★1989年と言えばまだレーサーレプリカ全盛期と言ってもいい時代に
「カワサキZEPHRE400」は登場して何年間も売れ続けたヒット商品なのだが、
発売までにこれほど期待されていなかったのは珍しいと言ってもいいほど期待されていなかったのである。
新製品の発売時期は期待された商品はみんな春のシーズン前の2月や3月に発売されるのだが、
ZEPHRE400が発売されたのは、4月の末でそれも生産台数はほんのわずかだったのである。
私は1988年10月に「7万台販売目標」と言うとてつもない大きな目標を与えられての3度目の国内市場担当となった。
そんな目標の中では、当時のスポーツ・レプリカなどが中心で、ZEPHRE400などは全然期待されてはいなかったのである。
性能的に何の魅力もなくて「ZEPHRE」と言うのは「西からの風」と言う意味なのだが、
レーサーレプリカ全盛期に、カウルなしの懐古的なスタイルを前面に押して登場したのである。
ZEPHYRの広告も性能などは訴えるものが何もないので、こんなイメージ広告に終始したのである。
これがフルカウル以外の選択肢を求めるユーザーに受け爆発的な売れ行きを見せ、「ネイキッドブーム」の立役者となるのだが、
そんな人気は、ある意味作られたものでそれは「私が創った」とも言えるかも知れない。
誰もこんな車が売れるなどとは思っていなかったので、その生産台数はほんのわずかだったものだから、
発売してちょっと人気が出たらすぐ足りなくなってしまって『バックオーダー』となったのだが、
『バックオーダー』になるということは『よく売れてる』という証明だし、「バックオーダーがバックオーダーを産む」と言う現象になるのである。
発売してちょっと人気が出たらすぐ足りなくなってしまって『バックオーダー』となったのだが、
『バックオーダー』になるということは『よく売れてる』という証明だし、「バックオーダーがバックオーダーを産む」と言う現象になるのである。
あまりにもバックオーダーが増えたので少しだけ増産はしたのだが、上手に調整して3年間もZEPHYRのバックオーダーは続いたのである。
そう言う意味では、これはハードというよりも『ソフト』でヒット商品にしたと言えるのかもしれない。
そう言う意味では、これはハードというよりも『ソフト』でヒット商品にしたと言えるのかもしれない。
性能的に訴えるものは何もなかったのだが、
デザインコンセプトも変わっていて、タンクマークはKawasakiではなく、Zephreだし Kawasakiのレタリングは1か所だけと言うのも当時としては初めてで、そんなこともあってZEPHREを買ってくれたお客さんは、従来のカワサキユーザー層ではなかったので、
即台数の上乗せになったのだと思う。
★この『バックオーダー』を3年間も続けることが出来たのは、私が「バックオーダーが消えないように」生産台数を調整し続けたからだと言っていい。
★この『バックオーダー』を3年間も続けることが出来たのは、私が「バックオーダーが消えないように」生産台数を調整し続けたからだと言っていい。
実はずっと以前のFX400の時のことだが、3ヶ月分のバックオーダーが続いたのだが、増産した途端に3ヶ月のバックオーダーは消えてしまったのである。
その時解ったのは、お客はあちこちの店に行くので独りの客が3台ぐらいになってしまっていて、モノが足りたらたちまちバックオーダーは解消されてしまうのである。
そんなFX400の時の経験から、ZEPHYRの時は3ヶ月のバックオーダーなど無視して少量生産を続けていたら『足りない=いい商品』ということで延々とバックオーダーが続いたのである。
ホントに特徴のない車だったのだが、空前のヒット商品となり、『7万台目標』に大いに貢献したのである。
若し、初期に増産していたら『バックオーダーは一瞬に消えてしまっただろう』と思っている。
「7万台目標」も達成できたし、利益貢献も出来て最後の国内担当は「有終の美」を飾ることが出来てよかったなと思っている。