想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

波打つ筋肉

2009-05-31 12:30:19 | Weblog
ベイビーとうちでは呼ばれている親分、こうして見ると筋骨たくましい。
光を受けて立つ姿、筋肉が盛り上がっていて美しい男だ。
う~ん、(マンダムって言うなよ、マンダムって)‥‥。

思っていることはといえば、「腹が減った」と「おっかあ、遊ぼうぜ」
くらいのものである。シンプル イズ ベストな生き方である。
どうしても素直になれない人は彼に教えてもらいなさい。

「私」と書いて「えてかって」という訓みかたがあるが、私そのものが
悪いわけではない。
私を持たなければ存在しない。しかし存在のあり方をまちがえて私中心に
してしまうと「えてかって」になるだけのこと、簡単すぎる話なのであるが
これがわからんのだから煩悩を生む元となる。

その点、彼はえてかってではない。
オレ様的な男でもない。
譲る心とそくいんの情を知っている。
誰に似たんかな~、うさこは彼に見習う日々なので、彼のは天性であろうか。
そうだ、天性、人も元来やさしかった!
それを忘れ去っていく。
遺伝子を調べ上げ分子的レベルで観察すると♂も♀も各々、勝手であるが、
人は肉体だけにあらず、魂がある。

ベイビーの波打つ筋肉の下には、甘い甘いとろけそうなハートと忍耐強さが
同居して隠れていて、いつもうさこを包んでくれる。



素直になれない時は、目を閉じて何も持たなかった頃を思い出してみるといい。
皮下脂肪の下の隠れていたやさしさが、本来の私に気づかせてくれるんだな。
人は誰もみな、同じ。

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宵闇の焼肉

2009-05-30 11:30:37 | Weblog
(画像の中央、黒い小さな影が親分。ステイ(正座)して待っているんである)

ちょうど一週間前、植え込み作業が一段落してお約束の焼肉の時間がきた。
陽がずいぶん長くなった。屋外にいるのがとても気持ちがいい。
曇天だったが風もやんだ。U字溝を炉の代わりにして炭を熾し網を乗せる。
準備万端、待ちきれない面々であるが、炭が熱を持つまでしばし時が要る。

左下の黒い影は、カメ御頭がとりわけてくれるのをじっと待つ親分である。
彼は待ち方上手、こんなときはとりわけピカイチの待ち方である。



カメ御頭はおっかあより思いやりがある。オイラの分を網の隅っこに取り分けて
冷えたらア~ン、いただきやす。
う、う、うまい!(キャベツなんですけど‥‥)



宵闇の中、縁側から騒がしい面々をじっとみつめて待つシマコ。
この方も待ち方上手である。
シマコが座っているバスタオル、これには闘魂という文字がプリントされていて、
誰がくれたものかは言わないが、闘の字の上にシマコはお尻を乗っけて魂の字は
健在である。つまり‥‥猫魂か?

待ち方上手の秘訣は、おそらく「信じて待つ」ということにあるらしい。
先走り慌てるヤツほど貰いが少ない、抜かりなく待つということを犬、猫サマに
教わる日々である。



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これでいいのだ~自家製?

2009-05-29 16:14:23 | Weblog

天才バカボンの主題歌に元気づけられて
いるうさこです、五日間留守にしましておひさ~でございます。
なので本日は親分のイチオシ・ポートレートをどうぞご覧ください(親ばかぼんぼん)。



さっそくですがN君のカレーライスは成功! これまでで一番美味しかった。
レポートしますと、アメ色になるまで根気よく炒めたタマネギの甘味が
スパイスの辛みを引き立てて、たかがカレーされどカレー、滋味深く仕上がってました。

さらにそこへフライパンで煎った20種類のスパイスを小さじ1加えます。
すると、これまたおいしくなりまして、都会の知的悪女なカレーになります。
N君はやや不満が残ったようでしたがわたしたちは美味しくいただきました。
でもそれが料理というものであります。
だからまたチャレンジして、今度こそ旨く作ろうなどと張り切るわけです。
「これでいいのだ~」と言いながら、また作る。明るくチャレンジです。
バカボンもパパも毎日忙しく人騒がせで、決してひきこもってなどいないのは
そういうわけでありますね。

