カワサキバイクマガジン が送られてきた。
今月号には、「衝撃的なあの瞬間」と題して、こんな2ページがあった。
私は1961年(昭和36年)カワサキが二輪事業をスタートした創業期から、二輪事業一筋で、ここに書かれている事柄のうち幾つかは、私が関係もし、私にしか語れぬものもある。
その幾つかを 私自身のために纏めておこう。
★明石工場
川崎航空機には1957年(昭和32年)に入社した。
明石工場は航空機のエンジン工場だったので、戦後閉鎖されていた会社が復活して、エンジンに関係するミッション、歯車などを生産していたが、その中に発動機のエンジンがあり、単車のエンジンも明発工業に出荷しメイハツという名前のバイクで売られていた。
その明発工業を傘下に、昭和35年に二輪車一貫工場を作り、メーカーとしてスタートした昭和36年に私はその営業部に配属された。
機種は125ccB7,当時は50ccのM5モペット井関農機の空水冷もペットなども生産していた。
このB7はエンジンはともかく車体が全然ダメで、毎日工場に返却が続いたので、仕事の大半がその返却の受け入れ、物品税の戻入作業であった。
昭和37年1月には、ついに返却台数が生産を上回り、生産台数がマイナスを記録したりしたのである。
★カワサキ自販(今のKMJの前身)
当時の第1線営業は、カワサキ自販がメイハツやメグロの営業の人たちで展開されていたが、その社長は川崎航空機の土崎専務が兼務し、販売会社のほうがメーカーの明石工場より力が強いという、今では考えられない形だったのである。
当時の営業生産連絡会議には、土崎専務が出席されるので、工場はオコラレテばかりの、そんな信じられない時代だったのである。
カワサキ自販は神田岩本町にあったのだが、カワサキの人でも神田岩本町を知ってる人は、ホントに数えるほどだろう。
★二輪事業継続の判断とレース
そんな状況だったので、二輪事業を続けるべきかどうか、を日本能率協会に調査依頼していた最中に昭和38年5月青野ヶ原のモトクロスに出場して1位から6位まで独占し大いに意気上がって、日能の『二輪事業続けるべし』という判断のきっかけになったのである。
このモトクロスレース出場は、会社の判断ではなくて、工場関係者有志がマシンを造り出場した自主的なものだったのである。
そのきっかけになったのが、前年11月、鈴鹿サーキットで開催された日本で初めての本格的ロードレース大会に、『観戦バス』を仕立てて工場の人たちが観戦し、『レースやるべし』という気運になったのである。
これを主宰したのは兵庫メグロの西海社長で、一番レースをやりたかったのは、元オートレースの選手でもあった西海さんだったに違いないのである。
そんなことで西海さんは、子飼いの松尾勇さんをカワサキの工場に送り込み、このB8のモトクロスも、その後の赤タンクのカワサキも、マシンに仕立て上げたのはすべて松尾勇さんである。
この青野ヶ原のレースは、たまたま当日雨で、スズキ、ヤマハの有力ライダーも参加していたのだが、水をかぶってみんなマシンが止まってしまって、独り防水対策を完全にしたカワサキが結果的に1位から6位までを独占できたのである。
そんな運にも恵まれたし、もし鈴鹿サーキットが開場していなかったら、カワサキの二輪事業も継続していたかどうか?
