★ 今回『カワサキジェットスキー物語』をスタートして、当時の福井昇くんや松口久美子さんなどの協力で、やっと創成期のジェットスキー事業を時系列に纏めることができたと言っていいし、この当時のジェットスキーについて、
やっとこの程度に纏めることができたのである。
● 1971年米国人ヤコブセンの特許に、発動機の400ccのエンジンを搭載したJS400を開発し、72年からKMCのリンカーン工場での生産を開始した。
● 1973年からKMCが発売元でアメリカ市場へ出荷・販売されたが、日本では西武自動車がその年から逆輸入し、カワ販の孫会社KATが僅かながらボート屋さん経由で販売を開始している。
● その後アメリカでは、その使われ方としてレース需要が起こり、76年頃にはIJSBAというレース協会も設立された。
● 当時の販売台数は年3000~4000台で推移、そのエンジンは日本の発動機事業部からKMCリンカーン工場に出荷されていたが、KMCの親である単車事業本部には関係ない子会社KMCの製品としての販売であった。
● 1977年にはJS440も発売されるが、レース関係からは馬力不足からの馬力アップ要求があり、明石発動機事業部内に550ccへのボアアップ開発チームが結成され、1982年に550ccの発売が開始されることになる。
● その当時1980年頃から、オイルショック・ハーレーダンピング・HY戦争などの影響もありKMCの単車販売が減少した結果の在庫過多などからKMCの経営は大赤字になり、81年から髙橋・田崎コンビでのKMC再建が図られ、82年から明石の企画体制を含め抜本的な単車再建計画が講じられて83年度からは大庭本部長体制となるのである。
● そんな中、リンカーン工場で生産していたスノーモービルが雪不足による販売不振に陥りリンカーン工場の生産維持がムツカシイ状況になったのだが、その時発売されたJS550の生産規模を一挙に2万台ベースにまで上げるというKMC田﨑社長の判断が当たって、ジェットスキーの販売台数は一挙に24000台にまで増大し、KMCの経営にもリンカ―ン工場の操業度にも大いに好影響を与えるのである。
●この1983年のジェットスキーの販売台数増加を見て、84年度には明石の単車企画室内で武本一郎部長が、『ジェットスキーの単車事業本部の正規製品化構想』を打ち上げ、私もフォローしたので、単車技術部内では単車事業部としてのジェットスキー開発がスタートし、国内販売関係でもレース関連のJJSBA設立のため11月に苧野KAT社長と私が渡米し、IJSBAの了承を得るのだが、その仲介をしてくれたのが田崎雅元さんなのである。
★いろんな経緯はあったが、当時の単車事業本部の中で、ジェットスキー・プロジェクトが立ち上がったのは、1985年度からそのスタートが切られたと言っていい。
1985年度
●1985年度2月には、単車技術部の開発計画にJS300とX2の開発が計上されることになり、その開発が具体的にスタートを切るのである。そのために発動機から西田さんなど数人が単車技術部に異動したようである。
●7月には企画室内で武本一郎部長がジェットスキーに関する報告書を纏めている。
欧州・豪州での販売網方針・品揃えとしてのJS300A,B 並びにその明石生産体制など詳細に亘っている。
●8月にはオーストラリアから帰任した鶴谷将俊さんが企画室内で独りジェットスキー・プロジェクトをスタ―トさせるのだが、その時期が単車事業本部の中に正規にジェットスキープロジェクトが立ち上がった時期だと言っていい。
●それ以降の動きはまさにスピードがあって、9月・10月には鶴谷・古谷でドイツ・スイス・スペイン・フランス・イギリスの市場調査を行ったし、スペインには駐在事務所を創り、藤元さんが駐在したのである。
1986年度
● この年の1月には、ヤマハの小宮常務が訪問されて、ヤマハもこの分野に進出するというご挨拶があったのである。多分、ヤマハさんは、カワサキがこんな形での事業進展になっているとはご存じなかったと思うのだが、カワサキとしてはプロジェクトチームが立ち上ったばかりだったのである。ヤマハさんもアメリカの市場が一挙に24000台になったことが、この業界への進出を決心されたのだと思うのである。
