあった。
当時まだ生後8ヶ月で図体はけっこうデカいのでほかの犬種だったら成犬
並である。
でもベイビーは調教師にしごかれる日を送った後、ようやくうちへ帰って
きたばかりの頃だった。
甘えたい盛りである。遊びたい盛りでもある。
広告用の撮影をするカメラマンは女性であった。彼女は犬を撮ったことが
あるという話だったが、動き回るベイビーをとらえることができず苦労
した。
わたしは覚えたてのサインでベイビーにシット、ステイ、ダウン、と
大声で命令した。スタジオは二、三人の女性の大声が飛び交い重なり
騒々しかった。

掲載された写真のベイビーは仏頂面、というより緊張でこわばった顔で
あった。知る人みなが、あ~、かわいいー載ったんだー、よかったねー
とか何とか口々に言ったのであるが、すこしもかわいくなかった。
かわいくねーよ!わたしも仏頂面で答え、あることを決めていた。

ベイビーは青山四丁目長者丸通りを散歩しご近所さんに愛を振りまいて
おー、かわいいなー、おーすげーねー、カッケー(これはエイベックス
周辺で踊ってたアンチャン語)とか賞賛の言葉を浴びながら育った。
犬の話を書かないか?、犬出してくれない?、犬と別荘の企画どう?
そういう話を断り続けて、わたしのかわいいベイビーは育っていった。
わたし以外の周辺の人も彼の丸く大きな波長に触れるととたんに顔を
緩める。喜び犬として活躍する日々を送った。

守ってきたのは犬を商売道具にしないこと、決めたことは崩さなかった。
ベイビーが6歳くらいになって本当に落ち着きと大人の貫禄を感じさせ
てくれるようになった頃から、ネットやメディアで犬猫ネタが増えて
きた。犬出さない? も変わらなかった。そりゃ仕方がない、だって
ベイビーはハンサムだかんなー、親バカじゃないぞ(飼い主は皆そう
言うもんだけどね)

かわいいとか、すてきとか、たのしいとか、しつけがどうの食事がとか、
スポンサー付の記事の内容は限られている。
でも読む人は犬のかわいさにひきつけられる。
暮らすというのは「かわいい」だけのことではないはずなんだけど、
それはあまり伝えられていない。
例外的に初期の富士丸君はワンルームでけっこうデカイ犬がどういう顔して
暮らしているかを伝えて興味をそそった。飼い主の謙虚さや素直さも
犬と融けあってたし、でも結局、富士丸君は飼い主を助けていたなあ。

犬と暮らすことのほんとうは犬と暮らしてみなければわからない。
その素敵さはちょっとやそっとの言葉では伝えられない。
それに犬だって人を選ぶんだってこと。鈍感な人間に犬が素直に本音を
吐露してくれるわけがない。
かわいいーだけしか言わない人間に犬がほんとうに思っていることが
わかるわけがないのである。

わかろうとして暮らしてきて11年半が過ぎた。先日、昔撮ったビデオの
中に小さい小さいベイビーが眠っているのが数分だけ映っていた。
ごろ、ごろ、と時々寝返りをうつまんまるのおなかをみせた姿。
それを見たカメがその後ブログで最近の写真を見ての感想、「こいつ、
ごっつくなったな。ギャップありすぎ」と言った。
そうそうほんとによく育った。
そしてすっかり大人になったわたしの相棒。ハンサムな青年から渋い
オヤジになった。グッとくるねえ(飼い主は皆そう言うらしいけど)

一日が過ぎてまた朝がきて、一緒に散歩するとき、一緒にいられて
よかったね、今日も一緒だねと思う。
思っていると、ベイビーはふいに顔をあげてこっちを見る。
へらへらと笑いながら、わたしを見る。そして目が合うとまた前を
見て歩く。トットットッと足の運びが気のせいか速くなったような。

