★こんなニュースが流れた。
ホントかな?
でも、トップはオモシロい。 巨人の菅野では、当たり前で夢がない。
#松坂大輔をオールスターファン投票1位にしよう hashtag on Twitter
面白そうだから応援することにする。
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★私は当時の川崎航空機に昭和32年に入社した。1957年のことだから、今から60年も前である。
どんな時代だったと言ってもなかなかお解りにならないのかも知れないが、川崎航空機工業は戦前からの会社だが、明石工場はエンジン・岐阜工場は機体工場だったのである。そんな軍事工場なるがゆえに戦時中は爆撃にもあったし、終戦後は昭和27年まで、会社は再開されなかったのである。
そんな中断もあっての再開だったので、従業員はみんな若かったし、なかなか新しい柔軟な発想をする企業だったと思う。
上の方が少なかったこともあって、入社早々の若い新人の頃から、結構任された仕事が出来たのである。私が取り組んだのは、IBMによる財産の償却計算システムを、岐阜も本社も巻き込んで創り上げたりしたのだが、そんな機械化のお蔭で、償却計算する人手が要らなくなって、新しく出来た単車営業に異動になったのである。IBMが日本に入ってくる10年も前のことである。
田崎さんは、勿論川重の社長もされた『エライ人』だが、私とは若い頃はカワサキのレースチームの仲間だし、1980年代のカワサキの二輪事業の危機の時期は、ちょうどアメリカのKMCの社長をしていて、私が明石で企画室長などしていた『経営再建コンビ』だったので、今でも特別な関係が続いているのである。
田崎さんもある意味 昭和の『昔気質』で、いろんな意味で『1年先輩の私』を立ててくれるのは有難い。
★昨日は、こんなメールと共に何枚かの写真を送ってくれたのである。
懐かしい話
古谷さん 昭和33年4月に、川崎航空機に入社、 神戸製作所 ジェットエンジンオーバーホール工場に配置されました。 資格は見習い、初任給は12、000円/月 でした。当時は、小型飛行機もよく飛来し、ベルヘリコプターの製造もやっていました。 品質管理、特に非破壊検査が主務で、いろいろな製品に係りました。
労働組合の常任幹事もやりました。あなたが最初に私に会い、何にでも口をはさむ奴だ、と認識した場面です。「組合は民需優先の旗を揚げるべきだ」と主張したのを覚えています。 懐かしい写真を見つけましたので添付します。昭和33年組は、60人という多数の入社で、技術屋は面接のみで無試験という売り手市場、かなり高姿勢でした。
3研ビル正面で 新入社員の記念写真、砂野さん、塚本さんも若いですね!
当時の初任給は、私も月給が12000円だったから、このころ入社した人は、退職するころは給料は、初任給の100倍以上になったそんな時代なのである。
月給が10万円に届いたのは、入社15年目ごろだったがその5年後には30万円になったりした。
今でも思い出すが、当時はこんな安い初任給だったが、皮靴は5000円もしたし、腕時計は1万円もして大変だった。60年経って一番安くなったのは、『靴と時計』かなと思たりしている。
当時川崎航空機は、アメリカ空軍の東洋で唯一の『ジェットエンジンのオーバーホール工場』を持っていて、アメリカ空軍がいたし、ジェットエンジンの生産管理は、当時からIBM管理されていて、日本では最先端の『管理ノウハウ』があったのである。
田崎さん、流石に若いな。
明石工場の中には、滑走路もあったし、ヘリコプターのベルを生産していたりして、文字通り川崎航空機工業に相応しい、事業はやっていたのだが、損益的には非常に苦しくて、営業収入が不足する時は、戦前からあった膨大な機械の売り食いなどで、辻褄を合わせていたのである。
二輪車のエンジンは単体で作っていて、『メイハツ工業』にエンジンを供給していたのだが、昭和35年(1960年)ごろから単車の一貫生産工場を造ろうということになって、事務屋は本社や神戸製作所から、技術屋はその殆どがジェットエンジン部門から異動してきたのである。
私が営業部門に異動になったのは昭和36年の末なのだが、未だその当時は田崎さんはジェット部門で、私は営業部門の常任幹事、田崎さんはジェット部門の常任幹事で、会議に出てきたらどんな議題にも『雄弁に口を出すので』てっきり事務屋だと思っていたら技術屋だと聞いてびっくりしたのが、田崎さんとの最初の出会いなのである。
これが昭和33年に入社した60名だが、この写真の中に、後川重の社長をされた、砂野仁・四本潔・田崎雅元さんの3人がおられるのも懐かしいし、後単車の事業本部長をおやりになった岩城良三さんや塚本碩春さんもおられる貴重な写真である。
この中には、後Z1のエンジン開発に携わった稲村暁一さんもおられるはずである。
★そんな若かった田崎さんも、川重の社長になられてからは『カワサキワールド』を作ったり、今回話題を提供した『ヴィッセル神戸』のスポンサーになるなど、重工業だがなかなか『ソフト面』での対策もできていて、『カワサキのブランドイメージの向上』に尽くされているのは流石である。
この写真などは『Kawasaki』が世界中を駆け巡ったし、
三木谷さんとの談笑の写真なども送って頂いた。
ヴィッセル神戸 とのスポンサー契約、2003年というから、もう15年も経っているのである。
これはいつ頃かな? 未だ田崎さんも若い。
歴代川重社長の中で、ジェットスキーに乗ったり、サーキットをバイクで走れるのは、田崎さんの秘かな自慢なのである。
現役社長の頃に『川崎柔工業』を目指したのは、単車出身の田崎雅元さんの面目躍如なのである。