そして大変な作業だった小川掃除も一日がかりで終えて‥‥







川底から掬った枯葉を集めて木枠の中へ溜めます。
周辺には自然に出来た腐葉土がたくさんあるんだけれど、自家製腐葉土作りにチャレンジ。
自家製って言葉がなんか「力」を持ってるんだなあ、変な感じだろうなあ、年寄りには。
明治大正昭和初期生まれの人は「既製品」ってのがたぶんオサレだったんだろうなあ。
もちょっとプチブルになると「オーダーメイド」がよかったんだろうなあ。
時代は変わるぜ、なにせ自家製がいいんだものなあ、とひとり感慨に耽り納得する。



この木枠がなかなかいいでしょ?カメデザイン(非売品)のものです。
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絶滅危惧種だそうで、熊谷草 

2009-05-24 10:49:32 | Weblog

絶滅危惧種に類するうさこです、へい。
熊谷草というランの一種、またの名を敦盛草とも言うそうです。
一昨日にドウダンツツジと一緒にいただきました。
日陰に植え替えるようにとの指示書が添えてあったので、家の西北側に
流れる小川沿いに植えたところです。
ここは茶室の切り窓からちょうど見える場所、ひんやりとして静かです。



熊谷草を植えるときに気づいたツツジ。
ピンクとオレンジのあわいで陶磁器のような色つやです。

今日は朝から曇り空。
小川に落ちた枯れ木や落ち葉を取り除いて流れをよくする作業をして
います。雨が降り出す前にやってしまおうと早起きしています。
昨夜の焼肉が効いたか、元気でありますねえ。

いえいえ、昨夜の瞑想が効いたとのこと、食うばっかりじゃあないですよ、
と反論の声。俺だって考えるときもあるんです、だと。
そうかなあ‥‥、いつもそうだといいんですけどねえ。

今日のメニューはカレーライス。
しつこくリベンジしているN君が昨夜遅くに作ったんだって‥
焼肉を食べた後、カレーを調理するっていうのは普段から料理している女性には
ちょっと思いつかないね。夜煮込むってのにこだわったと蘊蓄言ってましたけど、
楽しみでもあり、コワクもあり‥、たくさんありますから!って、
自信ありそうでなさそうな、勧め方も気のせいかビミョウなのだなあ。
具合悪くなってなければ、食後レポートします。

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そうーめんくいです

2009-05-23 16:28:15 | Weblog
つまんないこと言うとるねえ、ソウメン食いなんちゃって。
そう面食な人はここにはいませんが、食い気はじゅうぶんな人達と一匹です。



玉仕立てという丸く刈り込んだ形のドウダンツツジが一列に並び、線と曲面で
アクセントがつきました。これだけでずいぶん印象が変わりました。
この丸いツツジは、円盤みたいに空から降りてきたわけではありません。
そうだと面白いんだけど、実は昨日のこと、宇都宮在の宮司さんが自らダンプを運転し
娘さんと一緒に運んでくれたのでした。榊の生育具合を確認する目的もあって
わざわざ来ていただきました。

ドウダンツツジは夏(ここでは夏ね、普通は春4月頃)に白い小さな花をつけます。
秋には葉が赤く染まり、垣根などに使われるととても美しい壁ができます。
住宅街を歩くとよくみかけ、前から欲しいなあと思ったりしていたのですが、
苗木をこの広い場所に植え込むとなると、かなりたくさん用意しなければなりません。
費用もかかるし、大量に植え込む作業を考えるとちょっと気が引けて決断できません
でした。
ここまで生育するのに何年経っているのかわかりませんが、立派な玉仕立てが届いて
いやー、驚いた!いきなりオトナのツツジだもの、盛観です。

それで、天気もよくなってきたし根っこが湿っているうちに急ぎ植え込もうということで、
朝から取りかかり、午後3時までかかりました。

U君は腹が減ったわけじゃないよ~と言いながら芝生の上に寝てしまいました。
しかたがないので、皆の半分くらいしか働いていないうさこが遅い昼飯を作ることに。
すばやくできるのは何か、あ、そう、麺だ、そうめんだ、ということで、
茹でただけですけど。
昨夜漬けておいたカブとキュウリのおしんこをおかずにして、彼らは四人分を
平らげました。
台所の窓からクリームパンを食べながら見ていたわたしは、親分がメンクイしている
のを発見し、急いでカメラを持って表へ走ったわけです。

