雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

私の母、101歳の誕生日です。

2010-06-28 04:44:26 | 自分史
★6月28日は母の誕生日である。
明治42年生まれ、101歳になる。
お蔭様で元気と言うべきか、自分のことは大体自分で出来る。

今日は、妹たち4人が誕生日を祝ってくれると言うので、
私の次の妹の明石に送っていって何日か、そちらで面倒を見てもらっている。

幾つになっても、女性の話は独特で、女ばかりの話のほうが気が休まるはずである。
父が52歳で亡くなって、そのとき母は、考えてみると42歳、私が高校3年、と言うか4月には大学1年であった。
家には大学、高校、中学、小学校1年生と5人兄妹の内、4人が1年生であった。

昭和27年(1952年)まだ戦後の状況が残っていたかも知れない。
そのあとの一家の家計は、すべて母が働いて支えた。
私は大学は、授業料免除で奨学金を貰っていたから、母に迷惑は掛けなかったが、家計などの足しには、全然ならなかったのである。
その頃には金の蓄えなど全く無かったから、母は大変であったと思う。

★母の里は、岡山である。
今の韓国でも鉄道敷設など土木事業をやっていた。
その事務所が、ソウル、京城にあった。
父は、何も仕事らしいことはしていなかったし、この自分史を書くにあたって,なぜ大田から京城に移住したのかその理由がわからずに、母に聞いてみたが、もう1つよく解らないのである。
ひょっとしたら『里の事業でも手伝うためだったのかな』などと頼り無いのである。

この自分史を書こうかなと思った理由のひとつは、母は記録を残しておきたいと思うと思ったからである。
母の兄弟は男3人、女3人の6人兄妹である。
私が言うのもおかしいが非常に優秀ではあるが、特に男兄弟は、ちょっと変わっている。

★長兄は、京大を出て大阪市大の教授をしていた学者だが、戦争でベトナムで亡くなった。立命館大学の学長をされた末川博さんの妹さんと結婚したと言うが、私が物心ついた頃には既に亡くなっていて知らない。
私とほぼ同じ年代の3人の男兄弟がいて、それこそ両親の無いまま、立派に育った。
ごく最近、その長男のかたが、祖父(楠見忠三郎)のことを中心に楠見家のことを150ページに『あしあと』として、文献や資料を付してまとめている。
楠見家の総領として纏められたのだと思う。
それを母のところにも1冊送られてきていて、私も見せてもらったが、とても私には真似の出来ない、学者の方が纏めたような詳細な記録である。

★その3兄弟は、戦時中は岡山の祖父の家で、戦後は次兄の楠見幸信が面倒を見ながら、それぞれ独立していった。

その楠見幸信は、ちょっとした有名人である。
慶応の野球部の黄金時代、宮武、山下、水原などいた、昭和のはじめの4年間慶応のセンターを守っていた。
プロ野球もまだない時代で、全国の熱狂的なファンに東京6大学野球が支えられていた時代で、アメリカのプロ選抜チームが来日したときの全日本チームのセンターにも選ばれている。当時のブロマイドの売れ行きトップであったとか。

『あしあと』には20ページ以上もこの頃の野球雑誌の記録などが纏められているが、雑誌の表紙を飾ったり『日本一の外野手』などの表現などもあって、スター選手であったことは間違いない。
慶応卒業後は藤本定義率いる東鉄にいて、出来たばかりのジャイアンツと互角以上にに戦ったとか、藤本定義はそんなことでプロ監督に入ったとか記述されている。
水原、三原、苅田などの名前が全日本のチームに見られる、そんな華やかな時代であったらしい。
その頃の、早慶戦を見た母から、何度と無くそんな話を聞かされたが、その記録を見るとなるほどと思ってしまう。

戦後そんな関係で、国鉄スワローズの初代総監督を5年ほど引き受けて、その後も球団の役員をしていた。
渋谷に家があって、東京出張のときはよく泊めてもらった。
金田正一が入団のとき関ったようで、金田が渋谷の家にはよく遊びにきたようである。

一番末弟の叔父は昭和の生まれ、私よりは少し上だがまだ健在である。
音楽などに堪能で、私が子供の頃からピアノなど弾いていた。その頃は確か、自転車も乗らなかったのではと思う。
大林組から独立して、設計事務所を開いている。



3人3様、不思議な男兄弟ではある。

★楠見幸信は、京城にいた私が小学生の頃、最初の妻に先立たれて再婚する前、半年ほど私の家で、一緒に生活したこともあるのでよく知っている。
戦前のあんな時代に、レコードをいっぱい持っていて、葉巻をたしなむなど、
まさに慶応ボーイであった。

いとこの書いた『あしあと』には雑誌の記録や写真などもいろいろあって、
私には野球の部分が一番興味があった。

★そんな母の実家だが、今は岡山には何も残っていない。
確か西田町と言った、岡山駅の少し前を流れている川に屋敷の裏が面していて庭の泉水にはそこから水が引かれていた。鯉やなまずが勝手に池に入ってきていて、魚好きの私のお気に入りの池だった。
最初に泳げるようになったのはこの池でのことである。

小学校の頃、明石に帰省したおり、岡山にも立ち寄っていたので、当時小学生で同じ年頃だった3人のいとことは良く遊んだ。
ただ、それ以来、いとこたちとは、1回も出会っていない。

母は、10年ほど前までは、東京に出向いて、親戚づきあいもしていたが、
私は、どうもそういうのが面倒で、みんな母や妹に任しいてきた。
今日は母の誕生日だが、妹たちに全部お任せである。
ただ、日頃はすべて私と家内で面倒を見ているので、
いつもは何もしない妹たちが、たまには面倒を見てお祝いをするのもいいと思っている。

こんな母の実家の話も、子供たちにも話をしたこともない。
ちょっとブログにでも、残しておくほうがいいのかなと思って書いている。

★それはそうと、
6月28日は、アメリカにいる一番上の孫の誕生日でもある。
娘はブログを自分でも書いていて、このブログも読むだろうから
ちょっと書いておかぬと、『忘れている』と思うかも知れない。
何も気を遣っていないようで、結構気を遣っているのである。

おばあちゃんも、力也も 『誕生日おめでとう』

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