★創成期のカワサキ・ジェットスキー市場の世界展開を図った人たち、そのキーパーソンとなって世界をリードしたのは、鶴谷将俊さんである。
彼はオーストラリアの販社の社長から85年8月に帰任したのだが、その彼に『ジェットスキーを担当して欲しい』と私は突然頼んだのである。小なりとは言え、一国の販社の社長として旗を振ってきたのに、突然部下1人もいないそんなプロジェクトを押し付けられて、当惑したのは間違いないのだが、彼は引き受けてくれたのである。
翌86年3月には、発動機事業部からジェットスキーのレースなどにも出場していた福井昇くんが参加してくれて、ようやく『鶴谷ジェットスキーチーム』は具体的に動き出すのである。
ジェットスキーは、世界で初めての製品であったし、カワサキがその先駆者として活動展開を進めたのだが、その展開のベースになったのは『レース』であったことは間違いないのである。
その創生期活動の中心になった国内では、アメリカのIJSBAの流れを組むJJSBAの初代会長としてその協会設立から尽力された苧野豊秋さんを中心に、当初はその活動は西武自動車関連の方やレースに参加されていたメンバーたちの協力を得ての活動だったのである。
★そんな川崎重工業以外の外部の人たちの協力でスタートしたジェットスキー・プロジェクトではあったが、非常にスムースに素晴らしいテンポで展開し、87年5月には営業総括部の中に、初めて『ジェットスキー担当部門』がスタートしその長に鶴谷さんが就任して、ようやく単車事業本部の中に正規担当部門がスタートし、私自身も企画から営業総括部に異動したので、ジェットスキー・プロジェクトも本格的に動き出すのである。
最初に、ジェットスキーが世界に認められたのは、88年9月、ソウルオリンピックの大会運営委員会に招かれて、ソウルオリンピックの開会式の当日、すぐ前のハンガン(韓江)でジェットスキーのデモンストレーションを行ったことだと言っていい。
このプロジェクトは鶴谷将俊さんが中心に企画推進し、日本のJJSBAの苧野会長以下関係者と、オリンピックということでアメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・日本の各国男女チャンピオンを揃えての参加となったのである。 アメリカ以外の世界からこのようなメンバーが集められたということは、その間の活動が、世界的に展開出来ていたという証明にもなるのである。
カワサキ関係者としては、苧野・鶴谷・福井のメンバーと、私はこのチームの団長として参加することになったし帰国後、川崎重工業の経営会議で大庭浩社長以下経営トップにその報告をすることになったりしたのである。
これはオリンピック委員会から、記念に頂いたもので、写真としてはこの2枚しかなかったのだが、今回松口久美子三がいろいろ送って頂いたのである。
● 天満選手とオリンピック会場をバックに撮った写真
● 苧野会長と天満選手・ワールドチャンピオン ラリーリッペンクローガー選手と松口さん
● 選手村で宿泊所の前で、苧野会長・松口・松下選手・レース運営の上田さん・小河選手
この時の宿舎は、オリンピック村の中にあって、ハンガンはそのすぐ前という最高の立地だった。
この写真以外にも大南勝也さんなど、ジェットスキー・プロジェクトが立ち上げって以来のメンバーたちが参加していて、結構な大所帯だったような記憶である。ひょっとしたら金森稔くんは未だジェットスキーには乗っていない時期だったかも知れないのである。
個人的なことを言わして頂くと、このプロジェクトのお蔭で私はこどもの頃育ったソウルを訪問できたので、滞在期間の間に、こどもの頃通った小学校や、育った自宅も見ることができたのである。
★全く白紙の上に絵を描くような、すべてが新しい初めての経験の連続だったのだがに世界からの団体チームが組めるような活動を展開してきた成果として、、『ソウル・オリンピックのデモンストレーション実現』があったと言えるのである。
この間、特に重点市場として展開してきた国内のジェットスキー販売網対策としては、従来のボート屋さんが片手間で扱っていた形態から、ジェットスキー専門店網設立を目標に『カワサキジェットスキープラザ構想』を立ち上げ、87年3月には、『カワサキジェットスキープラザ神戸』をその1号店として立ち上げたのである。
この店舗は元大型二輪販売店テンポで、吉田純一さんがお持ちだったのだが、JSプラザ1号店として借用しオープンしたものである。
未だ、殆ど販売実績のないような時期に、結構な大型店舗であったことから、関心を呼び後の販売網展開に好影響を与えたのである。
同時に、東京には当時のカワサキの二輪販売トップを走っていた北多摩モータースに『ジェットスキープラザ都』を同じ3月初旬に立ち上げて貰って、東西2店のジェットスキー専門店からスタートしたのである。
当時、日本での年間売上高が200台前後という中で、果たしてジェットスキー専門店が成り立つのか? という疑問が多い中で、これはボート屋の片手間ではダメだと思ったのは、ジェットスキーはレースという専門的な遊びが底辺にある商品だから、専門店でなければ『一定の事業規模にはならない』という私独特の仮説でスタートしたのである。
このジェットスキーの販売網については、当時のカワ販の中から、私とかって一緒に仕事をしたことのある、宇田川勇・藤田孝昭くんという最も信頼できる実力派の二人にお任せして、白紙の上に絵を描いて行ったのである。
この年の4月には、福井昇くんが『ジェットスキープラザの実質1号店』を目指して川重を退社し、6月27日に『カワサキジェットスキープラザ明石』を立ち上げる運びとなるのだが、販売に掛けては未経験の福井くんを親身になって、開店まで漕ぎつけたのは、藤田孝明くんの献身的な協力があったからだと思うし、この『プラザ明石の成功』がその後のジェットスキー販売網構築をスムースにした一因になったのは間違いないのである。
★福井昇くんを、当時の単車事業本部の企画室の私たちが知っていたわけではないのである。
オーストラリアから戻った鶴谷さんの同期の西田さんがたまたま発動機のジェットスキー担当で、彼の推薦で福井昇くんの名前が挙がったのである。さらに発動機でその当時ジェットスキーも担当していた部長は藤川哲三さんで彼は私の同期だったものだから、藤川さんに頼んで福井くんを単車企画に貰い受け、その後ヨーロッパ市場開拓のための市場調査などは、西田・福井のメンバーで2回ほど3ヵ月に亘って行ったりしているのである。
その頃は未だ福井くんも、販売店などやることなど思いもよらなかったのだと思うが、何となくそんなことになってしまったのは、運命だと思うが、カワサキにとっても、多分、福井昇くんにとっても『いいご縁』であったことは間違いないのである。
カワサキジェットスキー物語を書く上で、『福井昇くん』はキーパーソンなのである。当時からはもう40年近いのだが、未だにFacebook ではトモダチだし、NPO The Good Times では理事として手伝ってくれているのである。
今回福井くんと、松口さんがいろいろと手伝ってくれたので、この物語も時系列にいろいろと解ったことも多いのである。
★ところで前回の最後にこんなことをアップしたのだが、
松口さんからこんなメッセージと貴重な写真を送って頂いたのである。
『有名人かも知れない』と思ったのだが、まさしく超有名人なのである。
Facebook では、既にトモダチになってるので、ひょっとしたらこのブログもご覧になってビックリされるかも知れないのである。
では今回はこの辺りで・・・
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