天気はまだ崩れていないので、もう少し働いたらバーベキューなんだろうな。
これもバーベキューとカタカナで言うほどのこともなく、ただ外で焼き肉を食べるだけです。
どうしても外で食べよう、と言い張る人がいるのでしかたがないのでつきあいます。
陽がさすと暖かいけど、けっこう風は冷たいんです‥けどねえ。
やる気まんまんで、どんどん仕事がはかどっています。
これは何故でしょう‥‥?
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花よりぞ木の実とは成る

2009-05-22 05:11:23 | Weblog
窓からレンズを通してみたら、山桜に赤く色づきかけのさくらんぼが‥。
(落ちてきたら拾って、水洗いし目の細かいネットに入れて土の中へ1年埋めておく)

書斎からちょうど見下ろせる花壇、紆余曲折と諦めを半ばで埋めてある。
昨春、買ってきた苗を植えたが育ちきれず、そのまま秋を迎えその後四ヶ月は
雪にうもれていた。ついこないだまで厳しい寒風にさらされていたし、なんら変化は
なかったので驚いた。
諦めてはいけませーん、と蘇ってきたのである。



花を咲かせなかったシャクナゲ、葉をつけなかったオオデマリ、
芽だけで終わっていたアジサイ、そしてまだ花を見ていないバラ3本、今年は揃って
よく育ち葉を茂らせ活気づいている。
眠ったままのはこの春まで植木鉢にいたモッコウバラだけ。
植え替えるまでは元気だったんだけれど‥‥。




山の土になじむまで葉もつけない木もある。
枯れてしまったように見える花苗もある。
がっかりしていると、いや、まだなんだよ、とカメが言うのである。
諦めて放りだしたり、無視したりしていないのはわたしではなく、カメである。

花壇の中央右の方に葉を茂らせている若木は山桜で、一度は枯れ、根元から
生えてきた新しい枝が育ってきている。
同じ敷地内の離れた場所から移植して四、五年経った。

熱心に目を離さないというでもなく、忘れてしまうでもなく、けれどよく見ている。
これがカメの態度である。
カメは言葉少なく激情をみせたことがないし、ほとんど冗談である。
大事に思ってくれていることを気づかせない、ほら、あれさ、恩着せないタイプさ。
本当に愛している人は、静かで怠りないんである。
だけど樹々や花は正直で素直である。カメの秘かな思いを裏切らなかった。

花に倣おうと思っても、がしかし人間の煩悩は深い闇のようでもある。
明かりは求めなければ気づかない。
首を傾け、身体をよじって、光へ向かって素直に伸びていくことが人には
難しい。素直が一番、難しいのだ、悲しいことに。

だから、うさこは人間を時々やめることにして長い耳を着用する。
見えなかったもの、聴こえなかったものが近づいてくるのを待つために。
臆病でもやさしくないよりましだから。

週末は樹々と花たち、みなさんに油粕を施す予定でーすと、二階から声をかける。
もひとつ焼肉の予定もありまーす。ちょっと煙りますが、よろしく。
匂いが気に障ったらごめんなさいよ、つまり誰かさんが再びバーベキューをやると
言っているんだけれど、あいにく天候は下り坂。
また雨天決行なのかよ~?
いやいや、降り出す前にみなさんのお手入れが先です、喰うのはその後じゃ!
 

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ブンブン、彼のクセ

2009-05-21 09:44:09 | Weblog
   (シッポ命!)