森の家へ戻って、シマコと縁側で競いあって「なんかちょうだい」の
波動を放ち続けている。
一日一日、この時間を抱きしめて、離したくないと思う。
思いながら、この執着から離れねばと考えたりする。
いつかこの日々を懐かしんだときに、思い出せることがたくさんある
ように、いつでもポケットから取り出せるように、もっといえば
すぐそこに君がいるように融けあって過ごしていこうと思っている。

タイトルの「奇跡のいぬ」とは本のタイトルである。
グレーシーという名の大型犬(グレートデーン)の物語(2001講談社刊)
だが、この本を買ったのはベイビーが二歳の時だった。
生後半年くらいから食べていたドライフードを急に食べなくなったのだ。
困り果て、この本に倣って全粒粉小麦粉でクッキーを焼いて替わりにしたら、
ガツガツと食べたではないか。おーーー、全部食べたねーと喜んで毎日
焼いた。仕事が忙しかったが、ベイビーがご飯を食べないことはもっと
大事件で大事なことであるから、へたくそなクッキーを焼き続けた。

クッキーにはニンジン、ホウレンソウなどを混ぜたが、ニンジン入りが
特別気に入ってよく食べた。
病気を心配していたので、食べてくれることにとても安心した。
でも、なんでも餌を与えておけばいい、病院に連れていけばいい、という
ことではないことをそのときに知ったのであった。
成長とともにフードを変えながら、様子をみながら選んでいる。
今ではおやつをもらえるかもしらんから、これは食べんでおくんだもんね
というワザを覚えて食べ残ししたりする。食べ残すので心配しておやつを
あげるアホなおっかあをよくわかっているのである。
残した分はわたしの留守中になくなっているので、ちゃっかりしている。
(もちろんそれを見抜いて次に減らされているのはまだサトっていない、
こういう攻防を繰り返している)

飼い主にとってはどの犬もほんとうはみな「奇跡の犬」である。
奇跡が起こるかどうかは、犬のほうではなく飼い主の感性にかかっている。
うちのベイビー、一生が奇跡の連続であるように。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前を走る車 ガシつながり空耳アワー 

2010-02-18 14:07:09 | Weblog
あれ、レガシーだ。あの、ほら、ブルース・ウィルスがおっさんぽく走ってるCMの。

え、何?

だから、レガシー。あ、GTだ、レガシーGT。

ああ、エガシラ?いいねーエガシラ、江頭GT! イケイケってか、江頭!

ふへー、江頭~(ガハハハハハハ、うける~)江頭だ~、そうだエガシラGTだ~
そっちのほうがかっこいいよなー。
レガシーやめやめ、エガシラGTで行けーー。
ブレーキ効かない江頭、止まることを知らない江頭~GT、
ぶつかったところで止まるだけ~、ヘイ江頭、転んでもすぐ起きる~。
レガシーよりエガシラーGT、GOGOGO~。

と勝手なことを言い合いながらスバルの後ろを走っている車中の二人。
その後、エガシラはエラいと江頭をなぜかほめまくりながらスバルを追い越しました。

ところで今どこでなにしてるんだろ?江頭。
たぶん、営業に呼ばれてるんじゃないか、けっこう人気者なんだよ江頭は。
へー、江頭ってある意味カミサマだねー、
ニッチに降りてきて遊んでるカミサマ。強いねーアホは。
あんたもな~。

と、ただの語呂合わせだけで盛上るアホ話であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師なくして歩めず、だな

2010-02-17 00:56:19 | 

キーボードで仮名入力をして変換という日々、どんどん漢字をかけなくなっている
のを痛感し、うろたえる。書かないと忘れるということを我が身で知る。
されどノートを取るとき、漢字を書くのがすでに面倒になっている。
なんか、わたくしの字は、アレです、アレ。速記者の記号みたいで他人にはわからない
びみょうな崩れ方をしていてさながら暗号のようである。
自分がわかればいいのよ、って自分でもうちでノートを取り出して、え、なんて書いた?
ってボーゼンとし、ボイスレコーダーを必死に聴いたりすることしばしばなのだから。

