雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和45年(1970)37才 東北最後の年、そして大阪へ-2

2011-03-10 06:18:00 | 自分史

★ この年の10月1日付の辞令で、仙台事務所長から大阪営業所長へ異動になった。

3年と9カ月の東北勤務であったのだが、東北協同組合の設立がちょっと遅れて、その発会式が16日にずれたため、10月は実質仙台での勤務となったのである。

23日に結婚後3度目の引き越しをして、24日に仙台をたち25日に高槻の新居に入ったのである。結婚以来3度目の新築の新居であった。そんな巡り合わせみたいなものがあって、3回新しい家に住み、ついでに言えば今住んでいる三木の家も勿論新築だったから、結婚以来4回新築の家に住めたことになるのである。

そんなことで、大阪営業所には10月26日の初出となったのである。

 

★名前は大阪営業所長ではあったが、京都、滋賀、奈良、和歌山のそれぞれの営業所が傘下にあって、大阪母店としての機能を果たしていた。この時点ではそうではなかったと思うが、その後兵庫もテリトリーに入った時に、『大阪母店長』と言う肩書がその後正式に与えられたのである。

事務所は、新しく買った土地に、この年に建てられたもので、新しく綺麗であった。 私は詳しくは知らないのだが、この土地を見つけて購入までこぎ着けたのは、高橋鉄郎さんと故岩崎茂樹君のコンビで、決まるまで大変だったようである。

高橋さんが当時のカワ販の直営部長でおられたのは、ほんの1年足らずで、この時点では多分川重単車事業部の技術部長で戻られていたのだと思う。

東北の田舎から大都会大阪の営業所、而も今回は正真正銘の第1線なのである。販売の第1線だから、ごまかしは一切効かないである。

大阪で受けた第一印象は、元気が全然ないこと、台数が如何にも少ないこと、その代わり回収は東北に比べ抜群にいいこと、東北では大学出などはいなかったのだが、こちらには何人も大学出がいることなどであった。

 

★11月からの赴任みたいなものだったが、月はじめには横浜で全国カワサキ会があり、東京モーターショーもあったりして、そのついでに東京営業所も覗いたり、途中名古屋の営業所を観たりした。

当時は東京は茂木さんが造ったカワサキオンリー店構想が進められていて、北多摩モータース、城東、城南、城北、城西カワサキなどカワサキオンリー店でのネットワークが進められていた。 東京が一番元気だった時期かも知れない。 新しいネットワーク構想であったことは間違いない。

大阪に戻って直ぐ、大阪の有力サブ店、20店ほどとの会合があったりした。当時の台帳に載っているサブ店の数は500店近くもあったりしたから、その中からの20店で、礼儀正しい理論派の店が多いと、その時の日記に記している。 ガメツイ大阪商人という先入観があったのかも知れない。そのころは自転車屋さんから部品の注文などあったら、どことでも契約などなく取引をしていたのである。そんなに店数はあるのに、11月12日現在の売上台数がたった4台と言うことに驚いている。

11月中は、セールスや所員を集めて、来る日も来る日も、会議と言うより徹底して方針を叩きこんでいった。12月1日に、後滋賀カワサキをつくった宮本進君が『会議が多すぎる』と文句を言った。反対意見がちゃんと出るようになったと日記に喜んで書いている。

宮本君曰く、『当時の規定で、セールスは1日何時間以上、外に出ないと日当がつかない』そうで、こんなに会議を毎日やられると、『日当が当たらない』と言うのである。セールスは外に出て、ウロウロしていたらいいというものではない。ちゃんと営業所の方針を販売店に伝えられるようにならぬと、単なる御用聞きになってしまう。と思っていたので、そんな規定に関係なく、ずっと営業所にいても、月20日分の日当はちゃんと与るように、12月以降はかってに規定を直した運用にしてしまった。

さらに、6人のセールスが6地区を担当していたが、3チームの編成にして、宮本(中)、古石(北)、竹内(南)君3人に一人ずつの部下を与えて、大阪を北、中、南の3地区に12月から分けている。新人セールスが方針伝達をするのは難しいと思ったし、ベテランセールスが単純な作業に手を取られるのももったいないと思ったのである。

 

★12月からは、とにかく販売店を回った。現場を見ないと状況など解らないのである。話が『絵にならない』から、話が話に終わってしまうのである。カワサキの店だけではなくて、ヤマハの出先営業所に突然挨拶に行ったりするものだから、相手は面食らうのだが、直ぐ仲良くなれるのである。情報もちゃんと入るのである。

大阪のカワサキは全然弱くて、当時の船場モータースの岡田博さんは、どちらかと言うとスズキに熱心で、一番最初に店にお伺いした時に言われた言葉は、

『東北でどのくらいカワサキが強かったかは知らぬが、大阪ではホンダは別格として、世界のヤマハ、日本のスズキ、「明石のカワサキ」ぐらいですな』と言われてしまったりしたのである。それから少し経ってからも、『他社の営業会議ではカワサキの名前などなくて、H,Y,Sだけだそうですよ』とも言われたりした。

大阪営業所長のスタート時点は、そんなレベルからのスタートだったのである。

 

★ただ、、新築だったので、店舗は結構綺麗であった。 用品なども飾ってはあったが、売ろうという意志はあまりなくて、まさに飾りだったのである。直ぐ、有線放送などと契約したし、お客などが遊びに来やすいような店にすべきだと思った。

サービスと部品を担当していた篠原くん、通称篠ちゃんが無茶苦茶レースが好きで、和田将宏君らがしょっちゅう出入りをしていたのである。私は和田君とはレースの世界では入れ違いで彼が走ったりしたのは観たこともないのだが、大阪営業所で仲良くなったのである。当時はまだ学生であった野村君(チームグリーン監督)なども出入りしていたようで、そんな雰囲気だけはあったのである。

大阪に戻ってきたからと、歳森康師くんが直ぐ訪ねて来てくれたし、そのころは既にヤマハに移籍していた金谷秀夫くんからお歳暮が届いて、義理堅いなと日記に書いたりしている。

もうレースには、直接関係はしなかったが、古石君などが意外にレース好きで、彼のテリトリーにあった野村輪業の故野村さんなどもレース好きで草レースに関わることになったりしたのである。

大阪営業所に眠っていた、そんな芽がたった2カ月のうちに動き出して、12月にはかってにショウルームの大掃除などもみんながするぐらいの元気さは出てきたのである。

昭和45年の11月からの2カ月、たった2カ月だけど、自分でもよく覚えている2カ月であった。

 

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