夜9時を少しまわった頃に帰宅し、ドアを開けて中へ入るとそこに彼が立っていた。
わたしを見るとすぐに、何も言わずに部屋へと入っていく。後ろ姿が慌ただしい。
待ちくたびれて怒っているのかと思ったが、照れているのだった。


   (日ごとに深い緑に変わっていく)

ごめんねー、と後をついていく。
するとくるっと振り向き、わーっと飛びついてくる。
そしてまた離れる。そしてまた飛びついてくる。
繰り返しているうちに落ち着いて我に返って、やっと部屋の中央に座るのである。
感動は薄れることがないらしい。毎日、帰宅するたびに彼はわたしをこうやって
出迎える。わたしは腰を沈めて抱きしめようとするが、彼はくるくると身体を
回すのでうまくいかない。ぶんぶんと揺れるシッポでわたしの頬をなぜるのである。
撫でてくれるのは嬉しい。
ゴワゴワとした毛と鉄の芯でも入っているのかと思う彼の尾はとても敏感に彼の
思いを表わしているのだが、わたしはイタいよ、とつい大声をあげる。
その声でやっと彼は感情を押さえ少し静かになり、大きな目でみつめてくる。
その目で、待っていたよ、飯くれと言うのである。
飯を待っていたのか、わたしに会いたかったのか、と問いつめたい気もするが‥‥。
毎日、これだけ感動を振りまいてくれるのは彼だけなので、どっちでもいいやと
すぐに思い直して飯の支度にとりかかるのであった。


(少し前まで見えていた道路の向こうにある一軒が隠れてしまった、
まだ若い紅葉も葉を茂らせて、懸命に立っている)

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ジャズと釣り人

2009-05-20 09:25:02 | Weblog
森から出て町中へ。
途中にこの川沿いの道を通り、たまに釣り人とすれ違う。

風の音かと思ったら、水音に重なってピアノの音色が聴こえてきた。



釣り人は魚を待ってはいないらしい。
車から大きな音量で漏れてくる曲はユーモレスクだった。
でも、なんか違う。ドボルザークの名曲、あれと違う。
おお、ピアノはスイングしているではないか。

ああ、これは山下洋輔?
だとしたら、 80年代のアルバム「センチメンタル」。
ミシシッピー川を旅した旅行記も雑誌に連載されていた頃だ。
ジャズの源流を訪ねたミュージシャンのイメージを今目の前にある川に重ねて
思いに耽る釣り人なの?
じゃあ、このあたりには魚がいないことを知っているのか。
誰もこない道だと思っていたろうに、うさぎが一匹降りてきて興味津々で
邪魔をしたのであった。
ipodやウォークマンではなくカーオーディオ派のようで、ヘッドホンやイヤホン
などしていなかった。(あれは都会の道具、こんな山ん中ではいらないのだろう)


歯切れのいいピアノは、「枯葉」に変わった。
ずっと聴いていたいが道を急ぐことにした。
駅で来客が、待ちぼうけをくっている。
戻り道はまだ日暮れてしまうには間があったが、釣り人の姿はもうなかった。
奥にぼんやり見える山影、あのような山を二つ越えると谷間の家へ着く。





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雨の中の小鳥

2009-05-19 08:25:33 | Weblog
ちょっと小降りになった合間に小鳥がやってきた。
庭先の植木の枝から枝へ、芝生の上へ、空中旋回して飛んでいる虫を
キャッチしたり。
それにしても体重が軽いのだなあ。
風で吹き飛ばされあちこちに落ちた小枝の上でもじょうずに留まる。
根っこがないから不安定だろうに。

ふと小鳥の体重ってどのくらいなんだろう?
文鳥を飼っていた頃、手のひらに乗せたり肩に留ったり
キーボードの上をちょこちょこしたりしていたのに、
意識しなかった。
何グラムくらいなのかなあ。
今思い出してみて、ほんとに軽くて柔らかくて壊れそうだった。

人が自分の肉体を意識するのは痛みやつきすぎた脂肪や、何か不具合が
あった時である。一生かけても自分を支え存在させている肉体のことを
じゅうぶんに知ることのないままに老いて、あるいは病んで死ぬ。
自分のことさえそうなのだから、自分以外の外界の生き物について
よく知っているかというと、きっかけがなければ関心を持たない。
何も知らずとも都合よくいっているうちは考えないのである。