これじゃいかんなあと思いながら頭をよぎったのは‥
書道の楷書で筆順をしっかりと教えられた大昔のことである。先生は父だった。
そういえば、歴史も父に教わった。父の思想をもいっしょに受け継いだのだと思うが、
すべてを理解したかというと自信がない。
父ほど生きていないし、父ほど歩いてもいないから。
それはもう10分の1も歩いていないだろうと‥反省しきり。たくさん教わったのにと
思う、反省しきり‥。猿みたいだ、いやお猿さんと比較してはお猿に悪い。

父亡き後、それに代わるものが本であった。先生と呼びたい先生に出会わずセンコウ
なんて言ってたアホだったので本に頼ったわけだ。
そして後年出会うことになった師カメ。ほんものの先生にめぐりあった。
学びを深めて行くことができるしあわせもんになった。でも、怠けてて反省すること
しばしば。でも明るい。それは先生と呼ぶ人がいるから。

生きる道を迷う、それが道に迷っていることなのだと知るには道があることを
まず知っていなければならないが、道を示してくれる最初の師は親だろう。
先生がいることだけでわたしが明るいというのは、それは闇にいたから。
道しるべのない道は歩こうとしても迷い道なのである。
そこをうろうろしつづけた過去に孤独の辛さを味わった。
だから先生がいて、嬉しいのである。
怒られてもいいのである。
(いや、出来のよくない弟子なぞ、先生には迷惑であろうけれど)

筆の握り方、姿勢、筆順が違うと叱責して教えてくれた父は独学の人で、十五歳から
親元を離れて一人で生きてきた人であった。
そこんところが、師カメも同じだと知って大変に驚き、そしてなんだか納得。

親に頼ってガッコに行って就職世話してもらうのをうらやましがる必要はない。
だってその後に道に迷うのが凡人コース。凡人にルビをつけるとオロカビト。

ブログをみつけて、カメって何だ? 誰だ? と尋ねられるという時代だ。
すんなりとはいかなくても、迷った後に道に出会う、というのでいい。
本で学べるのは道があることを知る事、歩き方までは本ではわからない。
学べないというより読んだだけではわからん、理屈ではなく実践だから。
人生はハウツーではないので自らの実践と、実践を深く覚った人に教えをこう
しかない。

シマコと親分は互いの距離をうまく以心伝心している。
シマコのママのミャアちゃんはシマコにこの場所をしっかりと教えて行った。
へへへへ、親分はというと育ての親に似ず、賢い。
この件に関しては親ばかである(文字通り親のほうがばか)、親分にも教わって〼。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪粒 マイファニーバレンタイン

2010-02-15 02:01:51 | Weblog

雪でうもれて、どこを撮っても同じに見えて変わり映えしないような景色に
なってしまうこの季節、花がないからなあ。
でもアングルを変えるとちょっと違った眺め。

雪のツブツブが光を受けてキラキラ、宝石を散らしたように綺麗なのは午前中の光の中、
もう午後三時だから陽は西に傾きはじめて雪は光っていない。
すっかり暮れて、庭の灯りが灯ると、またキラキラと輝きはじめるので、それまでの
地味な時間、光らない雪を撮ったなあ。
心のなかではキラキラしている、雪のつぶつぶであるぞ。

土日は静かな午後ではなかったので、くたびれました。
夜中まで、くたびれました。
夜明けまでの数時間、ベイビーのいびきを聞きながら自分を取り戻すとするか。
夜更かしの友は、いびきにかぶってチェット・ベイカー chet bakerの歌声。
マイファニーバレンタインMy Funny Valentineを久しぶりに聴く。
十数年ぶり!だろうかなあ、なんて声なんだろう!
すてきとか書くと陳腐で、で、なんて声! としか言えないわたし。
いびきも彼の声も、静かにしあわせが満ちてくる感じ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日射病のライオン

