雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

小学生だった頃の時代

2010-06-27 04:49:46 | 自分史

★単なるブログなら、気軽に書けるのだが、
『自分史』というカテゴリーの中で書くとすれば、あまりいい加減なことも書けない。

特に、時代背景というかその年表ぐらいは、ちゃんとあっていなくてはと思う。
私が小学生の時代といえば、日中戦争から大東亜戦争(そう呼ばれていた)の真っ只中である。

いつどうなったかというのも何となく覚えてはいるが、改めて年表で調べてみた。


昭和12年7月7日に日中戦争が始まっている。
私の5歳の頃である。

日中戦争の長期化で欧米と日本の関係は急速に悪化した。
昭和16年12月8日にハワイ真珠湾攻撃があって、大東亜戦争は始まったのである。
12月8日、よく覚えている小学校3年生の頃である。
そして、昭和20年8月15日の終戦まで、外地で空襲などは一切無かったのだが、戦争のさなかに子供時代を過ごしたのである。

こうしてみると、子供時代は戦争とともに過ごしていた。
終戦間際の2年間ほどは、本土空襲などもあって、全く勝ち目の無い負け戦だったのだが、
最初の半年から1年ほどは、その勝ちっぷりもすごかったのである。

★ハワイ空襲のあとマレーシアを攻めた。シンガポールも直ぐ陥落したし、確か英国と豪州は降伏したのである。
提灯行列が行われ、ゴムのボールを頂いた。

確か、紀元2600年の翌年でみんな意気軒昂だったのである。
世界地図の白地図が配られて、日本が占領したり統治したところは、赤く塗るように言われた。

日本も朝鮮も台湾も満州も赤かったし、中国の半分ぐらいは赤く塗れた。
そしマレーシヤもフィリッピンも、シンガポールは昭南島と名付けられたのである。
今のインドネシアの半分くらいまでは、赤くなった。
子供心に『世界はみんな赤く塗れる』と思ったものである。

そこまでで、この塗り絵も終わりであった。


★アメリカとの戦争が始まった小学生の3年生の頃から、5年生ごろまでは、夏冬の休みに朝鮮から明石まで帰省していた。
そんなことで、戦災にあうまでの神戸、明石も何となく覚えているのである。

関門海峡で連絡船が潜水艦に撃沈されてから、それからは本土空襲も始まって、とても帰省など悠長なことは言っていられなくなったのである。

当時の朝鮮での小学生(確か小学校ではなく国民学校と呼ばれていた)は、
今のように「子供、こども」でなく育てられたような気がする。
親も学校の先生も、甘やかすことなくとにかく厳しかったような気がする。

逆に、子供たちも親や先生に甘える態度など一切無かった。
父に遊んでもらった経験など一度もない。


★所謂、修身、道徳。「教育勅語」と「宣戦の大詔」を毎月聞かされて育った年代なのである。
校長先生が読まれるのを直立不動の姿勢から頭をたれて、ただ聞いていた。

教育勅語はただ、みんな暗記させられた。
教育勅語はまだ何となく意味が解ったが、
宣戦の大詔」のほうは、ほとんどその意味も解らぬまま、毎月8日の大詔奉戴日には聞いていたのである。

検索で調べてみたら、出てきたので、リンクしておきます。
こんな難しいことを、その意味も特に解説無く一方的に聞かせていて、聞くほうも何の疑問も持たずに、襟を正して聞いていた。
1年生から6年生まで、校庭にたって聞いていたのである。

★そんな環境の中で、別に疎開も空襲もなく、授業は確りとやられたように思う。ただ、男女共学ではなくて、5年生からは兵隊さんが来て、教練らしきこともやったし、軍服のボタン付けなどもやらされた。
ボタンは二の字に糸が真横になっていないと不合格で、斜めになったものは検査をする兵隊さんが鋏で容赦なく切って『やり直し』であった。
ズボンの今ならチャックの部分の『まつり縫いを半針返し』でやらされたりもした。

こんな環境の中で育ったが、トモダチとの遊びは結構楽しく、外で遊んでばかりいた。そんな子供の世界はチャンと独立して存在していたと思う。

今の子供たちよりは、間違いなく確りしていたと思うのは、『思い過ごし』であろうか?
若し仮にそれが正しかったとすれば、時代の環境がそうさせたのだと思う。

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コメント (2)
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