★前年末に赴任した大阪管内の営業担当の職務は、管内の各営業所とともに、大阪営業所を直接所長として担当することであった。
所謂第1線と言われる営業は初めての経験で、大阪は大市場ではあるがカワサキにとっては日本で最も弱いと言われていた市場であった。販売台数も京都営業所に負けたりするような実績だったのである。
販売網の整備こそが急務であった。1月に勝浦で行われた販売店会議では『カワサキ会』を造ろうと宣言し、2月に入ってからは二輪車新聞の一面にでかでかとカワサキの大阪での販売店政策をぶち上げたのである。その後も、大阪の販売政策については、二輪車新聞の衛藤さんの取材に対応して、核心部分までも公表に踏み切ったのである。本社筋からは大阪は外部に細部まで発表し過ぎるなどの雑音も入ったが、公表することで自らの退路を断ったのである。
それくらいの覚悟で臨まねば、全くの他人でしかない販売店は動かせないと思ったのである。
★当時の業界の販売店は、数は沢山あったのだが、ほとんどが自転車屋さとの兼業で、50ccのモペットを数多く消化するためのネットワークと考えていて、販売店の育成強化などは殆ど念頭にはなかったのである。
中大型スポーツ車が主体のカワサキの販売網は、その数は少なくても、技術力も資金力もあるより差別化された独自のものに育てる必要があったのである。
育てるためには、当然どこを育てるのかという選別と、お互いの信頼感、そして厳しさが要るのは当然で、台数的にはよちよち歩きだったが、その想いは高らかに販売店をリードしたのである。
このような考え方に共感する販売店を当時の店の大きさなどには関係なく人物本位で厳選し、5月末には『カワサキ共栄会』の発会にこぎつけたのである。店数は500店とも言われた取引販売店の中から手を上げてくれた20数店だったのである。
会長には船場モータ―スの岡田博さんにお願いして、以来岡田さんとは数年にわたって大阪のみならず全国各地での特約店整備を手伝って頂いたのである。
共感して頂いた人たちは、非常に熱心で、この年の初めに、取引を開始した堺の伊藤モータース、今の(株)忍者の伊藤さんなども熱心だった。口は悪かったが私自身も本音以外は言えない性格なのでズケズケものを言ったりしたので、当時の役員会は営業所で夜7時から夜中まで延々と行ったりした。秋口ちょっと出足が悪かった時などは、販売店の方が心配して『共栄会のセール』などを立案してくれたりしたのである。
東京から当時日本一の販売実績を誇っていた北多摩モータース、城東カワサキを招いての会合とし、延々4時間議論をしたりしている。これがのちのカワサキ特約店制度への第一歩となって、この年の後半になるころには、業界でも『カワサキ共栄会』は大きな関心を呼んだのである。
販売面でも、W1Sなどの新車の発売もあったりして、元々が売れていなかったので、ちょっと頑張れば業績は躍進して6月には250cc以上ではヤマハを抜いて2位になったり、管内全体では東京を抜いてカワサキ内でトップになったりもしたのである。
★当時のカワサキの方針が台数よりも経営的な営業所の損益重視であったこと、社内手形などの発行など資金的な観点での施策もあって、東北で経験した代理店管理の営業経験は、非常に役に立ったのである。
セールスの管理も、販売店との取引も全て台数ではなしに売上金額とし、セールスの目標も総利益に変更していたので、販売店の意識も単なる台数から、店の経営と言うところに関心も移って、第一線での営業経験は乏しかったのだが、店の経営に関するノウハウについてはどの店の店主と対応しても当方が1枚上で、この点だけは認めて貰ったのである。
間違いなく、販売店各店の経営改善には、大いに貢献できたと自負している。東京地区の販売店政策はその市場の大きさからカワサキオンリー店を志向したのに対して、大阪は他メーカーの車でもいい、この20数店で大阪の250cc以上のシェアを50%以上とる方向を目指し、ほぼその方向で推移したのである。個々の店が儲からない限り、いい販売網にはならないと信じていた。
同時に、利益と言うことについては、元々販売店は関心があったので、至って真剣に勉強する様になって行ったのである。これらの方針は、弱小な小さな店ばかりが普通の二輪の販売店が、その後大型化していくそんな端緒になったのだと思っている。
★覚えていないことも多いのだが、日記を見ていると、ライダーたちとも、この年も付き合っている。
3月8日には営業所に金谷秀夫君がキットパーツを取り扱いたいという小島松久さんと一緒に来たりしている。その後この年に、二度ほど京都の小島エンジニアリングを訪ねたりしている。
これは全く覚えていないのだが、5月28日に片山義美さんに神戸でキャバレーに招待されたりしている。多分金谷も一緒だったのだろうが、全く記憶にないのは不思議である。
この年で、山本隆君が引退して、12月には明石の二松荘で慰労会をやっている。高橋鉄郎さんや北村さん、故岩崎茂樹さんも出席して、当時の山田事業部長から金一封が贈られたりしているのを見ても、山本隆君はカワサキにとっては特別のライダーだったのだろう。
★個人的には、川崎重工業の課長職に任用されているが、販社の方では部長扱いで、全国カワサキ会では副会長、経営委員会委員長などをやらされて、そんな関係で、
高松宮様ご出席の本田宗一郎さんが歓迎委員長を務められた、自動車工業会のお歴々や勿論川重の専務以下多数ご出席の、世界のBPICMのパ―ティ―に夫婦同伴で招かれたりしたりした。一応は業界団体としての招待客なので、お歴々が1列に並んでのお迎え頂けるその前を歩いたのは、流石にビビったものである。
この年企画した10周年記念の販売店招待アメリカ旅行ではその団長役見たいなものも仰せつかって、翌年1月、多分業界としても初めてのアメリカ旅行なども経験した1年であった。
半ば公務みたいなものだったが、京都の天野所長が郷里の山梨に帰って、後任に藤田孝明所長になるのだが、その引き継ぎの一つに、京都営業所の藤田みーちゃんの仲人を天野さんが引き受けていて、その引き継ぎがあったのである。
二度目の仲人だったのだが、滋賀の田舎の仕来たりで、仲人は新婦の家まで出迎えて口上を述べ、村の人総出で並んでいる中を手を引いて式場まで連れてくるという大役だったのである。結婚式は立派な神社で、披露宴は新郎新婦はほったらかしで飲めや歌えのどんちゃん騒ぎと言う昔さながらの仲人を経験したりした。新婚旅行の列車の時間が迫っても、だれもお構いなし。途中で新郎新婦と抜け出して、米原の駅まで行ったのを思い出す。 仲人を経験された方は多いと思うが、こんなことは多分なかったのではなかろうか。
高槻の芥川のすぐ横に住んでいたのだが、息子は小学校2年生、魚釣りに目覚めて、芥川や淀川などその辺の野池で釣り歩いている。娘は幼稚園、これも覚えていないが、生まれて初めて、参観日に出席したと書いている。多分これが最初で最後の父親参観日であったのだと思う。
忘れてしまっていることもあるが、1年を通して見ると、いろんなことを昨日のようによく覚えている印象に残る1年であった。
これから数年、国内の販売網から、東南アジアの新市場開拓へと『販売網の構築』に集中することになって行ったのである。一番レースから遠ざかった時期がスタートするのである。
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