2010-02-14 13:06:01 | Weblog
田原坂に降っていたのは、雨であったーー。
雪は降る降るジンバハヌレルではないよ、雨はふるふるだろーー!
そうスルドイ指摘をしてくださったのは、もちろんカメである。
あれ~~、そうだった、どうして?
「おめえさんは日射病のライオンだな」と言われてしまいました。


言われてみればそうそう、田原坂は九州、熊本だけんね、雪は
めったにふらんとよー、雨が多かとよ、そうそう、と気づく。
で、なんで雪は降る降るに反応したのか、脳のヤツめ……の答えが
日射病のライオン、である。

日照りのサバンナをライオンが歩いている。
木陰を求めて歩いているのではなく、木立から離れた方へと歩み
続ける足取りは、こころもとなし、ふらふらしている。
急に立ち止まると方向を変えて、自分が食べ残して獲物の肉に
群がるハゲタカに目を止め、近づいて威嚇しはじめる。
ハゲタカは、これはこっちのもんだ、なんの用だと反抗したいが、
ライオンには敵わないので、あきらめて飛び立つ。
ライオンは食べるでもなく肉の前にしゃがみこんでいる。

そこへやってきたのがクロコダイル、大鰐である。
大鰐対ライオンの決闘が始まる、がしかし、ライオンはなんだか
朦朧としていて勢いがない。かろうじて威嚇する。
肉をはさんで対峙する持久戦となるが、日照りはまだ続いている。
鰐の体から水分が抜けていくのとライオンの朦朧状態とどっちが
先にギブアップするかの戦い、当然、そこは鰐の負けであった。

ライオンは鰐を追っ払ったまま、そこに座り込んでいる。
もうほとんど、ライオンは動かない。
そしてサバンナに容赦ない陽射しを投げかけていた太陽が西に傾く頃
ライオンの熱した脳天がしだいに冷えてくる。
え、俺? 俺さま、ここで何してる? というわけである。

日射病から回復し、正気にかえったライオンは木陰で待つダーリンと
子供たちの元へと歩いて帰ったんである。
うさこは一日たって、田原坂は雨だと知ってびっくりしたのである。
冬でも日射病である。
ブログを読まれた方、お気づきだった方、そのまんま深読みされた方、
どうも失礼いたしました!(笑)

ライオンは猫科、シマコといっしょです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪は降る降る‥28年前も

2010-02-12 11:00:11 | Weblog
縁側で雪見はちょっと辛すぎて、寒いのなんのって凍りついちゃうよ。
♪ゆーきーはふーるー

この後に「あなたは来ない~♪」とくればシャンソン。
この後に「ふる、人馬は濡れる♪」なら、なんだっけ? 越すに越されぬ田原坂だっけ?
田原坂なんてなんで覚えてるんだろ? 
実は、雪は降ると書いたら、後者の方が思い浮かんだのであった。
ははははは、どうして? どうした? わたし‥‥だいじょうぶか?
自分を笑うのはしょっちゅうだが、どうも頭が混乱しているようである。
アホな若者を電話で長々と説教したせいであろうなあ、ワカモノメ(同義語馬鹿者目)。



親分はほとんどこの定位置、いろりばたで グースカするしかないので雪が降ると退屈だあ。
オトナは雪かきやら食糧備蓄対策やら忙しい(ってホンとかよの声‥‥)
28年前の今日も大雪で、東京新宿西口駅で大きなボストンバック持って雪見てたのが、
アタシだよ! 中央線に乗り沿線の家々の屋根が白い雪で被われていて、不思議な気が
したのを覚えているけど(東京と雪が結びつかなかったから)、アホな若者もまた今日、
雪の日に引っ越しするんだなあと思うとなんだか縁を感じる。
同じ苦労をするんだろうなあという予感。
アホの共通点である。苦労して当然なのだよ、どんどん苦労してしごかれなさい、人を頼る
その悪い癖を直しなさい!
と昨夜は延々とエンドレステープを流していたのであった。
聞いていなかったかもしれない、あのアホ‥‥。大丈夫だ、聞いていてもいなくても
天から苦労は降ってくる、我に七難八苦与えたまえである。
そうやって自分を知り、生きる力もついてくるってことなんだぜーー。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝6時56分

2010-02-11 02:32:57 | Weblog
まだ朝日に染まったままの東の空を背に走る、朝っぱらから飛ばすなあ。
君は老人、いや老犬のはずなんだけど‥‥いやまだまだ、イケル?




