★世の中でいつ頃から、DNAという言葉が一般的になったのだろう。
そんなに難しいことは解らなかったが、『遺伝子』ぐらいに思っていた。
改めて、Wikipedia などで見てみるろいろいろと、書いてある。
ごく最近の発見かと思ったら、もう1800年代に発見されているのである。
いろいろと難しいことが、書いてあったが、
『全ての生物で、遺伝情報の受け渡しは、DNAの複製によって行われる。
DNAが親から子へ伝わるときにDNAに変異が起こり、新しい形質が付加されることがあり、これが種の保存にとって重要になることがある。
DNAは生命の設計図とよく言われるが、これは生命現象の大部分はタンパク質が担っているため、「タンパク質の設計図」=「生命の設計図」ということである。』
簡単に言えば、
親から子に、DNAは受け継がれていると言うことなのだろう。
★私のDNAは、そういう意味では、父と母から受け継ぎ、子供、孫へと引き継がれていると言うことだろう。
昔流に言えば『血が繋がっている』ということなのだろう。
隔世遺伝などとも言って、私はおじいさんさんや、おばあさんのいいところ悪いところを持っており、
今の孫たちにその影響を与えていると言うことなのだろうか?
いいとこどりで言うなら。
おじいさんは、二人とも事業家だったから、そんな血はあるかもしれない。
父も伯父も早死にだったが、おばあさんは102歳まで生きたし、母も101歳まで生きているので、ひょっとしたら長生きできるのかも知れない。
こんな太平楽なことを言えるのは、誰に似ているのであろう。
子供二人は、息子は性格的には間違いなく家内に似て、娘は私に似ているのだろう。
孫たちに、私のDNAがどの程度影響しているのかは、まだ良く解らぬが、娘の方の末っ子の高所恐怖症やなんでも怖がるところは間違いなく私に似ている。
私はこれでいて、結構『こわがり』明石あたりの言葉で言う『おびんたれ』である。
高いところはダメだし、遊園地の乗り物に、『金を出して乗る』人の気が知れない。
運動神経は人並み以上にあると思うし、自転車でもバイクでも『上手に乗ることは』仮に自信があったとしても、『スピード』は無性に怖いのである。
★今、特に娘の方の孫は、サッカーに夢中である。
みんな親バカで、自分の息子は、ひょっとしたらプロになれたり、オリンピック代表になれたりするのではと思っているのかも知れぬが、
私が見る限りでは、彼らの伯父さんである私の息子は抜けないだろうと、これも妙に『親バカ』でそう思ったりしている。
然し、現実にそれでは『夢もない』ので、祖先の血筋にそれらしき人がいなかったかと言うと、
今で言うスポーツを職業にしていた人が二人いる。
この話も、子供たちにもしたことがないので、書き残しておこう。
少しは夢が湧くかも解らない。
★まず、私の父方の方で言えば、
私の『ひい爺さん、古谷満平』は明石松平藩の剣道指南番であったことは間違いない。
明石の松平家の菩提寺長寿院にその墓は、阪神大震災まではあったのだが、地震で壊れて今は無くなってしまった。
剣道だったから、刀にもじったのかどうか、非常に細長い墓石であった。
どれくらい強かったのかは知らぬが、指南番と言う限りは明石では強かったのだろう。
★もう一人は、母の兄、『楠見幸信』
これは、野球だが間違いなく一流で、全日本級である。
昭和初期、慶応の黄金時代、宮武 、山下、水原などがいたころの不動の一番バッターで、当時全盛期の東京6大学野球のブロマイドの売れ行きNO1だったとか、
昭和6年ごろの大リーグオールスターと戦った全日本のメンバーでもある。
当時の6大学は早稲田の伊達、三原、などまだプロ野球はなかったので、文字通り日本の最高レベルだったようである。
当時の野球雑誌の表紙を何度も飾っているようだ。
大学時代の伯父の寄留先は歌舞伎の尾上菊五郎の家だったとか、大学野球がそんな華やかな昭和初期だったようである。
慶応卒業後は藤本定義さん率いる東鉄チームにいて、創設まもないプロ野球巨人軍を破ったりしている。
『昭和初期の野球界』で検索すると豪華なこんなメンバーの中に現れたりする。
戦時中は、朝鮮京城の我が家にいたりしたので、当時の早慶戦の実況のレコードなど聞かせてもらったりした。
戦後、国鉄がスワローズ球団を創った時は、スワローズの初代総監督をしていたし、その後国鉄球団の常務などをしていた。
特に、金田正一が入団するときには関係があったようで、渋谷の自宅に、金田、根来のバッテリーは良く遊びに来ていたようである。
足は無茶早くてセンターの守備も抜群のようだったので、人気、実力ともに全日本級であったのは間違いない。
そんなDNAが幾らかでも孫にあれば、ひょっとしたらひょっとするかも知れないが、なかなか現実には難しいことだろう。
★ちなみに母方の兄弟は、非常に不思議で、
長兄の楠見一正は戦時中に南方で亡くなったが、こちらは学者で、立命館大学総長だった末川博さんの妹さんと結婚して、大阪市大の教授か助教授をしていた。
そんなに勉強好きはいないが、これも突然そんな学問の道を志す人が出てくるやも知れない。
末弟の叔父はまだ東京にいるが運動神経はダメだが音楽などに秀いでて子供のころからピアノなど弾いていた。本職は建築家であった。
私のどちらかと言うと、表面大雑把で、あまり小さなことにこだわらない性格は、多分父譲りで、それは結構気に入っている。
そんなDNAを少しでも引き継いでくれるのは、誰なのであろうか?
忙しいのに、やりだしたら寸暇を見つけて、ブログをアップしている娘の性格は、間違いなく私のDNAを引き継いでいる。
いずれにしても人間、誰しも祖先からの血筋を受け継いでいくのである。
できるだけいいところを引き継いでほしいものである。
もっと大きな意味では、日本民族のいいDNAを、日本人は引き継いでいかねばならない。
最近、ちょっとそれが薄れていきつつあるように思ったりする。