小鳥を眺めながら考えていたら、目の前を蝶が横切った。
蝶の羽の鱗粉のナノ構造を解明して塗料が開発されたそうな、
そんな話をカメに聴いたことを思い出した。
あのキラキラ光る羽の美しい色がどうやってできているのか、光を反射する
しくみを学んだわけだ。車などに用いられている塗料がそうらしい。
飛行機の翼が鳥のそれと同じ形状くらいしか考えた事のなかったわたしも
森にいるとふだん見過ごすものを注視する。

基礎研究の世界は地味であるが、その地味なことに惹かれる研究者の気持ちが
少しだけわかる気がする。がぜん理科系に興味がわいてくる。
子どもの頃にそのことを知ることができれば、幸いだがなあ。
もっともこの歳になってさまざまに新しい知見に出会ううさこだが、
それはそれで、今だからわかることだ。

知は頭の中だけでは単なる情報の段階であるから、
フィールドワーク、経験が伴ってこそ本当にわかってくるのだなあ。
座して世界を見ていると言った稲垣足穂を、若い頃には憧れたりした。
その意味は文字通り座しているわけではなく、
稲垣足穂然り、ボルヘス然り、膨大な知が織りなす想像力を駆使せよと
いうことなのだろう。

経験も想像力も欠けているうさこは、ちょちょちょっと慌てて、
自然に驚き、凝視しているのである。





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親分優先である

2009-05-16 15:06:52 | Weblog
(上目使いだとかわゆく見えると、ギャルに教わりました、へい)

一昨日の夜中に森の家へ戻ってきたら、いろいろ吹き飛ばされていた。

高速道路は横風が強く速度規制。いつものスピードで走り通してきたが、
十数年も同じ道を通っているからといって油断はしない。
真夜中、暴風雨、凍結、横風、土砂崩れ、色々起きる。でも行ったり来たり、
懲りも飽きもせずに続けている。終の住処なのだから、あたりまえだけど。
車は4代目で、今が一番安くて気取りのないヤツだ。
親分はまだ六ヶ月の子犬の頃、後部シートにジャンプして乗る訓練をした。
だからいつも飛び乗るのは得意であるし、飛び降りる。
けれど、だんだんと脚が弱ってきたので車高が低い車にするか、乗り降り用に
板をかけてあげるかなと考えていた。
昨年、事故ってしまって現在の低い車がやってきた。以外と早く、問題解決。

おかげで親分は飛び上がらずとも、ゆったりと乗り込める。
乗った後は、後部座席を陣取ってグーグーグーと寝ている。
誰かを乗せるとき助手席で足らないときは、親分の脇で小さくなってもらうしかない。
親分優先席なのである。
ただし、この車、でこぼこ道に弱いのが難点。山道は直しても直しても強い雨と
雪で壊れてしまうので車高のある車でないと腹を擦ってしまうのである。



帰りついた時には闇のなか、気づかなかったが一夜明けると大風の被害が
けっこうあった。
桜の枝がねじ切れ、春先に植えたサンシュウが根こそぎ倒れたり、
オオデマリの若い枝も折れていた。
バラの伸びたツルは折れるのは免れたが、横倒しに。
今は使っていない犬小屋も転がっていた。


   (ここは風の通り道、若木がよく倒れなかったとほっとした)


一人でできるだけ片付けたが、残りはカメとその弟子たち頼みである。
申し訳ないので、シマコにこぶりの生イワシを買ってきた。
カメのかわいがっているシマコにゴマをすっておく作戦である。
シマコちゃん、シマコちゃんと、猫なで声で呼び寄せてダニ取り薬を首後ろへ
落とすのも成功した。(書けばカンタンだが、一日がかりであった)
奮闘するうさこを親分は縁側の優先席でじっと見ていた。
よし、OK、そんな目線であった。
応援してもらっている気がして嬉しいかぎりである。
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愛鳥週間だそうで

2009-05-14 13:03:41 | Weblog
木立が萌え色からしだいに緑濃くなってきて、鳥たちのさえずる声も
にぎやかになっていく。早朝から昼頃まで、そして昼間休憩してまた夕刻と、
鳥の声が絶える事がない。
新しく植えた木にも、前からある年寄りの木にも鳥はやってくる。
名前を知らない野鳥がいて、あわてて双眼鏡を取り出して羽の色を調べたり‥
そういえば今週は愛鳥週間だそうだが(カレンダーに記してあったので)。
森では年じゅう愛鳥である。○○週間というのは啓蒙活動なのだろうけれど、
月間にしたほうがいいんじゃない? せめて、ね。