そして8時56分、すっかり明るくなって、君は二度寝の高いびき。
いいねー、自由放埒で。
人間は歳をとるとそうは眠れなくなるらしいけど、君はよく眠る。
寝ている時間の分長生きするという説を信じているので、君の寝顔をのぞいて
安心するのである。
ほんとに、ほっとするよ。
ジジイになってもそばにいて、ぐだぐだとしていておくれ。
前足でパソコンに向かっているわたしの膝を叩いて、もしもしと催促するのも
メーワクだけどさ、ユルス。まとわりつかれてナンボですから。

ねえ、どんな夢を見てるのさ? おせーろよー、夢のなかにおっかあはいるのかい?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月を詠む、明恵上人

2010-02-09 12:00:00 | 
(1月に撮った月)

花鳥風月、風雅を詠むのが歌の世界‥‥。
と思いきや、それは俗人の考えにすぎない。風雅に遊ぶのは俗世のこと。
西行も明恵上人も歌詠む心について書き遺されているが、遊戯(あそび)を戒める
気持ちが強く、歌が風雅に流れるのを嫌っておられた。

月を愛で、月を詠むのを粋なんて言ってるのは俗っぽいんである。
そんなこといっても俗世に生きてるんだもの、抹香臭い世界にいるわけじゃあるまいしと
言われるかもしれないが、それでは理想が低すぎるというものである。
歌を詠むというからにはその高みをのぞいてみてごらん~、である。
それに俗世で俗っぽいって言われる日にゃそれは低のつく俗である場合が多いんだな、これが。

歌に限らず、花も茶も書も、すべて古えの人が道とその下につけたのはなぜだろう。
道であるよ、道。つまり理想を追求しているわけで、高みがあるわけで、先の先があるわけで。
先っぽの方へずーっと進んで名人になると、たまに「神業」とか「生まれ変わり」とか
言われるようになる。
人の「私事」を捨てきったところに降りてくるように、顕われる形。その瞬間を待って
歳月を惜しみなく費やすのである。
そしてそのうち、待っていることも忘れてしまう頃にほんとうの月が見えてくる。
明恵上人は闇の中に月の光ありと語っている。(闇夜のほうが美しいと)

歌もなにも、神仏と切り離せないのであるよ、俗っぽい世界に生きていればこその理想。
すべての事象のなかに心を見いだす、その心を照らすものがなければ、自己完結で
言い換えると自己満足なんだから塵である。
理想もなけりゃ、この塵溜の世間にどうして息していられるかってことざんす。

そこいくと、現代人のリソウ、低くなってなんでも買えると思ってるんだからバカらしいなあ。
山ん中で月みていると、高山寺で月観ていた明恵上人を思い出したとこでした。
塵にも五分の魂。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バーチャルリアリティと脳と現実

2010-02-09 00:11:13 | Weblog
映画アバターはまだ見ていないが、映画館では全員が3D眼鏡をかけているんだろうか?
観ている人々の様子を暗視カメラでそっと撮影したら面白そうだ。

バーチャルリアリティという言葉、もうすっかり定着した。
映画マトリックスやゲーム、あちこちに溢れているから普通の大人も知ることとなった。
言葉だけでなく現象も事実も商品開発、消費活動、さまざまなところで「仮想現実」は
生活の中に入り込んでゲームの世界だけのことではなくなってきているし、応用技術は
多岐に及ぶ。
視聴覚に訴えるこれらの技術に脳は簡単に屈服する。いや、慣れる。
そこだけとらえると脳はそれほど賢くないシステムなんじゃないかと思うが、言い方を
変えて気ぃ使って言えば脳は柔軟に適応するともいえる。