●3月には発動機事業部から、ジェットスキーの開発にも従事し、且つJJSBAのレースなどにも出場していた福井昇くんが企画室に異動し、プロジェクトチームに加わることになり、4月以降ヨーロッパ市場開拓に西田・福井コンビで2回にわたり延べ3ヶ月の市場調査などに当たっているのである。
●この年の6月末には山中湖でJJSBAのレースが開催され、私も初めて現地で『ジェットスキー・レース』なるものを実際に観ることになるのだが、その前夜祭に出てみて、二輪レースとの違いにビックリしてしまうのである。その前夜祭には100人以上が集まって開催されたのだが、男性はタキシード姿、女性はロングドレスの正装で、まさにヨーロッパのパーテイーさながらだったのである。
当時は関東は西武自動車、大阪は大南商会系の裕福な層が多かったのだとは思うが、ごく最近、村島邦彦さんにお会いしたらその場におられたようで、カワサキからはJJSBAの苧野会長は勿論だが、種子島経・岩崎茂樹・宇田川勇さんたちが参列されていたようである。
●この年の9月には、単車事業本部の初めての開発機種になるJS300の試作艇が開発中で、その艇に福井昇くんが乗り『試乗レポート』を書くのだが、それが酷評に近いものだったことなど、前回にちょっと触れたが、たまたま福井くんが家に訪ねてきたのでいろいろ聞いてみると、この艇では安定性がないということで、国内などには最初に発売されたのはこのJS300Aではなくて、JS400の舟艇にKX250のエンジンを乗せたJS300B だったようである。
●福井くんによると、この時期には単車事業本部の中にもジェットスキーのテストライダーとして金森稔さんなどが、二輪ライダーから転向して担当していたようである。金森さんも後、世界チャンピオンになり、今はアメリカKMCにいるのだがJSとの出会いが彼の人生を変えたとも言えるのである。
1987年度
● 87年度には、5月に単発合併があり、ジェットスキーを正規に扱う組織が営業総括本部に出来て、鶴谷将俊さんが担当し、同時に国内に関してはカワ販の孫会社KAT の社長は苧野豊秋さんが従来通り兼務され、JJSBA初代会長も兼務されたし、このKATについても鶴谷さんが関係すると同時に、カワ販の内部から藤田孝明・宇田川勇さんなど販売網や技術関連の実力者が担当することになったのである。
● 国内の販売網についても、従来の西武自動車関連のボート屋さんからジェットスキー専門販売店網『ジェットスキープラザ構想』を立ち上げ、86年3月には、神戸と東京に『プラザ神戸』と『プラザ都』を、6月には川崎重工業を退社して福井昇くんが、実質的な第1号店『プラザ明石』がスタートすることになるのである。
● ヨーロッパについても6月にJS販売会社構想をまとめ9月には藤元社長でスタートを切ることになった。
1988年度
● 88年度にはアシックスとのJS関連での提携、国内ゲレンデ第1号として直入町芹川ダムなどがスターとするのだが、この年の最大イベントは何といっても9月に開催された『ソウルオリンピック』での開会式当日のデモンストレーションである。
日本・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリアからの男女トップライダーを集めてのもので、こんな走行写真を松口久美子さんが送ってくれたのである。
★この世界的なイベントに参加することによって、『ジェットスキー』なるものが世の中に知られる端緒にもなり、川崎重工業の内部にも認識されることになるのである。
このカワサキジェットスキー事業展開の創生期は、この時期から1996年ごろまでの10年間と言えるのだが、この時期中心になってこの事業展開に当たってくれたのが鶴谷将俊さんである。
この事業展開は単なるJSの販売だけではなくて、そのベースにあるJJSBAのレース活動など、その遊びの展開こそがキーだと思って、『遊びの専門会社・ケイスポーツ・システム』などを中心の展開になるのだが、この時期二輪もジェットスキーも、カワサキ国内市場で最高の時期を迎えることになるのである。
88年の9月ソウルオリンピックのあと、私は88年10月からはカワサキオートバイ販売専務として3度目の国内市場担当となるのだが、このジェットスキープロジェクトも、兼務のKJS社長としてお手伝いすることになるのである。