鈴鹿がカワサキを救ってくれたと私は思っている。
★ 二輪事業継続の条件
日本能率協会が『二輪事業継続の条件』の中に『広告宣伝課を造るべし』というのがあって、川崎航空機の中に『広告宣伝課』が出来るのだが、それを担当したのが係長にもなっていない私で課長は当時の苧野豊秋部長(後カワ販専務、レース運営委員会長))が兼務され、本社が開発費として毎年1億2000万円の予算を3年間計上してくれたのである。私の年収が40万円の時代だったので、これは当時としては膨大な予算だったのである。
上記のカワサキ自販で広告宣伝を担当されていたのが、小野田滋郎さん、あのフィリッピンの小野田中尉の弟さんである。私はこの広告宣伝担当で、カワサキ自販の広告宣伝を引き継ぐことになったのだが、入社して陸士仕込みの戦略論など一番薫陶を受けたのは、この小野田滋郎さんからである。
カワサキの広告宣伝の基礎みたいなのを造られたのも小野田さんである。
当時の広告予算1億2000万円は、広告代理店にとっても、神戸営業所の担当レベルではなくて、大広、電通、博報堂ともみんな本社企画担当だったのである。
カワサキの広告が、なんとなく差別化できているのも、そんな高いレベルの人たちと最初の段階から付き合ったからだとも云えるだろう。
★カワサキのファクトリーレースのスタート
こんな大きな予算を持っていたのだが、1年目は7000万円しか使えずに、『君らは金やってもよう使わん』と本社のエライさんに怒られて、2年目からはレース予算も本格的に広告宣伝費の中で、ライダー契約金なども負担し、レース運営費も同じく広告宣伝費の中で使っていた。
当時は、明石の工場の技術屋さんもエンジンは詳しい人はいっぱいいたのだが、オートバイ、特に車体関係が解らなくて、当時のレーサーは生産工場が担当するレース職場で、松尾勇さんが独りで造り上げたと云ってもいい。
エンジンは技術部、マシンに仕上げるのは工場、運営は広告宣伝課という3者協働体制が、ロードレースはGPマシンから、モトクロスはKXと呼ばれる時まで長く続いたのである。
この運営は『レース運営委員会』という組織の中で行われ、私はその事務局を担当していた。
カワサキの錚々たるメンバーが顔を揃えていた。
長は山田煕明(後川重副社長)前述の苧野豊秋、高橋鉄郎(後川重副社長)大槻幸雄(後川重常務、Z1開発責任者)などなどで田崎雅元(後川重社長)も当時はまだぺいぺいで私の1年後輩なのだが、レース仲間なのである。
ライダー契約は私が担当して、三橋実、安良岡健、山本隆、歳森康師、梅津次郎、岡部能夫、金谷秀夫、星野一義など錚々たるメンバーが当時はすべて広告宣伝課嘱託だったのである。
★カワサキGPレースからの撤退
世界GPでKR250/350が無敵の強さを誇っていた1983年、カワサキの二輪事業はその存続さえ危ぶまれる最大の経営危機に直面していたのである。HY戦争はカワサキの主力市場アメリカまで飛び火してKMCそのものが危機を迎え、二輪事業全体の経営にも影響し、もはや単車事業部独自では経営再建の目途が立たず、川崎重工本社財務部が何百億円単位の資金手当てで、乗り出していたそんな事態であった。
その対策の最高責任者を山田煕明副社長が担当され、私は山田さんから国内担当から企画部に呼び戻されたのが1982年秋のことである。KMCの対策には高橋鉄郎さんが会長で、田崎雅元さんが社長で出向されていて、いわゆる昔のレース仲間でその総合的な対策に当たっていたのである。
ファクトリーのGP撤退は、私と田崎さんと相談して決めたことなのである。
その時、レースの火を消してしまっては・・と国内で神戸スーパースポーツレーシングを主宰していた平井稔男さんに何千万円かの予算を渡して新しく国内対策として、Team Green を立ち上げたのである。そのTeam Green が今はファクトリーとして受け継がれていて、平井さんはいまは元のKSSRに戻った活動になっている。
このことを知っているのは私と田崎さん、そして当時技術部長であった百合草さんの3人だけである。百合草さんは猛烈に反対したが、仕方がなかったのである。
本社から再建屋として来られることになっていた大庭浩さん(後川重社長)が来られる前に、昔のレース仲間で判断して決めたことなのである。
★鈴鹿8耐初優勝
それから約10年、GPからは離れたが国内レースは、Team Green がよく繋いでくれた。
そして93年の鈴鹿8耐初優勝と続くのだが、この時のスポーツ推進部長が、私のあとのレースチームをマネージしてくれた岩崎茂樹くんである。
高橋鉄郎さん、田崎雅元さん、岩崎茂樹さん、そして私など初期のカワサキのレースチームの仲間たちが揃って、当時の事業本部を支えたときに、優勝できたのは本当によかったなと思っている。当時は職制に『スポーツ推進部』という明確な『レース支援体制』が中枢の企画室の中にあったのだが・・・
高橋鉄郎さん、田崎雅元さん、岩崎茂樹さん、そして私など初期のカワサキのレースチームの仲間たちが揃って、当時の事業本部を支えたときに、優勝できたのは本当によかったなと思っている。当時は職制に『スポーツ推進部』という明確な『レース支援体制』が中枢の企画室の中にあったのだが・・・
当時の日刊スポーツの記事である。
塚本昭一、北川圭一ペアが、日本人ペアとしてはトップの見事5位に入っている。
★こうしてみると、カワサキの二輪事業は、創生期のレース仲間たちが、その基礎を築いたと云ってもいいのかも知れない。