鳥たちのさえずりを聴いて、想像たくましくする。
彼らは嘘をつくだろうか。

嘘をつくことが平気になっている人に驚かされる。
わかりきったことでも、嘘で固めてはばからない。
嘘そのものに罪があるのではなく、方便にもならない嘘ならばただの外道だからだ。

大きな音はもちろんちょっとした人の動きに敏感に反応して鳥は飛び立つ。
森の生き物は恐れを知っている。
嘘は恐れをなくした時から始まる。
それは同時に神から遠ざかることでもあるし、逆気の神に近づくことである。
いずれに寄ってもハタラキは生じ、嘘は嘘なりの結末があることを知らず、
たいていの嘘つきは滅びるようになっている。
哀れなことよ、それを「嗚呼」という二文字で表されている旧事紀。



鳥も野の恵みたちも、流れに乗って今年も育まれていく。
うさこはカメの背中に乗り、流れに便乗して生きて行こうと思っている。
少々下り坂や斜面があっても、しがみついてさえいれば落ちることはない。
しがみつく背は信。
持たざる者は素直に生きる、そこに活路はある。



一緒に行くぞー。



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なりきり密偵プー親分

2009-05-13 09:45:30 | 
移動中や寝台でちょっと気晴らしに鬼平を読む。
五月なので「五月闇」を読んだら、気晴らしどころじゃなかった。

なので今朝はカメをとーぜんのように、お頭(かしら)と呼びたくなった。
そして親分は密偵である。
「お頭お頭、お呼びでございますか」とスリスリしているところ。
つなぎのうさこが木陰から見ているとも知らず‥‥、ベタベタしてる。



五月闇(第14巻)は伊三次が殺られたあの話。
何度も読んでいるのだからわかっているはずなのだが‥‥、
おもしろおかしい話ばかりが人の気持ちを引き寄せるわけじゃないけんね。
伊三次を思いやり苦しみを受け止めるお頭鬼平の気持ちに触れたくなるのね。
足を洗ったはずなのに過去の罪から逃れられない伊三次。
そのやりきれなさを何も言わずに瞬時に理解する鬼平。
理解者面するだけの人じゃないけんね、とことん守りいたわるけんね。
勧善懲悪の偽善ではない話だから惹きつける。

「ワタシ、ワルくないね、あの人悪いね」と言い訳する場面などない。
現実にはありえない世界っていうくらいだ。
そうか、鬼平は現実逃避にぴったし!なんだな‥‥。
読後はおかげさまで元気がわいてくる感じになる。
とても悲惨な内容なのに裏腹なこと、それをカタルシスって言うよなんて
言われるとなんか抵抗したくなりますです、はい、もっとそれよりいいものがある感じ)




道の向こうに賊が潜んでいるやもしれんので、なにか臭うぞ。得意の鼻を役立てて
今日もタンサクに行くとしよう。お頭のために骨身を惜しまないプー親分であったが
それもまた背後に迫るうさこには気づいていない。
さしずめ兎忠(同心、木村忠吾)とどっこいどっこいの親分である。




アヤシい人影が‥‥、あの背負子にはいったい何が‥‥と親分は駆け出したのであった。
意味ないです、密偵なのにしのび足ができませーん。
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うさこの罪悪感

2009-05-12 02:26:18 | 
動的平衡(福岡伸一)という概念はあらためて説かれるまでもなく
昔の人は知っていたことであるし、守ってきたことである。
この親のいいつけにも似た自然界の掟をいったいどんな顔をしたヤツが
最初に破ったのか?

森にいて植樹したり新しい花苗を植えたりしながら、自分のしていることが
この森全体の環境に及ぼす影響をふと考えないではない。
たとえば、タンポポは年々増えているし、芝生の間に同じように黄色い小さな花が
根をつたって生えているのは見た目には美しい。
枯れ野のような冬の景色から一気に春、初夏へと移行する森の庭に彩りは嬉しい
ものであるが、君たちはいつからそこに現れたの? といぶかしむのである。



タンポポの犯人はわたしである。(そう、うさぎ好きのうさこが持ち込みました)
飼っていた《ぐみちゃん》といううさぎを森でしばらく飼ったあと放した。
東京に居たころは、ペットショップで買ったうさぎの餌を与えていて、
それに含まれていたタンポポやオオバコは糞として森の庭のあちこちに排出され
春が来て芽吹き、あとは風に乗って年々周辺へと広がって行ったのである。


タンポポは強い。
あまりに強く咲き誇り、玄関前には育ちすぎたタンポポが叢のような塊になって
いて少しも美しくはない。それに強者は魅力的ではないのであるね。
最初の数年は、茶色と緑しかない風景を明るくしてくれてよかったが、
こうも増えるとそのうち黄色い庭になってしまうのではないかと恐れ、
綿毛をつかまえることはできないし、ひたすら刈り取るが無駄な抵抗なのである。
昨年もずいぶん刈ったはずだが、あきらかに今年のほうが多くなっている。
道ばたにもずいぶん広がった。

人が住むということは、こういうことなのだとあらためて思う。
別荘地と偽り売地の看板を掲げ、だまされて買った人が建てる。
建て物は人が住まないのでカビだらけのまま放置され、周辺を草木が被い尽くす。
たまにやってきてあまりの惨状にまた足が遠のくようだが、だったら建物ごと
去ってほしいのだが。数年もたてばまたもとのように草木が生い茂り、実生から
育った木(たぶんどんぐり)で鳥の遊び場ができる。

この周辺でタンポポが生えている領域はうさこのテリトリーの印だといわんばかり。
罪悪感で、なんだかむかむかする黄色だがどうしたものだろう。
うさぎ一族は無事に家族を増やして生息しているので餌にはなるだろうが‥‥
草刈りのついでに刈り取るしかないかなあ。



生物の種が本来適応していた条件を人工的に改変、画一的な性格にして効率化を
はかると系そのものが脆弱化する。それによって予期せぬ陥穽(つまり狂牛病等)
が待ち受ける。それは補おうとする揺れ戻しの力(メカニズム)が働くからで、
これを福岡氏は動的平衡とよんでいる。
この概念はすべてのことに当てはまると思う。
たとえば、森本来の有り様にこちらが適応していく工夫をしないで、根こそぎ
入れ替えしようなどと甘い考えに釘を刺し、注意を促してくれる。

動植物人間いずれもみな生物は連鎖して存在し、競争と補完を繰り返している。
その浮き世のしくみをアホが取り違えてしまうが、必ずや大きな揺れ戻しが
起きるのが常である。起きる前に右へならへをしていた人は損をすることに
なって、だからといって被害者ヅラをしてはいけない。
理にさからって欲をかいたのは自身であることを忘れて、やれ政治が悪い、
銀行が、農協が、教育が、はたまたこんな世の中誰がした、と人のせいにしたがるが、
ご先祖さまの遺していった物事を古いとか言って打っちゃって大事にしなかった
自分が悪いのである。バチ当たりなだけである。
宗教や祭りは本来そういうことを伝えるためにあったはずだが、神官も坊さんも
信用なくなって形骸化し、福岡伸一氏のような科学者が伝道師みたいなことを
言っている変な時代になってしまった。ここにも当然揺れ戻しは働くはずであるが
たいていの人は生きているうちに遭遇することは難しい。
極端なことを言うと壊し滅びる側か、再生する側かどちらかである。
さしずめ現代は前者なので、ひたすら申し訳ないかぎりである。

現実には本を読んだからといって実践にはなかなか結びつかないところがイタい。
未来のオトナ、中高生にはちと難しいだろうし、カメのように噛み砕いて教えてくれる
ガッコの先生も少ないしなあ。
小説家の仕事かもしらんなあ。

さて、草刈りシーズン到来なので打倒タンポポ! 



