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私のブログのブックマークに
『日本モーターサイクルの夜明け』がある。
スズキの中野広之さんが纏められている労作である。
このホームページは2003年から纏められたようだが、今もなおその編集は続いている。
私のブログのエルンストデグナーのことや、
マン島で亡くなった藤井敏雄君のことなども、2007年にひょんなことから載せて頂いた。
そんなこともあって、毎日のように、ここから私のブログに訪れて頂く方が多いのである。
デグナーの話
鈴鹿のデグナーカーブにその名を残す名ライダーである。
カワサキが、初めて契約した外人ライダーでもある。
その契約金は、当時私が担当していた広告宣伝費で支払った。
そんなことで関わりがあったのである。
当時、社内には聞く人も居なかったので、鈴鹿まで出向いてホンダさんに教えを乞うたのである。
そのデグナーは練習中転倒入院して、カワサキのデグナーは実現しなかった。
(こんな私の話より、中野さんのデグナーの記述は数段詳しいレベルの高いものである。
この「デグナーの追憶」も素晴らしい。)
藤井敏雄君のこと
話は前後している。
藤井君の話が、1ヶ月ほど前の話なのだが、
私のレース担当の時期の思い出で一番悲しいできごとであった。
どうしても、そのことだけでは書くことが出来なかった。
中野さんとのデグナーのことでのコメントのやり取りの中で書いたのが、この記事である。
大槻さんの話でも、後、片山義美君に聞いた話でも、藤井君は転倒後ぴんぴんしていたようである。
事後処置が良かったらこんなことになっていなかったのではと、本当に残念に思っている。
もう何年も前の話で、時効だとは思うが。
藤井敏雄君との契約は単なるマシンの貸与契約であった。
欧州から帰って日本GPの前に、欧州の結果を見てライダー契約をして欲しいと言うのが彼の希望であった。
人身の保険も掛けてあったのだが、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。
それがこんな事故になって、この保険金のことで社内でもめたのである。
受取人は当然会社である。
ライダーの契約担当として、この保険金は遺族に渡したいと言ったのだが、契約上は単なるマシンの貸与契約ではないかということで、葬儀も保険も関係ないというのが社内の意見の大勢であった。
独り若輩が、『そんなことではレースの世界は通用しない』と頑張っていたのを援けて頂いたのが、デグナーの契約で関係のあった山田さんである。
葬儀にはスズキはもとより、ホンダ、ヤマハさんも参列された。
若しカワサキが知らぬ顔だったらどんなことになったであろうかと思う。
カワサキもレースにそんな無知の時代もあった。
考えてみると、そんな理屈も一般的には成り立つのかなとその後思ったりした。
『カワサキのモーターサイクルの夜明け』のような出来事であった。
これはみんな1966年私のレース担当最後の年の出来事である。
マシンはモトクロスはあのF21Mのデビューがあったり、
ロードレースにカワサキが初めてGPマシンを登場させたりした。
ライダー担当としては、正に受難の年であった。
春には鈴鹿で、三橋実が転倒入院をした。レースで転倒は何度もあったが、ライダーが入院したのは初めての経験だった。
MFJの全日本モトクロスも怪我があっていい成績は残せなかった。
夏には、藤井敏雄君を亡くして大変であった。
その後の、FISCOでのはじめての日本GPの練習テスト中にデグナーの事故である。一時はその生命も危なくて、病院を移したりした。
レース当日は、歳森康師君が転倒して鎖骨を折った。
怪我をした歳森に、『よかったな』と言ったのを覚えている。
『鎖骨でよかった』 と本当にそう思った。
そんな大変な1年であった。
私のブログのブックマークに
『日本モーターサイクルの夜明け』がある。
スズキの中野広之さんが纏められている労作である。
このホームページは2003年から纏められたようだが、今もなおその編集は続いている。
私のブログのエルンストデグナーのことや、
マン島で亡くなった藤井敏雄君のことなども、2007年にひょんなことから載せて頂いた。
そんなこともあって、毎日のように、ここから私のブログに訪れて頂く方が多いのである。
デグナーの話
鈴鹿のデグナーカーブにその名を残す名ライダーである。
カワサキが、初めて契約した外人ライダーでもある。
その契約金は、当時私が担当していた広告宣伝費で支払った。
そんなことで関わりがあったのである。
当時、社内には聞く人も居なかったので、鈴鹿まで出向いてホンダさんに教えを乞うたのである。
そのデグナーは練習中転倒入院して、カワサキのデグナーは実現しなかった。
(こんな私の話より、中野さんのデグナーの記述は数段詳しいレベルの高いものである。
この「デグナーの追憶」も素晴らしい。)
藤井敏雄君のこと
話は前後している。
藤井君の話が、1ヶ月ほど前の話なのだが、
私のレース担当の時期の思い出で一番悲しいできごとであった。
どうしても、そのことだけでは書くことが出来なかった。
中野さんとのデグナーのことでのコメントのやり取りの中で書いたのが、この記事である。
大槻さんの話でも、後、片山義美君に聞いた話でも、藤井君は転倒後ぴんぴんしていたようである。
事後処置が良かったらこんなことになっていなかったのではと、本当に残念に思っている。
もう何年も前の話で、時効だとは思うが。
藤井敏雄君との契約は単なるマシンの貸与契約であった。
欧州から帰って日本GPの前に、欧州の結果を見てライダー契約をして欲しいと言うのが彼の希望であった。
人身の保険も掛けてあったのだが、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。
それがこんな事故になって、この保険金のことで社内でもめたのである。
受取人は当然会社である。
ライダーの契約担当として、この保険金は遺族に渡したいと言ったのだが、契約上は単なるマシンの貸与契約ではないかということで、葬儀も保険も関係ないというのが社内の意見の大勢であった。
独り若輩が、『そんなことではレースの世界は通用しない』と頑張っていたのを援けて頂いたのが、デグナーの契約で関係のあった山田さんである。
葬儀にはスズキはもとより、ホンダ、ヤマハさんも参列された。
若しカワサキが知らぬ顔だったらどんなことになったであろうかと思う。
カワサキもレースにそんな無知の時代もあった。
考えてみると、そんな理屈も一般的には成り立つのかなとその後思ったりした。
『カワサキのモーターサイクルの夜明け』のような出来事であった。
これはみんな1966年私のレース担当最後の年の出来事である。
マシンはモトクロスはあのF21Mのデビューがあったり、
ロードレースにカワサキが初めてGPマシンを登場させたりした。
ライダー担当としては、正に受難の年であった。
春には鈴鹿で、三橋実が転倒入院をした。レースで転倒は何度もあったが、ライダーが入院したのは初めての経験だった。
MFJの全日本モトクロスも怪我があっていい成績は残せなかった。
夏には、藤井敏雄君を亡くして大変であった。
その後の、FISCOでのはじめての日本GPの練習テスト中にデグナーの事故である。一時はその生命も危なくて、病院を移したりした。
レース当日は、歳森康師君が転倒して鎖骨を折った。
怪我をした歳森に、『よかったな』と言ったのを覚えている。
『鎖骨でよかった』 と本当にそう思った。
そんな大変な1年であった。