★多分これが人生で一番の長距離運転だったかも知れない。
明石から弘前まで「2泊三日の走行」だったのである。
高速道路は西宮から小牧までの「名神高速」が出来たばかりの頃だから、
あとは全部、一般道を走ったので、その距離は1400kmぐらいになったのだと思う。
昭和41年(1966)7月24日、青森県弘前市の岩木山で行われた、
MCFAJの全日本モトクロスレースに出場のためのマシンを運ぶために、
安藤監督以下メカニック一同がクリッパーやワスプなど5台編成での大移動だったのである。
朝7時に明石を出発し1日目は御殿場まで、
2日目は都内を抜けて4号線を走って仙台で2泊目、
3日目は仙台から盛岡・八戸・青森を経てやっと弘前に到着。
私も安藤さんと二人でワスプを運転しての走行だった。
それも道中クリッパーの調子が悪くて何度も止まったりしながらの走行で、
1日目は明石を7時に出ながら、昼飯は大津で食っているというような、
大変な走行だったのである。
★このレースは「F21Mのデビュー戦」だった。
当時のモトクロスは、マシンは市販車の改造が多かったのだが、
スズキが前年から本格的なモトクロッサー「RH」を2台出して、久保和夫と小島松久の二人だけがこれに乗っていて、
1965年にはスズキワークスライダーとして、日本人として初めてモトクロス世界選手権にも出場 したのである。
カワサキも新しいマシンをと開発したのが「F21M」なのである。
エンジンは238ccで市販車からのボアアップの新エンジン、
車体はヘリコプターに使うクロモリのパイプの
こんなニューマシンだった。
この写真のクルマは後、技術部が正規に設計開発した市販レーサーだと思うが、
ファクトリー・マシンはホントに手作りだったのである。
ファクトリーマシンのエンジンは技術部だが、
車体はレース職場の松尾勇さんが設計図もなくベニヤ板に釘を打ってそれに合わせて創った、まさに手作りなのである。
私は技術には疎いがこのマシンの制作時には、レース職場に密接に関係していて、
クロモリのパイプに詰める砂を海岸に取りに行ったりしたのでよく覚えている。
21インチのフロントタイヤやセリアーニタイプのフロントフォーク も世に出たのは初めてだったかも知れない。
確か重量は180kg以下に収まったはずである。
このマシンをカワサキの場合は2台などではなくて、
契約ライダー全員が乗れるように台数を8台ほど作って、
これを弘前まで運んだということなのである。
その時の岩木山を背負ってのライダーやメカニックたち。
その練習風景である。
★ 肝心のレース結果は、250㏄はスズキの小島松久にトップこそ譲ったが2位以下はカワサキが並び、
オープンでは山本隆が優勝、以下5位までカワサキが独占したのである。
その後のモトクロスレースでは、殆どのレースに「F21M」は優勝を重ね、
カワサキのモトクロス黄金時代を築いたのである。
これは当時のF21Mに乗るカワサキのトップライダー・山本隆。
当時はまだグリーンではなく、「赤タンクのカワサキ」で
国内のレースではすべてが「赤タンク」だったのである。
★こんな「F21Mのデビュー戦」だったから、
チーム全員やる気満々で、明石ー弘前間1400キロの往復ドライブも、
運送屋に任さずチーム全員で自ら運んだのだと思う。
復路も途中2泊して、箱根の山ではまたクリッパーが故障して大変だったのだが、
レースの結果がよかったこともあって、
みんな元気に明石まで凱旋したのである。
「私の運転歴」3編目はこんな明石ー弘前1400キロの長距離運転なのである。
その殆どが高速道路ではない信号のある地道なので、今思うとよく行ったものだなと思うのである。