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みんな五月生れです

2009-05-11 11:41:36 | Weblog
ご出産、おめでとうございます、シマコ姫。
やっぱりGWに産みましたね。
シマコ一家はみんな五月が誕生日です。
(本当のところはわかりませんが、ほぼ五月中らしい)

前夜にシママ(カメ命名)ちゃんがご飯を食べに縁側まできました。
昨年生まれた子だとわかったのは赤ちゃんのときと目鼻立ちがそっくりで、
口元がシマコ似。でもシマコよりベッピン、白がかったグレーのシマシマ。
黒目が大きく鼻筋が通ってて、まだ子猫顔。
もっと成長すればシマコに似てふてぶてしい表情も加わるかもしれないけど
今はなんともいえない可愛さでした。

そして朝、やってきました。
おっかさん、シマコ姫。ちょっと細くなったでしょ。
ダイエットじゃなくて、産んだのよ!


(植え替えるために掘った穴を覗き込んだり中へ入ったりしてますね、シマコ姫)

縁側で少しご飯を食べて、水で薄めたミルクをたっぷり飲んで、
あっさり引き上げるのは赤ちゃんが待っているかららしい。
無事ね、産んだのよね、と背中が言ってます。
これでも痩せましたのよ、ホホホホホ。

物置小屋でくつろいでいるようなのですが、変な声で鳴きながら歩いてます。
聞いたことのない声なので、何を言っているのか?
赤ん坊へ声をかけているのか?
わからないので、いつまでも後ろ姿を見ていました。
猫の言葉がわかるようになりたいわー。





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好きすぎて、

2009-05-10 16:12:01 | Weblog
「‥‥好きすぎて、あがっちゃって近寄れませんでした。」(サンプラザ中野)
昨日行われた忌野清志郎の葬儀式でのコメント。
親しく声をかけていただいたのに‥、好きすぎて緊張してしまって、近寄れなかった。
近寄れなかったというのは親しくなるほど近づけなかったということだが、
多くの業界関係者の追悼の言葉のなかでこれが一番胸を打った。
利害などかけらもない「純粋な好き」だけの気持ちだからだ。
その分悲しみも深いだろうなあ。
どの業界もどんな仕事をしていても、利害抜きに人とつきあうのはとても
難しいのが現実だ。心のどこかで利することを思ってしまうから好きが
純粋でなくなり、「いい人」が純粋ないいではなくなってしまう。
利害に負けてしまう弱さを否定しつづけ、なのに魅力的だった清志郎への
最高の追悼なんじゃないだろうか。サンプラザ中野は走れ走れという歌声しか
聞いたことがなかったけど、そうかそうかと初めて見直した。

昨晩はスカパーで清志郎のビデオクリップを特集していた。
何度も見たことがあるのにまた見ておまけに録画したりして大忙し。
全国のファンが同じことをしているだろうなあ、青山斎場へ行けない人は
見ているだろうなあと思ったりしながら。
有名人が亡くなって、それがちょっとは知っている人だったりしても、
泣いたことなどないけれど、この一週間はときどきほろほろとなった。
死んだからといって終わりでもおしまいでもないとわかっているが、
泣くのだなあ、悲しいのだなあ、と思いながら涙をぬぐった。
カメにどうしてでしょうね、と尋ねたら
「タカラがなくなったからだよ」と言われた。
清志郎は、そう、宝物だったのだ。


19の時父が死んで、すぐには涙が出ずにしばらくして泣いた。
その涙はその後、十数年涸れなかったので困った。
今は元気な母がいつか死んだら泣くのだろうと思うと、とてもいやである。
けっして泣いたりせずに、サンキューマミーと言いたい。
早く父さんとこへ、行きなさーい、と言って送りたい。
父は母をものすごく叱りつけていたが、本当の気持ちは「一番大事な人」
だと思っていたことをわたしは知っているからである。
一番大事だと思ってくれていることを、生きているうちに知ることは難しい。
伝えあえばいいのに。「愛し合ってるかーい」はそういう言葉だった。

清志郎が生きているときに、まだ元気だったときに5万人のファンが集合して
「激しい雨」を熱唱してほしかった。
そして「あのころの、平和だったころの」ことを大事に思っていると
一緒に叫んでもらいたかった。
死んでから清志郎の願いは少し叶ったのだろうか、なあ‥‥。
なんだか、こういう現実に泣いているのかもしれないなあ。



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