自然の色を日々目にし、肌に感じていると、まがい物には心動きガタイ。
理想の花の色はなに? という問いをカメがしていた。
理想の色をそこに示せと言われて、はいコレですというより、たとえば白い花びら、たとえば
百合の花と例を挙げる。それが理想か? と再び問われると、絶対的に百合とは思えなくなり
首をかしげたりする。

理想は示せない。理想は描くものである。理想は掲げ、追いかけるものだ。
それは観念の中というよりも限りなく魂に近い領域の、心の深いところに置いてあるもの。



理想が強く高みにあると、バーチャルリアリティを脳で受け入れても心はついていかない。
楽しくはない。
技術開発者はこの限界を越えることをおそらくは目指していることだろう。
心に迫りたい、高みに昇るとはそういうことだろう。
それを一つ間違えると神になりたいという傲慢のギリギリに行くのであるが、
なれやしないから目指すのはかまやしない。
心と身体の統合を仕切っているのは脳ではないということにいつか気づき、そこが限界。
その限界を越えるのは個々人の努力という才能だ。
ここに「理想」というワードが必要になってくる。
理想低きものは飛べない。

雪に被われた笹の葉を目にしたとき、きれいだった。
撮りたいというのは、美しいと思うからだ。
美しいと感ずる心があって、次に技術が必要になるんだな。
この写真、実際よりぜーんぜん美しくないんです、ほんとうはもっともっと
すてきでした。
よって想像してください、ほ~ら、見えてきたでしょう、雪の冷たさも‥。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪の家路

2010-02-07 00:19:52 | Weblog

コートを着ても寒くて、あんまり寒くて、いったいどうしたんだと思ってた。
28年ぶりの寒波だと聞いて、なんだか安堵した。
みんな寒いんだーー。



雪に降り込められる時、森の中にひとりでいることもあるんだけど、
ずーっと前のこと、東京から来ていたいい歳の男の人が「ヤバイから山降りよう」と
焦っていたことを時々思い出して笑っちゃいます。
別な人はちょうどこの写真あたりのところで「もう前へ進めないよ」と言って車から
降りて想風亭まで歩き出したことがあります。
わたしはその後10分ほどで、その男性を発見、笑いながら追い抜いてさっさと家へ
着いてしまいました。
「ええええええっー、車だいじょうぶっすかー」とその人は叫んでいたので、
しょうがないからバックしてあげました。

「どうする? 車まで送ってあげる? それとも歩く?」とからかって、その後
雪がたくさん降るとネタにしてましたねえ。長靴に履き変えて車を取りに行った
その人は、頭カキカキ苦笑い。だって雪深くて進めない気がしたんだもんって。
ちなみにその人は当時たしかパジェロに乗ってました、なんのため~。

気持ちわからんでもないです。
怖いくらい降ります。
雪国に生まれ、雪国で暮らす人に言ったら笑われる話ですが。
でも雪はあなどれないのも本当なので、怖がるのもしょうがないです。

でもあんまり怖がるのは執着なんじゃないかって、それがカッコワリーので平然を
装っているわけで。
「山降りよう」は情けなさ過ぎ。ここは山ん中だけど、標高はたいしたことない谷間。
ケータイ電波も届かなくなったりしますが、雪は三日も降れば止むんだし。
日常の予定や約束や、しきりに頭から離れないから帰れなくなったらどうしようって
心配するんだなあ。

清々しい、自然がいっぱいあっていいですね~、なんて言う人いますけど、
びしばしと心が鍛えられるのが本当の自然のなか。
なかなかいいもんです。
うさこは弱虫なのでここでジョジョに鍛えられ、やがてフツーになります。
フツーは大変に遠ーい道です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする